2-9 やり直し


 人の往来が激しい、繁華街のメインストリート。ここが大都市ですよ、とアピールするかのように立ち並ぶ高層ビル。


 ゴールデンウィークが終わり、歩く人々も半袖で出歩く人が増え始めた。


 大型サイネージがアーティストのニューシングルを紹介し、大型家電量販店からは色々な国の言葉でアナウンスを流している。


「ど~も○×コンタクトで~す! 一か月無料券お配りしてま~す!」


「本日、閉店セール!! スニーカーからブーツまでなんと最大九十パーセントオフ! 買い換えるならいま! いましかないですよ~!!」


 店頭に立っている呼び込みが、ウチもまた負けてられんと、甲子園の応援合戦よろしく声を張り上げている。


 大通りに面するスクランブル交差点では、信号が点灯しているにも関わらず、パラパラと横断する歩行者とクラクションを鳴らす車。


 そんな人々の雑多な感情が入り混じる、大型都市。


 僕は夕霞から三十分ほど電車に乗り、駅前のフクロウを模した某待ち合わせ場所にて、やや憂鬱な心持ちで人を待っていた。


 それは先日あった華暖との電話もそうだったが、いまは迫りくる運命の時間に、だ。


 今日は”買い物”で”来週の日曜日”だった。つまりはレイカの誕生日。


 しかし、もう約束の十一時は過ぎている。

 もちろん遅刻の連絡など来ているはずもない。


 来てくれるだろうか。可能性で言えば……いや、レイカは必ず来る。


 だってレイカはいまの状態をひどく嫌うはずだ。人間関係をこじらせ、モヤモヤした状態で置きっぱなし。直情的なレイカはそんな中途半端な状態をそのままにするなんて、おおよそ考えられない。


 だから、今日、必ずモーションは起こる。


 ……本当だったら今日は僕がホストになって、レイカを楽しませる役柄に徹するはずだった。だが生憎、先日のケンカでマイナスからのスタートとなっている。とりあえずは現状のわだかまりを、ゼロに戻すところから始めなければいけない。


 レイカはどういう気持ちで現れるだろう。出会った瞬間に真っ先に先日の話を始めるだろうか。


 それとも喫茶店などに行き、落ち着いた状態で腹を割って話すことができるだろうか。もしくはすべてをなかったことにし、今日という一日を楽しもうとするだろうか。


 僕がそんな思惑を巡らせ、結局で出たとこ勝負という身も蓋もない結論が出した頃。ようやく主役、こと縁藤レイカらしき人影が、ゆっくりと歩み寄ってくる姿を発見した。


 ……けどそれはレイカにとっては当たり前の姿で、この都心には不釣り合いな恰好。


 ジャージ姿だった。黒のジャージに、ピンクのラインが二本入っているだけのパジャマ代わりの恰好。


 白いスニーカーを履き、いつもしっかり結っているポニーテールは形を成さず、毛先は自由に跳ね回り、寝坊していま起きましたと言わんばかりの佇まい。


 当てつけかと思った――が、次第にそれは異常じゃなくて異変だということに気付く。こちらに向かう歩幅は小さく、歩行者とボコボコ肩をぶつけては大きくよろめいていた。


 僕は早歩きになり――いつしか駆けだしていた。


「レイカ!?」


 僕はレイカの返事を聞かず、真っ先に彼女の額に手を当てる。


 レイカは目をすうっと薄めると、気持ちよさそうな表情を浮かべる。そんな顔をするのも当然だ、レイカの額が持つ熱は病人のそれだった。


「諭史、あのね……」


 レイカは言おうとして激しくせき込んだ、声もかすれて上手く喋れていない。


「レイカ!? なんでこんな熱で出てきたんだ」


 僕はレイカの肩を押し、近くにあったビルの階段に座らせる。

 ――記憶の中のレイカと、ここにいるレイカに妙な既視感を覚えた。


「今日は中止にしよう、帰ろうレイカ」


「ダメ」


 病弱のくせに、どうでもいい無理をしてしまう、昔のレイカだった。


「ダメじゃない、帰らないと」


 僕はできるだけ優しい声を出して、言い聞かせるようにレイカの背中をさする。


「嫌だ、嫌だよ……!」


 レイカは暴れて僕の手を振り払おうとするが、体に力が入っておらず、それも失敗する。


「ワガママ言わないで」


「言うよ! だって、今日は私の誕生日、なんだよ……?」


「もちろん、知ってるよ」


 レイカは捨て鉢になったように体をだらりとさせ、僕の手から逃れようと壁に体を預けている。こちらに寄越す視線には涙が溜まり、懇願するような、怒りを据えたような、そんな複数の感情が同居していた。


「こんな万全じゃない日は家で休んでていいんだ、もちろん埋め合わせもする、だから……」


「そんなこと言って! 勝手に家から出て行ったのは諭史じゃん! 帰ってくるか、わからないし、不安にさせたのは、諭史じゃんかぁ……」


 レイカは自分の肩を抱き、体を震わせる。


「諭史が来るって言ったら、私が行かないわけないじゃん……だってここで私が行かなかったら、もう諭史が二度と戻って来ないかもしんない、じゃん」


 力のないレイカの目から一筋、涙が零れる。


「それでなくても私、後悔した。諭史にひねくれたこと言った」


 それは――きっと僕たちの仲直りに必要な言葉だった。


「でも諭史ならきっと、それでも愛想つかさず、側にいてくれるって思ってた」


 なにもいまこの時に……そう思ったが、それを止めさせるのも違う気がした。


 レイカにとってはきっと、それはいま伝えなければいけない言葉だったんだ。だとしたら、どんな状況下でも僕が後回しにさせる権利はない。レイカを尊重するのなら、いまレイカの言葉を聞かなければいけない。


 ……やっぱりレイカだってそうだった。

 僕との、関係を良くすることを望んでくれている。


 レイカは僕の期待に応えてくれた。


 僕たちが冷たい過去を終えて、新しく対等な関係であるために。レイカと本当の意味で仲直りをするために。


 でも、それはレイカに昔の自分が間違ってました、と謝らせたいわけじゃない。


 冷静になって、歩み寄ってもらって、また僕たちと交流したいって意思を、少しだけでも覗かせてくれたらいいんだ。


 そうすれば、僕たちはきっと……


「私がひどいことを言ったせいで、諭史はいなくなっちゃった」


 体調を崩しているせいか、言葉尻にいつもの覇気はない。

 むしろ、どこか甘えた風でさえあった。


「……ごめん。あの時は僕も頭に血が上ってた。頭を冷やす必要があったんだ、こうしてレイカと仲直りするために」


「そうだよね、私も気づかなきゃいけなかったもんね……」


 レイカは正しく、認識してくれていた。

 僕のしたことに対して、レイカはしっかり理解してくれていた。


「だから私、思い出したんだ……」


「うん」


「私、一人で生きていけないんだって。一人じゃなにも見つけられなくて、不安に押し潰される。そんな人間だったんだって」


 ……?


「諭史、お願い……」


 レイカは額に、頬に汗をかきながら、熱に浮かされながら、僕の手を握り、息も絶え絶えに言う。


 レイカはしっかり考えてきてくれた。僕たちの正しい仲直りのための言葉を。

 未来につながる言葉を発してくれれば形はなんでもいい。


 だから僕達はきっと……



「どこにも、行かないで」



 レイカは声を震わせ、僕の胸に顔を預け、そう告げた。

 胸元から僕を見上げる姿は、幼馴染に対するそれじゃなかった。


「私、諭史がいないと、アネキがいないと、ダメだった……」


 いつも自身に溢れているレイカが、ふざけているわけでもない。


「自分から一人で歩いていこうとしたのが間違いだった。私は一人で歩いて行けるほど、立派な人間じゃなかった」


 ましてや気兼ねのない関係で笑いあう友人の姿でもない。


「だから諭史に手を引いてもらわなきゃいけなかった。馬鹿正直にアネキのいうことだけ、聞いておけばよかったんだ」


 かと言って恋人の妹という、近いようで近くない関係でももちろんない。


「私は……私が思ってるほど、すごい人間じゃなかった……」


 小さかった頃、僕の後を妄信してついてきたあの時の姿でもない。


「この世界、この時代、この国に私が生きるには、寒すぎたの……」


 そう、この関係に名前を付けるのだとしたら。


「だから諭史、お願い……」


 ……


 レイカはそのまま顔を俯かせ、ぐったりしてしまう。

 遠目で見守っていた野次馬も、ただの痴話喧嘩ではないと悟り、声をかけてくる。


 ――遠くで救急車のサイレンが聞こえてきた。


 その言葉はどのような気持ちから出てきたのだろうか?


 仲のいい同居人に向けて放った言葉だろうか。


 それとも気兼ねなく頼れる友達にする、単なるお願いだろうか。


 迷惑をかけてもかけられても気にしない、長年連れ添った幼馴染に対するワガママだろうか。


 ……いや、どれとも当てはまらない。


 いまの言葉は僕と、また繋がりたいって意思表示だった。


 それは僕の求める、一つの答えだったはずだ。


 だけど、なんだろう、この不安な感じは。


 僕たちは仲直りをできたはずなのに。

 致命的に失敗してしまったような、この感覚は……


---


「ん……」


 病院に搬送され静かな寝息を立てていたレイカが、数時間ぶりに瞼を開いた。


「レイカ?」


「さ……とし……?」


 レイカがごそごそと布団の中で動き、点滴を打たれてないほうの手を中空に向けて差し出す。


 僕はその手を握って「休めて」の意味も含めて、ベッドの上に手を下ろす。


 レイカは不思議そうな顔で、僕の顔をずっと凝視していた。僕がそこから逃げ出さないように、縛り付けるかのように。


 そこにあるのは信頼でも愛情でも期待でもなかった。

 その中の一つじゃない、言ってしまえばそのすべてあるとも言えた。


「諭史、ずっと居てくれたの?」


「うん」


 僕は軽く笑顔を作り、出来るだけ安心してもらえるよう笑って見せた。レイカはなにも言わず、握っている手のひらに込める力の変化で応える。


 ……僕は自信がなかった。

 レイカと正しく接する自信が。


 果たして僕がレイカの望む相手でいてやれているのか。そして僕自身がいま相手にしているのは、望んだレイカの姿だったのか。そしてレイカと望んだ関係に落ち着けたのか。そのすべてに自信がなかった。



 救急車に乗ってからのレイカは大人しかった。

 いや、体調のことを考えればそれが普通の状態であることは当然だった。


 体温計は三十九度五分という数値を無機質な音と共に告げ、救急隊員になぜこんな状態で外を連れ回していたのだと怒られた。


 その怒られる言葉が気持ちよかった。

 こんな状態まで無理をさせてしまった僕を、代わりに叱ってくれているようで。


 あとはただの付添人として病院に着き、レイカへの診察を他人事のように眺めていた。


 それから僕はあてがわれた病室で、レイカが寝息を立てるまで側で見守り、目を覚ますまでレイカの側にただ座っていた。


 ……ふと、華暖のことを思い出した。僕の事故に遭った時、側にいてくれた華暖も同じような気持ちだったのだろうか。音声のない映写機が映し出すフィルムを、無感情で眺めるような心持ちだったりしたのだろうか。


 いや、華暖はそんな薄情な女の子ではないだろう。相手のことを慮る彼女と、自分のことしか考えていない僕とを比べること自体が間違いだ。


「諭史?」


 長く黙っていた僕を伺い、レイカが声をかける。


「ごめん、レイカ。僕が勝手なことをしたばかりに、レイカに無理をさせて」


 言葉は謝罪の形をとっているが、どれだけ僕の気持ちが乗ったかどうか、わからなかった。


「私のこと、キライになった?」


「え?」


「諭史、私のこと、怒ってない? キライになってない?」


 なにを……言ってるんだ?


「……嫌いに、なってないよ。レイカを嫌いになんてなるわけないだろ?」


 浮ついた言葉を吐き出す、僕自身に肌が粟立つ。

 相手に優しくしている、と自分を自惚れさせるだけの言葉。


「もう、どこにも行かない?」


「もちろん、落ち着いたら早く家に帰ろう」


「へへ、やたっ」


 レイカが子供のように微笑む。いや”子供のよう”なんかじゃない。


 そのものだった。


「また一緒にヒヨコラーメン食べてくれる?」


「いいけど、ヒヨコばっかりじゃ体に良くないからね。僕がレイカの好物を作ってあげるから、そっちを食べること」


「……はぁい」


 レイカはさっきから握った手を揉んだり、ぷらぷらさせたりして遊んでいる。


 窓からベッドの上には西日が差し込み、昼間からあった搬送劇がこれで終幕であることを告げていた。


 そのカーテンコールから現れたのは、いくらか幼くなったヒロインと、力無い目をした自分自身。


 自分の体がまるで宙に浮いているようだった。それこそ自分が演劇かなにかの役割を、あてがわれているようにしか感じられなかった。


 僕にはなにか伝えたいこと、やりたいことがあったのではないか。けれど、その相手はどこか遠くに行ってしまった。


 僕の望みは、レイカの無邪気な笑顔に溶けて消えてしまった。


「ねぇ、諭史」


 いつもの声音でレイカが天井に声をかける。

 その双眸に覗く光は、逃げることからも諦めたような、そんな虚ろな光だった。


「私、中学卒業してからどうしてたと思う?」


「どう……って、中退した後はバイトをしてたんじゃないの?」


「ううん、違うの。バイトを始めたのは一年くらい前から」


 バイトを始めたのは一年前? おかしいじゃないか、そんなの。


 レイカが中退したのは一年になってすぐのことだ。だったらその後の一年間はどう過ごしてきたっていうんだ?


 レイカはその時になって、初めて体を起こした。僕は背中を支えようと手を伸ばしたが「大丈夫だから」と制されてしまう。


「私、学校やめたあと、なにもしてなかった。なにもせずボーっとしてたの」


「なにも、せず?」


「うん、本当にな~んにも、してなかったの。私が二ヶ月で高校をやめて、一年くらい、ずっとね」


 レイカは背中を丸め、天井を見上げる。

 まるで、そこに届かない一番星でも見つけたかのような面持ちで。


「毎日、国道沿いのベンチで車が流れていくのを見てたんだ」


「……どうして?」


「……なんでだろうね」


 レイカはゆったりとした動作で、自分のしていたことに首を傾げ、やつれた顔で笑って見せる。


「諭史とアネキと、疎遠になってから、私は毎日制服で出かけて高校に行かず、ベンチから車の流れだけを見てた」


 いままで誰にも言って来なかった、空白の時間。


「通り過ぎるバイク、スポーツカー、トラック、買い物に行く主婦に、学校帰り小学生、時たま通る会社員に、声をかけてくるチャラいお兄さん」


 それは誰かに告げることでなにも得られない。


「近くで通報されたのか、警察官に話しかけられることもあった。一通り話をしたら満足したのか開放してくれた」

 

 得られるのはレイカが誰かに聞いてほしかった、という気持ちの消化だけ。


「そりゃそうだよね、お父さんもお母さんも国内にいないんだもん」


 ……でも、いまはそれだけでも十分だと、思った。


「だから私は今度は公園とか、落ち着いたところで時間をつぶし始めた。小さい頃に諭史といった森とか、線路沿いとかで電車を眺めてたりする時もあったよ」


 それでレイカの気持ちが、いくらか晴れるのであれば、僕はそれを聞いてあげたい。


「私はね、諭史。一人ではやりたいことがなにも見つけられなかったの」


「やりたい、こと?」


「ちょうど中三だったかな、進路の話になるじゃん?」


「うん」


「その前の年はさ、みんな将来なんて知ったことかって、進路調査を空白で提出して、その呼び出しもみんなで無視してた」


 当時の友達のことだろう。遠目にそういったことを楽しんでいそうな人たちだった。


「だけど三年になったら、みんな違った」


 他人事のように自分を語り続けるレイカ。


「みんな真面目に高校行くとか、専門行くとか、大工になるとか、大真面目に言っちゃっててさ、別人かと思った」


 普通はそうだろう。

 誰それと同じ高校に行くとか、そういう話で盛り上がるはずだ。


「でも、私は興味が持てなかった」


 レイカの顔から覇気が消える。


「中学まではさ、諭史とアネキが引っ張ってきてくれた」


 僕は少しずつ気づき始めていた。


「私は自分の将来を選んだことがないんだ。……そしてそのまま選ぶことができないまま、間に合わせで高校に行った」


 それは楽しかった日常が崩れていくようだった。


「現実感のない高校生活、いままでと全く知らない人たち。ここには自分の意志で来たって気持ちも湧かず、その決断をしたのが自分だということの意味が分からなかった」


 その幼少期が間違いだったと告げられるようだった。


「なんか自分が幽霊みたいだった。そんな幽霊が決めた場所なんて、ただ気持ち悪いだけだった」


 僕たちが良かれと思って、したことがすべて裏目に出ていた。


「だから行かなくなって、辞めちゃった」


 レイカはそれだけで語り終えてしまった。


 五年間を。


 こんなにもあっさりと。


 現実感の得られなかった、現実を。


「ね、だから諭史お願い。昔みたいに私のしなければいけないこと、決めてよ」


 レイカは握った手に、弱々しい力を込める。


「アネキでもいい、誰でもいい。私が選ぶことは全部間違いだから。決められたものじゃないと自信持てないから」


 片方の手で自分の顔を隠し、絶望に震えながら。


「私を、見捨てないで……」


 レイカは独白を終えると、握った手を僕の体に引き寄せ、僕の胸元に顔を寄せた。


 一筋の涙が、大粒の涙に変わる前に。



 僕は胸に縋りつくレイカに、軽く肩を抱いてやることしかできなかった。


 引き寄せて力いっぱい抱きしめてやりたい気持ちもあった。


 だけど、それはできなかった。


 それはあまりに無責任で、偽善が過ぎる行為だったから。



 僕はいま起こっている状況を他人事にしか感じられない。


 認めたくない、認められない。


 けど、一つだけわかったことがある。



 ――僕はレイカと仲直りできなかったんだ。



 だって僕がケンカにしたかった話は完結してしまった。


 物を決められない自分が悪かった、と。


 自分一人では歩いてはいけなかった、と。



 レイカはいまも昔も変わっていない。


 本当に変わっていなかった。


 彼女は僕たちと決別したあの日から、経験を、成長を、人格を、獲得できていなかった。


 僕たちの関係は五年前からやり直すことはできなかった。


 僕たちがやり直すのはそのもっと前。


 初めて出会った、十年前からのやり直しになるんだ。

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