第32話:記憶 ~顔に見覚えなんてない~

「スられたって、お前が?」

 裕にとって、寝耳に水な話である。

「スリがスられるなんて有りえる?」

「……僕は、スリには慣れてますけど、スリ被害には慣れてません」

 言い訳しつつも多賀に余裕はなさそうだった。自分の得意分野で出し抜かれたとなると、やはり相当な精神的ダメージがくるらしい。


 ハプニングが苦手な裕だが、目の前で自分よりもっと焦る人間がいるとかえって冷静になる。


「誰にスられたかとか、いつスられた、ってのはわかるか?」

「それはわかります。ついさっきです」

 多賀によると、ポケットからスマートフォンを引き抜かれた瞬間にスられたとわかったらしい。逃げる相手の後ろ姿は覚えているのだという。


「あの人ですよ」

 裕にそっと耳打ちした多賀は、目線だけで指してみせる。

 見覚えのある中年の男だった。

「あれは確か……」

「廣田のそばにいた男性です。おそらく廣田の部下だと思います」


「部下にスリがいるのか、あいつは……」

 裕の目が眼鏡の下ですっと細くなる。

 それは単に廣田側にスリがいるとわかったということだけでは済まない。

「廣田にバレちゃいましたね、僕らの存在が」

 多賀が頷いて、悔しそうにポケットをさすった。


 こうなると状況は一変する。これから来る章になんと説明しようか。


「誰を睨みつけてるんだ、お前」

 そのとき、背中からふと声がかかった。

 それが誰かわかる前に、なにかがこみ上げた。

「裕、あの男と知りあい?」

 ぐっと硬直する裕の前に、章が姿を現した。


「ごめん。急にいろいろな情報が入って来るのが遅れた」

 章はワインに口をつけた。

 同時に熱田重工の会長による演説が始まり、会場が少々暗くなる。

 裕はいまいち良くない目で男を追いながら、多賀がスマートフォンをスられたという概要を説明した。


「ナオの裏にあいつがいるのか。厄介だなぁ」

 苦笑で漏れた章の息が、ワインの表面をわずかに揺らす。

「となると、以前のパスワードを使っててもおかしくはないな。

 ナオと別れたんだから、もう二度とあんなパスワード使わんだろうと思ってた僕らが間違ってた」


「ナオさんにあの数字が関係してるんですか?」

「してるよ。14しい7 0だろ」

「ああ……」

 なんだ、ダジャレか。


「まあ、スられたのはしょうがないよな。第一、多賀と僕らが出会った時だって、多賀は財布を一回盗まれてたわけだし」

 かつての日を思い出して、多賀は萎縮した。

 確かに、多賀がスリ被害に強くないのは以前からである。


「多賀は知ってるだろ、そのスリのこと」

「さっき、廣田のそばにいたのを確認しました。多分、部下です」

 多賀の言葉に、章は微笑んだまま黙っていた。

「あのさぁ多賀、お前は本当に人の顔が覚えられないんだな」


 突然話題が変わって、多賀は面喰らう。

「確かにそうですけど、急にどうしたんですか?」

「あの男、僕は前からよーく知ってるんだよね。だから、裕は結構頑張って目で追ってるけど実は全然必要ないんだよ」

「え?」


「あいつは多賀が情報課に来たあの日。……その様子じゃ覚えてなかっただろ、多賀?」

 章の笑い声は、会長のありがたいお話にかき消された。

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