人魚と潜水艦
人魚になりたいの。
そう答えたときも、加賀の表情はほとんど変わらなかった。ゆっくりとあたしの顔から視線を外し、手のひらで丸い照明を転がす。
「奇遇だな」
淡々とした低い声は、今までよりも少しだけきっぱりとした口調だった。加賀の視線がすっとあたしの視線とつながった。
「おれは潜水艦になりたい」
「潜水艦?」
「そう。海の深いところまで潜れる船」
「知ってるよ、それくらい」
「似てるだろ」
「何に?」
「人魚に」
似ているのだろうか。人魚と潜水艦が。
「変なやつ」
思わずつぶやいていた。人魚と潜水艦を似ている、という感性も、こんな場所によくわからない水中照明を持ってくるのも。
加賀の無表情の顔に少しだけ不満げな色が浮かんだ。
「そっちこそ」
「あたしは泳いでるだけ」
「人魚になりたくて?」
「そっちこそなんで潜水艦」
照明のほのかな光の中で、あたしたちはしばらく睨みあって、それからどちらともなく声を出さずに小さく笑った。夜のプールで口に出したあたしたちの夢は、どちらも、高校生とは思えないほど幼稚で現実味がなかった。
そういえば、と思う。
笑ってるの、初めて見たな。
服、着れば、とまだ笑みを残した加賀に言われ、ようやく、あたしは自分の身体がずいぶんと冷えて乾いていることに気がついた。脱ぎ捨てていた服を水着の上から羽織る。加賀はもうとっくに無表情に戻っていて、プールサイドにしゃがみこんで消えた照明をいじっていた。
「それ、何なの」
何となく、しゃがみこむ加賀の隣に私も腰を下ろす。
「水中照明」
「それはさっき聞いたよ」
「……潜水艦のかわり」
「……加賀って、説明が下手」
加賀は何かを返そうとして、わずかに眉を寄せた。
あ、この表情、見たことあるな。
無表情の中に少しだけ混ざる、苦しさ。その微妙な表情は、教室でも時折見かけることがあった。加賀の中には繊細で明確なイメージがあるのに、それを上手く表す術がわからない。そんな顔。
「こういうことを話すの、苦手なんだ」
なおも眉を寄せながら言うので、あたしはいいんじゃない、と答えた。
「まだ時間はたっぷりあるよ」
丸みを帯びた月の光が水面を洗っている。闇はしっとりとあたしたちを覆っていて、夜が明ける気配はちらともなかった。
しばらく、あたしたちは黙ってプールサイドに座り込んでいた。
加賀のゆっくりとした呼吸の音が聞こえる。
規則的な深い呼吸。
遠くから聞こえる潮騒みたいだな、と思いながらそれを聴く。
「小さい頃から、人見知りがひどくて」
潮騒が声に変わったのは、月の位置が少し地上に近づいた頃だった。
「誰かと話すのが怖かった……大人でも、同級生でも」
「うん」
「どうしてか、言葉ってものを信用できなくて。自分が話す言葉も、相手が話す言葉も、本当の心からは離れて薄っぺらくなってしまうものだと思ってた」
「うん」
「だから、ずっと言葉の裏側を探ってた。酸素が足りないみたいに息苦しくて疲れて、学校、よく休んでた。いつ不登校になっても、おかしくなかったと思う」
「うん」
「そんなときに、本で潜水艦のことを知って、いいなあ、って思ったんだ。こういうのがいいなあって。苦しい苦しいともがくんじゃなくて、静かに受け止めて、この世界の底のほうを、ゆっくり生きていければいいのにって」
「それで、潜水艦」
「うん。でも思うのとできるのは、違うから」
「その照明は?」
加賀の顔を見ないままで聞いてみると、小さな間があった。
「これは」
ささやくような声が続く。
「これは、おれの分身みたいなもの。これを沈めて、水の奥から光っているのを見てると、自分が潜水艦になったみたいに思えるから。ちょっとだけ、息苦しくなくなるから。笑うかもしれないけど」
「笑わないよ」
うん、笑わない。
あたしは前を向いたまま頷いた。全然笑えなかった。加賀の考えていることは、あたしよりもずっとちゃんとしている。
「だって、加賀は生きるための潜水艦じゃない」
苦手なものに囲まれた世界でも、加賀はその中で生きていきたいと思っている。そのために潜水艦になりたいと思っている。
「あたしは逆。逃げるために人魚になりたいの」
意味がわからないのか、隣から返事はない。
あたしはすっと息を吸って目を閉じた。まぶたの裏に浮かんでくる、細い手。白いシーツの上に投げ出されたそれに、透明なチューブが這っている。指先が何かを探すように震える。
「あたしは、この世界から逃げ出してしまいたい。お母さんみたいになりたくないの」
奈智、なち、なち。
かすれた声が何度もあたしを呼ぶ。いつまで経っても消えない。
「お母さん?」
疑問を含んだ加賀の声。目を開けて、その声のほうを向いてみる。加賀はあいかわらず感情の見えない顔で、そのことにあたしはなぜか少しほっとした。
「あたしのお母さん、中学の頃に死んだの。病気で。徐々に身体が弱っていって、お母さんはそれでも生きようと必死で、チューブにつながれて、最後には折れそうに細い死体になっちゃった」
死体、という言葉に加賀の眉が少しだけ寄った。
「それを見て、嫌だと思ったんだ。こんなふうにはなりたくないって。いっそ人魚みたいに、水の泡になってしまえたらいいのに。思い出も死体も名前もいらないくらいに、すっかり世界から消えてしまえたらいいのにって」
ね、加賀とは真逆でしょ。
少し口角を持ち上げてみる。自分の母親の死体を見ながらそんなことを考えるなんて、我ながら頭がどうかしている。冗談めかしてみないと、さすがの加賀でも引くだろう。
「入野は」
あたしの顔を見て、加賀はゆっくりと呟いた。
「怖かったんだな」
予想外のその言葉に、あたしは中途半端に口角を上げたまま固まった。
病院の薬臭い空気。
シーツの不自然な白さ。
骨の浮き立つ腕。
点滴チューブ。
自分を呼ぶ声。
心臓の止まる電子音。
乾いた肌。
一瞬でフラッシュバックするあの日。あのとき、あたしは。
「ごめん」
加賀がいきなりそう口にした。
「どうして謝るわけ」
「だって」
泣かせるつもりはなかった。
こちらを伺うような加賀の声に、あたしは初めて自分の視界が水底みたいに揺らいでいることに気がついた。慌てて上を向く。瞬きしたら、そのまま頬に流れてしまうから、必死にまぶたに力を入れる。
びっくりした。
母のことを思い出して泣くなんて思わなかった。病院で最期を看取ったときも、葬式のときもあたしの目は乾ききっていたのに。
「何であんたがわかるのよ」
あたし自身がわからなかったのに。
「何が?」
「ううん、何でもない」
「おれは」
「うん」
「やっぱり、似てると思うよ」
「人魚と潜水艦が?」
ううん、おれたちが。
一言ずつ区切るように、加賀は話す。
「生きるには酸素が足りないよ、おれも、入野も。この世界に普通に生きている、それだけのことに、戸惑ってしまうくらいに」
淡々とした加賀の声を聞きながら、そうだね、と答えた。
世界という広い水中でもがきながら、苦しまない何かになりたいと願っている。決してなれない何かに。その点では確かに、あたしたちはよく似ていた。こうして、夜のプールに忍び込んでしまうようなところも。
「みっともないところが、よく似てる」
返事をするように、加賀が電源を入れた丸い照明を投げた。ぼちゃりと重い音を立てて水が跳ねる。プールの底から淡い光が届く。ぼんやりと光る水を見ながら、あたしと加賀はじっと夜の闇に息をひそめていた。
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