秘密

「遺愛寺の鐘は枕を欹てて聞き、香炉峰の雪は簾を撥げて看る……はい、この香炉峰の雪は、の一節が、枕草子で有名な簾をあげるエピソードに……」

 朗々とした低い声が教室に響いている。その心地よさに釣られたのか、昼休みを終えたばかりのせいか、数人の頭が船を漕いでいる。斜め前に座っている汐里は、熱心に聞いている振りをしながら机の下で器用に雑誌を読んでいた。あたしはそれを横目に見ながら、角ばった自分の字が並んだノートを眺める。苦しげな蝉の声が、開いた窓の隙間からノイズのように紛れ込んでくる。

 国語はあまり好きではなかった。複雑で遠まわしなことばかり言う小説の登場人物たちも、たぶん一生使わないだろう知識について延々と語っている評論も、うっとうしかった。羅生門の老婆が考えていることなんて、あたしにわかるはずがない。

 視線を少しスライドさせて、教室の後ろのドアを見る。その手前の席で、加賀は淡々とノートを取っていた。

 あいつはどうなのだろう。

 言葉を信用できないという加賀にとっては、国語の授業は、あたしにとってはうっとうしくて仕方ない文字の羅列は、どんな意味を持つのだろうか。

 夜のプールで加賀と話した日から、1週間が経っていた。

 7月いっぱいまでの夏期講習も残すところあと数日だ。あの日以来、加賀とは一度も話していなかった。昼間のあいつはあいかわらず無口で愛想がなく、息苦しいそぶりなど微塵も見せずに教室に溶け込んでいる。夜のプールでの密やかな会話は、時が経つほど何だかふわふわと現実感がなくて、思い出すたびにあれは夢ではないかと思ってしまう。

 ふいに、ノートを取っていた白い顔が持ち上がった。

 伏せていたまつげが何度か上下に瞬く。

 そして、深い黒色をした目がこちらを向いた。

 あたしはただそれをじっと見つめていた。朗々と続く漢詩を遠くに聞きながら、あたしたちは互いにゆっくりと呼吸をした。

 やがてどちらともなく視線をもとに戻す。目が合ってもそらさないこと。それだけが、あたしと加賀の間に新しく生まれた変化で、あの日を証明するもののように思えた。

 間延びしたチャイムが流れてくる。朗読を邪魔された国語教師は、少し不満そうに「じゃあ今日はここまで。明日は問題の答え合わせするからな」

 と授業を切り上げた。とたん、そこかしこでガタガタと机が鳴る。

「あー疲れたぁ」

 汐里が背伸びをしながら叫ぶ。

「汐里、雑誌読んでただけでしょ」

「何言ってるの。あの体勢でばれずに雑誌読むのってけっこう神経使うんだから」

 振り向いた汐里が、自信満々に髪をかきあげる。

「はいはい」

「奈智、今日部活だっけ」

「うん」

「そっかあ、帰りにカラオケ寄ろうと思ったのに」

「また今度行こうよ。私も行きたいし」

「あ、ねえ。今度このお店行ってみようよ。美味しそうなの」

「どれ?」

「このページのさ……」

「あの」

 雑誌を覗き込んでいた頭の上に、ふいに低い声が降ってきたから、あたしは思わず首をすくめた。さっきの国語教師だと思ったのだ。

「あの、入野」

「……加賀」

 口から名前がこぼれる。

 あたしの机のそばに、白シャツ姿の加賀が立っていた。一重のまぶたが神経質そうに上下した。

「これ」

 ほとんど変化しない感情の乏しい顔のまま、加賀は右手に持っていたものを差し出した。反射で手を伸ばして受け取る。

「この間借りた、参考書。返す」

 見覚えのない国語の参考書だった。加賀はそのまますたすたと元の席に戻っていってしまった。

「奈智、こんな参考書持ってたんだ」

「ああ、うん」

 いぶかしげに覗き込んでくる汐里から隠すように、鞄に分厚い本を突っ込む。

「ていうか、加賀と仲良かったっけ?」

「いや、別に」

「だって参考書貸したんでしょ」

「……たまたまね」

「ふうん。それにしてもあいつ、本当に能面もびっくりの無表情だよね」

「……うん」

「何考えてるんだかわかんないし。ちょっと不気味」

「あたし、そろそろ行かないと」

 何となく話題を遮りたくて、あたしは立ち上がる。

 実際部活が始まるのはもう少し先だけれど、部室で時間を潰せばいい。

「ああ、そっか。いってらっしゃーい」

「じゃあね、明日はカラオケ行こう」

「うん」

 リュックサックと部活用のビニールバックを掴んで、汐里に軽く手を振って教室を出る。加賀のすぐ後ろを通り過ぎたけれど、今度は目が合わなかった。


「必勝、レベルアップ古文漢文」

 表紙にでかでかと踊るゴシック体を読み上げてみる。見覚えどころか、聞き覚えもなかった。第一、しばらくレベルアップする予定はない。

 まだ誰もいない水泳部の部室はじんわりと蒸し暑く、ほこりのにおいが器官まで迫ってくる。あたしは真ん中に置かれた安っぽいベンチに腰掛けて、加賀に渡された参考書を眺めていた。間違ってもあたしが貸したものではないし、加賀だってそれを承知で渡してきたに違いない。

 ぱらぱらと適当にページをめくる。随筆、日記、物語、修辞法、白文、再読文字……堅苦しい文字があちらこちらに散らばっている中で、あたしはふとめくる手を止めた。後ろの方、ちょうど今日の授業で出てきた漢詩のページに、半分折りにしたルーズリーフが挟まれていた。


 明日、行く


 開いてみると、右上がりの尖った字でそれだけが書いてあった。

「……小学生かよ」

 思わず呟く。本に隠してこっそり手紙を渡すなんて、いかにも夢見がちな小学生女子がやりそうなことだ。そんなことをあの無表情な加賀が真面目にやっていたと思うと、少し笑えた。

 ルーズリーフを元の場所に挟んで本を閉じたとき、がちゃりと部室のノブが回った。

「うわ、びっくりした」

「こんにちは、先輩」

「なに、奈智。こんなところで勉強してんの」

「ええ、まあ」

 驚いた先輩がドアの前でしばらく固まっている。それすらもちょっとおかしい。

「え、なに、どうしたの」

「え?」

「だって笑ってるから」

「あ、いえ。何でもありません」

 いつの間にかゆるんでいた口元を慌てて引き締める。参考書を鞄に戻して、ロッカーを開ける。あたしの動作を合図に、先輩も金縛りが解けたように自分のロッカーに向かった。

「先輩、最期の追い込みですね」

「まあね」

 水着に着替えながら、部屋の反対側にいる先輩に声をかける。三年生の先輩たちは、この夏で引退する。今度の大会が高校生活最後の勝負どころだ。

「リレー、入賞できるように頑張ります」

「うん、頼んだ。奈智は本気出すと強いんだから」

「えーいつでも本気ですよ」

「どうだか」

「ひどいなあ」

「ていうかさ」

 ふいに声が近くなった。振り向くと、着替え終わった先輩がベンチに片膝を立ててこちらを向いていた。引き締まって焼けた先輩の脚は、それこそ人魚のひれみたいになめらかに泳ぐから、あたしはそれをいつも何となく見てしまう。

「奈智、あの噂聞いた?」

「はい?」

「最近学校で騒がれてるよ。プールに幽霊が出るって」

「ああ、それですか」

「なんだ、知ってたの。十年前に死んだ水泳部員が呪いをかけてるとかさあ、やめてほしいよね」

「あ、それは知らないです」

 いつの間にか噂には尾ひれがついていたらしい。

「そいつ、高校最後の大会で大きなミスして、心を病んで自殺したんだってさー。もちろん信じてないけど、この大事なときに余計なストレスかけないでほしいわ」

「本当ですね」

 現実とはかけ離れた壮大なホラーになっている。またしても笑いそうになって、あたしは必死に真剣な顔をつくった。

「もう、その幽霊とっつかまえてやろうかな」

「いや、それは」

 思わず口走る。先輩が不思議そうにあたしを見た。

「奈智?」

「あ、いや、だってそれが本当だったら怖いし。先輩がいたずらの犯人だと思われたら困るじゃないですか」

「確かに。大丈夫だよ、本気じゃないし」

「なんだ、よかった」

 奈智、あんたけっこう怖がりなんだ。先輩がけらけらと笑う。あたしは一緒になって笑った。同時に思わず先輩を止めてしまった自分にも笑っていた。

 なんだよ、奈智。あんた、加賀のことかばうつもりなの?

 ……だって、あたしにも加賀にも、あそこが必要なの。あたしたちの酸素なの。

 先行ってるよ。そう言って先輩が部室を出て行く。塗装のはげたロッカーのドアを勢いよく閉めて、あたしはその背中を追った。


 その日の帰り、部活終わりのメンバーに「忘れ物をした」と嘘をついた。誰もいない校舎まで戻り、加賀の下駄箱に参考書を突っ込む。加賀の書いたルーズリーフには、あたしのかわいげのない字で「了解」の二文字が追加された。

 ……秘密の交換日記なんて、たいがいあたしも小学生だ。

 西日の差す下駄箱の前で、あたしはまた小さく笑った。

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人魚と潜水艦 神山はる @tayuta_hr

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