第一話 ブラジャーに関する一考察 3 

 その日、学校であった出来事といえばそのくらいだ。

夕方、瀧は宮水家に帰り、炊事当番だったので夕食を作った。


トマトがしなびかけていたので皮をむいて鶏肉のトマト煮にした。

つけあわせはエンドウ豆とほうれん草のソテー。白菜のコンソメスープ。


バイト先でシェフが作っている料理を見よう見まねで簡略化したものだ。

この家は、近所の農家の人がふらっとやって来て縁側に野菜を置いていったりするので、キャベツやら白菜やらには困らない。


夕食はこれに加えて常備菜のひじきの煮物ときんぴらと飯。

四葉が「みすまっちやよー」と言っていたが、瀧はさらりと無視した。


 風呂には入らず(入れない)、制服を脱いできちんとハンガーにかけ、スカートにはブラシをかけた。

洗濯から戻ってきた白いシャツがあったので、アイロンをかけておいた。

それからパジャマに着替え、一日のしめくくりにひとしきり身体を触ろうと思ったが報復が恐いので我慢し、床についた。


 横になってみると、あっという間に眠りの渦に引きずり込まれた。




 次に《入れ替わり》が起こったのは、週末をはさんだ三日後だった。

まどろみの心地よさを味わう間もなく、リマインダーアプリのアラーム音でたたき起こされた。


〈ちょっと! 私がしそうもないことしないでって言ってるでしょう!? リクエストとかされて超ウザいんですけど!〉


 瀧が携帯をつかんだとたん、画面にそう表示された。


 禁止事項リストに、新たな一行が加わっていた。


〈マイケル禁止〉


 字面だけだと、意味不明すぎて味わい深い。


 自分だって、俺の人間関係に変更を加えまくってるくせに、何いってんだ。奥寺先輩と勝手に仲良くなるんじゃねーよ。

瀧はアプリの末尾にそう書き加えておき、とりあえず胸を揉んでから、着替えていつも通り学校に向かった。


いつも通り、通学路の途中で早耶香と勅使河原が合流し、適当な日常会話をして、つじつまが合わなくなると若年性健忘症ということで押し通した。


 名取早耶香が気の毒そうに、大丈夫? と顔を覗き込んできたが、大丈夫か大丈夫でないかを言えば、たまに人格が入れ替わるという状況はぜんぜん大丈夫ではない。


しかしそれを言っても詮ないので、たぶん平気じゃないのかなぁ? というぼんやりした答えを返した。ますます心配されたかもしれない。


 授業もぼんやりと受けた。三葉に携帯メモで怒鳴られないことだけを目的として機械的にノートをとった。


 ぼうっと視線をさまよわせていて、壁に掲示された時間割表に目が留まったとき、瀧は思いきり身を乗り出してしまった。


(……体育?)


 何度見直しても、次の時間は体育と書いてある。


 机の横フックにひっかけたサイドバッグの中身を、こっそり確認してみる。三葉が昨晩準備したらしい鞄をそのまま持ってきたのだが、ジャージ素材の体操服の上下が入っていた。


〈女子更衣室に入ったりしたら、何らかの形で復讐するから〉


 たちまちそのフレーズが、脳裏に浮かんだ。


 女子更衣室に入ってみたいか入ってみたくないかといえば、ちょっとばかり入ってみたい気もするが、そういう気持ちはゼロではないのだが、しかしやっぱり入りたくない。

信義がどうこう以前に、大量の女子が事務的に服を脱いだり着たりしている場所に居合わせるというのは、状況として純粋に恐ろしすぎる。


 かといって……。

(男子更衣室に入っていって服を脱ぐわけにも……いかないんだろうな)


 あたりまえの話である。


 授業が終わると同時に、瀧はバッグを抱えて、急いで教室を出た。名取早耶香あたりに、女子更衣室に誘導されたら面倒なことになる。


 廊下を歩く。体操服を抱えて、なるべく人けのない場所を探した結果、校舎三階の端にある社会科準備室の前に行き着いた。


 中に人がいる気配はない。周辺に人が寄りつきそうな感じもしない。というか、この部屋から物品が出し入れされている様子がまったく感じられない。完全に物置と化している。

 この部屋が使えたら文句はないが、当然のことながら鍵がかかっている。


 瀧は上履きを片方脱ぎ、その上履きで、ドアノブを思いきりひっぱたいた。

ロックが外れる音がして、ノブを回してみると見事にドアが開いた。


昔の安いプッシュロック式ドアノブは、ゴム靴のようなもので強い衝撃を与えると、簡単に鍵が外れることを瀧は知っていた。テレビ番組の防犯特集で見て知ったのだ。そんなことを知らせていいのだろうか。


 体操服に着替えて社会科準備室を出た。後ろ手にそっとドアを閉めながら、瀧は深くため息をついた。これじゃまるっきり泥棒だ。


 体育の授業はバスケットボールだった。瀧の得意分野である。

背が足りなくて高校ではやめてしまったが、中学時代は少しばかり名のあるプレーヤーだったのだ。


 三本ほど立て続けにシュートを決めたあたりから、楽しくなってきた。手のひらにボールが貼り付いてくる感じが、懐かしくて嬉しい。


 この三葉の身体が、どこまで本気で操縦できるか、試してみたくなった。


 スリーポイントシュートをばんばん狙う。十通りくらいのフェイントを試す。

絶妙なポジショニングからリバウンドを取る。

調子に乗って、ジャグラーふうに背中からボールを回してゴールを狙う。


 ボールが籠を通る音を背中で聞いて、拳をつきあげる。


 愉快だ。


 思いきってふりまわしたおかげで、「この身体に慣れなくて窮屈だ」という感覚が、ほとんど解消されてきた。猛烈に汗をかいたことで、通気口のようなものがあいたような気がする。気持ちがいい。


 試合終了の笛が鳴り、顔の汗を二の腕でぬぐってコートから出た。隣のコートの周辺にいる男子連中が、ほぼ全員、瀧のほうを見ていた。


 サムアップしてみたのだが、


(──ん?)

 反応がうすい。


 早耶香が駆け寄ってきて、深刻な顔で「ちょっとちょっと」と体操服の袖口を引っ張ってきた。小声で何か話しかけてくる。


「あんた、何やっとるの」

「え?」

「何しとんの」

「何って?」

「……つけてないの?」

「はい?」

「みんな、凄い見とるって」


 事態に気づいて、瀧ははっと息を吞んだ。

そして自分でも驚いたのだが、ものすごく漫画のような反応をしてしまった。つまり、胸の位置を両腕でかばって、身体をツイストしたのである。


 それから、男子のいるほうにキッと顔を向け、拳をふりまわしてこう怒鳴った。


「こらーっ! 馬鹿どもーっ!!」




 次に入れ替わりが発生したとき、瀧を眠りから起こしたものは例によって携帯のアラームだった。


 顔をしかめて、這うようにして机までたどり着き、携帯をつかんでみると、絶叫じみた文面が目に飛び込んできた。


〈ちょっとおおおお!〉


 拡大文字だ。


 スクロールすると、こう続いていた。


〈ブラくらいちゃんとつけてよ! だけど女の子の下着をまじまじ見たりしたらそれは変態行為だから報復するから!〉


 どうしろというんだ。


 とりあえず胸を揉んでから、すてばちに寝間着を脱ぎ散らかした。

片頰をゆがめた顔で、おそるおそる簞笥の下のほうの引き出しを引いてみると、きれいにたたまれたブラジャーが整然としまい込まれていた。


仕方なく一枚取り出してみたのだが、そのとき瀧は、本当に嫌そうな顔をしていた。


 そもそも、なぜブラをつけていなかったのかといえば、つけかたがわからなかったからである。


 というより、つけかたをわかりたくない、という気持ちが根底にある。こういうものを、抵抗なくひょいひょい着用できるようになったら男子としておしまいではないのだろうか。何がしか、「自分の性別は男である」という基本的な自己認識が、根底から揺さぶられて、危機に陥りそうな気がするのだ。だが……。


(他人の身体を使って、馬鹿な男子どもをむやみに喜ばせるのも、釈然としないしな)


 自分も馬鹿な男子の一員であるという事実を、みごとに高い棚にほうり上げている。とりあえず瀧はブラの構造を調査することにした。


 三葉のブラは、案外派手だった。

瀧が取り出したものは、これはミントグリーンというのか、ポップな明るい緑色だ。


なぜだかわからないのだが、はっきりとした色がついていることにオソレをなしてしまう。

見えもしない場所に、何でまた、というのが、懐に隠してあった銃をつきつけられたような気分である。


 簞笥の引き出しに取り付き、他のブラを確かめてみたのだが、ほぼ全部キャンディカラーだった。

ふつうに白いものなどがぱっと見、みあたらない。たぶん、よく探せばあるはずだと瀧は思ったが、しかし探せない。整然と並べられてしまい込まれているものをガサガサ探したらそれだけで復讐されそうだ。

それに今手にしているものをきれいにたたんで元に戻すことがもはや不可能である。


 どうやら三葉は、はっきりとした色のついたポップな下着を好むようである。

そんなことがわかってもしょうがないが、とりあえずそういうことがわかった。

色のついた下着は安物というイメージが瀧にはあったが、これは素材は上質そうであり、作りもちゃちではないので、じつは案外高価なものなのかもしれない。


 カップ部分はかなり立体的に造形されている。

四角くたたんだりアイロンをかけたりはできそうにない。

とりあえず、四角くたたんだりアイロンをかけたりする必要がないという事実にほっとする。そんなことはなるべくしたくない瀧である。


 ブラ本体の外側に指で触れると、かなりしっかりしていて硬いが、内側はふよふよとやわらかい。

押してみるとかなりの厚みがあるのだが、それは胸の大きさのかさ上げを意図しているものではなく、カップの独特の形状を維持するためにこの厚さが必要なのだということがわかる。

しばらく、厚みを押したり離したりして感触を確かめる中で、その構造的必然性を理解したのだが、しかしこうやわらかいのでは、少なくとも心臓をナイフで一突きされたときに命を守ってくれそうにはない。


 じゃあなんでこんなものを身につけているんだよ。

意味がわからない。いや、意味はわかっているが、深くわかりたくない。


外周に少しだけあしらわれた硬質のレース飾りは、実にひかえめながら、たいそう品がよい。

コシがあってしなやかだが頑丈そうなワイヤーが入っていて、このあたりが、「そのへんのショッピングセンターのバーゲンで買ったようなものじゃないな」という判断の根拠となっている。


 と、そこまで考察を深めたところで、瀧は何かの気配を感じた。


勢いよく振り返ってみると、例によってふすまが十センチほど開いており、その向こうに四葉の顔があった。


ふすまの陰になってわかりにくいが、眉をたがいちがいにして、表情全体で「不審」の二文字を表現している。瀧の息が止まり、動きが固まった。


 じっとこちらを見ている。


 緊張感にみちた、無言の時間が、しばらくのあいだ流れ続けた。

その張り詰めた空気に堪えかねた瀧は、とっさにブラを目に当て「メガネ!」という一発ギャグをかましてしまった。


やってしまってから、われながらひどい、死にたい、と瀧が思ったそのとき、ふすまがすうと開いて四葉が部屋に入ってきた。

まっすぐ近づいてきたかと思うと、妹は声もなく瀧の(三葉の)額に手のひらをべちん、と叩きつけた。


「……熱はないみたいだけどね」


 四葉がきびすを返して立ち去ってしまうと、瀧は濁った感情を吐き出すように、深くため息をついた。

それから瀧は逃避しようとしてきた現実に対処することにした。

ようするに胴体に巻きつけてフックを留め、ストラップを背負って長さを調節すればいいんだろう。

わかってるよ。

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