第6話 帰還
円姫、いや、これからは次郎法師と呼ぶことにしよう。
次郎法師は出家したが、住まいは変わっていない。相変わらず、井伊谷城の居館本丸に住んでいるのだ。
井伊谷城から龍潭寺までは約九百メートル。徒歩で十五分ほどの距離である。次郎法師はその距離を毎日歩いた。仏事に励むためである。
次郎法師は南渓和尚の弟子となり、毎日のように座禅した。今はもう遠い記憶となった亀之丞のことを忘れようとしたのかもしれない。
次郎法師の父、直盛は次郎法師の出家を悲しんだ。これでは亀之丞が戻ってきたとしても結婚させることはできない。
無理やり次郎法師を還俗させる(出家した人をもとの俗世間の中の人に戻す)ことはできる。しかし、次郎法師の意思がなければ意味のないことだろう。
(円、早まったことを)
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小野和泉守は円姫の出家を知って激怒した。十年にもわたる自分の計画が水泡に帰したのだ。この怒りを誰に向けて良いのかわからない。
「あの小娘め。出家などという馬鹿な真似を……。いや、直盛の意思か? それとも南渓とかいう生臭坊主の入れ知恵か?」
小野和泉守は酒を乾かすと手に持っていた杯を叩きつけた。大きな音をたてて杯が割れる。
「道好、道好はいるか!」
「は、ここに」
道好は小野和泉守がいる部屋の前で待機していた。すぐさま部屋の中に入り、小野和泉守に拝謁する。
「道好、なぜ円姫を出家させた。なぜ止めなんだ!」
小野和泉守は酔っていることもあって顔が赤い。道好を見る眼がいつにもまして厳しかった。
「知っていれば止めました。しかし、円姫は私が止める間もなく……」
「言い訳は聞きとうないわ!」
小野和泉守が近くにあった銚子を掴むと道好に向かって投げつけた。銚子は道好の額に当たり、わずかに血が流れ出る。
道好は痛みに耐えながらもまっすぐ小野和泉守の目を見る。ふらつく小野和泉守を支えようと手を伸ばした。
「触るな!」
「父上、あまりお怒りになられてはお体に触りますぞ」
「いらん心配だ!」
小野和泉守はドンドンと床を叩いて怒りを発散させている。それほど小野和泉守の憤りは深いものなのだ。
「こうなったら義元様に讒言して無理やり……」
小野和泉守の顔が醜く歪んでいく。その顔は幽鬼と呼ぶのにふさわしい顔だった。だが……。
「……うっ!」
小野和泉守が次なる陰謀を始めようと画策した、その瞬間、急に小野和泉守の顔が赤から青に変わった。
小野和泉守の両手が宙を舞う。何かを掴もうとしてもがいているようにも見えた。
バタンッ。
小野和泉守の体が畳の上に倒れ伏す。目は見開き、口からはよだれが流れていた。
「父上!」
道好はすぐさま医者を呼んだ。しかし、小野和泉守の意識が戻ることはなかった。
天文二十三年(1554年)のことである。
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小野和泉守の死は井伊谷に新たな衝撃をもたらした。
まず、家老の職が小野但馬守に譲られたのである。小野和泉守の息子、小野道好のことだ。
小野但馬守は父の意思を継ぎ、今川家の目付け家老として井伊家に残った。その目的も変わっていない。小野家による井伊家の簒奪だ。
(これからは、私の時代だ)
小野但馬守は小野和泉守以上に若く、狡猾である。おそらく、井伊家にとって最大の敵となることだろう。
しかし、井伊家の人々はそのことに気づいていない。息子の小野但馬守に小野和泉守以上の脅威はないと考えているようだ。
(井伊家の人間は甘い。まあ、爪をうまく隠している私のせいでもあるが)
小野但馬守は自嘲的な笑みを見せて父、和泉守が愛した月夜を見た。その目には父を失った悲しみはない。これから訪れるであろう栄光の道を夢見ているようであった。
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小野和泉守の死は小野但馬守を生んだ以外の効果をもたらす。それは小野和泉守の死の一年後に現れた。
天文二十四年(1555年)二月、亀之丞が松源寺から井伊谷に帰ってきたのだ。
小野和泉守は亀之丞を今川家の謀反人の親族として捕らえようとしていた。しかし、その小野和泉守が死亡した今、亀之丞を害そうとする人物は井伊谷にいない。少なくとも表面上は。
そのため、亀之丞と今村藤七郎は十年ぶりに井伊谷の土を踏むことができたのである。
だが、いきなり井伊谷に入ったわけではない。まず、渋川の東光院に逗留し、井伊谷の様子を探ることにした。
東光院に亀之丞が逗留していることを知った井伊直盛は思案した。円姫が次郎法師となってしまった今、井伊家本家に跡継ぎがいない。
(次郎法師を、還俗させるか)
次郎法師は出家した身だ。しかし、本人に意思があれば還俗できる身でもある。還俗すれば亀之丞とも結婚できるのだ。
(あれほど好き合っていた二人だ。うまくいくだろう)
直盛はすぐさま次郎法師を呼び、亀之丞が井伊谷の近くまで来ていることを伝えた。
「それは、本当ですか!?」
次郎法師の表情は狼狽と喜悦が混じったような複雑な表情をしていた。亀之丞が帰ってきてくれたことは嬉しい。しかし、すでに出家してしまった身としては素直に喜べないのだ。
「次郎法師。円姫に戻るつもりはないか?」
「それは……」
次郎法師の顔には迷いの色が濃く出ている。還俗して亀之丞と結婚したい。しかし、出家してまだ一年しか経っていないのだ。仏の道を教えられた次郎法師は仏を裏切るような気がして素直に頷けない。
「一度、亀之丞に会わせていただけないでしょうか。それから決めとうございます」
「そうか。わかった」
直盛はあっさりと許した。亀之丞に会えば次郎法師の気持ちも固まるだろう。そう思ったのだ。
「明日、会うが良い。亀之丞には私から伝えておく」
「ありがとうございます」
次郎法師はうっすらと涙を浮かべた。十年ぶりの再会。次郎法師にとっても、亀之丞にとっても感慨深い再会になるだろう。
井伊谷には春が近づいていた。
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