第5話 出家
天文二十三年(1554年)、亀之丞が井伊谷を脱出してから十年の月日が流れた。
その間、円姫は成長し、古今東西に類がないほどの美しさを持った女性になっていた。歳は十五を超えた頃だろう。
この頃の女性は十三歳から十五歳で結婚することが多かった。円姫にとっては結婚の適齢期に入ったことになる。
そのため、厄介なこともあった。小野道好が相変わらず円姫に結婚を迫ってくるのだ。そこには道好の父、小野和泉守の思惑も多分に混ざっていた。
さすがに小野和泉守も十年間何もしなかったわけではない。円姫の父親である直盛を調略しようと試みたり、円姫を物で釣ろうとしたりした。
しかし、それは直盛と円姫の意志の強さにより跳ね除けられていたのだ。二人は亀之丞が生きていることに希望を持っているためであろう。
(このままではいつまでたっても私が井伊家の支配者になることはできない。ここは多少、強引な手を使っても……)
小野和泉守はさすがに直盛、円姫親子の頑固さにいらだっていた。そのため、一つの策謀を行うにいたる。
(これで、円姫は道好と結婚するはず)
小野和泉守の顔が怪しく歪む。なぜもっと早くこうしておかなかったのか、という思いが小野和泉守の中で渦巻いていた。
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笛の音が井伊谷に鳴り響く。その音色は物悲しく、聴くものに涙を促した。
井伊谷城の一角、その縁側に円姫は座っていた。口には竹笛があてられている。
「円姫」
無粋にも円姫の笛の音を妨げる人物が現れた。小野道好である。歳は十八ほどになっていようか。
円姫もこのいやらしい眼つきの青年の登場に小さくため息をつく。
「円姫、私の父から伝言を承っています」
「和泉守から?」
円姫は眉をひそめた。どうも良い予感がしないのだ。
道好の瞳を覗き込む。いやらしく、蛇が蛙を睨んでいるような生々しい視線を円姫に向けていた。
「井伊直盛の息女、円は我が息子、小野道好と結婚すること」
「……」
円姫はまたか、といった顔つきだ。このようなことは今までに何度もあった。今回もその一つなのだろう。そう考えていた。
「もし、この命令がきけない場合は、円姫は井伊直満の息子、亀之丞と同じ境遇になる。その点を良くわきまえ、早急に返答されたし」
「亀之丞と同じ境遇?」
円姫は小野和泉守が言っていることがすぐには理解できなかった。だが、道好の薄ら笑いを見ているうちに、小野和泉守の魂胆がわかった。
「……まさか、父上を!?」
道好はニヤリと笑う。そうだ、と肯定しているも同じだった。
小野和泉守は円姫の父、井伊直盛を亀之丞の父、井伊直満と同じように謀殺するとほのめかしているのだ。つまり、円姫の父親を人質に取ったことになる。
「父上を殺せば、次期当主は井伊家の男たちから選ばれるだけです」
「それは、今川家の意向を無視してもおこなえますか?」
「今川家にも、手を回しているのですか」
直盛を謀殺した場合、今川家の命令で道好と円姫を結婚させるつもりのようだ。今川家にとっても目付け家老の小野和泉守の息子が井伊家の当主となってくれたほうが扱いやすい。今川家が小野和泉守の提案を拒む理由はないだろう。
「円姫、父親が愛おしいでしょう。無理をせず、私と結婚してください」
「……」
円姫は凛とした眼つきで道好を睨みつける。そこには絶望的な状況に追い込まれた悲壮感は感じられなかった。
「美しい目つきだ」
道好は円姫の顔に手を添えると、耳元に口を近づける。
「もうすぐ、あなたは私のものです。あきらめてください」
道好はそれだけ言い残すとその場を立ち去った。
円姫は崩れるようにその場にうなだれる。見ているほうが物悲しくなる姿だった。
そこに大柄な影が近づいてきた。そっと、円姫の肩を抱き寄せる。
「……父上」
円姫が見たのはやさしく微笑む直盛の姿だった。うなだれている円姫を見て駆け寄ってきたのだろう。
「円、どうしたのだ」
円姫は涙を溜めて直盛の顔をじっと見る。
「父上、私は……」
円姫の言葉は詰まってしまう。何といえば良いのかわからない。先ほどのことを言えば直盛は気に病んでしまう。できれば円姫は自分でこのことを処理したいようだ。
そんな円姫の頭を直盛はそっとなでてやる。直盛の優しさは今も昔も変わらない。
「何を悲しんでいるか知らないが、心配するな。お前にはいつも私がついている」
円姫に直盛が輝いて見えた。この父を死なせてはいけない。そんな思いが円姫の中に広がった。
だが、小野道好との結婚はできない。今も胸の奥には亀之丞のことがあるのだ。
(ならば、取る道は一つです)
円姫はすっと顔を上げて直盛の目を見る。そこには一つの決意をした女性がいた。
「父上」
直盛が円姫に視線を合わせる。次の言葉をじっくりと待っていた。
「私は、どんな姿になっても父上の娘です」
直盛は一瞬、ポカンとした。何を当たり前のことを言っているのだ、と思ったことだろう。しかし、すぐにいつもの優しい顔に戻り、円姫に微笑む。
「ああ、お前はいつまでも私の娘だ」
円姫は満足そうに頷く。
円姫と直盛、親子の絆を確認した瞬間であった。
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次の日、円姫は一人で南渓和尚のいる龍潭寺へと向かった。城のものには一言も告げていない。
いつものように庭を掃いていた南渓和尚のもとに円姫が現れる。突然姿を見せた円姫に南渓和尚は驚いた。
しかも、円姫の表情は何かを決意している。ただ事ではないことが一目でわかった。
「何か、ありましたかな」
円姫は南渓和尚の前に立ち、コクリと頷く。
「南渓和尚、私は、髪を下ろします」
「……ほう」
『髪を下ろす』とは出家するという意味である。仏門に入ることで俗世間からのしがらみから開放される。つまり、結婚というしがらみからも開放されることになるのだ。
「何があったか、聞かせていただけますか?」
「わかりました」
円姫は昨日あったことを全て話した。小野道好と結婚せず、父、直盛を助ける方法はもはや出家しかないのだ。
「……」
南渓和尚は目を閉じ、じっと黙っている。円姫には南渓和尚が何を考えているかわからない。
「いいでしょう。円姫の出家、手伝いましょう」
円姫はほっとした。ここで断られてしまったらもはや打つ手がなかった。
「ただし、条件がある」
「条件……ですか?」
南渓和尚はゆっくりと頷く。そこには円姫には届かないような深い考えが見え隠れしていた。
「名前を、『次郎法師』としなさい」
「次郎法師?」
次郎、とは井伊家の当主が世襲する名前である。法師は仏門に入るときの名前だろうか。
「法師はわかります。しかし、なぜ次郎をつけねばならないのでしょう?」
「いつか、わかる」
南渓和尚の目には有無を言わせぬ迫力があった。円姫はこれ以上何もいえない。
「よろしいか?」
「はい」
円姫と南渓和尚はすぐさま出家の準備をした。主にやることは髪を切ることだ。そのため、簡易的な出家ならばすぐに済む。
「では、まいりますぞ?」
「はい、お願いします」
ザクッ。
髪にはさみが入る音がした。この瞬間、円姫ではなくなった。次郎法師、これが新しい円姫の名前である。
事実上、これで井伊家の次期当主はいなくなった。小野和泉守の謀略が失敗した瞬間でもある。
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