第170話:買収 ~その強さにはきっと勝てない~

 澤田は春日の手首をしっかりと掴んで離さなかった。長身の現役警察官に握力で押し勝てるのだから、やはり澤田は生き馬の目を抜く裏社会でもそれなりの地位にいただけのことはある人間だ。


「……待て」

 ぎろりと睨まれたが、春日には蛙の面に水だった。

「何故です? 僕は意見を変えるつもりは――」

「これで黙っていてくれないか?」


 澤田は懐から白い袋を出す。春日の腕を掴んだまま立ち上がった澤田は、袋を春日の目の前でちらつかせる。薬物濫用者なら、確実に手を伸ばすはずだ。素面のふりをしているが、春日は目の色を変えないではいられないに違いない。

 最高純度のこの粉を使った人間が、しかもパーティーであれだけの量を使われた人間が、依存症にならないわけがないのだから。


 よかった、と澤田は安堵していた。普段は捜査を恐れて覚醒剤ミントの袋など滅多に携帯しないが、今日は念のために用意していたのが吉と出た。やはり覚醒剤ミントは強力な切り札だ。交渉ごとの時には欠かせない。


「これがミント?」

 春日の口調が急に変わった。目の色も明らかに変わっている。

 これは確実に効いている。澤田は心の中でほくそ笑んだ。

「ああ。純度百パーセントの本物だ」

 澤田ははっきりと頷いてみせた。


 この白い粉は、ある者に対しては金よりはるかに強い力を持つ。彼らには、この白い粉の魅力は本能レベルに刷り込まれるものとなる。絶対にその本能に反抗はできない。そして、春日は、そのある者の一人だ。


 確信があった。その余裕は表情に広がる。目を大きく見開いた春日が手を伸ばしてくるのを待った。


 だが春日は手を延ばそうとはしなかった。色気ある手が懐に入ったかと思うと、素早く何かを取り出してガシャンと手首にかける。手錠だ。

「え?」

 澤田は金属の腕輪が掛かっている両手首を見下ろした。自分の手にはまだ白い粉の袋が握られている。その光景を受け入れられず、澤田は手と袋と春日の顔を順番に眺めていた。

「どうして……」


「覚醒剤の所持やな。覚醒剤取締法違反で現行犯逮捕や」

「嘘だろっ」

 手錠の鎖がガチャガチャと音を立てる。だがそれが外れるわけもない。

「自分で覚醒剤を持ってるとバラすからこんなことになるんやで? なーにが純度百パーセントの本物や。アホやなぁ」

「なぜ……これを目の前にして手を伸ばさずにいられるんだ……?」


「なんや、これで買収するつもりやったん? 俺も舐められたもんやなぁ」

 春日はにやりと笑って、携帯電話を取り出してしばらく触っていたかと思えば、どこかに電話をかけた。

「県警の春日でーす。芸能人覚醒剤密売事件の売人の澤田行彦、覚醒剤所持の現行犯で逮捕しました。応援お願いしまーす」

 電話を切り、鷹揚にポケットに携帯をしまった春日は、ニヤリと笑う。


「俺のこと、覚醒剤中毒者やと思ってたんやろ? 残念やったな、あれは演技や」

「演技だと!? 覚醒剤は一度使えば一発で中毒になるはずだ。貴様、何回も使ってただろうが! 俺がこの手で貴様に打ったんだ、間違いのはずがない!」

「プロデューサーの化けの皮剥がれて、組員の顔出てるやん。あんた、抱えてるアイドルたちと違って、全然演技力ないんやな」

 春日の薄ら笑いに、かっとなった澤田は手錠のまま春日に殴りかかる。しかし相手は警察官、春日は澤田の拳をさらりと避ける。そのまま腕を掴み、捻り上げてテーブルに組みふせた。


「俺にはな、覚醒剤は効かんねん」

 ぎゅっと腕を捻り上げながら、春日は澤田の耳元でささやいた。春日の言葉と同時に、張り込んでいた捜査官が駆けつけてきた。澤田は一瞬だけ驚愕の表情を見せて、すぐに苦悶のうめき声を上げた。

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