第84話:二重 ~受け入れるしか道はない~
「あんたの処置が確定したで」
三嶋が目覚めてから数時間が経ち、ようやく入ってきた辻は静かにそう告げた。
「ほんまやったら、スパイに対する処置は『充分な自己解析』のはずやねんけどな、富士さんがそれはあかんて言いはるんよ。富士さん、ほんま優しい方やわ」
充分な自己解析、それは、公安のスパイたちが受けた処分である。命からがら逃げた沢口伊織は、「死を覚悟した」とだけ記録を残している。詳細はわからない。なぜ情報を残さなかったのか。今、その理由がわかった。
情報を残しても無駄だからである。情報があったところで、自己解析を受ける身になってからの対処はできない。むしろ絶望が増すのみである。とんでもない処分、それだけの情報で十分だった。
「僕は……どうなるの?」
三嶋は恐る恐る尋ねた。
「ダブルエージェントになってもらう、って富士さんが言ってはった」
「ダブルエージェント……」
乾ききった口でつぶやく。随分かっこいい言葉だが、その意味の恐ろしさを三嶋は知っている。
「すごく軽い処分なんやで、感謝しなあかんよ」
「あ、ありがとうございます」
三嶋は頭を深々と下げた。
「ダブルエージェントというのは?」
「別に難しいことやないねん」
辻はそっぽを向き、なにやら手帳に書きつけながら答える。
「博実くんが警察に送る情報に、嘘を混ぜてもらうだけよ」
「う、嘘?」
うろたえるふりをしたが、内心で三嶋は舌を出していた。明らかな嘘をでっち上げるか、あるいは暗号で偽と教えるだけの話だ。
「そうや。単に嘘を送るだけ。こっちでどんな情報を送るかは決めさせてもらうから、あんたはただそれを送るだけでええんよ」
つまり、送る内容は向こうが指定するということだ。三嶋の顔がとたんに渋くなる。辻はそれを見てわずかにほほ笑んだ。
「そんなことをしたら、県警は騙される。そして、県警から情報が流される警察庁と滋賀県警も騙される。そして、警視庁も公安も、全てが僕の情報に踊らされるじゃないか」
「そうや。それがダブルエージェントなんやで」
三嶋は暴れるが、手錠がガチャガチャと大きな音を立てるだけだ。
任務は失敗だ。三嶋が送った誤情報のせいで、この宗教団体は手をつけられない団体になるだろう。このまま戻れば、確実に情報課は首だ。しかし、今ここで拒否すれば『充分な自己解析』、つまり死が待っている。
究極の選択だった。それは辻もわかっている。どう答えるか、辻は楽しみだった。
「わかった。その、なんとかエージェントをやるよ」
三嶋は隙のない笑顔で頷く。
辻はふっと笑って三嶋の決断に応えた。
「今まで、どんな手段で情報を警察に送ったんか教えてもらおかなぁ」
三嶋は軽く頷き、細々とながら全てを話し始める。辻は微笑みながらスマートフォンの録音機能を立ち上げた。
* * *
「富士さん」
富士の部屋の扉をそっと開け、辻が顔を見せた。
「三嶋から自供が取れました。奴がどのようなルートで警察に情報を流していたのか」
辻の言葉に、明らかに富士の目の色が変わる。
「……座りなさい」
「自供では、情報を流すルートは実の兄でした」
辻はスピリチュアルな香り漂う富士の前にうやうやしく膝をついた。
「実の兄? ああ、三嶋の父親の秘書か。何度か会食していたかな」
「はい。三嶋本人が、家族と接触するのであれば父親の秘書である兄がいいといったものですから、つい兄だという男に接触させてしまいました」
辻は慇懃に謝る。だが辻が悪いのではないことは富士にはわかっていた。
「なるほど、兄と二人きりで話をする合間に情報を流していたのか。舐めた真似しやがって……」
富士は珍しく言葉を荒らげ、床を拳で叩いた。
「自供によれば、兄を情報ルートに入れろ、というのは警察の方針だそうです」
辻はうつむきながら勝ち誇った笑みを浮かべた。重要な情報を得ることができたのは自分だ。弥恵を出し抜いてみせた。嬉しさがこみ上げる。
「変わらず奴の兄とは接触させろ。警察に、奴がこちら側のスパイになったと悟られてはならない。食事の初めから終わりまで録音させて、我々の指示通りに情報を流しているか確認しておけ」
「承知致しました。ありがたき教えに感謝致します」
辻は丁寧に頭を下げた。
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