第168話:未練 ~アイデンティティは揺るがない~

 短期決戦で事件を片付けるめどはついていた。目下の問題は情報課に変わりつつある。いくら面の皮が厚い春日でも、さすがにあの状況でしれっと戻るわけにもいかない。やはりこのまま追い出されるのだろうか、と不安がよぎる。


 いや、もしかして、事件を解決する必要もないのではないか? 戻れない居場所のために、せっせと働く道理なんてない。

 この仕事のために彼女にやられたのだから、と今まで一生懸命に捜査を一人で進めてきたが、それが心の内では馬鹿らしくなっていることに気づいた。


「実は職場に覚醒剤ミントのことがバレちゃってさ。このままだとクビになっちゃうから、そうなったら無職だよね。さすがにそれは俺としてはマズいでしょ。デビューさせてもらえるのなら、真剣に考えたいな」

 唇の前に指を立て、内緒だよと春日は囁いた。このままではクビになりそうなのは確実である。


「デビューできるって確定してるわけじゃないからね。まだ内緒で」

「わかったぁ」

 明日になったら、今話したことも、内緒だということも全て忘れてしまっていそうな溶けた声である。そういえば、この店に来てから彼女がやけにハイペースで飲んでいることに気づいた。別に酒に強い方にも見えなかったから、もうかなり酔いは回っているはずだ。本当に大丈夫なのだろうか、と春日に一抹の不安がよぎる。

 しかし、飲ませてしまったものはしょうがない。酒が多少抜けるのを待って、もう一度言い聞かせればいいだけの話だ。


 眠そうになり、口数の減ったアヤナとは細々と会話していたものの、心はそこにあらず、春日の瞳は既に遠くを見つめていた。デビュー、という言葉を聞いて、どうしても昔の記憶が蘇る。


 昔から芸能界には興味があった。兄がどうやってデビューしたのかは知らないが、自分が子役としてデビューしたのは兄に影響され、自分からやりたいと言い出したからである。高校に入る頃には兄の人気はそれなりになっていて、俳優としてテレビに出ることも多くなった。一方の自分は舞台俳優の道を志した。売れていないのは確かだったが、売れていないから道を変えたのではない。


 兄とは違う、とその頃には痛感していたからだった。

 兄には本物の芝居の才能があった。誰かのためではなく自分のために芝居ができる男だった。誰にも見られていなくても、自分すら騙せるほどの芝居ができる人間に勝てるわけがない。


 一方の自分は、芝居を誰かに見られる方が好きだった。自分が芝居を好きなのは、自分の芝居で誰かを堂々と騙せるのが面白いからだった。だから目の前に大勢の人がいる舞台の方が性に合っていた。カメラを通じて人に見られるより、観客の生の反応を楽しむために芝居をしていた。


 それも結局、女遊びに慣れてからは芝居よりもそちらの方が楽しくなった。自分のまさに目の前で、自分の一挙一動に合わせて反応が返ってくるのだから楽しいに決まっている。


 そして自然と芸能活動はおろそかになった。大学の頃だろうか。売れない、というよりも売れさせる努力をするのが面倒になってきていた。幼いころからやってきた仕事だったから、いつの間にか生活と一体化し、楽しむための趣味にすらなっていた。だから、仕事が無くなっても焦りも何も感じなかった。

 だから大学卒業と同時に、春日は芸能界に特に未練も恨みもなく引退し、安定しているという理由で何の躊躇ためらいもなく公務員を選べたのである。


 もし情報課を追い出されたとして、澤田たちの案に乗り、もう一度俳優で食っていく気が起こるだろうか。モチベーションも薄い自分が。いくら才能があっても、やる気のない人間が売れるほど甘い世界ではない。東の後釜としてのポジションを求められているなら、春日を俳優として使う気なのだろう。


 と、ここまでいろいろ考えてきたが、元から結論は決まっている。横を見るとアヤナはとっくに潰れてしまっていた。

 本当はもう少しやりたいことがあったが、彼女が全く動けないのでは仕方がない。ペース配分を間違えたな、と春日は小さく舌を出し、今から入れる近場のビジネスホテルを探し始めた。


 しかし、春日にはもう一つ、電話しなければならない用事があった。実はそちらの方がよほど気が重い。アヤナを起こし、タクシーを呼ぶ。電話を明日に先送りする理由ができて、ほっとしていないと言えば嘘になる。

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