4章 五年前――思い出になる前の、記憶

4-1 そして始まる自己紹介


 夕霞中学校。

 なんの変哲もない、普通の中学校。


 近隣の三つの小学校を卒業した生徒をそこそこにかき集め、特に不良の多いこともなく、極端に勉強熱心の集まりということもないし、優れている部活があるわけでもない、ごく平均的な中学校。


 そして一学期を通して人見知りがない程度には仲良くなり、中間試験という鬱イベントを終えたその翌日。


 中学生なりの疲れを感じた彼らの間では、睡眠時間の少なさ自慢が繰り広げられ、そんな生徒たちの雑談と欠伸をBGMに、体育館で全校集会が開かれようとしている。


 また今日から衣替えということもあって、気合の入った生徒指導達の大きな声と共に、体育館入り口前では先ほどから入念な服装チェックが行われていた。


 春先にしか袖を通さなかった長袖のワイシャツ、肩幅がぴったりになった学ラン。


 そして僕、こと中学一年の纏場諭史はワイシャツをインしているのを悪友に「ダセェ」と笑われ、アウトさせた直後に生徒指導の一喝を浴びて直す、というバツの悪い気持ちで集会に臨んでいた。


 ……それに乗せられ、言われるがままの僕が悪いのだが。


 窓の外にはグリーンとイエローのハーフになった銀杏の姿、残暑の過ぎ去った十月初日の朝。今日の朝礼は新しい生徒会長の挨拶があるということもあり、館内にはいつもと違う色めいた喧騒に包まれている。


 もちろん僕もその中の一人だ。なにせ自分の知り合い、いや仲の良い女のコがそこに立つと知っていれば、自分にも緊張が伝わってくるというものだ。


「おい諭史? お前、縁藤先輩と仲いいって本当かよ?」


 そういって肘で小突いてくる猿顔の短髪男。


「うるさいな、黙って待ってろよ。また僕まで注意されるだろ?」


「ははっ、お前さっきのまだ根に持ってんのかよ? さすがに集会前には服装チェック入るに決まってるじゃんか」


 クラスメートであり悪友。

 牛木 一岳(うしき かずたけ)はそう言いながらケタケタと笑う。


「お前がバカにしてくるから悪いんだろ!? 本当は僕だってシャツ出しなんかしたくなかったけど、あーいう風に言われたら僕だって……」


「そこ静かにしろ!」


「「はいっ!」」


 僕と一岳は背筋を伸ばして前に倣う。


 ……と、さすがにシャツ出しくらいで悪ぶろうとする小心者達には、生徒指導に歯向かってまで反抗しようという気持ちは起こらないのであった。


「あ~マイクテステス……それでは~先日、生徒会長に着任された縁藤優佳会長の挨拶です」


 そういうと「ハイ」と小さくも凛とした声が館内に響く。


 鈴を鳴らしたような声。

 壇上に登っていく少女。その髪は母親の遺伝で色素が抜けた白に近い金色。


 そのペールゴールドのショートヘアーには緩やかなクセがあり、くりくりの丸い瞳と相まって、柔らかな雰囲気を醸し出している。


 そして演台のマイクの前に……立ったはずなのだが、姿がまったく見えない。それもそのはず、優佳の身長は平均よりも十センチ以上低い、百四十センチだった。


 館内から小さい笑いが沸き上がる。裏手から先生が踏み台を持ってきて、それに上がると今度は顔だけがぴょこんと現れる。


 身長に比例して、中学生にしてもあどけない顔つきの少女。マイクを取ろうとして背伸びをする様を見て、また笑い声が起こり、生徒指導の一喝で再び静寂が訪れる。


 そんなショートコントのような光景が行われ、僕は友人に身内だと自慢した手前、顔が燃えるほど恥ずかしかった。


 ……生徒会長になった女のコは自分の幼馴染であると、クラスメートにずっと吹聴していたからだ。


 また僕自身も生徒会に会計役として迎えられており、その立派な組織に入るということで周りに少し、いや結構な具合でドヤっていた。


 そしていまその伸ばしに伸ばしきった鼻っ柱が、ボキリと音を立てて地面にたたき落された。


 壇上の優佳はやや額に汗を浮かべて焦っていたが、踏み台が追加され二つ重ねてようやく肩まで見えると(それがまた笑いを起こしたのは言うまでもない)一息ついて口を開き始めた。


「……やっぱり、こんなちっちゃい生徒会長と不安だよね」


 ようやく開かれた優佳の口からは、出てきたのはそんな言葉。

 館内がすっと静まり返り、いまの発言意図についてざわめきが起こる直前。


「わたしね、こないだジェットコースターに乗れなかったの」


 優佳は少し照れのある表情で、唐突に閑話を挟む。


「いつまでたっても、つり革に手は届かないし」


 目を閉じ、落ち着いた笑顔を浮かべる。


「学校でもそう。黒板を消すことでさえ、人の手を借りないとできない」


 そうして淡々となにもできない自分を、責める。


「髪の色だってみんなと一緒じゃないし、わたし一人だけいっつも普通になれない」


 仕方ないと諦めを湛えた瞳で、自分の髪を摘まんで見せる。


「だからね、わたしはこんな自分が嫌いだった……」


 ふっと笑顔が消え、皆の前でそんなネガティブを口にする。


「生まれ持ったものだから、しょうがない。体が成長しないのはどうしようもないじゃん、わたしは悪くない! っていっつも思ってた」


 そこにいるのは生徒会長という偉いヒト、ではなく身体的特徴に人並みの悩みを抱えた一人の女のコだった。


「でもね、そんなわたしだけどある日大事なことに気付けたの。教えてくれたのは、一人の目が見えないお婆さん。わたしは電車で塾に通っていて、ある日そのお婆さんと出会った。ほんの気まぐれで声をかけ、自分の降りる駅を過ぎてしまうけど目的地まで案内してあげた」


 優佳は笑みを浮かべたまま、自分の過去について語り明かす。


「そしたら助かったってすごい喜んでくれた。お婆さんも昔は目が見えたけど、

見えなくなってからは息子さん夫婦に迷惑かけるから、一人暮らしを始めたって教えてくれた。けどわたしは自分が人の役に立てたことが嬉しくて、話半分にしか聞けなかった。こんなわたしでも感謝されることがあるんだって、そればかりで」


 生徒・先生達はそんな独白を、微笑ましいエピソードを、静寂の中で聞き入っていた。


「そして自分の悩みなんて、ホントにわたしの身長よりちっぽけだなって思えるようになったの。お婆さんは一人でも頑張っているのに、自分は身長のせいにして僻んでばかりだったって。わたしはそんな当たり前で、大事なことを教えてくれたお婆さんに感謝した」


 笑顔で、生徒みんなの顔を見渡す。

 その一つの語りに、メッセージに、見守っていた先生たちも微笑みを返すことで応える。


 しかし次の瞬間、その顔に浮かぶのは真逆の表情。


「……でも、しばらくしてわたしは自分が許せなくなった。あのお婆さん、結局いまも一人でいるんだって気付いたの。わたしは自分が感謝されたことに頭がいっぱいで気付けなかった。あのとき、お婆さんはなんでその話をしたのか? それはわたしに助けを求めていたんじゃないかって」


 優佳から笑顔が消え、声はまた一人の苦悩する女生徒に戻っていた。


「だって一人は……寂しいもん。わたしの考えすぎだって思ったこともあった、でもそう考えるのは結局自分を守るため。それにお婆さんは言ってた。役に立ったことに浮かれていたわたしは、都合のいい話しか耳に入れなかった!」


 そして優佳の独白は、いつしか窓ガラスを震わせる叫びへと変わる。


「お婆さんはね、最後に『いつもこの時間の電車に乗るの?』って聞いたの。でも、わたしはそれになぜか『違いますよ』って、笑って答えた。あれは一人で寂しかったお婆さんのSOSだった」


 優佳は、逃げない。


「わたしの考えすぎかもしれない、あの後に息子さんとまた一緒に暮らしたかもしれない。でもわたしの頭の中にいるお婆さんは、いまも寂しいって涙を流してる。わたしはそれを見捨てていまものうのうと暮らしてる! そう、わたしは見捨てた。塾に行くためいつも乗る時間は同じだったのに、それからはいつもより一本早い電車に乗っていた」


 自分の見たくないことから逃げない、気づかないフリをするのが上手な子供じゃない。


「わたしは考えないようにしてたけど、いまならはっきりとわかる。そのお婆さんと一緒にいることから逃げたんだって。綺麗な思い出だけ閉まいこんで、気まぐれで助けておいて、でも毎日それが続くとちょっと嫌かなぁって、当たり前のような顔で乗る時間を変えたの」


 逃げた後悔から、逃げない後悔へ帰るため。


「それからわたしがお婆さんを見かけることはなかった。わざと『その時間』にも乗ってみたけれど、姿を見ることはできなかった。でもお婆さんに会えたとしても会わなかったとしても、わたしが乗っているかどうかは分からない、だって目が見えないんだもの」


 もうこの空間が全校集会だなんて覚えている者は誰一人としていなかった。

 僕も、生徒も、先生も。


「……お婆さんはわたしのことなんか、探してなかったかもしれないけどね」


 優佳は苦笑いを浮かべる。

 聴衆は、黙って、次の言葉を、待つ。


「わたしはそれに気付いた時、愕然とした。自分がこんなに冷たい人間だったことに。でもそれは難しいってことも本当はわかるの。それをしようとするなら、わたしは目の見えない人や体の不自由な方を、全員助けなければいけない。……けれど、わたしはそんな自分が悔しくて、そんな人達をどうやって助けられるか考えた。こんなちっぽけなわたしで、役に立てるかもわからないけれど、その後悔を無駄にしない生き方をしたい」


 優佳を胸元で手を合わせ、一呼吸置いてから。


「――それを叶えるのが、わたしの夢」


 そう、ぽつりと口にする。


 唯一の発信者が黙り、しんと静まり切った体育館。

 寝ぼけ眼で現れた生徒たちも、話に飲み込まれ欠伸一つできやしない。


「でもわたし、まだまだ子供なんだ。だから小さいことから始めようって思ったの」


 優佳は声を柔らかく、口元を緩める。


「自分でも役に立つんだって教えてくれた人がいたから。そして自分はこんなに人達に助けられて生きてるんだって」


 それはもう生徒から生徒への言葉ではなかった。


「まずは自分の手の届くところから幸せな世界を作っていきたい。欲しいものに手が届かない、人混みに紛れると小さくて見えなくなってしまう、そんなわたしだけど」


 濃密な人生経験を経た、先輩からのメッセージ。


「みんなより少しだけ考えて、少しだけ努力して、でもそんな自分に自信を持てて、目の見えないところでもいいから少しずつ、幸せな世界にしていきたい」


 同世代とは思えない発言力と、疑う余地のない確立した信念。自分に嘘をつかず、自分の良し悪しを理解し、それを人前で口にできる優佳の姿に、皆は憧憬を抱かざるを得ない。


 全校生徒はこの瞬間から、同じ目線で彼女を捉えることができなくなった。


「わたしは少しでもこの学校を良くしようと頑張ります。だからみんなも、わたしたち、生徒会を少しだけでいいから支えてください、ね?」


 その挨拶、演説が終わった時、全校生徒……いや教師からも全幅の信頼を置かれる存在になった。


 この少女は精神的に成熟している。


 ”自分”というものをこの歳にして身に着けていた。

 そこそこの大人でも口に出せない意志を魅せることができた。


 自分の夢を、信念を、恥じらうこともなく。


 それが、一つ年上の幼馴染。僕がいまも追いかけ続けている背中の持ち主、縁藤優佳(えんどうゆうか)という女のコだった。

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