第4話 策謀

 南渓和尚が松源寺に連絡を取っている間、亀之丞と藤七郎は東光寺に身を隠した。その間に年は明け、天文十四年(1545年)となっている。


 天文十四年(1545年)一月三日、東光寺住職の能仲のうちゅうを道案内とし、亀之丞たちは信州の松源寺へと向かった。


 途中、寺野八幡神社(現・六所ろくしょ神社)を詣でた。井伊家の将来と自身の安全を祈願したのだろう。


 寺野八幡神社から二百メートルほど進んだ先に、大きな人だかりができていた。通り過ぎる人のほとんどが嬉しそうな顔をしている。



「藤七郎、今日は何かあるのですか?」



 亀之丞が藤七郎に尋ねる。



「本日は寺野三日堂のひよんどり(火踊り)祭りがあります。これならば和泉守の目もくらませることができるでしょう」


「なるほど」



 亀之丞は大きく頷く。


 人を隠すには人の中。亀之丞たちは人通りが多くなる日を選んで出発したのだ。これならば人が移動していても目立つことはない。


 寺野三日堂のひよんどり(火踊り)祭りとは、五穀豊穣、子孫繁栄、健康を祈る祭りである。


 上半身裸の若衆が注連縄しめなわを腰に巻き、真冬の川に歌を歌いながら入っていき、身を清める。


 若衆は『ヒドリ』と呼ばれ、御堂の入り口に立ちはだかる。そこに『タイトボシ』と呼ばれる大禰宜ねぎが大松明を持って進み、若衆を前に炎を左右に振りかざすのだ。若衆と炎のせめぎ合いである。


 やがて若衆の壁を突破した大松明は本尊の薬師如来に進み、堂内の祭事が粛々と始まるのだ。


 亀之丞たちはその祭りの朝の準備を見ながら先を急いだ。もしこのような状況でなければ、亀之丞も祭りに参加したかったことだろう。




   ###




 亀之丞たちが川宇連かおれから申沢さるんざわへ向かう途中、険しい山道で亀之丞たちを待っている人がいた。このあたりの樵である大平右近次郎おおだいらおこのじろうという人物である。


 右近次郎は落ちる木の葉も射抜く弓の名人であった。この右近次郎のいる村に小野和泉守政直は亀之丞暗殺の命令を下していた。村は渋々ながらも小野和泉守の命令に従い、右近次郎を刺客として待ち伏せされていたのだ。


 しかし、右近次郎は井伊家の土地で育った人間である。井伊家には数え切れないほどの恩があった。



(無視するか)



 とも思ったが、無視したことがばれると右近次郎のいる村全体が小野和泉守に睨まれる。



(ならば)



 と右近次郎は覚悟を決め、弓を片手に亀之丞たちの到着を待った。


 そして、右近次郎は亀之丞たちが急斜面を登ってくるところを発見した。


 すぐさま弓を構え、狙いを定める。



(申し訳ありません!)



 右近次郎は落ちる木の葉も射抜く正確さで矢を放った。


 矢は亀之丞の馬の鞍に当たる。亀之丞たちは驚き、すぐさまその場を去った。



(これでいい)



 亀之丞をうてば井伊家の忠義に反する。馬をうっても落馬の危険性もあった。これならば、亀之丞も傷つけず、小野和泉守の命令にも背いていない。


 右近次郎はわざと矢を外して亀之丞と村の危機を救ったのだ。




   ###




 直盛が今川義元から亀之丞の処断を記した書状を受け取った日から数日後、直盛に藤七郎からの書状が届いた。亀之丞たちは無事に松源寺に到着したとのことだった。



(まずは、一安心か)



 直盛はすぐさまその書状を蝋燭の火にかけて処分した。


 井伊家の中に亀之丞の命を狙う人物がいる状況では、誰を信用して良いかわからない。ひとまずは直盛の胸の中だけに押しとどめておいたほうが無難であろう。



(円には、辛い思いをさせるな)



 どこから情報が小野和泉守に漏れるかわからない。もちろん、幼い円姫にも亀之丞の無事を知らせるわけにはいかなかった。


 直盛にとって、辛い選択だった。




   ###




 井伊谷城に戻ってきていた円姫は縁側に座って空を見ていた。冬の空はどんよりと曇っている。


 そこに、円姫に近づいてくる足音がある。子供の足音のようだ。



「円姫、そこにいましたか」


「……誰?」



 そこに現れたのはいやらしい目つきをした子供であった。歳は亀之丞と同じくらいか。


 その子供は何も言わずに円姫の隣に座る。



「小野道好です。父は小野和泉守政直と言います」



 道好は円姫に手を差し出すが、円姫は反応しない。じっと差し出された手と道好の手を交互に見比べていた。


 道好は自嘲的な笑みを浮かべると、手を引き、円姫の顔をまじまじと見た。



「円姫、亀之丞はもう死んでいることでしょう。そうなりましたら、私が円姫の婿となります」


「え?」



 初耳だった。円姫の表情がみるみる強張っていく。



「そんなこと、誰が決めたの?」


「父、和泉守です。井伊家は小野家と一緒になって井伊谷を守っていくのです」


「嫌!」



 拒絶だった。道好の態度や雰囲気が気に食わない、そんな小さな理由からだったからかもしれない。


 それに、亀之丞のことが忘れられない。円姫はまだ亀之丞が生きていると信じているのだ。



「嫌でも、いずれそうなります」



 道好は諭すように円姫にささやく。円姫はすでに泣きそうだ。



「運命には、逆らえないのですよ」



 道好はそういうとその場を立ち去った。


 亀之丞を失い、好きでもない道好と結婚させられるかもしれない。幼い円姫にとっては辛い状況だである。



(亀之丞、大丈夫、だよね)




   ###




 円姫と小野道好との婚約は正式なものではない。小野和泉守が井伊家を乗っ取ろうとして張り巡らした策謀の一つだ。


 井伊家本家である直盛には円姫一人しか子供がいない。つまり、円姫の婿になる人物が井伊家の時期当主となるのだ。


 和泉守はそこに目をつけ、まずは亀之丞の父親、直満を罠にかけて殺害した。その咎は息子の亀之丞にも及ぶ。


 亀之丞がいなくなれば円姫の婿は別の人物が選ばれるだろう。そこに小野和泉守の息子である小野道好を当てれば井伊家の支配者は小野家となる。


 これが、小野和泉守政直が考えた井伊家攻略の筋書きだ。実際、現状はこの筋書き通りに進んでいる。



「くくく、あと少し、あと少しですね」



 小野和泉守は今日も月を見ながら酒をあおる。


 今日の月は、赤く、輝いていた。

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