第85話:蕎麦 ~彼女は気持ちを隠せない~

 県議会選挙まで、無駄にできる時間はない。三嶋がダブルエージェントとしてデビューする日はすぐに訪れた。といっても、三嶋が兄と今まで通り会食を行うのは変わらず、そこに録音が加わったにすぎない。


 三嶋にとって面倒なのは、お目付け役として幹部が選ばれるということだ。その幹部は毎度毎度違うが、あの時教団にいた幹部は皆、三嶋とほぼ同じタイミングで自白剤にかけられている。おまけに、そのお目付け役が三嶋を送り出したところから録音が始まり、食事を終えた三嶋を車が拾い上げるところで録音が終わるという難所がある。おかげで録音をすり替えることができない。こういうところで抜け目のない教団である。


「富士さん、録音が手に入りました」

 三嶋が会食を終えて数時間後、辻が朗報を持ち込んできた。

「録音? あの三嶋の兄って奴に情報を流した件についての話か」

「はい。それを文字に起こしたものがこちらになります」

 辻は数枚のコピー用紙を手渡した。


久しぶり。

 

 この日、お目付け役だった関が三嶋を料理屋に送り届けて初めの声は、三嶋から兄への挨拶だった。


博実、どうしたんだ急に。

いや、ちょっと話があって。

いいけど、忙しいから少しだけだぞ。

うん、大丈夫。

俺はざるそばで。

僕は……。そうだな、かけうどんを一つ。


 料理を注文してしばらくは雑談だったが、すぐに話は核へ至る。


あの話だろ? 警察のやつ。

うん、兄貴から僕の上司に伝えて欲しいんだけど。

いいよ。何て言おうか。

教団の目的が分かったんだ。

聞かせてよ。

金だよ。結局は。

金を集めてどうするんだろう。

幹部がいい暮らしをするためだと思うよ。贅沢な生活送ってるし。

じゃあ博実もいい暮らしできるんだ。

まあね。でも、警察としては、ただ金をため込んで使うだけの宗教団体に手は出せないからね。そのうち、手を引くことになりそう。

そうなんだ。

この番号に電話して、僕が今言った内容を伝えてよ。

わかった。このメモ、処分しとこうか?

うん、お願い。


「なるほど」

 読み終えた富士は目を細めた。

「音声の内容から明らかなとおり、教団の真の目的は警察には伝わっていません。警察には偽の情報が伝わったことになります。最終的には、捜査の手を引かせることもできるでしょう」

「ほう」

 富士の目が光った。


「これからも、このようにして偽情報を送り続けていこうと思います。同時に、政治面でも良い繋がりを作らせていこうと思います」

「わかった。その通りにやれ。指揮はお前に任せる」

「ありがとうございます」


 辻が部屋を去ろうとしたとき、背中に富士の声がかかった。 

「いい仕事をしたな」

 いつも通りの静かな口調だった。だが、富士の言葉は辻の心にえも言われぬ感動を呼び起こした。

 富士の部屋から地上に続く階段には、明るい鼻歌がうっすら響いていた。

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