第13話 徳政令
次郎法師は龍潭寺の南渓和尚を訪ねた。南渓和尚から重要な話があるとのことだった。
この時点で井伊家を裁量する人物はほとんどいない。家臣団をまとめる役は一時的に南渓和尚が担っていた。
「次郎法師。なぜ、そなたが次郎法師と名付けられたか。わかるか」
南渓和尚が次郎法師に尋ねる。次郎法師はしばらく考えた後、首を横に振った。
「いざというときのため、そなたに井伊家を継がせるためじゃ。次郎は井伊家の嫡男が代々継いできた名前。そなたにはその名前が受け継がれておる」
「しかし、私は出家した身です」
「還俗するしかあるまい。今は、そなたしかおらんのじゃ」
次郎法師は考えた。死んでいった井伊家の男たちが思い出される。父の直盛、曽祖父の直平、そして、許婚だった直親たちである。
彼らが守ろうとした井伊谷は美しい。その美しさを自分が守れるのか。そんな心配をしているのかもしれない。
次郎法師は南渓和尚の瞳を見た。期待と、悲しみに満ちたやさしい目だった。信じるしかない。南渓和尚が信じた、自分自身を。
「わかりました」
次郎法師が頷く。
「ただし、虎松が成人するまで。虎松の後見人として、私は立ちます。それでも、よろしいですか?」
「うむ」
この瞬間、井伊家に『直虎』という女領主が誕生した。
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なぜ、次郎法師は『直虎』と名乗ったのか。それは世間に井伊家の領主が女だとばれないようにするためだろう。
時は戦国の世である。井伊家を狙う大小名は多い。女が領主をしていると世間に流布されてしまっては侮りを受けてしまう。
そのため、次郎法師は『直虎』と名乗り、世間的には男として生きることになった。これが、井伊直虎誕生の理由である。
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次郎法師は井伊直虎となった。これからは、次郎法師を直虎と呼びたいと思う。
直虎が井伊家の当主となったのは永禄八年(1565年)である。その翌年には川名の福満寺薬師堂に鐘楼を寄進している。後世に伝わっている中で直虎が最初にやった事業であろう。
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永禄九年(1566年)、今川氏真は井伊谷とその周辺に徳政令を出した。
徳政令とは、簡単に言えば借金の帳消しである。
これだけ聞けば良いことのように思える。徳政令を出せば農民は感謝するが、その土地の経済は破綻する。
過去には鎌倉幕府が徳政令を連発したことで日本全体の経済が破綻したこともあった。
徳政令は一時的に民心を掴むには良いかもしれないが、長期的に見れば悪法といえるのかもしれない。
さらに、徳政令には別の要素もあった。農民の要請で徳政令を出された領主は無能とみなされる、ということだ。
これは当然であろう。農民から見たら、領主が無能だから借金が増えた、自分たちの暮らしが苦しくなった、と考えたからだ。
では、永禄九年の徳政令は実行されたのか。答えは否、である。徳政令を止めたのは、井伊谷城主、井伊直虎であった。
方法は、井伊谷の土地を龍潭寺に寄進したのだ。
寺院に寄進した土地は徳政令の対象にならないという慣習があった。
直虎は氏真の動向を予想し、すでに先手を打っていたのである。
この徳政令の中止に一番憤ったのは農民ではない。小野但馬守であった。
小野但馬守は直虎が井伊家の当主となると井伊家乗っ取りの策謀を本格化させた。それは、農民の扇動である。
農民を扇動し、徳政令を出させれば、その領主は無能とみなされる。井伊家に男がいない状態では、次の井伊谷の領主は井伊家以外から選ばれるだろう。それを選ぶのは、小野但馬守と結託している今川氏真であった。
徳政令の中止が決まったとき、小野但馬守は
「無駄なことをする」
と呟いた。
井伊谷の土地を龍潭寺に寄進したといっても全ての土地ではない。年貢の取立てのためには井伊家が支配する土地を残しておかなければならないのだ。
今回の徳政令が防がれたとしても、別の土地の農民が徳政令を要請した、とすれば再び徳政令が出る可能性がある。
小野但馬守はそれを狙っているのだ。
直虎は事前に徳政令が出そうな土地を調べ、握りつぶしておかなければならない。小野但馬守は直虎に気づかれる前に農民を扇動しなければならない。
直虎と小野但馬守、二人の戦いが、始まった。
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