5-22 一言だけでも


 家の中は庶民の生活と言うか、なんと言うか。

 良い言い方をすれば賑やかな家だった。


 溢れ返った本棚は、棚の上にも本が置いてあり、リビングにあるテーブルは一か月ほど前の新聞が積み重なっている。

 居間に入ると脱いだ後なのか、着る前なのか分からない洋服がそこら中に転がっている。


 ファン君はあのままどこかに遊びに行ってしまったらしく、旦那さんは仕事で出張中。

 継子の方はもう仕事をされていて、独り暮らしをしているらしい。


「ごめんなさいね~汚いところで」


「はは……おかまいなく」


 流石にお世辞でも綺麗です、とは言えなかった。

 李さんはスタスタと華麗にモノを避けて、的確にキッチンらしき部屋に進んでいき、冷蔵庫から皿を取り出す。


「もし良かったら、食べててください」


 そういって李さんはテーブルにきゅうりの乗った皿を置いた。


 ……きゅうり?


「きゅうりだ」


 なんとなく声に出して言ってみる。


「ハイ、黄瓜です」


 一番最初の英語授業みたいなやりとりが行われる。


「おいしそうだ。頂きます」


 そういって先輩は躊躇なくきゅうりを摘まむ。

 僕は状況についていけないまま、きゅうりを頬張る先輩を横目に見ていた。


「どうした、諭史も食べないのか」


「いえ僕はお腹いっぱいですから……」


「そうか、それはご愁傷さまだな」


 というか先輩は涼しげにきゅうりをボリボリ食べている、若干腹立たしい。

 店ではあれだけ僕を煽って食べさせておいて、自分はごっそり残した上に、いまやきゅうりを摘まんでいるのだ。


 そんな恨めしい視線に対し、先輩は見当違いの返答をする。  


「珍しいか?こっちの国ではこれが普通だぞ。夏には誰でも涼む代わりに冷えたきゅうりを食べる、俺らが麦茶を飲むくらいの感覚だ」


 そんな雑学、聞いてない。


「どちらにせよ、僕はお腹いっぱいで無理そうです」


 キッチンから戻ってきた李さんが会話に参加する。


「でも、ちゃんとしたご飯、これから作りますよ」


「……僕の分は無くてもいいですから」


「ン!? 食べないダイエット、良くないですよ! 食べないと大きくなれませんです!」


 指を立てながら子供を叱るような口調で言う李さん。


「そうだぞ、諭史。食事はしかるべき時間にきちんと摂らねばならない」


「先輩がそれを言いますかね」


 僕の言葉を意に介さず、先輩は頬をハムスターのように膨らませ、ボリボリ音を立てながらきゅうりを飲み込む。


「おかわりもありますからネ~」


 李さんは数時間前の僕の姿なんか覚えていないのだろう、でなければ笑顔でおかわりなぞ勧めるはずもあるまい。


 目の前に鎮座した水分をふんだんに含んだ、青々とした輝きを放つきゅうり。

 僕はみずみずしくも形の整ったその淡色野菜と、ボリボリ音を立てる先輩を交互に眺め、少しでも胃の消化液が出るよう腹に力を入れていた。



 神(?)に願いが通じたのか、夕食は比較的軽めのものだった。


 トマトと卵の炒めものと、わかめの入ったスープ。それと傍らには炊き立てのご飯が用意されていた。


「こっちの国でも主食ってお米なんですね」


 ふと、疑問に思ったことを聞いてみる。


「ハイ、でも北の人たちはお米あまり食べません、マントゥ食べます」


「マントゥ?」


「饅頭と書いてマントゥと読む」


 先輩がスープを飲みながら応える。


「けどもちろん中にアンコが入ってたりとか、肉まんとかではない。あくまで味のついていない小麦生地を丸めたものだ」


「オ~、すぐるさん、詳しいですね」


 李さんが目を見開き、頬に手を当てて驚いた仕草をする。


「なにせ天才ですから」


「テンサイ?」


 李さんは小首を傾げる。


「砂糖の取れる大根のことですよ」


 僕は甜菜(テンサイ)の説明をしてあげた。


「ア~お砂糖……? すぐるさんは大根農家ですか?」


「諭史、間違ったことを教えるな」


 ……こうして間違った日本語が伝わっていくのかもしれない。


「というか李さんはなにで日本語を覚えてるんですか?」


 偏った知識ばかり披露する李さんに疑問を持って訪ねる。


「これですね」


 やたらアニメチックな女の子が表紙にデフォルメされた、辞書風のものが出てきた。

 嫌な予感しかしない。


「先輩、なんて書いてあるんですか?」


「オタクから学ぶ日本語全集」


「なんでこんなチョイスを!!」


「ア~旦那がこういうの好きです、日本ではオタクが流行のまんなか、よく言ってます」


「ふ、素敵な旦那さんですね」


 先輩がなにげなく言った、その言葉に李さんは黙ってしまった。

 不思議に思っていると、李さんはこちらに改まって座り、声音を落とした。


「旦那は……イェンファのお父さんではない。ファンが生まれる時に、イェンファを養子に出しましたから」


 部屋の空気が、水を打ったように静まる。

 僕はとっさにその話題を止めようとした、それはおそらく先輩も。けど止められなかった。


 ……それを聞くのがここに来た理由だからだ。


 もし止めようとしても李さんはその話題をやめはしなかっただろう。

 だって僕らがここに来た本当の理由を李さんはきっとわかっている。


 ……僕が李さんを見定めに来たんだって。


 だからこの話題は――避けられない。


---


「きっとイェンファは、ワタシに文句言いたいと思います」


 瞳を伏せた李さんの目尻にはいくつかの皺が見えた。天真爛漫な姿を決して仮面だとは思わない。

 けれど実際に李さんの境遇を思うと、その仮面があったからこそ、これまでやって来れたのかもしれない。


「ワタシはイェンファを産んだのに、養子に出しました。イェンファ、別れる日には泣きも笑いもしなかった。ずっと不思議そうな顔でワタシを見ていました。その時のイェンファに小さすぎてお別れの意味なんてわからない。ワタシわからないイェンファに、勝手にお別れ言いました」


 落ち着いて語る李さんの声は、先ほどの声色よりも、大分老け込んでしまったように掠れていた。


「イェンファとの二人暮らしとても楽しかったです、でも生活とても苦しかった……けど旦那と会ってからは少しずつ生活も楽になっていきました」


 けど――李さんは表情を変えずに付け加える。


「ファンがお腹にやってきました。いまの旦那との子です、嬉しく思いました。でもこの国は子供二人許さなかったです」


 それは国の決まりだ。

 破れば李さんには相応のペナルティが降りかかる。


「イェンファと一緒の日々は幸せでした、でも子供二人持つ罰はとても重いものです。最初は旦那の子供、お別れする予定でした。でもお別れの意味わかるくらい大きかった。だったらまだ小さいイェンファのほうが、早く新しい家族に馴染むだろうって……」


 李さんはそう言うと涙をにじませた。

 感情が零れ落ちない様に、唇を噛みしめながら。


「そうしてワタシ、イェンファとお別れすることに決めました。イェンファは人見知りだけど、縁藤さん家族のこと好きになりました」


 目を細めて軽く笑みを作る、同時に目元からは涙が伝う。


「ワタシ嬉しかった、でも悔しかった。イェンファこれから縁藤さん仲良くなって、ワタシ忘れると思うと……」


 ごめんなさいと言い、李さんは顔を伏せて静かに、泣いた。

 自分でレイカを養子に出すと決めたにも関わらず、縁藤家へ馴染んでいくことを嫉妬してしまうくらい、レイカのことを愛していた。


「ワタシ、イェンファを縁藤さんに預けたこと間違った思わない。これで旦那、ファン、ワタシ、そしてイェンファ、みんな幸せになった」


 李さんの判断は間違っていない。

 事実だけ見てしまえば、そういうことなんだ。


「イェンファも貧乏なお母さんより縁藤さんがいい、それはわかっています。だけど、イェンファを一番愛してるのは……イェンファを産んだワタシですっ!」


 李さんはそう言うなり、顔をむ両手で隠し咽び泣き始める。

 先輩は近くに寄ってハンカチを差し出す中、僕は…………放心していた。


 動くことも、声をかけることもできなかった。



 僕はいままでなにを信じてきたのだろうか?


 ……李さんが悪い人じゃない。そんなの真面目に考えればわかることだった。


 優佳が間に入ってレイカと会わせてあげようと思えるだけの人だ。

 けれど僕は頑なに李さんのことを否定し続け、余計な影響を与えないようにと、そこから遠ざけてきた。


 いまこうして李さんを前にして、当たり前のことに気づく。


 彼女も温かい血を通わせた、一人の人間だった。

 なぜ僕はいままでそれを考えてこようとしなかったのだろう?


 腹を痛めてレイカを生み、成長していく姿を生きる糧にした母親が、理由もなく子を捨てるだなんてありえない。

 そして母親は娘を一番愛しているのは自分だと豪語し、手放してしまった境遇に自らを呪い、悲しみを抑えきれずにいる。


 打算もなにもない、母親としてのありのままの感情。

 僕はこれに対抗する、大きな理由でもあって、李さんを認めないで来たのだろうか?


 いいや、なにもない。なにもなかった。

 ――それなのに、こんな素晴らしい母親を、母親失格と決めつけてきた。


 怒りが、湧いて来る。

 いままで李さんを信じようと思えなかった自分自身に。


 そんな決めつけを信じて優佳の話を聞かず、レイカから母親を遠ざけた愚かな生き物。自分をぶん殴ってやりたい。

 ……けどいまはそんなことよりも、しなければならないことがあるんじゃないか?


 李さんを、助けたい。


 それは僕の中にすっと、染みわたるように広がっていった。

 目の前で悲しんでいる人を助けてやりたい、そして……許してやりたい、と。


 長いこと根を張っていた”許さない”という感情は、霧散していった。

 目の前にはいまも過去を悔い、心から血を流し続ける母親。


 レイカと李さんはもうすぐ会うことになるだろう。実際のところ、本当の意味で李さんを許してやれるのはレイカだけだ。


 だけど、そういうことじゃない。

 それは李さんとレイカの間で話されることであって、いまこの場ではまったくの無関係なことだ。


 じゃあ関係あることってなんだ?

 それは――僕が李さんのしたことを認め、李さんをレイカの母親であると認めてあげること。


 僕はそんな当たり前のことすら、して来なかったのだから。


 じゃあ話は簡単なのか? 李さんを許してあげる、それだけでいいのか?


 違う。


 ……そもそも許すって、どうしたらいいんだよ?


 文字通り「許してあげます」なんて、言えるわけがない。

 そもそも家族でもない外野の僕に許してもらうって、何様だ。


 だって僕は、李さんを勝手に許してこなかっただけだった。


 許す・許さないと言うこと自体がお門違い。

 だから僕は”許したい”という気持ちがあっても、その気持ちを直接的に李さんへ伝えることが出来ない。


 でも李さんは僕が訪問した意図を、正しく解釈しているだろう。

 ……レイカに会わせるだけの存在かどうかを、僕が確かめに来たのだと。


 だって自分から過去の話と、いまの気持ちを僕に語り聞かせたんだから。


 じゃあ僕はこの気持ちを、どう伝えたらいいのだろう……


 それでも李さんは意図を理解しているから「許す」と伝えることは出来なくはない。

「許す」と言語化して直接伝えてしまい、手っ取り早く和解することは出来る。


 だが、そうすると僕は李さんを許してあげた側になり、李さんは許してもらった側になってしまう。

 そうなったら……僕と李さんは仲良く話すことなんて出来なくなる。もうそこに対等な関係が存在しないのだから。



 先輩は李さんに付き添い、僕に背を向けていた。


 このままでは先輩にも申し訳ない。

 先輩に促されて僕は李さんを……許すことができた。


 でも、この気持ちは直接李さんに伝えることができず、僕はいまこうやって一人燻っている。


 伝えたくても、伝えられない。

 直接、文字通りの言葉にすれば、僕たちの関係は破綻する。


 それでも僕が許している――認めているという気持ちを、李さんに伝えたい。

 そんなことも出来ずに、僕は優佳とレイカに顔を合わせることなんて、出来るはずもない。


 ……なんて無力。

 あれだけ周りの人を巻き込んで、結局なにも出来ないというのだろうか。


 ふと、先輩の背中を見る。



 ――伝えることが、できない?


 僕の中にすっと、降りてきた言葉があった。


 ……あった。


 僕には、僕の出来ることが、あった。


 それは先輩がなにげなく放った言葉――


「李さん」


 改めて李さんに向き直る。

 李さんは抑えきれない涙を腕で擦り、僅かながら僕のほうに視線を向ける。


 レイカのことを思い、流した涙。

 僕と優佳、そして縁藤の家族以外にもこんなにもレイカのことを考えている人がいる。


 じゃあ、簡単じゃないか。掛ける言葉は一つだけだった。



「…………ありがとう、ございます」


 僕は李さんに許しを与えることは出来ない。


「イェンファに会わせてくれて、ありがとうございます」


 だから僕は彼女に掛ける言葉がなかった。


「李さんがイェンファを産んでくれなかったら、養子に出してくれなかったら、僕はイェンファに会うことは出来なかった」


 許すために、どうすればいい?


「この出会いがなければ、きっと僕の人生はつまらないものでした。それは李さんがイェンファを送り出してくれたからです」


 感謝をしよう、李さんのしたことに。

 感謝して、全肯定して、李さんの選択が間違ってなかったということを言葉にしよう。


「だから李さん。ありがとう、ございます」


 僕がそう言うなり、李さんは子供のように泣き叫んだ。


 僕らはもうそれを諫めない。

 それは李さん自身にある悲しみや後悔を、すべて吐き出すために必要だったから。


 十年以上も李さんは自分の中の後悔と戦い続けてきたんだ。

 それを少しでも和らげるために必要なこと。


 旦那さんもファン君も、李さんにとっては大切な家族だ。

 だがその二人を前にレイカのことで思い悩むのは気が咎めることだろう。

 

 だからいまは束の間の休息。

 昔の自分の過去を後悔に染めないための、大事な時間だった。


 ハンカチを使うことも忘れていた李さんは、自分の顔から丁寧に悲しみの残滓を拭き取り、顔を上げはっきりと言った。


「どう、いたしましてっ……!」


 そう言って少し上気した李さんの顔は、天真爛漫なそれではなく、母親としての誇りに満ちた笑顔だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る