6-5 屋根の下の孤独


 午後六時――長針と短針が真っ直ぐになる時間。


 事務所に一人残って仕事をする姿は社会人の鑑のようだけど、暇にも関わらず事務所に居座るのは、きっとあまり褒められたことじゃない。


 仕方なしに私は体を軽く伸ばし、帰り支度を始める。世間では残業時間を減らそうとしたり、プレミアムフライデーって単語が生まれたりで、仕事時間を少しでも減らそうって動きがあるようだ。


 でも私にとって仕事は決して嫌なものではなかった。だって自分より幾分年上の人に仕事を任されるというのは、中々に悪くない。自分に出来ること仕事であればどんどん投げて欲しいし、残業も苦ではなかった。といってもタイムカードを打った後に、匍匐前進からの再出社まではしたくはないけど。


 事務所のカギを閉め、ドアノブを回して閉まったことを確認し、傾き始めた夕陽に目を細めながら自宅に向かって歩き出す。家までは大体歩いてニ十分、たったそれだけの時間で家に着いてしまう、おそらくまだ空の赤みも抜けない頃に着くだろう。


 私はコンビニに入り雑誌コーナーに立ち寄る。最近のコンビニはケチくさい、ビニールが巻かれ立ち読みできないようになっている。心の中で舌打ちしつつ、ファッション雑誌を手に取った。表紙に二人の読モが各々挑戦的な目線でポーズを取っていた。


 その中にいる足の長いジーンズを着た女性が目に入った。メガネをかけていて少しアゴを上げ、片手を腰に当てて笑みを浮かべている。私は視線を横にずらし、通路の先にある手洗い場の鏡に映った自分を見た。そこには紺のジャケットに身を包み、Uネックの白Tシャツを着こんだメガネ姿の私がいる。


 女子大生くらいには見えるだろうか?今年になって私は多少身なりに気を遣うようになった。それはきっと生活に余裕が出始めたから。仕事を始めて一年ほど経つし、お金も少しだけど溜まってきて、さすがにジャージとかスカジャンで表を歩き回るのも恥ずかしい、と思い始めたのが最初だった。


 ファッションに疎い私は、そのとき手に取った雑誌を適当に買い、服のセンスとかも分からないので、そのモデルが着ているのと同じ服を買った。私とスタイルが似ているモデルのものを選んだから、自分でもそれなりに似合っているとは思えた。店員もすごい褒めてくれたので間違いはないと思う。


 それで外出用に二着分を購入した。価格は合わせて十二万円、いい買い物だった。けれど仕事に着ていく以外に用途がないことを考えると、ちょっと高かったかなといまになって思う。


 だからせめて誕生日にはそれを着て、外を出歩き回りたかった。今年は付き合ってくれそうな人がいたから。

 ……けれどソイツとは手前で大ゲンカをしてしまい、それは叶わなかった。


 私は頭を振ってその記憶を振り払う。だってそれは思い返すのも恥ずかしい自分の黒歴史だ。


 鏡をもう一度眺める。そこに映っているのは大人の服を着て、いきがってるメガネの女。自分から子供の匂いを消したくて、大人の女性をイメージし鏡に向かって口角を上げてみたが、作り笑いをしてるようにしか見えなかった。


 鏡から目を話すと店員と視線が合い、すぐに逸らされた。

 ……クソッ、笑ってたな。もうこんな店に来てやるもんか。


 仕方なく少し歩いた別のコンビニに行き、さっきのファッション誌とセルフの百円コーヒーを買った。陽はもう沈みかけているが、直射日光をふんだんに吸収したアスファルトの余熱が、いまも夕霞の街に陽炎を生み出し続けている。


 コンビニの日陰に身を隠し、ストローを口に含んだ。なにやってるんだろうな……そう思わずにはいられなかった。でもあまり帰りたいと思えなかった。だって家にはお父さんと……アネキがいる。


 アネキは長期休暇を取ってしまったので、大学に復学の申請に行くと聞いた。

 ……そうやって少しずつ日常は修復されている、あるべき姿とも言っていいかもしれない。でもそこには間違いなく歪みが生じている。


 だって家にアネキがいるんだぞ?アネキは半年前に諭史と同棲すると言って笑顔でこの家を去ったんだ。けれどそのアネキがいま家に戻っている。それが異常でなくてなんだというのだろう。


 気付くと手元のコーヒーはとっくに空になっていた、氷の解けた水をそのままにゴミ箱へ捨てる。仕方ない、どのみち家に帰るしかない。重い足を引き摺って我が家へ向かって歩き始める。


 歩道橋を渡り、諭史が運び込まれた病院、ぎゃあぎゃあ騒ぎながら買い出しに行ったスーパー、私が片方の靴をなくした公園のブランコ……私にできるのはそれを見ないふりをするだけ。すべてはもう終わったこと、泡沫の夢。


 いつもと同じ道を通り、いつものマンションに到着し、いつものように自宅のドアを無遠慮に開く。


「ただいま」


 家のドアを開けると風呂上がりのお父さんがバスタオルで頭を拭いていた。


「お帰り、イェンファ。悪いな。父さん先に風呂入っちゃったぞ?」


「そ。シャワーしか浴びないから、気にしないで」


 そう言って私は自分の部屋に入り、バッグを投げ出し、明かりもつけずベッドにダイブする。


「はあ……」


 窓からは僅かに夕陽の残滓が部屋に差し込んでいる。それもすぐに無くなるんだと思うと少しだけ切なくなった。

 私はこのままどこに行くのだろう。そもそも私はなにをしたかったんだろう。いつから私の人生は狂ってしまったんだろうか。


 そんな感傷を遮るようにスマホが振動し、思考の迷宮から覚醒させられる。画面を見ると――諭史からの通話。


 私は通話ボタンを押そうとして――やめた。

 数コール鳴った後、不在着信の画面に切り替わる。


 ……電話に出たって、どうするって言うの?

 先日、諭史からの電話。母親に会ったほうがいいと言われ、電話を切られた。


 あの時の諭史は様子がおかしかった。アネキのことを幼馴染と言い、私は幸せになれるとか言って。


 そしてしばらくしてアネキから――いまもほとんど話はしていないが――諭史が私の母親に会いに行くって聞いた。


 私はアネキと諭史の関係をどうしようもなく壊してしまったと思っていたが、アネキにそれを伝えるくらいには国交の回復があったようだ。


 諭史は私のお母さんをずっと許してこなかったはずだ、それでも会いに行くことに決めた。そしてアネキは諭史からそれを聞いた、そこから導き出される答えはアネキが帰国後に諭史の説得に成功し、諭史は自分で直接会いに行くことを決めたということだ。


 諭史とアネキが私の母親を認めるかどうかで意見を違えているのはなんとなく知っている。けど仲のいい二人が私のことでケンカすることを正直バカらしいと思っていた。だからアネキの失踪の理由がそれだと聞いて私は混乱した、諭史とそんなに揉めるほどのレベルでその議論が過熱する理由なんて考えられないから。


 けど、それは事実だった。アネキからお母さんの手紙を受け取り、目を通したが文面はおそらく本物だ。

 私はそれを読んでお母さんに会ってみようと思った、けど同時にそれが怖くもあった。


 私がお母さんに会う意味ってなんだろう……?手紙にあるお母さんの熱は確かに感じ取った、でもそれを冷めてみる自分がいた。そしてお母さんに会っても特に心を動かせないかもしれない自分が怖かった。もし、そうなったとしたらそこまでしてくれたアネキにどう向き合っていいのか分からないのが、怖い。


 そして今回のことで関係に亀裂を入れてしまった諭史とアネキ。自分がその中心にいたことも怖ければ、私の知らないところでなにかが動いていたことだって怖いのだ。


 そうだ、私は怖かった。だから諭史の電話に出られなかった。なにを言われるのか、分からなかったから。

 着信履歴の画面が残ったスマホをボーっと眺めていた。画面をスクロールさせて、これまでのメッセージに目を通す。


 ……そこに表示されているのは諭史と毎日送り合っていたメッセージ。それは今日の帰宅時間だったり、夕飯のメニューだったり、朝に会話できなかった時には今日暑いね、なんて意味のないメッセージを送ったり。


 そんな無駄が、楽しかった。私が使っているスタンプを諭史も買っていたりすると嬉しくなった。一緒に暮らす生活もそれなりに楽しかったけど、楽しいだけでいるのが少し嫌でもあった。


 私は諭史のことが好きなのか?何度も自問した質問だ、けれど自分の中にいつも決まった答えは出ない。諭史のことを思うと、私は……無力感に襲われる。だって私は決して諭史の一番になることはできない。いくら二人で一緒に暮らすことになったって、私が諭史の窮地に割り込んだって、目の前で露出の多い服を着たって、諭史はいつだって私を真正面から見ようとはしてくれない。


 そんな諭史だからこそ試してみたくなる。私になびいたりしないかって。いや、もしかしたらアネキになにか一つくらい勝ちたかったからそんなことをしていたのかもしれない。


 馬に蹴られろ――ごもっともだ。でも同時に世話になっているアネキには幸せになって欲しいとも思っている。


 ……明らかに矛盾してる、そんなの分かってる。じゃあそんなことしないほうがいい、それも分かっている。じゃあなぜそんなことをする?やっぱり諭史のことが好きだから?いや、でもそれもきっと違う。私は自分の心を説明するのが下手だ。


 夏祭りでサトシと二人になった時のことを思い出す。あのままアネキが現れなかったら、私と諭史の関係は変化しただろう。


 けれどアネキは帰ってきた。そのことに私は……安心してしまった。あそこまで散々引っ掻き回しておいて、私は自分で状況を変えるのが怖かったんだ。そりゃそうだ、だって私は自分自信の将来すら決められない人間だったのだから。


 結局、私と諭史はなにも変わらなかった。この三ヶ月になにも意味なんてなかった。


 あれから私はアネキとまともに話せていない。諭史との関係の弁解もしていないし、アネキも強く聞いて来なかった。ただ黙ってその見た光景だけを粛々と受け入れているようだった。


 あんな場面を見せられたら信じられないのも分かる、私だってきっと信じない。でも実際に諭史とはなにもなかった……いや、それは逃げだ。もう踏み外したと捉えられても仕方がない。


 だからアネキとの間にあるのは、沈黙。アネキは私のお母さんのことで尽くしてくれたが、それとは関係ないところで姉妹に戻れなくなってしまったのかもしれない。



 ――小さい頃から私はアネキと諭史の背中を追いかけていた。いつも優しくしてくれる二人が好きだった、それは嘘偽りない気持ちだ。そして二人に憧れると同時、私は自分が情けなかった。一人ではなにもできず、小学校ではのけ者にされ、いつも二人に助けられていた。そして私は一人ではなにもすることができなかった。


 けれど中学に入り環境は大きく変わった。私がのけ者にされる一つの理由だった国の違いを、みんな好意的に見てくれた。二人の関係ないところで、友人と呼べるであろう人たちを作ることができた。


 それは私にとって物凄い変化だった、自分がしゃべったことをみんながうんうん聞いて笑って、時には小馬鹿にされたりもするが決して”のけ者”にされるのとは別だと肌で感じ取れた。


 勉強は元々得意ではなかったが、私は宿題なんかよりもその友達グループとつるむことで自分らしさを見出していった。諭史とアネキはどちらかというと頭がいい部類に入り、勉強をよく見てくれたし私が分かるまで教えてくれたが、それと同時に二人に教えられることで私より上の存在だと思っていた。


 けれど新しくつるむようになった連中の間では、私はそのグループでは常に対等だったし、場合にっては話の中心になった。そうしたら思ったんだ、アネキと諭史はなんで私を見下してくるんだろうって。


 いまにしてみればガキの考えだとは思う。でも対等に見てくれない二人は、私にとって彼らよりつまらなく思えてしまうのも事実だった。ほどなくして私はその友人関係にのめり込み、夕霞中に留まらない範囲での交友関係ができた。


 けれどそれもある事件を境に次第に瓦解していく。巌さんの事件だ。

 あれを境に私たちのグループは目を付けられ、衝突は避けられそうになかった。


 そして少しずつ私たちのグループに不和が生まれ出した。あんなケンカ慣れしている連中を相手に、あの牛木巌と言う怪物相手に、自分たちは本当にケンカをするつもりなのか?と。誰もなにも言えなかった。ややあってその集まりは煮え切らなさからか、集まることさえなくなり夕霞中を中心としていたグループは空中分解していった。


 まあ、それはそれでいいんだ。私はクラスメートと仲良く出来ていればそれでよかったのだから。

 けれどそれも数年後に終わることになる。


 進路――私はなにも考えていなかった。けれどみんな行きたい高校があって、将来のやりたいことが漠然とあって、それに向かってどうするかを決めていた。


 私だけだった。いまの楽しい関係がずっと続くと思っていたのは。いまだから気づくことができるが、私はその友達に永遠を求めていたんだと思う。


 だって私の仲良しのルーツは、アネキと諭史だった。いつでも近くにいて、幼稚園でも、小学校でもずっと同じで、いまが疎遠だったとしても、きっと絶縁することにはならない。そんな漠然とした安心感があった。けれど私が作った友達は違った。違う高校に進むであろうことも、将来やりたい仕事なんか別であっても、やってくる別れを当たり前として受け入れていた。


 信じられない、率直にそう思った。


 だって将来離れ離れになるのがわかっていて、なぜいまも笑顔でいられるのだろう?そんな不安耐えられるわけない。そう考えるとそれを当たり前に受け入れている、彼らは私の好きな友達ではないように思えてくるのだった。


 次第、私はその集まりで笑えなくなっていた。だって私の考えと全然違う人たちなんだ、それは不気味であるとすら思えた。そして友達とは離れていき、なんとなく一人でいるようになった。高校へは一応進学することにした、けれどその後のことはあまり覚えていない。



 そう言えば巌さんの事件まわりで一つ不可解だったことがある、それは諭史が夕霞中を転校したことだ。流石に疎遠とはいえ気になりウワサを集めていくと、事件の真犯人は諭史とされているらしかった。


 生徒会室で不良相手に一歩も下がらなかった諭史の顔を思い出す。あんな状況下で諭史が犯人ではないことくらい私にもわかった。なにかの謀略が働いているに違いない。だから私はそれを一番近しくて、敬遠しているアネキに訪ねたことがある。


「……学校でそのウワサを聞いたのね?」


「とても胸糞悪い話だ、諭史がそんなことするわけない」


「レイカ」


「アネキはこのままでいいのか?」


「……いいわけ、ない。でもこれは決着がついたことだから」


「おかしいだろ!? 諭史が悪いことをしていないんだろ? だったらウワサを無くすために、一肌脱ぐのが生徒会長じゃないのかよ!?」


「ごめん、これはわたしとサトシで決めたことなの」


 卑怯な言い回し――煮え切らない態度に腹が立ち、私はアネキの頬を張ってその場を立ち去った。その頃にはアネキと諭史が付き合い始めたことは知っていた、だから尚更二人だけの関係……私をのけ者にしたような言い回しが気に食わなかった。


 それでもいまのアネキとの関係よりはマシだった。私とアネキは実のところ同じ屋根の下の家族で、いがみ合って生活するなんてそんなストレスを抱えたくなかった。だからアネキが普通に笑顔で話しかけてきても普通に応対はしたし、ケンカはしないが特別仲良くもない、どこにでもいる姉妹でいられたつもりだ。


 ……そう、いまの関係よりはずっとマシだった。


 そうだ、私は置いておくにしても諭史とアネキの仲はどうなるのだろうか。二人の間で連絡を取るくらいの国交回復があったとしても、以前と同じわけにもいかないだろう。


 ……けど私には漠然とした安心があった、あの二人は放っておいても大丈夫だって。


 自分の罪を軽くしようってわけじゃないけど、あの二人の間には私の想像以上の絆がある。だから時間が解決してくれるはず、諭史とアネキがお互いに譲歩していけば、次第に誤解は解けて元ある姿に戻っていく。


 それは簡単に想像することができた。だって最初からそうだったんだ。

 私がそこにいなくったって、二人はお互いを好きになり、数々のドラマを生み出しながら、仲のいいカップル、そして……


 がさり、となにかが倒れる音がする。音のした方に目をやると、雑誌の山が土砂崩れを起こしていた。その中の派手な表紙が目を引いた。


『彼氏にイエス、と言わせる究極の逆プロポーズ!』


 いつだか買った、結婚情報誌だった。


 笑ってしまう。


 あの時、私は自分が結婚出来るわけないとさえ言ったんだ。それなのに自分からそんな情報誌を買ってしまうんだ、本当になにからなにまで矛盾に溢れたことばかりだ。


 アネキと諭史は結婚するだろう。華やかなヴァージンロードを通るアネキ、泣き虫なアネキは絶対泣くだろうけど、私には一つ自信を持って言えることがある。


 きっと諭史の方が先に泣く。そしてそれに釣られてアネキがもらい泣きして、グダグダになって周りからは失笑が漏れる。そんな幸せな空間、簡単に想像できる。


 けれど私はきっとその場にいない。


 だって、いまこんなことになっている。


 そんな私を呼びたいなんて思うはず、ないだろ……?


 乾いた笑いが口から漏れ出す、私の人生は後にも先にも終わり続けている。

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