第一話 ブラジャーに関する一考察 2 


 宮水みやみず三葉みつはの通う高校はやたら広い。


純粋に敷地面積が大きいことに加え、校舎が小ぶりで、施設も少ないので、ますますだだっ広く感じられる。おまけに周囲は丘だから荒涼感がある。


 通用口を入ると、靴箱の少なさに驚く。何といっても、一学年二クラスしかないのだ。


 教室に入っていくと、全クラスの半分くらいの人数がすでに来ていた。

女二人、男一人の三人組が、引き戸のそばの席に座っていたのだが、瀧が入ってきたときに一瞬こちらを見て、また視線を戻し、小声で何か喋ってくすくす笑いだした。


 嫌な感じだ。

たきはこの三人の名前を記憶していない。

ノートを開いて、手製のクラス名簿と人物相関図を調べればわかるのだが、そうする気も起きない。


 この三人はどうやらここではイケてるクラスタに入っているらしいのだが、瀧の目からみれば、ちっとも垢抜けていない。なのにどうして、洗練された人間のように振舞えるのか、ちょっと不思議だ。


 瀧が三葉の席に鞄を置いたタイミングで、この三人は、宙に向かって当てこすりを言い始めた。


「お嬢様やってさ」

「えー、なにー?」

「うちの隣のジジイがさぁ、どっかの宗教関係のおうちの子をさぁ、お嬢様お嬢様って呼んどるわけー」

 ──えー?

 ──ぷぷ、今どきお嬢様って。ださーっ。

 ──神社が名主扱いなのって、戦前までやよな。

 ──ちやほやされてカンチガイしとる人がおったりして。だってほら、人前でひらひら踊ってさあ、高いところで。

 ──タレント気取りってか。

 ──年寄りのアイドルなんやない?

 ──意味わかんない(笑)。


 名取なとり早耶香さやかの顔が、こわばっている。

瀧はまったくの無表情で、ラジオ番組でも聞き流すように聞いていた。どこに向かって話しているのでもないその大きな声の会話はまだ続いた。


 ──それにさあ、アレ。あのお祭りのやつ。

 ──ああ、アレね。

 ──お米を嚙んで、ベーッてやつ。

 ──キモ。


 いきりたって立ち上がろうとする勅使河原てしがわらの肩を、瀧は上から押さえた。

その義俠心はありがたいが、第三者がかばうと、かえって話がこじれる。


(やれやれまたか)

 瀧は内心、そうつぶやいた。


 ちょっと前にも、似たようなことがあった。懲りないやつらだ。

 瀧には意味がわからない部分もあるのだが、どうやらこれは全部、三葉のことらしいのだ。


 三葉はこの糸守の町民の大部分を氏子とする、歴史の古い神社の孫娘である。

祖母が宮司をやっていて、三葉と四葉が巫女をやっている。

巫女といっても、年末年始に社務所で破魔矢を売るといった程度のものではなく、もっと本格的な、祭礼などで重要な役をやらされる、フルコンタクトな宗教人だ。


宮水神社は、今は単なる地域の御鎮守様だが、昔は寺社領を擁する、ほとんど領主のような存在だったらしく、今でもかすかにそのなごりがある。おまけに三葉の父は糸守町の現職の町長だ。


 そういったわけで三葉は目立つ存在なのだが、そういうことが気に入らなくてしょうがないという連中が、こうしてここにいるわけだ。


 ──さて、気持ちよく喋っているところを恐縮だけどな。


 瀧は意識を戦闘モードに切り替える。

 あいにくだが、俺はこういうことを無視できるようにはできていないのだ。


 瀧はごくゆっくりした速度で歩いていった。女二人の背中がこちらを向いていた。その背中に近づいていき、左右の腕を広げ、女たちの二つの首を両脇でいきなり抱え込んだ。


 はたから見れば、女三人が仲良く肩を組んでいるように見えるポジションだが、実態としてはほとんど首を絞めているようなものだ。

「ちょっ……」とか何とか言ってじたばたしだしている女たちを無理やり押さえ込み、瀧は顔を彼女たちの両耳近くに持っていった。そして言った。


「オモシロいこと喋ってるじゃないか」


 目は対面にいる三人目の男を、まばたきもせず見据える。

腕から逃れようとして暴れている二人の女にもよく聞こえるように、ゆっくりした口調で、続きを言う。


「よく聞こえなかったから、もういっぺん言ってくれる? さあ、何がキモいのか教えてくれよ」


 女たちが黙った。男の目が泳ぎ始めた。


「さあ、言いな」


 三人は黙った。ああ、とか、うう、とかいったうめき声のほかには、意味のある言葉が口から出てくることはなかった。


「何もないのか? じゃあ、別の話を聞こうか。某だれそれではなくて名前のある話をしよう。どこの何という名前のお爺ちゃんが? どこの誰について? 何と言ったの?」


「いや……」男が言いよどむ。

「俺は……私は正確な話が聞きたい。だから、おまえたちが私に何を訊ねたいのかを聞いているだけだ」


「私たち別に」

「そう? 何も言ってないの。私に言いたいことは別にないの?」


 誰からも答えはなかった。


 瀧は、低い声で言った。

「じゃあ、最初から黙れよ」


 両手を離した。


 自分の席に戻るとき、クラス中の面々が押し黙ってこちらを見ているのに気づいた。瀧が手を二つ叩いて鋭く「はいおしまい」と言うと、そのとたんあちこちでため息が聞こえて空気が弛緩した。


 瀧は席に着き、指先でほっぺたを持ち上げるような形でほおづえをついた。そして、この身体の主のことを、宮水三葉のことを考えた。


 こういうあからさまな当てこすりが、日常的にあるらしい。そして、それに対して、宮水三葉は聞こえないふりをして、黙っていたようだ。


 どうしてそれがわかるかというと、陰口というのは、言い返してこない相手に対して浴びせられるものだ。

このように聞こえよがしに陰口を叩かれるということは、つまり三葉はこれまで何も言い返してこなかったのだ。


 意味がわからない。


 聞こえるように悪口を言われているのだから、捕まえて、おい、話をしようや、と凄めばそれで済むじゃないか。


 瀧はそういったことを考えて、不機嫌になった。三人組のいやがらせに対してではなく、我慢をしている宮水三葉に対して不機嫌になったのである。


 ふいに、右膝を早耶香にべちんと叩かれた。無意識のうちに、右足首を左膝に乗せて、仏像みたいに脚を組んで座っていたらしい。




(ほんとにかんべんしてほしいよな)


 不機嫌の残り滓を意識の端にこびりつかせたまま、瀧は、まったく使われていない教室が並んでいる一角の、ほとんど人が通らない階段の踊り場にいた。

そんなところにいた理由は、その区画の掃除当番だったからである。


瀧のほかには誰もいない。これは瀧以外の人々がさぼっているわけではない。そもそもこの学校は生徒数が少なく、校舎も小さいので、掃除当番は一名単位で各所に配置されるならわしらしい。


 ホウキを適当にふりまわしながら瀧は、


(扱い慣れない身体の中に入って、それだけでも窮屈なのに、ややこしい人間関係に直面したくねぇなあ……)

 そんなことを考えている。


 まったく面倒くさい。


 身体の操作が自由にならないところに、不愉快なことまで起こってほしくない。ストレスが倍になるのだ。せめてどっちか片方にしてくれ。


 三葉の腕は、微妙にリーチが短い。ペンなり何なり、物を手に取ろうとするときに、ちょっとした違和感が襲う。


 目指した位置に歩いていこうとするとき、目測した通りの歩数で到着しないことがあって、軽く違和感だ。


 その「ちょっとした違和感」がくせ者なのである。

少しの違いにすぎないから、油断しているときにそれが襲ってくる。神経に障る。大きく違っていたらこれほど苛つかないはずだ。大きな違いがあるのなら、意識がそれなりの覚悟をしてくれる。

 パワーが足りないことも、物足りない。


(けど、燃費はいいな)


 瀧は、本来の身体の中にいるときには、ほとんど飢餓感に近い空腹を覚えることがあるのだが、三葉はそうでもないようだ。


 それに、筋肉がやわらかいせいか、関節の可動域が広い。

 体重が軽いためだろう、機敏に動ける。

 動かし慣れたら、この身体は結構楽しいかもしれない。

 そういう、《一輪車に乗れるようになったら楽しいかも》的なことを瀧は考え始めた。


 ホウキを放り出し、指パッチンをしてみた。最初の二、三度はスカしたが、すぐに乾いたいい音が鳴り始める。


 指をぱっちんぱっちんいわせてリズムをとり、身体を揺らす。

 口の中でベースラインをさえずる。

 そして瀧は試しに、マイケル・ジャクソンの『スムーズ・クリミナル』のイントロを踊ってみた。


 ポーズをとって、静止。

 小刻みなステップを踏んで、静止。同時にフィンガークラップ。

 スピンして、静止。


 中学のとき、バスケ部の中だけで、マイケル・ジャクソンのダンスをコピーするのがなぜか異常に流行った時期があって、そのとき覚えたのだ。

動画サイトを参考にして、一番踊れるようになったやつが勝ちという、ゴールのない競争になっていた。瀧の元部活仲間は全員これができる。


 三葉の身体は瀧には軽すぎて、振り付けがブレる。思ったところでぴったり静止できなくて、もどかしい。

 ステップに失敗して、何度か足首をひねりそうになった。

 だが、膝はとびきりやわらかい。バネは弱いが、そのかわり瀧の身体では到底できそうにない複雑な表現ができる。


 だんだんこの身体の動かしかたがわかってきた。


 指で拳銃の形を作り、狙いをつける振り付けがあり……。

 そしてムーンウォーク。

 静止。


 踊ってみると、重心の高さや、手足の長さが把握できてきた。もう少し慣れれば、むやみに転ぶ心配はなくなりそうだ。三葉の身体に入った日には、体操がわりに毎朝踊ったほうがいいかもしれない。


 意識と運動神経がようやく接続された感じがしてきた。

 本気で動かしてみると、この身体は楽しい。とにかく柔軟なのがいい。おそらくヨガをやったら、びっくりするような姿勢がとれるはずだ。


 しばらく静止し続けてから、ふうと息を吐いて身体を弛緩させた。腕から力を抜いて、だらりと体側に落とした。すると、階段の上から、おおう、という声がした。

 

瀧が見上げると、女の子の三人組がこっちを見て、口を「ほー」の形にしたり、指先だけで音なしの拍手をしたりしていた。


 瀧から見ると、知らない顔だ。ということは同じクラスではない。隣のクラスか、下級生か。しかしだからといって知人でないということにはならない。どうやらこの学校では全員が顔見知りらしいのだ。


「えー、何それかっこいい」


 階段を降りてきながら、三人が話しかけてくる。


「宮水さんが意外なことをしとって、びっくり」

「みっさん、そんな人やったっけ?」

 瀧は最後の質問にだけ答えた。「いや、この女がどんな人間だったか、知らない」

「え?」

「何でもない」

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