5-17 本当にバカ


 表に出ると東の空は既に闇を薄め、朝露の冷たさを含んだ爽やかな風が、鬱屈した心の靄を軽くふき流す。


 太陽の兆しと、消えゆく月が同居する不思議な時間帯。

 二つが一緒に同じ空で輝くことができないのはなぜだろう?


 新鮮な空気が懐かしい。


 だって最近まで見てきた空はいつも少し淀んでいたし、マスクなしの生活は考えられなかったのだから。


 目の前に立って白い光をいっぱいに浴びているサトシ。

 それはわたしが知っている背中より、少しばかり堅く、高いものに感じられた。


 そして手にはなぜか大きめのボストンバッグが握られていた。

 ……これからどこかに行くのだろうか?


「少し、歩こうか」


「……うん」


 わたしはパジャマで寝ぐせ姿だったけど、否定の言葉は口にせず、サトシの半歩後に付き従う。

 なんでわたしは縞々のパジャマなんて来てるのだろう、これじゃ囚人みたいじゃない。髪もボサボサでだらしないったらない。


 でも、部屋に戻って着替えようって気は起きなかった。

 朝靄に紛れてサトシが掻き消えてしまう可能性を、一パーセントでも無くしたかったから。


 わたしはサトシの半歩後ろを歩く、それに気付いたサトシは立ち止まって隣に並ぶのを待つ。


「……優佳?」


「このままで、お願い」


 わたしはサトシの隣を歩かなかった。

 サトシは半歩後ろに立っているわたしを気にしていたが、やがてそのまま歩き出した。


 以前のサトシならそれでも無理やり手を取って隣に並ばせただろう。


 けれどサトシは歩いて行ってしまった。

 それはもちろん、いまのわたしたちの関係が原因だ。


 でもそれを分かった上でやっぱり手を引いて欲しかった、なんて思ってしまう浅ましい自分。

 あまりにも、みっともない。


「大学は、もう行ってるの?」


「……ううん、まだ。もう夏休み明けでいいかなって」


「不良だ」


「うん、前期の単位は全部ダメ。きっと四年生の時に苦労しちゃう」


「留年は、しない?」


「うん、ウチの大学進級には問題ないの、だから大丈夫」


「そっか」


「……」


「……」


 当たり障りのない、場を持たせるだけの会話。


 ついこの間まで一緒に住んでいたのが嘘のよう。


 三ヶ月の空白は、心に何年分の距離を開けてしまうのだろう?


「僕さ」


「……うん」


「いまから、李に、会ってくる」


「………………えっ?」


 頭の中が真っ白になる。


 サトシがなにを言ってるかよくからない。


 ゴエンさんに、会う?


 サトシが?


「僕はずっといままで李を認めようとしなかったけど、ずっとこのままじゃダメだなって」


 あれだけ頑なに認めようとしなかった、サトシが?


「けどそれは僕が意固地になってて、考えようとしなかっただけだって、わかったんだ」


 わたしがどんなに訴えかけてサトシが首を縦に振ることはなかった。

 けれどサトシはようやくわかってくれたのだ。


「だから僕、李に会う。会って話をする。レイカを捨てた理由なんて認めたくないけれど……できることなら理解したいって、そう思う」


 振り向いたサトシの顔には迷いはなかった。

 朝焼けに照らされた、サトシの横顔には明るい未来が感じられた。


 ――わたしがずっと願っていたサトシの返事。

 何度も何度もサトシに訴えてきたし、一緒にお父さんを説得できる日を心待ちにしてきた。


 そうしてレイカに笑顔を取り戻させるのは、きっとわたしとサトシの一番大事な仕事なのだと思っていた。


 サトシはわたしが知る限り、レイカの一番の理解者だ。


 時にはわたしのことさえ放っぽりだして、レイカを守るために動いてくれた。

 だからこそサトシに理解して欲しかったし、一緒に協力してくれる日を願い続けてきた。


 そしてサトシは踏み出してくれた。

 わたしの考えに……賛成してくれたんだ!



 ……でも、サトシ、どうしてそう思えたの?


 わたし、いままでひとりで頑張ってきた。


 サトシに助けて欲しかったけど、助けてくれなかった。


 わたし、サトシに分かって欲しくて何度もお願いしたのに。


 なんでいまになってそう思えたの?


 わたしがいままでサトシを説得するために、どれだけ苦労したと思うの?


 一人でお父さんを説得したのが……バカみたい。


 一人で頑張り続けた三ヶ月が……ムダだったみたいじゃない。



「……なんで、よ」


「え……」


「なんでサトシ、わたしの言葉で納得してくれなかったの?どうしていまなの?わたしなんかの言葉じゃ、サトシには一切通じなかったって、そう言いたいの!?」


「優佳……?」


 わたしはたまらずその場にしゃがみ込み、溢れ出る感情を抑えられなくなった。


 狼狽えるサトシの声が微かに聞こえる。

 サトシの手が肩を揺する……それがたまらなく、苛立たしい。


「触んないでよぉっ!!」


 思いっきりサトシの手を引っぱたいた。


 叩いてしまったことを悔もうとすら思えない。

 あまつさえ、頬を張ってやりたいとすら思う。


 手を叩かれたサトシは信じられないような目で、わたしを見ている。


 なんで驚いてるの?わたし、怒るに決まってるでしょ?

 その目線が、その無神経が、またわたしの怒りを奮い立たせる。



 ……サトシは、レイカに母親が必要だって、理解した、しようとした。


 それはわたしが願ってきたはずのことだった。

 だから本当は喜ばしいことのはずなんだ。


 でもなんで?

 いままでわたしが何度もお願いしてきたのに、なんでそれがいまなの!?


 わたしが見てない間に一体、サトシにどんな心変わりがあったの!?


 ……レイカだ。

 他でもない、レイカ本人が原因なんだ。


 そうに違いない。

 だってわたしがいない三ヶ月の間、サトシとレイカは二人で暮らしてきた。


 そしてレイカの内面に立ち入り、レイカの窮状に気付き、そして母親と会うことで起こる可能性を、サトシに気付かせたんだ。


 なんで、そう思ったの?


 いまのレイカと本気で向き合ってしまったから?

 心の底から助けたいと、そう思ったから?


 ……別にいいじゃない、助けたいって思ったって。


 だって五年前のあの時だって、サトシはレイカを助けたいと思い、わたしの反対も聞かずに一方的に守ったんだ。


 それはあの頃だって、今だって同じはずだ。


 同じ?本当に?


 わたしの頭にノイズのような光景が、一番思い出したくない映像が頭に浮かぶ。

 浴衣姿のレイカとサトシが顔を突き合わせようとする、あの瞬間。



 サトシはレイカを……好きになったんだ。

 ……ううん、わたしがいなくなったから、また好きになった。


 だから本気で助けたいと思って、いままでの考えを変えようとさえ思えるようになった……



 わたしの訴えは、聞き入れてもらえなかった。


 レイカを本気で助けたいって気持ちに、わたしの訴えは勝てなかった。


 じゃあ、わたしはサトシに理解してもらうためにどうすれば良かったの?


 ……とても簡単、最初からわたしがいなければ、それでよかったんだ。


「もう、いや!いやぁぁぁ!!」


「優佳、どうしたっていうんだよ……」


「こっちに来ないでよっ、近寄るなあっ!」


 サトシは本気で困惑していた。


 それはそうだろう、きっとサトシはわたしが喜ぶと思ってそう言ったんだ。


 けどサトシは気づいていない。


 その心変わりが、レイカを好きになったから出てきた感情だって気付いていない。


 だから、あんなにも誇らしそうな顔で、わたしに言うんだ……!


「わたしなんて、必要なかったの。最初からわたしがなにもしないほうが良かった、そうしたらレイカはもっと早く幸せになった!」


「なに言ってるんだよ、優佳!優佳がいなくていいなんてあるわけないだろ!」


「ウソ!!わたしがいなくなったらすぐレイカと仲良くなった!レイカを本気で助けたいって思ったから、ゴエンさんのことも理解したんだ!」


 その時、サトシの顔色が変わった。


 ……ようやくわたしの言いたいことが伝わったようだ。


 なんて、鈍感。

 これが少しでもかわいいなんて思っていたわたしが馬鹿みたい。


 ……ああ、そうだ。

 きっとサトシが私に付き合ってたのだって、わたしの押しが強かっただけなんだ。


 レイカがサトシに想いを告げず、わたしが先に好きって言ったから、サトシはわたしに付き合ってくれていただけなんだ。


 あはは。


 そう考えたら、いままでのことが全部、ママゴトみたいに思えてくる。


 わたしがサトシ説得することも、サトシがわたしの恋人になってくれたことも、最初からなんの意味も、なかったんだ……


「優佳!僕の話を聞いて!」


「うるさい、うるさいっ!言い訳なんて聞きたくない!サトシの本当の気持ちなんて聞きたくない!」


「そうじゃないって言ってるだろ!」


「いいから早く行ってきなよ、ゴエンさんいい人だもん!きっと分かり合える、そして許してやって全部終わり!レイカとお幸せに!」


「いい加減にしろ!」


「それはサトシの方でしょう、このうわきものっ!」


「……っ」


 サトシはそれを言われて一瞬怯んだ。


 ……わたしはその隙を見て一気に駆けだしていた。


 怯んだサトシはややあってわたしを追いかけてきた。

 ただ手にはボストンバッグを抱えていたから、うまく走れないはずだ。


 わたしは、振り返らない。

 一気にマンションの前までたどり着く。


 二階にあるわたしの、縁藤家に向かって階段を駆け上がる。

 登ってる途中、階段を登りながらサトシの姿が見えた。


 わたしはこの光景に既視感が湧く。

 そして家のドアノブを握って思い出した。


 これはあの時、あの雨の日に、職員室から走って、サトシから逃げる時の再現なんだって。


 あの時は追いつかれてしまった、なんでだろう?


 わたしは本気でサトシとの間に壁を作りたくなかった。

 自分から拒絶することが出来ず、家の中に逃げ込めなかったんだ。


 じゃあ、いまはどうなんだろう。

 ――階段を駆け上がってくる音、サトシはもうすぐそこまで来ていた。


 悩む余地もなかった。

 わたしはドアノブを捻り、体を家の中に忍び込ませる。


 ドアを閉める間際に必死になって追ってきたサトシが見えた。

 それをわたしは他人事のように感じながら、ドアを閉め、鍵をかけた。


 家の前でサトシが立ち止まる気配がする。


「優佳!」


 サトシがドアをノックしながらドア越しに大声を出す。

 こんな時間に周囲に迷惑がかかる、じきに大人しくなるだろう。


 それがわかっててわたしは返事をしない。

 ……だけど、ドアを背にしたまま一歩も歩くことはできなかった。


「優佳!開けてくれ!」


「……」


「勘違いしてる!頼むから開けてくれ!」


「うるさいわねぇっ、近所に迷惑でしょうっ!」


「そんなの知るか!優佳が出てくればそれで済むんだよっ!」


「自惚れないで!うるさくしないでっ!ケーサツ呼ぶわよっ」


「優佳はそんなこと、しない!」


 わたしはもうそれに返事をしない。

 ……少しばかり罪悪感が込み上げたが、わたしは悪くない。


「……優佳、ごめん。飛行機の時間があるから、もう行かなきゃいけない」


「ふん!ほらそうやって!わたしのことなんて二の次なんでしょ!」


「優佳、帰ってきたら……話をしよう」


「早くいなくなれ!このバカッ!」


 そう言ってわずかに残っていた諭史の雰囲気は、朝靄とともに消えた。


「サトシのバカ、バカァ……」


 玄関の前にうずくまり、我慢していた分も含めて吐き出す。

 声と一緒に涙が出る、わたしは悪くないはずなのに、罪悪感ばかりが募っていく。


 ……なに言ってるの、バカ。

 わたしが悪くない、なんてそんなのあるわけない。


 わたしはサトシの背中を押すべきだった。

 なのにレイカとサトシが一緒にいる光景を見てアレルギーを起こして、心無いことをぶつけてしまった。


 そしてサトシのこと好きなのに、一番逆の言葉をぶつけてサトシを追い出した。

 わたし、ホントになにがしたいんだろう……


「わたしの、バカァ……」

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