鬼が隠れたかくれんぼ

遊月

鬼が隠れたかくれんぼ

 一艘の小舟が、水面を裂いて真っ直ぐに進んでゆく。水はとろけるように柔らかな静寂を湛え、ただ、無言で凪いでいた。


 ちゃぷん、音を立てて少年が手を浸してみると、凛とした冷たさが身体じゅうに響く。櫂を操る男は何か言いたげにちらりとそれを見たが、結局は黙したまま再び目線を水面へと戻した。



「ここは……どこなのかな」


 少年は、誰へともなく呟いた。ちいさな声が零れ落ち、柔らかな水面をくぐって深みへ沈んでゆく。返事の貰えない不安を掻き消すように、少年は言葉を続けた。


「僕だけこんなところに来ちゃって、みんな心配してるかしら。それとも、かくれんぼの鬼が急にいなくなって怒ってるかしら」


 ざあ、と風が吹き渡った。と同時に雅やかな薫りを漂わせながら花びらが雨のように降りしきり、水面に幾つもの花びらが文様を描いた。

 切り立った崖のあいだを縫うように流れる川、無口な男が漕ぐ小舟、それに乗る少年。辺りは森閑として、花など何処にも見当たらない。


「ねえ、ここはどこ?」


 掠れた声で、今度は男に向かって尋ねる。だが、やはり答えはなかった。ぎ、ぎ、と櫂の軋む音がこだまする。少年は、不安と苛立ちが綯い混ぜになった様子で口を尖らせた。



「……かくれんぼ、愉しかったかい」


 しばらくして、不意に男が噤んでいた口を開いた。弾かれたように見つめてみて、少年は、老人だと思い込んでいた男が意外と若い事に気が付いた。しっとりとした濡羽色の髪、何故だか悲しそうに歪んだ唇。男はもう一度言った。


「かくれんぼは、愉しかったかい?」


 少年は俯いた。戯れに、ぱしゃんと手で水面を叩いてみる。花びらが彩る文様が掻き乱れた。


「母さまが死んでしまって、僕、ずうっとさびしかったの。けれど父さまがあたらしい母さまを連れて来てくだすったおかげで、前から欲しかった兄さまや姉さままでできて……。僕、本当にうれしかった。でも、うれしかったのは僕だけみたい……」


 男は唇を引き結んだまま、諦めとも自嘲ともつかない笑みを浮かべて話す少年を見つめていた。


「かくれんぼでもね、兄さまや姉さまがそうしないと怒るから、僕はいっつも鬼ばかりなの。だから、たまには僕も隠れてみたくなっちゃったんだ」

「……それで、か」


 得心したように頷いて、男はまた櫂を漕ぎはじめた。緩やかな流れの行く手は白く煙っている。


「ああ、いい匂いがする。お花かな、それとも水蜜桃か林檎かな?」


 微笑む少年を乗せた小舟は、もやもやと白む霧を抜け岸辺に舫われた。降りるように手振りで促すと、男は静かに伝えた。


「此処には、君と同じような子供がたくさんいる。皆で好きなだけ遊ぶといい。かくれんぼでもブランコでも何でも。誰も叱らないし、……誰も君を虐めたりしない」

「だけど……兄さまも姉さまも、かくれんぼの鬼がいなくなって怒らない? 僕、鬼の途中でここに来ちゃったから」

「かくれんぼの鬼が隠れてはいけない、という決まりなどないだろう」

「そう? でも……うん、そうだよね」


 そっと背中を押され、少年は芳しい薫りのする方へと元気よく駆け出した。



 男は、押し黙ったまま舫い綱を外すと、再び櫂を操り小舟を水面に滑らせた。瞼を閉じても寸分違わず行き来できる程に繰り返してきた道行きだ。男は息を落として目を伏せた。


 時折吹き抜ける風に、淡い朱鷺色の花びらが舞う。夜の闇のようにとっぷりと深い静寂が、やがて世界を覆い隠した。



 -END-



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