5-23 国も、人も、年齢も、場所も


 虫の鳴き声に耳を傾けながら、僕と先輩は李家にある庭の軒先に腰かけ、朧月を愉しんでいた。


「親父にもぶたれたことないのに……」


 先輩がボソッと呟く。


 ……僕と先輩の頬は腫れあがっていた。

 帰ってきたファン君が泣いている李さんを見て、僕たちは有無を言わさずにぶん殴られた。


 現在、激昂するファン君に李さんが説明中だ。


「五年前の生徒会を思い出しますね」


 生徒会で僕らが一岳のグループに取り囲まれた時の話だ。あの時は二人そろってボロ雑巾にされた。


「ふっ、懐かしいな」


「ですね、もうあんなことはコリゴリですけど」


「……今更、そのことについてまで謝らんぞ?」


「それはもういいですよ、もう過ぎたことです」


 軒先から庭を眺めると芝が自由気ままに伸びきっており、時折吹くさわやかな風が、葉先を触れ合わせる音が耳に涼しい。


 こちらに来てから感じていたことだが、僕らの住む街より湿気が少なくて涼しく、夜は肌寒いくらいだった。


 けれどいまは熱くなった体を冷ますのには、ちょうどいい気温だった。


「……李さんに会えてよかっただろう?」


「はい、いまなら自信をもってそう答えられます」


「なら俺もわざわざここまで来た甲斐があったというものだ」


「本当に、ありがとうございます」


「よせ」


 口にする先輩はこちらを見ようともしなかった。


 真っ向から感謝されることに免疫でもないのだろうか。


「先輩のアドバイス役に立ちましたよ」


「なんのことだ?」


「とぼけないでくださいよ」


「本当に、わからんが」


「掛ける言葉が見つからなかったら礼でも言っておけ」


「……ああ」


 先輩はそう言って少し口元を緩める。


「あれは会話がなくなって気まずくなったらそうしろって意味だ。それ以上に深い意味はなかった」


「それでもきっと先輩の一言がなかったら、僕はどうしていいか分からなかったと思います、だからありがとうございます」


「……おう」


 僕は李さんに会えてよかった。

 わだかまっていた李さんへの気持ちは、あの瞬間に消えてなくなった。


 李さんに、感謝できて本当によかった。


「諭史」


「はい?」


 先輩は少し真面目な顔をして、僕を見据える。


「どうして、そんなに晴れない顔をしている?」


「……そんなことないですよ、月明かりで青白く見えるだけですって」


「今更、ウソを言ってもどうにもなるまい。せっかくだから話せ」


 なんでもお見通しか……


 別に隠す事でもないのかもしれない。


 気分がいいし、いまなら気軽に話してしまえるだろう。


 違う。


 僕は多分、聞いて欲しいんだ。

 いま思ってることを、自分がどういう人間だったかということを。


 一人で抱え込みたくない、一人でいたくない。

 誰かに自分をわかって欲しい、だって一人は寂しい。


 それはきっと誰だって同じだ。


「――五年前、文化祭が中止になってから、僕は夕霞中での居場所がなくなりました」


 昔の出来事。


「そりゃ生徒会の予算を盗んだ大悪党ですから。そんなニュースが飛び込んできたら、噂になってしまうのもしょうがないかもしれません」


 もう過ぎたことで誰を責めても仕方のないこと。


「僕はいまもあの選択が間違っていたとは思いません。けど……辛かった」



 ――生徒会の金を横領した、纏場諭史。


「なぁ、知ってるか?あいつ生徒会に入ったのって金盗むためだったんだって」


「そうなの?信じられない!!」


「会長にもあんなに取り入って!あの温厚な会長も、裏切られたって泣きわめいて修羅場だったらしいよ?」


「あの聖人君子みたいな人を騙すなんて、人の子じゃないのかな?」


「牛木とも仲良かったしな、元々グルだったんじゃないか?」


「言われてみればそうかもな、牛木はなぜか纏場にだけは親しかったしな」


「それに騙された会長も生徒会の連中も間抜けだよな?無能の集まりなんじゃないか?」


「それだけ纏場が上手く騙したんだろ、死ね!」


 文化祭中止になった後の日々は酷かった。

 その日から、僕の居場所は学校のどこにもなかった。


 半月以上も学校を休んだ時もあった。

 登校した机の上には落書きがあり、その上には花瓶が乗っていた。


 早朝の黒板は僕の罪状を告げる瓦版だったし、体育の授業ではよく転んで打撲を負った。


 そして逃げるように僕は転校をした。

 だって相手は目に見えない敵だった、正面から向かったって勝てっこない。


 彼らは都合のいいように事実さえ作り替える。

 自分たちが面白おかしく話の種に出来れば真実なんてどうでもいいのだ。


 あの時のことを思い出すと、いまもどうしようもない悲しみが込みあげる。


 なんで、みんな、僕を敵にしたがるんだ……?

 そんなに悪く言ったところで、なにも君達にはしてやれない。


 でもこれでレイカを守れたんだったら、それでいい。


 けど、たまに思ってしまう。

 僕がこんなことをしなければいけない理由ってなんだったんだ。


 優佳は納得はしなかったが、理解はしてくれた。それで十分だったはずだ。


 レイカには伝えるつもりはない、それを知ったらレイカの重荷になるのは分かっている。


 最初から分かっていたはずだ。

 これは見返りとか感謝を求めるものではなく、僕自身が見逃せないから起こした暴走だって。


 暴走の結果、僕に残ったのは散々な学校の評価だけだった。

 ……そして僕はその辛さから逃れることは出来ず、夕霞中を後にした。



 なにも分かっていない人達にそんな事言われる筋合いはない!


 何様のつもりだ!


 僕のことを知らないのに適当なウワサを流すな!


 なんで君まで僕のことを悪く言うんだ……?友達じゃなかったのか?


 企画の手伝いだって精一杯したし、先輩方も僕を信用してくれたじゃないか?


 なんで、みんな僕のことを悪く言うんだ?


 僕の話を少しは聞いてくれよ?


 なんで誰も話してさえくれないんだよ?


 なんで……


 勝手に妄想を膨らませて、勝手に嫌いになる人々。


 相手のことなんてなにも分かっていないのに。


 とても辛い思いをした。


 ……にも関わらず、平気で僕はそれを人にしてきたんだ。


 だって、ほら……その構図は、李さんを嫌っていた僕そのものじゃないか――



 落ち着いて考えてみれば、厚かましい話だ。


 部外者の僕が勝手にレイカの側に立ち、会うに相応しくないと悪者だと決めつけていたのだ。

 そしてその妄想は歯止めなく広がり、レイカを守ってやる自分は正しいという、自分を着飾るものにさえなっていた。


 李さんがレイカの敵だなんて、勝手な妄想でしかない。


 どこかで見たヒーロー番組にでも影響されたんだろうか。

 悪い奴がいてそれを倒して格好いいと思い、それを真似したくなるような子供心。


 格好いい自分になるために、自分が作り出した存在しない敵。


 そんなガキのような発想を僕は正しいと頭から思い込んできたんだ。

 僕は存在しない李さんを想像――創造し、憎んで、遠ざけ、他者にも嫌悪感が分かるように振る舞った。


 そのイメージが広まればいいとさえ思った、悪を嫌う自分に陶酔すらしていた。


 あの時、僕を悪く言っていた人達を同じことをしていたんだ……



「僕は人の意見にも流されるし、人の痛みを分かってあげることも出来なかった」


 李さんと会って、僕は大きな過ちに気付くことができた。

 そしてその過ちを燃やし尽くしたあとには、自分が目を逸らしてきた一番汚い部分があった。


 きっと李さんに会えなければ、このことにすら気付けなかっただろう。


 いつか同じことを繰り返していたかもしれない。

 与えられた情報を過信して、大切な人すら傷つけてしまったかもしれない。


 いや……現に傷つけてきた。


 僕はもう、大人なんだ。

 自分で責任をもって考えなければいけない。


 情報を与えてくれるのが幼馴染のお父さんでも関係ない。

 その情報を疑うことは決して、情報をくれた人を信用していないのとは別だ。


 そしてその情報をくれた人に責任を押し付けてはいけない。


 僕が自分で考えて、本当にそう思うのか、なぜそう思うのか、よく考えなければいけないんだ。


 それに気付けなければ、僕はまた人を傷つけるだろう。


「僕は立派な人間ではないし、空気の読める世渡り上手なんかでもない。時には自分が間違ったことを言ったり、傷つけてしまうかもしれない」


 僕は超人じゃない、間違えてばかりのどうしようもない人生だ。


「僕は素直な人間になります。悪いことをしたら謝れる、自分のしたことを振り返られる、そんな人間でありたい」


 見たくないものから目を逸らさずに生きていきたい。

 自分の汚さを理解した上で、少しでも良くなるように生きていきたい。


「先輩がいなければ、僕に助言をくれていなければ、きっと夕霞の地から一人でいなくなっていたかもしれない」


 先輩は目を逸らそうとしていた僕を𠮟咤し、また真っ当な人として生きていける機会をくれた。


「それを助けてくれたのはあなただった。本当にっ……ありがとうございます!」


 頭を深く、深く下げた。


 先輩はなにも言わず、辺りには木々が騒めく音だけが聞こえる。


「これで、お前には借りを返せたのかな」


 頭を上げると先輩は遠い目をしながら、月を仰いでいた。


「……俺はな、お前が羨ましかった」


 先輩は小さな呟きを口にした。


「あの頃のお前には俺の持っていないものがたくさんあった。自分の思ったことを迷わず話の出来る友人や幼馴染がいたし、やりたいことがあったらすぐに行動していた。それは俺には出来なかったことだ。親からはいい成績を求められ、生徒会の要職に就くように言われ、自分の意志はあってないようなものだった」


 五年前に抱えていた鬱屈、乗り切ることができた過去。


「俺も同じだ、自分だけが不幸だと思い込んでいた。お前の自由気ままに過ごしている様を見て、俺は嫉妬したんだ。自分が惚れている女性に告白までされるところを見て俺は限界だった。なぜこいつだけが、俺はこんなにも苦労しているのにと恨んだ」


 先輩は口元に三日月を浮かべ、自らを嘲っていた。


「諭史、お前は素直になりたい、と言ったな」


「はい」


「お前は人に感謝できる人間だ。事実、李さんに謝意を示して彼女の心を救った」


「……」


「そして罪を犯そうとしていた、俺を思い止まらせた。気まぐれでお前を職員室でフォローしたことに礼を言い、それが俺を最後の一歩で踏みとどまらせた」


「あ……」


 それは鮮明に思い出せた。

 濡れ衣を着せられた僕は、毎日職員室に呼ばれて先生方から尋問を受けた。


 けれどあの時、嫌っているはずだった先輩は僕を庇ってくれた。

 いまにしてみれば先輩は、自分の罪悪感に抗うための行動だったのだろう。


 でも僕にしてみれば大人に囲まれ、責められ、自白を強要させようとしてくるあの状況で、唯一味方してくれたのは先輩だけだった。


 あの時、僕がウソの自白をせずに済んだ、唯一の心の支えだった。


 それは間違いなく好意の錯覚だ。

 けれど僕は後にしてみても裏切られたという思いはない。


「だから俺はあの時思ったんだ。お前のような素直な人間になりたい、自分を偽らずありのままでいられるヒトになりたいとそう願ったんだ」


「先輩……」


「だから諭史、俺はお前を信頼している。お前ならきっと間違えない、間違えても立ち直る力がある。それが出来るお前を、俺は尊敬している」


「っ……」


「だから自信を持て、諭史。お前には事をなす力がある。そして支えようと思える人たちがたくさんいる」


 いろいろな人たちの顔が頭をよぎる。


 先輩、華暖、エーコ、レイカ、そして……優佳。


「俺も救われた側の人間だ。お前に、優佳さんに、それだけでは無い沢山の人に生かされている。人間はみんな一人だ。助けて欲しい時に、助けてはくれないかもしれない。けれどお前が手を差し伸べたいと思うと同時に、相手もお前のことを助けたいと願っている」


 先輩は僕の方を見ずに、低い声で言う。

 でもそれがわからない程、僕はバカではない。先輩は大真面目に言葉をくれている。


「だからお前が俺のことを少しでも信頼しているのなら、俺の言うことを信じろ。俺の信じている纏場諭史を信じていれば、それでいい」


 ……なぜ、僕にここまで言ってくれるのだろう。

 僕はこの人にそんな信じてもらえるほどのことをしただろうか。


 僕にはわからない。

 でもきっと、それは同じなんだろう。


 職員室で自白を強要される僕を、罪悪感に苛まされながらも、庇ってくれた先輩への感謝が、本人に理解されないことと。


 でもこうまでして先輩が僕を立ててくれるんだ。


 だったら……信じても良いのだろうか。

 僕がまだ少しはやれるのだと、信じてもいいのかもしれない。


「……わかりました、がんばって、みます」


 先輩はふっと頬を緩ませ、安心したような笑みを見せた。


「では諭史、お前にはきっとまだやらなければいけないことがあるな?」


「はい」


 そうだ、僕にはやらなければいけないことがある。


 僕は思い込みで李さんを憎み続け、優佳の味方になってあげられなかった。

 それが優佳の負担になり、暴走したことですべての歯車が狂い始めた。


 そしてレイカの現在を知り、助けになってやりたいと感じた。

 それ自体が間違っていたとは思わない。


 けれど僕は方法を間違えた。

 だからそれを正しくしなければいけない。


 それはきっと人を傷つけることになる。

 でもこのままでいるよりは、ずっといいはずなんだ。


 レイカのことは好き、だった。


 それは過去のことだ。

 いま改めて持ち出してはいけなかった。


 レイカに手を差し伸べようとすることを、自分の寂しさと繋げてはいけなかったんだ。


 僕は優佳と出会い、思いを交わすようになって五年も経つ。


 それは必ずしもずっと順調だったわけではない。

 何度もケンカをしたし、口をきかない時期があったり、無言で隣にいるだけのこともあった。


 でもそれは、ぜんぶぜんぶ大切な時間だ。

 僕に愛想を尽かしたこともあっただろう、なにせ十年以上も偏屈な思い込みをしていたんだ。


 だから優佳は荒療治に出た、全てを投げ出すという暴走。

 大元は僕の思い込みが原因だけど、冷静になったいまでも優佳がとった方法が正しいとは言えない。


 けど僕だって同じだったじゃないか。

 レイカを救うために暴走をした、優佳はそれを許してくれた。


 でもいまの僕はどうだろう?

 未だに優佳を許せてあげていない。


 ああ、その点でやっぱり僕は優佳に適わないと思い知らされる。


 いつでも優佳は僕の一歩前を進んでいる。

 抜けているようで、しっかりとしていて、ふわふわとしている僕の彼女。


 僕は……優佳と、これからも生きていきたい。

 いま過去に横たえてきていた問題はすべて取り除かれた。


 あとは、これからのお話。

 優佳がいなくなった日からの、複雑に絡み合った関係を正さなければいけない。


 いつでも僕は間違えてばっかりだ。

 けど失敗しても次に進めるから、僕達は明日に向かって進んでいけるんだ。


 失敗しても、傷つけても、誠実であろう。

 そう自分が生きていけたらそれはきっと誇れる人生になると、そう……信じて。



「吹っ切れたようだな」


 先輩は僕の顔を見て、満足そうに笑う。

 いつも眉間にしわを寄せていたあの頃とは大違いだ。


 朧月をバックに、少し拭き始めた風邪が先輩の髪を揺らす。

 男の僕から見ても彼は正直イケメン、ではあると思う。


 でも悲しいかな。

 この人は今夜、僕が陰毛を剃ったカミソリでヒゲを剃るのだ。 

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