人魚と潜水艦
神山はる
プールサイドの幽霊
ノイズのような音が、途切れなく聞こえていた。
グラウンドに真夏の日差しが照りつけて、白線をきりりと浮き立たせる。コンクリートの古びた校舎も、風にこすれるサクラの葉もみんな、度の強い眼鏡をかけたときみたいに輪郭が濃くなる。そのひとつひとつの主張の激しさに目を向けながら、世界から飛び出してしまいたい音なのかな、とあたしは思った。あの子たちはこの街の「風景」から飛び出したくて、こんなふうに、ぎりぎりと音を立てているんじゃないだろうか。
「蝉が鳴いているねえ」
すぐ隣でつぶやく声が聞こえて、あたしは、ああ、そっか、と気づく。
「これ、蝉の声か」
「何言ってんの、
当たり前でしょ、と
言われてみればしごく当然で、あいかわらず途切れることなく聞こえてくる音は、いつもと同じ蝉の鳴き声だ。
「ううん、何でもない」
そう言って、自分がいま考えたことを脳みその奥にしまいこんだ。
「奈智、あたしもう無理。暑くて溶けそう」
「いくら公立高校だからって、夏期講習にエアコンつけないのはひどすぎるよねえ」
「そうよ、こっちは真面目に勉強に来てるのにさあ」
「『真面目』に?」
「そうそう、私ったら超真面目」
意地悪に聞き返してみると、汐里がにやにやと芝居がかった答えを返した。
夏休みに学校で行われる夏期講習は、いちおう希望者制ということになっている。もちろん大半の生徒は「親に言われたから」「みんな参加するから」程度の意識で、受験生でもないあたしたち二年生のクラスでは、後ろのほうであくびを噛み殺している人も多い。この高校は県内では中の上レベルで、全員が大学進学できれば御の字といったところだ。
「でも水泳部はいいよねえ」
汐里があたしを恨めしげに見上げた。
「この暑い時期に、好きなだけプール入れるじゃない」
「夏だけ大会のラッシュがすごいけどね」
「でも奈智はけっこういいタイム出すんでしょ」
「せいぜい県大会レベルだよ。それにあたし、あんまり大会に興味ないし」
「いいじゃない、せっかくの青春、輝いて損はしないよ」
「汐里も水泳部に入れば?」
「嫌、私がそういうスポ根苦手なの知ってるでしょ」
かくいう汐里は完全な帰宅部だ。無駄な汗はかかない、効率よく世間を渡る。それが汐里のモットー。さりげなく巻いた髪も、短すぎないスカートも、透明に近い桜色に染まった爪も、すべてが計算してあくまで自然に整えられている。クラスの中間層にさらっと溶け込んで、誰にも変な印象を持たせない。
「暑いー。やっぱり、奈智に紹介してもらって水泳部入ろうかな」
ブラウスをつまんで風を入れながら、汐里があながち冗談でもなさそうな口調で、窓の外へ目線を落とした。
視線の先にある誰もいないプールは、あおみどり色の水面が静かに光っていた。白い水鳥が一匹、プールサイドに立ち尽くしている。
ここから飛び込んだら、ひれが生えたりしないかな。
頬杖をついて水面をながめながら、あたしは紺色のスカートの下で両足をゆらゆらさせた。どんなに水泳部で鍛えた足も、ひれにはかなわない。
青くて透明な世界が頭に浮かぶ。水の中の世界。ひれを手に入れたあたしは、その中を自由に泳ぎ回る。長い髪が揺れて、水底からずっと上を見上げてみると、きらきらと光と影が踊る。やがて、誰かがあたしを呼ぶのだ。あたしは満足げに微笑んで、目を閉じる。指先が、ひれが、肌が、感覚を失っていく。すべてが水の泡になって、光の先へ上っていく。あとかたもなく、消えていく。
おとぎ話の人魚のように。
それができたなら、どんなにいいだろう。
そう願うからこそ、あたしは……。
「ちょっと、奈智、聞いてる?」
目の前で、白い掌がひらひらと振られた。
「え、あ、ごめん。ぼーっとしてた」
「だから、出るらしいよ」
「出る?」
「そう、うちの高校のプールに。幽霊がさ」
どきり、と心臓が鳴った。
普通に息をしようとしたのに、喉にひっかかって上手く吸えない。思わず身を乗り出していた。
「それ、誰が言ってたの?」
「隣のクラスの子。その子、ちょっとオカルト好きなの」
汐里が両手でどろん、と幽霊のポーズを取る。
「その子が言うには、夜中にうちのプールの水がぼんやり光ってるんだって。それで、プールサイドにじっと人影が立ってるんだってさ。毎晩じゃなくて、ときどき」
……違う。小さく息を吐きながら、あたしは体勢を戻す。
「水が光るんだ」
「そう、なんか幽霊っていうより魔法使いって感じだよね」
ネイルの剥げ具合を気にしていた汐里が、あ、と声を上げた。
「いけない。別のクラスの子に渡すものあるんだった」
「次の講習始まるまで、あと三分あるよ。間に合うんじゃない」
ごめんちょっと行ってくる、と汐里が小走りに去っていく。
あー、びっくりした。
あたしは周囲に悟られないように、ゆっくりと深呼吸をする。夜のプール。その言葉に思い当たる節があった。しかし、どうやらそこには、あたしの知らない幽霊とやらがいるらしい。
汐里が出ていったドアのほうを見やる。ちらり、とドアの近くに座っている男子生徒と目があった。切れ長の目があたしを見つめ返し、すぐにさっとうつむく。白い横顔は手元の文庫本を向いていた。
まただな。
あたしはその姿を一瞥して、視線をそらす。彼、
チャイムが鳴る。ドアから汐里が小走りで戻ってくる。
先生が額の汗を拭きながら教室に入ってきて、あたしの思考は数学の公式へと移っていった。
それでも、頭の奥に、光るプールのイメージがずっと残っていた。
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