1-8 深夜の病院
金縛りにあったことがある?
あれってすっごく、しんどいよね。
意識があるのに体が動かせない。
そしてなにより動きたいと思っているのに敵わない。
ヒト科に属するチンパンジーは好奇心が旺盛で、檻に何日も入れて好奇心を封じ込めると、ストレスで死んでしまうらしい。
僕たちは金縛りで死ぬことはないけれども、あの動きたくても動けない状態は言葉にできないツラさがある。
というのも、いま僕はとてつもない全身の重さで、それを感じているからであって……
かろうじてまぶたを少し開くと、そこには制服姿のギャル、もとい華暖が俯いて丸椅子に腰かけていた。
部屋は薄暗かったが、月明かりでここが病室の中だということが伺える。
ん……? そもそも僕はなぜここにいて、華暖がすぐそこに座っているんだ?
少し思考をめぐらすと段々と意識が落ちる前の光景が思い出され……僕はなんとしても目覚めなければいけないことに気づく。
そして、無理やり手足を動かそうとし……
「いったぁぁぁぁ~!?」
「いやあぁぁぁ~~!!??」
僕が絶叫し、それに驚き、華暖が素っ頓狂な声をあげる。
「びっくりしたぁ……って、トッシ~、目が覚めた!?」
「あ、ああ、おはよ華暖、じゃなくて全身が! 全身が痛い! 痛いって!」
「あ、あわわ……そうだ、ナ~スコ~ル! ナ~スコ~ル!!」
華暖はベッドの横にあるナースコールのボタンを押さず、テンパりすぎて「ナ~スコ~ル~!?」とひたすら叫んでいる。
その後、騒ぎで駆け付けた巡回中の看護婦がナースコールを押し、駆けつけた医者に鎮痛剤を打ってもらった。
そして当たり前のように「病院では静かにしなさい」と怒られた。
仕方ない、痛いものは痛いんだから。
医者が言うには車との接触で右肩の骨にヒビ、頭部の打撲で七針。
それ以外の外傷はなく、長期入院の必要はなし。
明日の脳波検査が問題なければすぐにでも退院できる、そういうことだった。
そして医者の説明を一通り聞き、病室を立ち去った後――
「トッシ~、いまは痛くない……?」
華暖はしゃがれた声で、弱々しく口を開く。
いつもの快活さはそこにはなく、目元が少し汚れているように見えた。
「…………華暖は、ケガしなかった?」
「バカ、質問に質問で返さないで」
「ケガ、しなかった?」
言うことを無視して、強めに聞く。
「……投げ出された時に、ちょっとヒザを擦りむいた」
「見せて」
「レディ~に足見せろなんて、言うな」
「見せて」
華暖は丸椅子に足を立て、自分の膝小僧を見せる。
「ハイ……ほら、大したことないでしょ?」
「……痛かったよね、ごめん」
華暖は一瞬だけ顔を歪ませた後、俯いて言った。
「……バカ、こんなんで謝られたら、アタシどんだけトッシ~に謝んなきゃいけないのよ」
「えっと、ごめん……?」
「だから、なんでもかんでも謝るなっ」
声を震わされ、僕はなにも言えなくなる。
一対のベッドだけがある薄暗い病室。遠くで走る車の排気音が遠吠えのように響き、壁掛け時計の秒針もしきりに存在を主張する。
時刻は二時半を表示させていた。事故に遭ってから四、五時間くらい経っていた。
華暖の方を見る。
暗い病室の中では賑やかな髪色も、沈んだ水色に変わり、堪えるような息遣いが微かに聞こえた。
……なにか、気の効いたこと言わないと。
この沈黙は、辛い。
だけどなに一つ言葉は浮かんでこなかった。
なぜ? だって華暖相手にそんなこと考えたこと、なかったから。いつでも自然に、思いついたことだけ喋っていたのだから。
そんな反芻も暗闇に溶け、先に沈黙を破ったのは華暖だった。
「……ごめん、トッシ~が注意してくれたのに、アタシ、取り合わなくて、それでケガまでさせて」
「……」
「ホント、ゴメン」
「……ははっ」
僕は笑ってしまった。
「なに、笑ってんのよぅ……」
「や、ごめん。華暖が謝るなって言ったのに、今度は華暖が謝り出したのが、なんかおかしくて」
「だって、アタシが謝るのは……」
「……もう、やめない? 華暖が助かってくれてよかった。僕も死にそうにはなってない。もうそれでいいんじゃないかな」
「わかんないわよ、明日脳波見るって言ってたじゃん。もしそれに異常なんかあったら、アタシ……」
「大丈夫だから」
華暖はそれでもなにか言いたそうに視線を彷徨わせる。
「こんな時間まで診ててくれて、ありがとう。ケガ、良くするからさ、華暖もそんな気にしないでよ」
「……うん、なんかゴメン。アタシ、こんなんじゃ、いけないのに」
「そんなことない、僕らがちゃんと生きてて万々歳だ」
言って僕はバンザイのポーズをしようとした。
「痛てて……」
「バッカ、大人しくして」
「……うん」
そう言って僕らは笑った。
華暖は僕が病院に運び込まれて手術が終わった後、家にも帰らないでずっと側にいてくれたようだ。
近くで見てた人が救急車を呼んでくれたらしいが、脳震盪を起こしていたせいで、車道に飛び出した後の記憶はない。
そして今日は親御さんに連絡して、帰らないと言ってあるらしい(そこまでしなくても……)
「こんな時間まで、ありがと」
「ほっといて帰れるわけないでしょ?」
「それでもだよ。ただのクラスメートじゃないか」
「ただのクラスメートに、命張っといてよく言うわね」
「華暖はただのクラスメートって思ってるかもしれないけど、僕は、普通の友達以上には仲のいい関係だと思ってたから」
「……じゃあ聞くけどさ、アタシのことを”普通の友達以上”だって言ってくれてるのに、アタシがトッシ~を”ただのクラスメート”としか思ってないって、そう思うの?」
「それは……」
「そ~だよね? じゃあ帰ることなんて、できないっての」
「……ありがとう」
「バァカ、なんでトッシ~が礼言うの。……助けてくれて、ありがと」
そういって華暖は、僕の手を軽く握った。
「……華暖の手、やわこい」
「…………でしょ? こんなの今日だけだかんね」
なにが楽しいのか、しばらく華暖は僕の手で動かして遊んでいた。
僕は振りほどくこともできず、けど握り返すのもしのびなく、されるがままにされていた。
---
それから僕らはしばらくの間、他愛もない話を交わした。
いつもよりは落ち着いた気持ちで、どこか優しい雰囲気を纏いながら。
「華暖、もう眠いだろ。そっちのベッド使っていいんだからね?」
言って僕は視線で隣にある、空のベッドを指す。
「……そぉだけど、なんかさすがに眼が冴えちゃって。あんま眠くないかな。トッシ~はもうねむい?」
「僕もあんまし」
「じゃあアタシも」
「……気を遣わなくて、いいからね?」
「遣ってないし?」
わざとらしく、そっぽを向く華暖。
透けて見えたウソでも譲らない。
……いや、わざと透かしてみせてるのかもしれないけど。
「なら、いいけど。でも、もうする話もなくなってきたけどね」
それを聞いて、華暖は口端を吊り上げた。
「じゃあさ、ユ~カさんのこと聞いてもいい?」
……優佳、か。
なんだろう、少し不思議な気分だった。
いまこうして華暖にその名前を出されても動揺しなかった。
先ほどの事故で感覚が麻痺したのか、それともある程度時間が経ったからなのか。
だから、次に出てくる言葉もスムーズだった。
「そうだね。僕も本当は誰かに聞いて欲しかったのかもしれない」
「……うんうん! オネエサンになんでも話してごらんよ」
お姉さん、か。
優佳がふざけて年上ぶる時によく言ってた口癖だ、少し懐かしい。
「ちょっとはヤジウマ根性隠してよ」
「女のコはそ~ゆ~話が好きに決まってんの、ほらほら早く早く!」
「わかったから、もうちょっと静かにして」
明るくしてくれるから扱いに困ってる話題でも、他愛ない話として切り出せる。
華暖といるとそういう重苦しさ、悩みを吹っ飛ばしてくれる力がある。
だから僕も話をすることで、この話題が軽くなってくれることを願う。
もちろん話をしてしまうことで、知らず知らずのうちにまた鬱屈した気持ちに戻ってしまうかもしれない。
けど僕は華暖に話すことに賭けた。だってネガティブな感情でいる僕よりは”普通の友達以上”のほうが信用できたから。
こんな気持ちで自分のことを話すなんて初めてかもしれない。
それにいまの華暖はふざけたりしない、きっと真面目に相談に乗ってくれる――
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「なにそれ、ケーサツ行けば。ケーサツ」
前言撤回。
「それ完全に逃げられてんじゃん! てかマジかぁ~! ユ~カさんもやるときゃやるぅ!」
「……少しは怒ってくれたり、同情してくれたりしてもいいんじゃない!?」
「トッシ~も女に逃げられたりするんだねぇ……なにしたの? 浮気? ディーブイ? 赤ちゃんプレイ?」
「違うわ! 華暖、僕のことをなんだと思ってるの?」
「ん~ダメ男?」
「ぐっ……!」
否定はできないのが、悔しいっ……!
話して吹っ飛んだのは重苦しさだけだった。さっきまでの華暖に抱いていた信頼を返してくれ。
「でもさぁ? フツ~に考えたら、ユ~カさんがトッシ~のこと捨てて夜逃げなんてしないよね」
「最初からそういう意見を言ってくれる?」
……ようやくまともな対話路線に移行してくれるようだ。
「当たり前でしょ? アタシもユ~カさんとはちょいちょい話したことあるし。
ってかトッシ~はもっと一緒にいるんだからさ、もすこし信じてあげたら?」
「それはそうなんだけど……さすがに少しは自信、なくなるよ」
自分で口にしたことに驚いた。
レイカの前ではあれだけ帰ってくると突っ張っていたのに、いまの僕は弱音を吐いた。
「な~んか意外だなぁ、トッシ~はもっと盲目的にユ~カさんを信じてると思ってた」
「盲目的に信じてたさ、だからこんなこと想像してなかった」
「……そっか。人生、なにがあるかわかんないね~」
「他人事だなぁ」
「なあんてこと言うの、アタシとトッシ~の仲じゃない。……それに大きな借りが出来ちゃったし? アタシもちょっと探してみるよ」
「ほんと! ……でもどうやって?」
「ん~? とりまオナチュ~の知り合いに片っ端から聞いてみる」
「ああ、他校に知り合いは多くないから、すごい助かる」
「ふふ~ん、頼れ頼れ、そして褒めろぉ」
華暖は大きい胸を張ってご満悦の様子だ。
そうだ。なにも一人で探さなければいけないわけじゃない。
手がかりはゼロに近い。けれど簡単に諦められるわけがない。
僕はもう一度優佳と会って話がしたい。
もし、その結果が僕と一緒にいられないことになったとしても、それでも僕にだって知る権利、いや踏み込む権利がある……!
俄然、気持ちが前に出た。退院したら本気で動いて優佳をあっという間に見つけてやろう。
「あとさ~、もしユ~カさん見つかんなかったらさ、アタシと付き合わない?」
「いまはそれどころじゃない、その話はまた今度にして」
「そっかぁ、じゃ落ち着いてアタシでもいいかなって思ったら返事聞かせてよ」
「いいよ。いつになるか分からないけど……って、ちょっと待て。いまなんか大事なこと言わなかった?」
なんかさらりと、とんでもないことを言われたような気がするんだけど……
「だからお付き合いしませんか~って。アタシのカレピッピになるって話~」
「いやいや、急すぎるって……僕、優佳と付き合ってるし」
「話聞いてたのぉ? もし、ユ~カさんとダメだったらって……ハナシ」
声の調子が少しずつ落ちていく。今更ながら華暖の顔を見ると、視線を斜向かいに飛ばし、両膝の上で拳を作っていた。
「それは……あまり考えたくないけど」
少しずつ、言葉から中身がなくなって、口の中が渇いていた。
「そう、だからあくまでもイフの話」
視線を落として、華暖が先を続ける。
「……でも、なんで急に?」
「急にでもない、よ? もともといいな~なんて、思ってたけど」
そこで華暖は一息ついて。
「冴えない顔して、キレイな彼女作るし? 仕事はソツナクこなすし? マジメな時は、まあ見れなくない顔だし?」
探し物をするように、華暖の視線は足元をうろうろする。
「ま、そんな感じ?」
そう言ってはにかんで視線を上げた華暖は”普通の友達以上”っぽくない微笑みを見せた。
……華暖のことを、僕はどう思ってるんだろう。思えばそこまで真剣に考えたことがなかった。
初めて会った時の先入観からか”違う世界の人だ”って思っていたのもあり、そう深く関わることもないって決めつけていたのが大きいかもしれない。
つっけんどんな物言いが気になることもあるけど、それは素の自分を隠さないという美点でもあるし、実際はこうやって泊まり込みで看病もしてくれる。
だから、もし優佳と付き合ってなかったら……気持ちが揺れないでもない。
でも、それ以上でも、それ以下でもないんだ。
「ごめん、華暖。それは……」
「ああ、いいって。いまはなんも言わないで、フられんのわかってるから」
そういって慌てて僕の答えをストップさせる。
「アタシさ、そういうの抜きでユ~カさんは全力で探す。でもそれでも……さっきのこと覚えておいてくれると、うれしい……かも」
「……うん」
視線をわずかに外した華暖は、しおらしいような、不貞腐れたような、不器用な子供みたいな表情をしていた。
……う~ん、なんか変な空気になってしまった。
と、そこで僕は自分の荷物が手元にないことに気付いた。
「そういえば華暖、僕のバッグってあれからどこに行った?」
「あ~、それなら……」
華暖は立ち上がり、部屋の隅にあったバッグを掴んでこっちに持ってくる。
受け取ったバッグには幸い汚れとか、傷はついてなかった。
「ハイ。トッシ~事故ってからスマホも触ってないよね。案外、ユ~カさんからLINE来てたりするかもよ?」
「だったら、苦労しないんだけどね……」
言いながらその可能性に少しだけ期待する。
そう思いながらスマホ触ったけど、反応なし。
……電池切れか。
「駄目だ、充電切れちゃってる。華暖、充電器持ってない?」
「そんな気の利いたもの持ってるワケないでしょ~?」
「じゃ明日まで確認できないか、仕方ない家に帰ってから……」
……帰る?
……どこに?
……いや、誰のところに?
僕、レイカに連絡したか……?
…………マズくないか?
「あのさ、華暖?」
「ん~?」
「レイカの連絡先知ってる?」
「レ~カ?」
不思議そうに首を傾げて聞いてくる。
「そうだよ、縁藤レイカ。優佳の妹の! 前に夕霞中で同じクラスだったって言ってただろ?」
「ああ、いちおう? ってかよく覚えてたね」
「そのレイカに連絡を取りたいんだ。電話できる?」
「……はいよ~」
少しめんどくさそうにスマホを耳に当てる華暖。
華暖には先ほど優佳の話をした時に、縁藤家の実家に仮住まいしているという話をした。
「あ、もしも~し? あんね、ちょっと話したい人がいるって言うから変わるね?」
それだけ言って、僕は電話を受け取る。
「もしもし……レイカ?」
「……あれ、諭史?」
少し空白の間があった後。
「なんで、佳川の電話に、この時間に、諭史が出るのォ……?」
なんかめちゃくちゃ怒ってる~~!?
「あ、ごめんねレイカ……電池切れちゃっててさ?」
「じゃなくって、どうして佳河といま一緒にいるの?」
「それは……」
と、そこで僕はようやくレイカがどうして怒っているかに気が付いた。
そりゃ、そうだろう。こんな深夜に男女が一緒にいて、電話を渡せる状態って。
「違う、そうじゃない! 僕はいま病院にいて……」
「……病院?」
「うん、隣駅の総合病院」
「……なんで?」
一息おいて、声のトーンが落ちる。
「事故にあって、入院してる」
「え?」
「ごめん、だから連絡できなかった」
「……」
と、華暖がスマホをひったくり耳に押し当てる。
「レ~カ? 久しぶり」
僕の方に手の平を見せて制止の合図をする。
「アタシの不注意で車に惹かれそうになったところをトッシ~が……うん、大丈夫。明日には退院は出来そうだって。骨も大丈夫。……変わるね?」
そういって華暖は再び僕にスマホを向ける。
「……ありがとう」
「だから、トッシ~が礼を言うことじゃ、ないっての」
スマホを受け取り、耳に当てる。
「レイカ? ごめん、だから連絡できなかったのは僕のせいだ」
「……私、自分を大事にしてって言ったばかりだよね?」
「うん、ごめん」
「馬鹿」
「ごめん」
「朝、病院行くから」
「学校は?」
「そんなの、どうでもいいでしょ」
「……ハイ」
淡々と感情の見えないやり取りが続く。
……いや、違う。この時間にレイカがすぐに電話に出た、それが一番レイカの心情をあらわしている。
「心配かけて、ごめん」
「うん、いいよ……良くないけど」
「はは、次からは気を付ける」
「……次はないよ?」
「うん。じゃぁ、おやすみ」
通話を終え、スマホを返す。
華暖は受け取ったスマホをしばらく眺めていたが、ひとつ大きい溜息をした後。
「も、寝よっか」
「……うん、おやすみ」
その一言が契機になって、華暖はもう片方のベッドに入る。
お互いが黙ってしまうと先ほどの暖かい空気も、暗く無機質な天井に吸い込まれて行った。先ほどまで冴えていた頭も、自然と暗闇に溶けていき、意識する暇もなく眠りに落ちていった。
「そっか、トッシ~知らないんだ……」
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