第99話:原始 ~私は何もしていない~

「そもそも、ダブルエージェントだなんて無意味なんですよね」

 三嶋は机の上で手遊びを始めた。

「私が潜入するまで、『大地の光』の本部は、完全なブラックボックスでした。潜入したとして、得られた情報をどのように送るか、事前に決めようがなかったんです」

 当然のことを冗長に並べ立てる三嶋に、富士が苛立ちを募らせていくのがわかる。


「だからどうした」

「土曜のお話会のとき、一度だけうちの者が相談者のフリをして来たんですよ。そこで私は、彼に情報を送れないことを伝え、潜入中には一切の情報を送らないとも伝えました。つまり、私が逃げ出して初めて警察に情報が伝わるんです」

「そんな無茶な……」

 

 富士の言葉に三嶋はため息をつく。

「そりゃ苦肉の策ですから。私だってそんな方法取りたくありませんでしたし、警察側だってできるだけ新しい情報が定期的に欲しい。伊織さんの逃走方法はわかっていましたから、逃げ出せないということはなかろう、ということになってました。まさか弥恵さんの手によって、ここまで逃走の難易度が上げられているとは思いもよりませんでしたが」

 三嶋はそう言って、新聞に載った坂上弥恵の名前を爪で弾いた。


「だが、そんな状況じゃ情報は持ち出せないはずだ」

 なおも富士は噛み付く。こりないなと三嶋は苦笑した。

「持ち出せますよ。否、持ち出しました。だからあなたを逮捕できたんですよ」

「そんな馬鹿な」


 三嶋が脱走する以前から、彼には常に監視がついていた。三嶋があの日、情報を入れた何かしらの媒体を持ち出せるわけがない。そもそも三嶋が媒体を手に入れることができるはずはない。富士はそう言いたいのである。


「科挙ってご存知ですか?」

 富士は突然の話題転換についていけずぽかんとしていたが、三嶋は構わず続ける。


「昔の中国の国家公務員試験です。とにかく難易度が高いので有名なんですが」

 三嶋の受けた国家公務員試験Ⅱ種ですら、生易しいものではなかった。Ⅰ種をもはるかに超える難易度の科挙など、恐怖の域である。


「当然、カンニング野郎もよく出没したそうです。その手段のひとつに下着にカンニング内容を書くというものがありましてね」

 細かな文字が裾に至るまでみっちり書き込まれたシャツは、科挙の熾烈さを示す有名なものだ。社会の資料集あたりに写真が載っている。さすがにそれが富士の記憶に残っているとは考えにくいが、そう言うだけでおおよそ察したらしい。


「信者は白服を着なければいけないので洗濯が多いんですよね。どさくさに紛れて、下着を一枚余分に確保するのは簡単でした。それに、教団で使っていたあの安物のボールペン、あれゲルインクじゃないので表に染みないんですよ。カンニング用の下着を着ても服の上からわかるものではないんですよね」


 教団が私物をほとんど与えないスタイルだったのが助かった。全てのものは共用なのだから、誰のものでもないボールペンは潤沢に用意されていた。その大量のボールペンの数をいちいち確認するものはおらず、くすねるのは容易だった。


 前日の夜に亮成からスーツを預かった三嶋は、ズボンの裾に千円札が仕込まれているのに気がついた。一カ所しかない監視カメラの目を盗むのは難しいことではなかった。千円札に書かれた指示をチェックしてスーツの裾に戻し、当日の朝に、普段用のシャツと混ぜておいてあった「カンニング用」シャツを着た。三嶋がしたのはそれだけだ。

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