5-18 この腕のぬくもり


 ……僕は道路沿いの茂みに投げ飛ばした、ボストンバッグを拾い上げる。


 拾い上げたバッグにはクモの巣やら枯葉や、朝露が付いていた。

 陰鬱な気持ちと一緒にそれらを払い、待ち合わせ場所に歩を進める。


 駅前の喫茶店で午前五時に傑先輩と待ち合わせをしていたが、手前で少しばかり問題が起きたため、間に合いそうにない。


 遅刻の連絡をLINEで飛ばし、早歩きで先ほどの出来事について考えた。


 失敗した……乱暴に頭をガリガリと掻く。

 言われる側の気持ち、ちっとも考えられていなかった。


 昨日、僕の悩みを親身に聞いてくれた傑先輩たち。

 周囲の人達にこんなにも心配されていて、元気を出させようと遊びにまで誘ってくれた。


 そんな気遣いや優しさに絆されて、数日前からは考えられないくらい前向きになれた。


 ここまでは良かった。

 でもバカな僕は、有頂天な気持ちを見事に空回りさせてしまった。


 李の理解を求めてきたのは他でもない優佳だ。

 だから僕はその考えに歩み寄ることを、喜んでくれるに違いないと決めつけていた。


 いや、それはきっと優佳にとって悪いことでないのは間違いない。

 だけど、僕は一番最悪のタイミングでそれを優佳に伝えてしまった。


 だって優佳、一人でお義父さんさんの説得、頑張ってきたんだぞ?

 あんなに優しいお義父さんが、李のことだけは目くじらを立てて絶対に認めようとしなかったんだぞ?


 それを優佳は認めさせた。

 僕には絶対に変わってやれないことだし、それがどんなに大変なことか理解できる。


 なのに説得ができた途端、手のひらを返したように肯定し出したらどう思う……?


 そんなの怒るに決まってるだろ。

 優佳の説得は無視したくせに、お義父さんの反対という脅威がなくなった途端、尻尾を振ってあなたが正しいなんて、どのツラ下げて言えるんだ?


 僕は、それをしたんだ。

 恥ずかしい、そして情けない。自分の浅はかな考えに。


 昨日、あれだけ僕は周りの人に気を遣わせたというのに、それを少しも自分のモノにせず、無神経っぷりを胸を張って優佳にぶつけたんだ。


 サイテーだな……


 そして優佳は、僕が心変わりをした理由を知らない。

 傑先輩たちに説得されたのが真実だが、優佳はそれをレイカと直接結びつけてしまった。


 僕はレイカと生きていくことに、帆を傾けようとした瞬間を見られているんだ。


 だから優佳は誤解した。

 自分が何年もかけてしてきた説得以上に、レイカの存在、レイカと過ごした時の影響が大きかったのだと信じてしまった。


 ああ、僕はなんて馬鹿なのだろうか。

 徹夜で頭が働かなかったなんて、そんなくだらない言い訳さえしてしまいそうな自分に嫌気が差す。


 また……迷いが生じる。

 僕は優佳の隣にいられるような、レイカを支えてやれるだけのような、価値がある人間なんだろうか?


 だってこんなにもくだらないことで彼女達の心を乱したり、無神経な言葉を吐いてしまうんだぞ?

 この件が解決してもいつかまた心無い言葉で、いつ誰を傷つけるとも限らない。


 そんな人間が誰かと友達でいたい、恋人でいたい、家族でいたいなんて、あまりにも烏滸がましいんじゃないか?


 ――昨日、李を許すことが解決の第一歩だと傑先輩に指摘された。


 それは希望的観測に近い、一つの道しるべ。

 僕自身、傑先輩の意見を信じているだけであって、それが解決に繋がる未来を想像できていない。


 無駄に終わる可能性のほうが高いとさえ思う。


 もし李と話をして、和解することができたとしても、それが僕や優佳、周りの状態を直接解決する手段にはならないのだから。


 けれど僕はあの時の傑先輩を信じ、流されてもいいと思えた。

 どうせこのまま行っても八方塞がりなんだ、長いものに巻かれて行くのも悪くない、そう思えた。


 そして乗せられたその気持ちで、僕は一人で空回りしたというわけだ。

 笑い出したい、全部投げ出して一人になりたい思いが蘇ってくる。


 ……この感じはダメだ、あまり考え込まないほうがいい。自分を罰したくなる気持ちを抑えて、頭を空っぽにする。


 余計なことを考えないようにしよう。

 いまの自分自身が一番信用できないのだから。


---


 待ち合わせ場所、ファーストフード店に着いた。

 女店員の清々しい挨拶に会釈をし、傑先輩が腰かけているテーブルに近づく。


 テーブルの上に手を組みながら目を瞑っていた傑先輩は、僕が近づくなりふっと瞼を開いて、一言「遅いぞ」と言った。


 いまはそのぶっきらぼうな言葉が心地いい。

 傑先輩は少しばかり僕の顔を眺めていたが、少し息をついてから口端を釣り上げて笑った。


「なんだ諭史、その陰気な顔は」


「生まれつき、こういう顔ですよ」


 陰気な顔は徹夜から来たものか、それ以外なのか。

 それとも自分で言った通り生まれつきなのか。いやそれはどうでもいい。


 お互いにクスリとも笑わないが、男同士だしこれくらいでちょうどいい。


「……傑先輩こそ、クマすごいですよ」


「生まれつき、こういう顔だ」


「昨日とは違うようですが」


「イメチェンだ」


 ツッコまない、面白くないから。


「あれから仕事でもしてたんですか?」


「舐めるなよ諭史、ウチはそんなブラックな会社じゃない」


「牛木さんの会社でしょ、ブラックに決まってますよ」


「それをさせないのが俺の仕事だ。なんなら諭史も入社して確認してみればいい」


「傑先輩が一年後も過労死しなかったら考えてみますよ」


「言ってろ、その頃には大企業になってウチの求人は終了だ」


 先輩は残りのコーヒーを飲み干して立ち上がった。


「行こう、もう時間もギリギリだ」


 そう言うとキャリーケースのハンドルを引き、店員の挨拶に手を上げて応えた。



 ローカル線で都内に出た後、緑の電車を外回りに乗る。

 モノレールの初体験を済ませ、七時前に国際空港に着いた。


 空港で僕らは四百円で二つという、どう考えても高すぎるサンドイッチを朝ご飯にした。僕はロビーでそれを頬張っている間、先輩はどこから電子書籍を購入してきていた。


 なんでも前々からマンガを消化するために欲しかったらしい。確かにこれから機内はだいぶ時間があるだろうし、暇を潰すにはうってつけだろう。


 ……ただ徹夜に近い僕らが、機内で寝る以外の暇つぶしができるとは到底思えないけど。


 飛行機に乗るのは二年ぶりくらいだろうか、確か高一の時に父親の実家に帰る時以来だったと思う。電車の中でもうつらうつらしていたけど、僕は旅行をするようなワクワク感に少しだけ湧き始めていた。


 汚れ一つないピカピカのセラミックタイル、聞き慣れない搭乗案内の効果音、平日にも関わらず家族連れのはしゃぐ声に、ビシッとスーツを着こなした年配の男性。


 横を警備の人が、奇妙な乗り物で通り過ぎていく。確かあれはセグウェイっていう乗り物だ。見慣れぬものを見て感動する反面、普通に歩くほうが早くないか?という疑問も浮かぶ。


 それらをボーっと眺めていると、先輩がスッと立ち上がった。


「そ、そろそろ搭乗したほうがいいな。諭史、トイレは……大丈夫か?」


「子供じゃあるまいし。それに機内にもトイレはあるじゃないですか」


「そ、そうだったな、じゃあ行く……か?」


「先輩……?大丈夫ですか?」


 傑先輩の顔色を見て驚いた、真っ青だ。


「体調悪いんですか?次の便にしましょうか?」


「い、いや、大丈夫だ」


 そうは言うものの冷や汗までかいている。


「無理は、しないでくださいね?徹夜明けで、しかも車の運転もしてもらってたし、疲れているなら日を改めてでも……」


「い、いいから」


 気掛かりではあったが、逆に断らせない妙な迫力があったので、それに従う。セキュリティチェックを受け、ボーディングブリッジで機内に入り、座席に着いたものの先輩の顔色は一向に良くならなかった。


 隣で顔を真っ青にさせている先輩が気がかりだが、機内のふわっと暖かい空気と、柔らかな座り心地で早速眠気に襲われていた。


 まどろみの中、ガタンと音が鳴り、飛行機が動き出した。滑走路に入るために飛行機が移動を開始したのだろう。


 そして、その時、それは起こった。僕の手に激痛が走る。


 突然のことに驚き、異常を訴える左手を見やると……先輩が僕の手を握りしめ……いや、握り潰していた。その顔は真っ青で口は半笑い、全身を震え上がらせていた。


「先輩……もしかして飛行機、ダメなんですか?」


 首をぶるんぶるん痙攣させるように縦に振る。


「ひ、ひ、飛行機、この飛行機、お、落ちないよな……?」


「とは思いますけど」


「アッーーーーーーー!!!」


 急に叫び声をあげる先輩。

 何事かと周囲の乗客もこちらに注目し、スチュワーデスさんもやってきて先輩に何事かと問いかける。


 問題ないと受け答えするが、顔色はますます悪くなっていた。


「諭史、俺はいまとんでもないことをしでしまった……」


「なんですか」


 疲れてきた。


「俺は、い、いま本来、起こらないはずのことを、く、口にしてしまった」


「……その心は」


「死亡フラグっ!墜落しない、飛行機に、落ちるかもしれない、と、口にしてしまった!!」


「だから、なんすか」


「お、俺は、この飛行機に落ちる口実を、与えてしまった……この世界に、落ちる可能性を発言し、発現することで墜落の運命を引き寄せてしまった」


「もう寝ていいですか」


「ね、寝ないでくれっ、お、俺の最期を看取ってくれ、いや、諭史にとっては、寝たまま逝けるのであれば、それもまた幸せなのか」


 黙ってくれ――


「ひっ、また動き出した」


「もう離陸しますね」


「諭史っ、もう我慢ならん、もう殺してくれ。殺されるなら、せめて愛されるものの手で殺されたい!」


「殺したいけど愛してない!変な誤解を生むことばかり言うな!」


「せめてこの手だけは放さないでくれ!!」


「いい加減黙ってください、恥ずかしい。緊急停止したらどうするんですか」


 騒ぐ先輩が腕に抱きついてくる、振りほどきたかったがそれでまた騒がれたら本気で飛行機を止められかねない。


 ……青ざめる先輩を横目に、僕は昨日の妄想を思い出していた。


『ねぇ……安定飛行に入るまで、手を握ってても、いい?』


 この妄想が現実である方がよっぽどマシだったといまなら思える。


 アナウンス――離陸するまではシートベルトを外さないでください。


 先輩を口をパクパクさせている。

 それを見て小学生の頃に飼っていたデメキンを思い出した。


 先輩はその後、安定飛行に入るまでずっと僕の腕にかじりついていた。

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