第169話:獲得 ~薬に足は掬われない~

 春日から大切な話があるというメールが、澤田のメールアドレスに直接届いた。デビューの話である、とのことらしい。アヤナが春日に仕掛けたのだろう。本来なら、仮にもアイドルグループのメンバーが夜な夜な男と遊びに行くなど許されるはずがないのだが、その相手が春日となれば話は別だった。


 アヤナには好きに任せていたのだが、またうまくやってくれたらしい。このグループに後から加入した後発メンバーとして頑張っているのだろう。また一袋ほど覚醒剤ミントをボーナスとして与えてやることにしよう。


 春日の指定した場所は、東京のはずれにある小さなバーだった。彼の兄も行きつけにしている場所だという。普段は何事につけても主導権を重要視している澤田だが、春日の獲得に限っては話が別だ。何があってもこの男を獲得し、東の後任として溜まりに溜まっている仕事をさせなければならない。


 とはいえ、春日の獲得はそんなに難しくないだろう。今までの感触は上々、アヤナの報告も問題ない。

 はずだった。


「デビューの話はお断りしようと思います」

 にこやかに、しかしはっきりと春日は断った。澤田は思わず視線を落として、カウンターの隣に座る春日のしなやかな肩、腕、指先、そして流れるように組まれた足、靴まで進んで顔を上げる。長いまつげの隙間から見える色の薄い瞳がじっと澤田を見ていた。

「……理由は?」


「僕はもう、芸能界に戻るつもりはないので」

 まごうことなき春日の本心だった。自分の演技力ならいくらでも嘘を捻りだすことができるのは分かっていたが、澤田に嘘をつく意味など特になかった。


「兄のことは尊敬していますし、芸能界の華やかさは僕の憧れであることに変わりはありません。でも僕は大学卒業を機に芸能活動を辞めました。澤田さんにお誘いいただいて、迷った部分はあるんですけど、やっぱり僕は戻りません」

 春日はゆっくりと首を振る。澤田は驚きを隠しきれていないのが春日にはわかった。そりゃそうだろう、と春日は心中で納得している。


 自分は澤田が欲しがる人材を完璧に演じきった。ずっと好感触を抱かせていた。如月アヤナにはわざとデビューをちらつかせた。たとえ内緒だと言ってもどうせ澤田に絶対服従なのだから、口止めしたところでペラペラ喋ることも織り込み済みである。あの酔っている状況では、せっかく喋った内容を彼女が忘れて澤田に伝わらないかもしれないと不安にはなったが。

 そして、絶対服従の手下の言うことは、澤田は恐らく信じるだろうということも織り込み済みであった。


 アヤナとの食事は、単に彼女から情報を聞き出すだけの場所ではない。こちらから澤田に売り込みをかける、そのような場所であった。

 売り込まれているとも知らない澤田は、春日に急に振られたとなればショックを受けて当然である。

 売り込みが成功しているか不安だったが、今の反応を見るに成功だったらしい。


 元々、澤田が東の代わりを欲しているだろうというのはパーティーの時から薄々察していた。東が澤田の元で何をしていたかも春日は知っている。東は澤田の忠実な手駒として実に多くの役目を負っていた。いきなり逮捕されては澤田にとっては大きな痛手のはずだ。その痛手を、春日は正確に狙ってみせた。


 しかし、澤田のデビューの話に乗ることは最初からあり得なかった。犯罪者の力を借り、兄の名の下で再デビューしてしまえば、兄の名に傷がついてしまう。兄の顔に泥を塗らずに澤田を逮捕することはできない。


 兄に迷惑をかけることは春日の本意ではなかった。


「僕なんかに再デビューのお話なんて、本当にありがたいお話でした。だからこそ迷ったんですが、申し訳ありません」

 春日は澤田に丁重に頭を下げる。戸惑う澤田に春日はたたみかけた。

 

「澤田さん、申し訳ないんですが、僕とはもうこれっきりにして下さい」

 春日はおもむろに立ち上がり、澤田に背を向ける。澤田は思わず春日が机についていた手首を掴む。

「……待ってくれ」

 背の高い春日が振り返った。そしてその整った顔にわざと乗せた無表情をこちらに寄越す。

覚醒剤ミントのことも、警察に言いますね」

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