毒を食らわば、その身まで

1.眠れる森の重病患者


 夕日も沈みかけた森の中、茂みの揺れる音に振り返る。揺れた草陰から小鹿が顔を出して、私と目が合うとピョコンと耳を立てる。

トトッと駆け寄ってきたかと思えば……。



「ぁい゛たっ!!?」



 私の背中に頭をぶつけてきた。なんて危険な鹿だ。幸い角もそれほど生えていない子鹿であったが、これが大人の鹿ともなれば、立派な角で一突きされていただろう。痛む背中を押さえながら立ち上がり、私が何か気に入らない行動をしただろうかと、小鹿の首を軽く叩くようにして撫でてやる。何やら慌てた様子で前足を持ち上げて、落とす。



「くぎょっ!?」



 強烈な痛みに蹲る。鹿が前足を落とした場所に、ちょうど私の足があった。ブーツを履いていてダメージは少ないとはいえ、痛いものは痛い。

しかし相手は話の通じない動物だ。これが喋るほどの聡明な鹿なら、今頃どうして私の足を踏み潰したのかと問い質しているところだ。それにまだ子鹿だ。これが大人の鹿ともなれば、痛いどころでは済まなかっただろう。

そう、だから……今のはきっと、私の運が悪かっただけで相手に悪意はない……そう思いたい。

 少し涙目になりながらもグッと耐えて、痛みの引いてきた足の甲を二、三度撫でてから立ち上がる。やれやれと息を吐きながら鹿の方を振り返れば、もしゃもしゃと服の裾を食べられている。……涎。

一度ならず二度ならず、三度も失礼を働く鹿野郎になんと言ってやろうかと考えていると、唐突に服の裾を引っ張り始めた。転びそうになりながらも、か弱い私はその力強さについていくしかない。



「ま、待って、行くから! ついていくから! 離し、離してっ……離してください! 鹿ッ!!」



 この鹿は、三日前に怪我していたところを助けた恩を忘れたのだろうか。

 言葉の通じない相手は、私の声も聞かずに、ずいずいと道なき道を引っ張っていく。膝ほどの草が生えて、低い木の枝が頭を掠め、鹿にとっては歩きやすくても人間にとってはとても歩きにくい道を歩かされている。

もしや私を森のパーティに招待してくれるとか、そういうファンシーな展開だろうか。それなら大歓迎なのだけれど、招待するならもっと紳士的に手を引いていただきたいものだ。こちらは淑女なのだから。



「ま゛っ!!」



 いくら淑女でも所詮は人なのだから、時たまこういった声も出すだろう。

 野蛮な鹿に引っ張られて足元の覚束なかった私は、太い木の根に引っ掛かり転ぶ羽目になった。鼻を押さえ、涙ぐみながら起き上れば……元凶である鹿が何かを踏みつけている。その近くにはイタチが、私を見て髭をピンッと動かした。あの模様のイタチも、先日助けた覚えがある。

 子鹿にイタチに……これは本当に森のパーティが始まるのだろうかと期待が高まったが……トッ、トトッ、と二、三度跳ね上がり、イタチが踏みつけているものから降りた途端に、私は目を見開いた。



「…………へ?」



 人……が、倒れている。


 ここしばらく人と会っていなかったからか、いやそれ以前にこの森の奥に人が来ることが稀だから……それを人間と認識することに数秒要した。警戒しながらも近付いてみれば、流れた大粒の汗が、顎を伝って土へ滲んだところだった。浅い息を繰り返している相手に、緊張も警戒も初めから無かったように静かに消えていく。


 額の汗に濡れた黒い髪を掻き分けて、額を付けて熱を測る。それから頬や首に手をやれば、体中の体温が随分低い。血圧も低い。

 改めてその人の恰好を確認して、「学舎の生徒」であることを知る。



「…………、鹿め」



私だったら助け出してくれるだろうと考えたのか、それとも自分の縄張りに人間がいるから持って行ってくれということだろうか。どちらにしろ聡明な鹿だ。

何とも言えない気持ちで鹿を一瞥してから、その人の体を仰向けに転がした。溜息を吐きながらも肘丈の黒い手袋を片手だけ脱いで、小さめのナイフを取り出し、人差し指に押し当てる。少しの痛みと同時にぷくりと赤い血が膨らんだ。


―――指先へ流れるそれを、薄く開いた口の中へ流し込んだ。


 しばらく様子を伺って、呼吸が安定してきたところで指を引き抜けば、私の指にもう傷跡は残っていなかった。手袋をはめ直してから、もう一度体温と熱を確認する。

そして傍らで静かに傍観していた子鹿とイタチに向けて、至極真面目な顔で申し上げた。



「…………小柄ながらに男の人を抱えることができる力持ちの方は、一歩前へお願いします」



 一人対二匹で二十秒ほど見つめあったが、足どころか耳一つ動かしてくれなくなった。さっきまで近くでうろうろして忙しなかったイタチですら、ピタリと動かずに、つぶらな瞳でこちらを見ている。

たっぷり数秒後、子鹿がバカにしたようにフンッと鼻を鳴らした為に……現実から目を逸らすことを諦めた。


 私が運ばなければいけないらしい……。

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