3-10 帰るところ
最高気温を記録した日中とは打って変わり、涼しげな風を吹かせる梅雨明けの夜。
木々に覆われた境内は、仄かに浮かび上がる提灯の明かりで照らされ、数十年前に流行った夏祭りの民謡を、音飛びしたスピーカーに唄わせている。
子供たちの元気な声と、夜店の鳴らす発電機の音。そんな喧騒の中、指先を触れ合わせるように繋ぎ、緩やかに流れる時間を、歩幅小さく歩いていく。
「それにしても諭史、なに坊主って」
「レイカ、笑いすぎ」
レイカは未だに僕が坊主と呼ばれていたことにツボっている。
さっきから笑われてばかりの僕は、少しばかり面白くない。
「だってさ、ジャハナって私たちと同い年だよ? なのに坊主って呼ばれてて、しかも諭史は、お、おや、親方って」
レイカは自分で言って、また腹を抱える。
「ジャハナさんて学生時代、あんなにデカかったの? きっと卒業してからだよね? だから僕が年上だと思ってもしょうがないよね!?」
「はは、もうやめて。それ以上笑わせないで」
「……もういいよ」
僕は笑ってばかりのレイカを置いていこうと、先に進もうと足を前に出す。
「はは。ごめんごめん」
レイカが笑いすぎで出た涙を拭きながら、僕の手を引き寄せる。
「ね。せっかくだからさ、もうちょっとゆっくりしてこうよ」
大きく開いた袖口を寄せて、甘えるように言う。
その言葉に僕は首だけを振り返らせ、改めてレイカの着物姿を目に収める。
僕たちは手伝いが終わった後、婆さんの計らいで離れにあるお風呂を貸してもらえた。
さらにせっかくだからと婆さんはレイカに着物を勧めてくれた、けれどレイカは絶対に着ない! と言い張って聞かなかった。
……なので入浴中に後輩ちゃんたちが、更衣室からレイカの服を持ち出し着物にすり替えた。そうして後輩ちゃんや婆さんと、着る着ないのすったもんだを三十分繰り返した後、鮮やかな藍色に、赤紫の朝顔を咲かせた着物姿を披露することになった。
いつもは櫛入れなど必要ない! と乱雑にまとめられている栗色の髪。
だが今日だけは梅のかんざしで綺麗に結い上げられている。
そしてその姿は僕らお手伝いズに、写メの嵐を浴びせられることになった。
普段はTシャツ一枚にダメージジーンズ。
けれどそんな快活なファッションはなりを潜め、今日ばかりは袖口を風に揺らし、褄先から覗かせるちょこんとした足袋、帯揚げに浮かされる胸元。
持ち前の柔らかな目尻も相まって、どこか柔らかな印象。
時折、その細い目尻から盗み見るような視線を流されると、舌先が躍ってしまい、上手く喋れなくなってしまう。
「ね、諭史」
「なに」
「誘ってくれて、ありがと」
返事はせず、レイカの手を包み込むように握りなおす。
「……へへ」
レイカは握った手をさらに引いて、腕を組んできた。
そしてわざとらしく口端を上げ「してやったり」とイタズラに笑う。
この笑顔、好きだな。そんなことを思った。
「あ、サトシ。焼きトウモロコシ売ってるよ」
「いいね。レイカ、今日は何本食べる?」
「私、そんな大食いキャラじゃないはずだけど……」
そういって二本注文。千円、う~ん高い。
でも今日は特別だ、婆さんから配られた無料交換券がある!
もらった券で焼きトウモロコシを交換し二人で頬張る。
新鮮、天然、まるかじり!
「ん~久しぶりに食べるとおいしいな、この原始的な砂糖醤油の味付けがいいんだよね」
「そうそう、こういう夜店って不思議となんでもおいしく感じる」
「レイカと来るのは本当に久しぶりだね、子供の頃はお小遣いで好きなの一つくらいしか買えなかったし」
「またそうやって昔の話して」
「だって僕は嬉しいんだよ。レイカといまこうして、ここにいられることが」
そう、三ヶ月前までは全く想像できなかった。
そもそもレイカと普通に話をすることさえ想像できなかった。
ましてやレイカへの恋心を思い出すなんてことも。
それがこうして形になっているなんて、夢にも思わなかった。
「ほら諭史! また急に黙り込まない」
「や、なんかこうしてレイカと夏祭りなんて来てることが奇跡に思えちゃってさ」
「ふん、勝手にしんみりして。ほら、次あれやろうよ、射的!」
「……レイカがやると様になり過ぎそうで怖いな」
レイカが射的の銃を構えて、特大のヒヨコを狙う。
五発すべてヒヨコに狙いを定め、最後の一つが当たった瞬間、倒れた。
そんな無邪気な笑みを見せるレイカに、苦笑を返す。
ヒヨコを片手に遠慮なく腕に抱き着くレイカ。
……幸せってこういうことかな、なんて思ってしまう。
それから二人でいろいろな夜店を回った。
あっついお好み焼きに舌をやけどさせて騒いだり、五匹釣り上げた金魚にドヤ顔をして見せたり、お面をかぶった写メを二人で録ったり。
いままで作って来れなかった、五年分の思い出を取り返すように、二人ではしゃぎまわった。
僕は忘れていた、レイカと一緒に過ごす時間はこんなにも楽しかったことを。
あの時だから気づけなかった感情、失って初めて気付いた気持ち。
でもそれは無くしてしまったわけではなく、再び手に取ってしまえばこんなにも自然と膨れ上がっていく。
そんな夏の熱に浮かされ、心を火照らせていった。
---
祭囃子の音から少し離れ、石造りのベンチに腰かけてひと息をつく。
「もう諭史、少しはしゃぎすぎ」
「男はこうやっていつも童心に帰れる場所を求めてるんだよ、こればかりはしょうがない」
「なに言ってんの! 途中から強引にグイグイ手ぇ引っぱちゃってさ」
「そういうレイカだって、手をニギニギ返してこっちの反応気にしてたじゃないか」
「~~~! き、気づいてんだったら、なんか言えよっ!」
「いや、だって気づかないふりしてると、ちょっと拗ねたような顔するのが面白くて」
「っ! ……そうやってたまにSッ気をみせてくるのむかつくんだよ!」
そう言ってぺしぺしと力無く叩いてくるレイカ、こそばゆい。
「ふふ……」
そしてレイカは僕のスマホを取り上げ、先ほど撮った写真を眺めていた。そこにたくさんの着信履歴とかメッセージがあっても、お互い全く気にすることはない。
「見て見て、このサトシの顔。めっちゃブサイクだ」
「言うにこと欠いてブサイクとは、またひどい」
「でも、私このブサイクな顔好きだよ?」
「ブサイクブサイクうるさいな、レイカだって……」
「だって?」
「いや、やっぱやめとく」
「え、なにそれ。なんで言うのやめるの、怖いんだけど」
「や、普通にかわいいから、なんか悔しかった」
「……もう、かわいいって言えば、なんでもごまかせると思わないでよっ」
「これ、待ち受けにするよ?」
「またそうやって恥ずかしいことする! ……でも、私もその写真、欲しい」
「うん、送る」
なんとなくそのまま黙り込む、けどその沈黙さえ心地いい。
銀色に輝く月明かりが、境内の玉砂利に反射して白く光る。
その光景をぼんやり眺めながら、夜風に身を晒し、頬の熱を逃がしていく。
人を惑星に例える占いを知っているだろうか。
あの占いで一番安心できる人は”月”なんだという。
沈黙も楽しめる、落ち着いていられる、心の底から安心できる。
そんな積み重ねてきた年月だけでは片づけられない、深い安堵を感じていた。
「私……変じゃなかったかな」
「え?」
「いつもガサツな私が着物なんて着てさ、化粧なんてしてたら、おかしくないかな」
「まさか、すごく綺麗、だよ」
すると、少しレイカが笑みをこぼしながら言う。
「ホントかな……諭史、たまにそうやってからかうし」
「えっと、なんていうか、ごめん」
「……ちがうよ」
「え?」
そう言うとレイカは手を強く握り、首元に顔をうずめる。
「こういう時くらい……強い言葉で、信じさせて、よ」
切迫した声で、恥を押し殺して、手を震わせて、その先を求める。
僕にはそれを押し返す理由なんてない。
そのまま肩に手を回し、体を引き寄せる。
小さく声を漏らし、腕の中に収まるレイカ。
なにか声を掛けたかったが、下手な言葉よりただ抱きしめていたかった。
レイカもなにも言わず、腕の中で小さく胸を上下させていた。
……いつまで、そうしていただろう。
一分だったかもしれないし、何十分もそうしていたかもしれない。
レイカは握っていた手を緩め、僕の顔を見上げてきた。
「へへ……」
うっすら頬を染め、微笑む。
レイカとこれからも添い続けたい。強く、そう思った。
そして、いまこの瞬間にこの気持ちを伝えなければ、いつ告げる機会が訪れるか分からない、それがとても怖かった。
僕はレイカの肩に両手を乗せる。
真正面にある端正な顔。
そしてレイカは静かに目を閉じた。
……僕は、これまでの三ヶ月を思い返す。
長い三ヶ月だった。
レイカと再会して。
一緒に住むことになって。
華暖とまたに働くことになって。
事故に遭って。
新聞部と交流して。
華暖の想いを聞いて。
レイカの過去を聞いて。
レイカと暮らして。
レイカと過ごして。
レイカを放っておけなくて。
レイカへの想いを、新たにした。
僕はそんな濃密な三ヶ月を思い返し、ふと笑みがこぼれてしまった。
だけど、そもそもこの始まりはなんだっただろうか?
なぜ、そもそもレイカと出会ったのだろうか?
――長いことお預けを食らっていたレイカは、また諭史にからかわれているのだと思った。
こんな時くらい、空気を読んでほしい。
目を開けた瞬間に不意打ちが来るかも、とそんな乙女な妄想が迸る。
いいわ、乗ってやろうじゃないと、期待して、目を開ける。
そして、それを目にした――
「……あ」
レイカが激しく動揺する、その視線は僕の背中。
「……どうしたの?」
「あ、あ……」
レイカの動揺ぶりは、普通じゃなかった。
でもこの場この瞬間で、レイカの目を逸らすなんて愚行は犯したくはなかった。
だが、それもレイカが次の言葉を紡ぐまで。
「アネ、キ……?」
「…………え?」
僕の昨日からの一日が、過ごした時間が思いが、すべて渦に巻き込まれていく。
そんな目が回るような、錯覚。
だがレイカのその口に出した言葉は、僕が無意識に振り向くには十分な力を持っていて。
僕は愚かにもなんの覚悟もしないまま、振り向いてしまう。
そして、そこには……いた。
「……久しぶり、サトシ」
”優佳”の鈴の鳴るような声。
そこには夢に何度も見た、姿。
エーコに吐露させられた、想い。
縁藤の家で与えられた自室で枕に叫んだ、言葉。
そんな渇望してきた存在を前にして、僕は自分という存在の在処がわからなくなった。
嬉しさなのか。
悲しさなのか。
愛しさなのか。
苦しさなのか。
そんなどれとも違う、すべての籠った想いで、口にする。
「優、佳……」
遠くに聞こえる祭囃子が、聞こえなくなっていく。
楽しかった祭りの余韻が、消えてなくなっていく。
通わせた心が、ニセモノになっていく。
僕の将来とはなんなのか。
夢とはなんだったのか。
すべての想いは叶わないものなのだろうか。
優佳と過ごしてきた日は、本物だったのだろうか。
レイカとはいったい誰なのか。
僕の思った通りにはならないのだろうか。
なぜ僕の思い通りに、ならないのだろうか。
希望とは絶望と同じ意味なのだろうか。
僕はどうしてこの人と会って、こんな気持ちにならなければいけないのだろうか。
この人もこの人も僕にとって希望のカタマリじゃなかったのか。
すべては僕が悪いのだろうか。
悪いことってなんだ。
良いことってなんだ。
もうなにも想いたくない。
なにも感じたくない……
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