3章 望んだものほど、こぼれ落ちて

3-1 迷走


 豚こま肉は細切りにした後、味付けをして……


「諭史って、相変わらず体ほそいよねー」


 ショウガはみじん切りにして、フライパンに投入、っと。


「最近、髪の毛も伸びてきたんじゃない?」


 少し経った後、豚こま肉を投入。

 火加減は……強火でいいのか、さすが中華料理。


「襟足伸ばしてるの? 諭史は短髪のほうが似合うと思うけど」


 たけのこ・ピーマンを入れる、その勢いで濃厚な油の香りが立ち昇った。


「あっ、枝毛。ぷちっとな」


 いてっ……この匂いあるから、あまり中華料理が好きじゃないんだけど……って。


「……縁藤さん?そろそろ離れて頂けますか?」


「えー、今更それ言うの?」


「邪魔してる自覚が少しでもあるなら、離れて欲しいんだけど」


「相変わらずいけずだなぁ、諭史は」


 レイカは不満そうな声をあげて抗議するが、未だに離れようとしない。


「というか火使ってるんだから本当やめて、危ないから」


「その程度の危険じゃ、私の諭史欲を失った危険レベルにはかなわないよ」


「なに、その諭史欲って安直かつセンスのないネーミングは」


「別にセンスなんてどうでもいいでしょ? アイよ、アイ」


「あ、愛って……」


 またレイカらしからぬ単語が飛び出し、露骨に引いた声が出る。

 火を使ってると言えば、さすがに空気を読んで離れてくれると思っていたんだけど……


 レイカは僕の背中に引っ付いて腕を回し、へそのあたりで手を組んでいる。


 目の前の中華料理、背水のレイカ。

 火を使っているのもあるけど、正直暑苦しい。


 という照れ隠しをしてみるけど、当然ながら男が女に手を回されてイヤな気はしない。


 あ、余談だけど男女のスキンシップで、背中から抱きしめられるのが好きっていう意見が多いけど、あれって背後は自分で守れないから背中に壁とかなにか物があると安心できるだけの話なんだって(台無し)


 そんなどうでもいいことを誰に向けてか考えていると、レイカは突然飽きたように僕から離れていき、先日ようやく買ったテレビを付け、ニュースというBGMを流し始めた。


 僕は手元のチンジャオロースを完成させ、二皿に盛り付ける。一皿はレシピと一ミクロンも違わない、完璧な見栄えと味を兼ね備えた芸術品。


 そしてもう一皿には料理人泣かせの、七味・タバスコ、おまけに食べるラー油とかいう紀元前の調味料を載せ、完成。


 テレビでは隣国の大気汚染問題を報じていて、近く九州にもその空気が流れてくる、との警鐘を鳴らしていた。


 それを、レイカは無感情に見つめている。


「レイカ、できたよ」


「待ってました!」


 レイカは箸を握り、チンジャオロースを勢いよく頬張り始める。僕はその姿に自然と笑みが零れ、レイカの食べっぷりをしばらく眺めていた。



 レイカはあれからすぐに退院はしたが、熱は二週間ほど下がらなかった。


 昔から病弱だったレイカは少しの熱でも長引くことが多かったので、高熱を出したことが気がかりだったが、比較的早く良くなったほうだ。


 高熱で仕事を休み、僕が看病についている間、時間持て余したレイカは空白の五年について話してくれた。


 僕はレイカが離れてしまった原因を、子供扱いしすぎたことだと思っていたが、レイカの言い分では少し違っていた。


 レイカには中学校入学と同時に、新しい友人がたくさんできた。小学校時代はレイカの容姿や、珍しい名前が異質なものとして見られたが、中学ではそうはならなかったようだ。


 レイカを見る目は異質ではなく……興味。

 周りの人間が自分に興味を持って話しかけてくれ、そして新しい友人関係ができていくことが楽しかった。


 そして僕たちとだけ一緒に居続けることより、新しい交友関係の中でどんどん新しい人と知り合っていくのが嬉しかったと。


 ……ただ、そのグループはクラスの中のグループでも少し”やんちゃ”過ぎるグループだった。


 身内が泣かされた、仲間がバカにされたなんて日には、頼まれてもいないのに仕返しをしてしまう、血気盛んな連中だった。


 僕や優佳といた時には得られなかった、仲間との一体感。それはレイカの心を熱くさせ、仲間のためになにかをするということに心酔していた。そして僕たちの後ろについていた時は違い、自分を誇らしく思うことのできる、唯一の居場所となった。


 問題は、その後。


 中三に上がり進路の話が具体的になると、いかに野放図な連中でも明確な進路が見えてくる。


 レイカには、それができなかった。

 いままでは僕と優佳に引っ張られてきて、それがなくなったら友人とその関係に奔走してきたのだ。


 レイカにとってはいまがすべてで、与えられてきたものの中で生き、自分で未来のことを考えたり、自分で選び取るという考え方がそもそも存在しなかった。


 目の前の世界が一本のレールではないことに気づいた。


 無限の可能性が生まれた瞬間でもあり、みんなが自分の行きたい未来を選ぶ中、決められたレールを歩くことしか知らなかったレイカは、一歩も踏み出すことができなかった。


 自分はみんなと違う人間――考え方の根っこが違う生き物だと、その時期になって初めて気付いた。


 レイカのためにならない”自覚”は楽しかった日常を灰色に変え、仲間であったはずのグループからも疎外感を抱き始める。


 そうして孤立したレイカは誰に相談することもなく、みんなが当たり前にそうするように高校に入学した。


 周りだってその選択に疑問を持つことはない。中学生が高校に進学することなんて、至極当然のことだから。


 しかし自分という存在そのものにも疑問を持ってしまったレイカに、新しい場所で新しい人間と交流する、そのこと自体が不気味でしかなかった。


 高校でもレイカに興味を持つクラスメートは多かったらしい。


 けれど自分の存在、考え方すら自信を持てなくなってしまったレイカにとって、

それは苦痛でしかなく、余計に自分で自分の異常さに気づかされざるを得なかった。


 レイカはそのまま登校しなくなり、自分という存在についてあてどもなく考えるようになる。


 僕と再び再開するようになるその日まで、ずっと。



「ねぇ、諭史。食べないの?」


「ああ、ゴメン。ちょっと考えごとを」


 話しかけられ、我に返る。

 レイカはつまらなさそうな顔で、訝しそうに横目を向けてくる。


「せっかくビジンと食事してるんだからぁ、気の利いた会話の一つくらいしてよねぇ」


「……そうだね」


「あっ、諭史、私が美人だって言った。聞いたからね、もう訂正はさせないからね!」


「レイカは、世間一般からして美人でしょ」


「……諭史? 真面目な顔で冗談言い続けるの、やめてよ」


「冗談なんかじゃないよ、レイカにウソなんてつくもんか」


「…………あ、りがとうございます」


 首を縮こめて、急にしおらしくなるレイカ。

 俯いたかと思えば、僕の顔を窺うようにチラチラと上目を向けてくる。


 ……それを僕は少し冷めた気持ちで見ている。

 頬をほんのり赤く染め、瞳を少しばかり潤ませ、僕の言葉に一喜一憂する。


 最近多くなったレイカの特徴だ。

 感情表現が以前にも増して激しく、落ち着きが無くなった。僕の表情をしきりに気にし、反応が悪いと目を白黒させる。


 そのせわしなさには見覚え、いや……経験がある。

 まるで優佳と付き合ったばかりの、僕みたいだった。


「ねぇ、諭史」


「うん?」


「私と一緒にいて、つまんない?」


 そう言って眉をハの字に寄せ、罪悪感を煽る。

 その仕草に少し……苛立つ。


「つまんない、つまんなくないは、関係ないでしょレイカ?」


「関係あるよ。せっかく一緒に住んでるのに、楽しくないなんて、嫌だよ」


 ……支離滅裂、以前のレイカが口にしない言葉。


「レイカ、僕はね――」


 ――楽しい、楽しくないでここに住んでるわけじゃないんだよ?

 言おうとして、言葉を呑み込む。


 ……そんな言葉かけられるか? 馬鹿か、そんなの無理だ。


 だってそれは、あまりにひどい。

 優佳に操を立てたいからって、僕はそんなひどい言葉をかけられるのか?


 行き場のない僕に、居場所をくれた人に。

 ……そもそも僕は優佳への操を気にしているが、妹とはいえ、その女のコの家に上がり込むのは正しいことなのか?


 ああ、また同じことを考えている。

 この二ヶ月間、同じような考えが頭の中をぐるぐる回っている。


 もう六月になってしまった。

 二ヶ月の間、優佳からは一切連絡がない。


 そんな相手に、操を立てる必要なんてあるのか?

 ……もう、なにがなんだか、わからなくなってきた。


「レイカ」


 目の前の女の子は涙ぐみながら、僕の言葉を待っている。


 もうレイカは僕の知っているレイカではなくなっていた。

 自分が何者かもわからず、社会に取り残されてしまった女の子。


 もし目の前にいるレイカが、昔から一緒に暮らしている幼馴染でなかったとしても、僕の辛い時に居場所を作ってくれた人であることに違いはない。


 その子が辛い思いをしていて、手を差し伸べて欲しいと懇願しているのなら。それに応えない選択をすることのほうが、最も人間としてありえない選択なんじゃないか?


 そうして僕は自分のことを、正当化する。


「……こっちに、おいで」


 そう声をかけると、レイカは一瞬泣きそうな顔になり、僕の隣にやってくる。


 躊躇なく僕の肩に頭を寄せ、鎖骨のくぼみに鼻をつける。僕はその寄ってきた栗色の頭を、つむじから毛先まで丁寧撫でた。


 髪の毛からはシャンプーの香りが漂う。二ヶ月前からの自分と、同じ匂い。


「頭なんて撫でてくれるの、諭史だけだよ」


 レイカは首に向かって話しかける。

 その感触が、少しこそばゆい。


 病院から家に戻ってから幾度となく繰り返されたこの行為。僕が離れるまでレイカはずっとくっついて離れることはない。


 けれど、この体勢でレイカは顔を上げることはない。


 レイカは女のコの中でも背が高かった。だから顔を上げて僕と視線を交わすのなら、鼻をも触れ合う距離になる。


 もし顔を上げられ、視線を交わしたらどうなる……どうするのだろう?

 その考えは度々頭の中に浮かび、先を想像を切り捨てて現実に立ち戻る。


 ……レイカの顎を上げ、無理やりに唇を奪うこともできる。それは、ひどく蠱惑的な誘惑で、下腹部が溶かしそうなほどの熱を持つ、妄想。


 僕は頭の中を空にし、ひたすら無感情にレイカのつむじを見つめている。


 そうして、いつもこの時が過ぎ去るのを待っている。帰って来ない優佳に対する操を、いつまでも持ち続けながら。


 そうしてレイカの背中に手を回す僕は、いつしか心の中で優佳へ謝るのをやめていた。

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