第97話:裏金 ~千円札は使わない~

「……そこまでしたってのか」

「ルーフの鍵なら合鍵を一つ作るのに五百円もしませんから、二回も食事を我慢すれば十分作れますよ。彼は食事を十数回ほど浮かせていたそうですから、一回数百円浮いたとして、六千円ほど所持金を持っていたことになります」

 薫は教団の金を数十円をくすねることすら難しいと言っていた。凄まじい根気である。


「だから私がスパイだと判明した時、彼から近づいてきたんです。志穂さんと亮成くんの願いを晴らすことのできる唯一の人間であるスパイが現れたんですから」


 三嶋はその時の亮成の目を忘れられなかった。生きているのか死んでいるのかも怪しいその目に、何か強い執念が見えた。三嶋すらぞっとさせるほどの目力の中には、たった一度のチャンスを逃したくないという緊張も滲んでいた。


「だが、あの日お前と亮成が接触できる機会なんかなかっただろう? あの場には薫だっていたんだから」

「ルーフの鍵はタイヤの上に乗せられていましたよ。決行日さえ分かっていれば、それまでに合鍵を所定の位置に乗せるだけです。私はそれを回収してから、あの日兄に会いに行ったんです。直接の接触はありません」


「お前が逃げたあと、駐車場だって確認した。お前はいなかったじゃないか」

「駐車場を確認したのは亮成くんですよ」

 あの時、亮成はルーフを少しだけ開け、三嶋に「頑張れ」と呟いてルーフを閉めた。三嶋には忘れられない一言だ。


「…………」

「まあ、彼が駐車場を調べるのは自然な流れですよね。車を最もよく使うのは彼でしたし」

 富士の目尻がひくついた。彼がどんな思いでいるか、三嶋には手に取るようにわかる。仮にも幹部の宮崎亮成を、雑用係および運転手として酷使していたツケが回ってきた悔しさである。


「私がスパイだと発覚した時に偶然にも自白剤にかけられることのなかった薫くんを利用すると決め、そして薫くんがあの日のお目付け役になると知って決行日を決めたのは亮成くんの方でした。買い出しのついでに私のスーツをクリーニング店から受け取って帰ってきた彼がズボンの裾にこれを仕込んでいたんです」


 三嶋はスーツの内ポケットから、くしゃくしゃになった千円札を取り出した。その左上には、『明後日決行。鍵は左前輪の上』と鉛筆で小さく書かれている。

「実際には更に千円札をもう二枚もらったのですが、そちらは逃走用資金として使わせていただきましたのでね」

 クリーニング屋で受け取ったスーツの裾の縫い目を一部破り、細く折った千円札を入れる亮成の気持ちは、どのようなものだったのだろう。


「私は警察の人間ですから、亮成くんはきっと私が伊織さんから逃走方法を聞いていると考えたのでしょう。決行日とルーフの鍵の場所さえ教えれば、あとは大丈夫だと。伊織さんはルーフの中で三日耐えたそうなので、その話も私が聞いていると考えたんでしょうね。ドンピシャでした」

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