真夜中に

 熱帯夜のなまぬるい空気を吸い込む。何となく甘い気がする。たぶん気のせいだ。

 深夜一時十二分。

 あたしはビニール製のバッグを前かごに押し込んで、自転車を走らせていた。車も通らない道は赤信号なんて意味もなく、かまわず突っ切れば、心地よい背徳感が背筋を抜けていく。

 やがて、見慣れたコンクリートの建物が視界に入る。あたしは少し離れた空き地に自転車を止めた。万が一ばれたときに、特定されないためだ。重たげな鉄の裏門の前に立ち、あたりを見回す。人がいないことを確認して、あたしは、脇の花壇を利用して裏門を乗り越えた。セキュリティもへったくれもない。明かりのない渡り廊下を突っ切れば、塩素のにおいがぷんと鼻をついた。

 壊れたフェンスに体を押し込むようにすりぬける。黒々とした水をたたえた水槽が、そこに広がっていた。

 真夜中のプール。

 それが、あたしの目的地だった。

 水着の上に着込んでいたTシャツとショートパンツを脱ぎ捨てて、プールの縁へとしゃがむ。足先を水に浸せば、ちゃぷり、と暗い水が揺れた。幾度か水をかけてから、するりとプールに身体を落とす。一気に顔まで沈む。肌を包む液体。全身へ染み込んでいくつめたさ。ぷはっと顔を上げれば、暖かな風が頬を撫でた。

 始めたのは、この高校に入ってからだった。

 忘れ物を取りにきて、真っ暗なプールに気づいたときから。誰もいない夜のプールで、好きなだけ泳ぐことが、あたしのひそかな楽しみになった。悪いことだとはわかっている。たぶん学校の誰も、あたしがそんな不良だなんて思わないだろう。

 それでも、夜のプールはとても静かで自由だった。

 ゆっくりと水をかき、プールの真ん中へと進む。力を抜いて浮かべば、髪が水の中で生き物みたいに動くのがわかった。満月になりかけた月を、ぼんやりと見つめる。淡い黄色の光に顔をさらして、深呼吸をする。

  気持ちいい。

 このままずっと、こうしていたい。

 帰りたくない。

 細い手首が脳裏をよぎる。息混じりの声を思い出しそうになって、あたしは慌てて首を振った。

 そのときだった。

 がしゃん、とフェンスが鳴った。

 びく、と身を起こす。息を潜めて周囲を見渡す。あたしが通ってきたのと同じ場所から、すくりと黒い影が立ち上がるのが見えた。針金のような細い影だった。

 夜中にうちのプールの水がぼんやり光ってるんだって。それで、プールサイドにじっと人影が立ってるんだってさ。

 いつか、汐里が言っていた話がよみがえる。

 あの日から何度か、夜のプールに忍び込んだ。けれど水が光っていたことなんて一度もなかった。

 歩き始めた影は、あたしの荷物を見て先客に気づいたらしかった。

「……誰?」

 低い声が響いた。思ったよりもその声が落ち着いていて驚く。黙ったまま、プールサイドに立つ影に目をこらす。通報するような相手なら、出て行くわけにはいかない。半袖の白シャツが闇に浮かび上がって、胸元に校章が刺繍されているのが見えた。在学生なのだ。

入野いりのだろ」

 突然、低い声がそう言った。

 思わずひゅう、と息を飲む。

それはまぎれもなく、あたしの名前だった。

「……誰」

 水の中から声をかける。

 影は黙って、持っていたカバンから何かを取り出した。そして、こぶし大のそれを、プールへと放った。ぼちゃん、と鈍い音がする。慌てて水を覗き込むと、ぱっと視界が明るくなった。

 影が放ったのは、丸い発光体だった。

 水底に沈んだ丸い物体が、やわらかく光を放つ。プールの床に引かれた白いレールラインが浮かび上がる。

 それは何だか、すごく、綺麗な光景だった。

 海の底から太陽を見ているような、そんな気分だった。

 惹かれるようにして、あたしはいつの間にか、深く潜っていた。間近で見てやっと、それが丸い照明だとわかった。手にとっても、熱くはない。拾い上げて水の上に上がると、プールサイドがふわりと白んだ。

「やっぱり、入野だ」

 また低い声があたしを呼ぶ。

 うっすらとした光の中で、切れ長の目があたしを見下ろしていた。何度も見たことのある、あの目だった。

「……加賀」

 光るプール。立ち尽くす人影。

 幽霊の正体は、加賀修一だった。

「どうして」

 あたしのこと、と聞き終わる前に、加賀が「……上がれば」とそっけなく視線を流した。プールサイドに上がると、顔に張り付いた髪から雫が落ちる。タオルを羽織ったあたしは、無言で加賀の放った発光体を差し出した。

「どうも」

「なに、それ」

「水中照明」

 そっけない返事。受け取った水中照明を手でもてあそぶ加賀は、学校にいるときとは違い、ちゃんと口をきいた。

 そのまま何も言わずに立っている加賀に、あたしは羽織っているタオルの裾をぎゅっと握りしめた。自分だけの特別な時間を、誰かに見られたのが嫌だった。邪魔されたくなかった。あたしだけの時間、あたしだけのものだったのに。静かな怒りが、指先を震わせた。

 こいつは、さっきすぐにあたしの名前を呼んだ。

 加賀はあたしが夜のプールにいるのを知っていた。知っていてここにきたのだ。

「何しにきたの」

「そっちこそ」

「わかってて来たんでしょ」

 思わずそう切り込むと、加賀はすっと顔を上げた。色白のとがった顎、閉じられた薄い唇、そして黒髪の下でじっとこちらを見る切れ長の目。神経質そうなその顔は、相変わらず表情が弱く、怒っているようにも泣いているようにも見える。

「うん、ごめん。わかってた」

 素直な返事だった。

「どうして」

 どうして知ってたの、という質問をそう折りたたんで尋ねた。加賀はゆっくりと瞬きをして、口を開く。

「よく来るから、ここ。前に来たとき、聞こえたんだ。誰かが泳ぐ音」

「あたしのこと、どうしてわかったの」

 加賀はすうっと、あたしの足元を指差した。そこにあるものを見て、あたしは唇を噛む。それは、水泳部でも使っているビニール製のバッグだった。学校でこれを見た加賀は、あたしが夜のプールで泳いでいた人間だと気づいたのだろう。

「おれからも、聞いていい?」

 加賀がまたゆっくりと瞬きをする。自分を落ち着けるための癖なのだろうか。

「どうして、こんな時間に泳いでるわけ」

 そのとき、どうしてそう答えたのか、あたしはよくわからない。夜のプールの雰囲気にのまれていたのかもしれないし、水から上がった身体が凍えて、そちらに気をとられていたのかもしれない。けれど、それはある意味とても正直で、的確な答えだった。

「あたし、人魚になりたいの」

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