第14話 退去
小野但馬守は井伊家の男たちを葬っても井伊家を乗っ取れなかった。その悔しさが但馬守を新たな陰謀へと駆り立てたのだ。
その道具は徳政令だった。徳政令で直虎を追い込み、失脚させようとしたのである。
小野但馬守は直平が死んだ際、
「これで井伊家は私のものだ」
と思ったことだろう。
しかし、突如として現れた直虎は小野但馬守にとっては過去の人物。亡霊のような存在である。
「今更、こいつが私の前に立ちはだかるのか」
小野但馬守の気持ちは鬱屈としただろう。だが、その負のエネルギーは但馬守を新たなる陰謀へと突き進ませた。
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直虎は氏真、裏では小野但馬守、の出した徳政令をはねつけた。徳政令によって痛手をこうむる銭主を救うためである。
これは商人はもちろんだが、寺も関係してくる。
当時の寺は冠婚葬祭だけをやっていたのではない。農民などが使用する必需品の購入や旅の斡旋、金貸しなどの様々な経済活動に従事していた。
直虎はこうした債権者である商人や寺に準備期間を与えて、損害を軽減した。
こうして氏真の徳政令をかわし続けた期間、実に二年。
小野但馬守はこのような状況にいらだった。
ついには
「私自ら駿府へ行く」
と言ってわざわざ駿府へ出向いたこともあった。
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永禄十一年十一月九日、直虎は今川氏真と小野但馬守の催促に抗いきれず、ついに徳政令を布告することになった。
二年間抗い続けた直虎にとって
「無念」
の一言であったであろう。
直虎は負け、小野但馬守が勝った。これは井伊家の支配が直虎から小野但馬守移ることを意味していた。
今川氏真は直虎を罷免して井伊谷を今川氏の直轄領にした。代官に選ばれたのは、当然のごとく小野但馬守であった。
今川氏真から罷免の書状が届いた日、その書状を直虎に手渡したのは小野但馬守であった。
「直虎様、氏真様から書状が届いています」
直虎はすでに書状の中身がわかっていた。直虎は震える手で氏真からの書状を開く。
小野但馬守は直虎が目を通したのを確認すると、勝ち誇ったように笑い出した。
「長かった、長かったですね。ここまで来るのに」
「但馬守、あなたは……」
直虎は恨めしそうに但馬守を見る。
「こんなことになるのでしたら、あの時、出家などせずに私のものになっていれば良かったのです。これは、あなたが招いた結果ですよ」
小野但馬守が言っているのは直虎が円姫とよばれていた頃、小野但馬守との結婚を拒否し、無理やり出家してしまったことを言っている。
時が経とうとそのときの恨みは消えていなかった、ということであろう。
「さあ、もはやあなたは私の女でも領主でもない。ただの女に戻ったのです。どことなりとも消えてください」
直虎は悲しそうな目で小野但馬守を見る。悔しさもあっただろうが、自分の存在が小野但馬守という人間を造ってしまったことが悲しいのだ。
(この人も、悲しい運命を背負った人なのですね)
直虎はその日、井伊谷城を退去した。
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直虎が領主の座を奪われる寸前、虎松のことを考えた。このままでは小野但馬守に虎松を殺されるかもしれない。
直虎はすぐさま虎松を龍潭寺に隠した。そこには虎松の母である瑠璃も一緒だ。南渓和尚が二人を保護してくれると考えたのだろう。
南渓和尚はすぐさま動いた。瑠璃の兄である奥山六左衛門を虎松の共につけて、奥三河の鳳来寺に逃がしたのだ。
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直虎が小野但馬守と戦っていた二年間、周辺の情勢は変化していた。
永禄九年(1566年)、信長と同盟を結んだ家康は姓を松平から徳川へと改めた。さらには三河一国を統一し、三河守に任じられている。
さらには永禄十一年(1568年)二月十日、家康は松平家忠に命じて遠江国の獲得に動き出した。
甲州の武田信玄はこの年の八月十七日、今川家との同盟を破棄している。
そして、家康と信玄との間では、大井川を境に領土を分け合う密約がかわされた。
今川家は周囲を敵で囲まれていたのである。
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小野但馬守は直虎を追い出したことで有頂天になっていた。すぐさま井伊谷城に家族を招き、酒宴を開いた。
「あの女、最後まで私には涙を見せなかったな」
小野但馬守は直虎のことを思って杯を傾ける。窓から見える月は煌々と輝いていた。
「今日は月が綺麗だ。皆のもの、飲めや、歌えや」
小野但馬守の酒宴は連日続いた。
井伊谷を取り巻く環境が、今川家の運命が変わろうとしていたことを、この男は知らなかった。
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