第20話:掏摸 ~この事件、インサイダーじゃない~

 スリは盗みを働く時に相手にぶつかる、というのは俗説である。


 少なくとも多賀の場合、相手への衝突はいらない。

 しかし、ぶつからずに内ポケットなる高い位置から標的を抜くのは、少々リスクが高い。幸いトイレ前の廊下は細く、多賀にとっては好条件が揃っていた。


 標的である廣田龍平は、多賀にスマートフォンをスられるなどとは全く予想していないだろう。それどころか、多賀の顔すらよく覚えてない可能性もある。


 迷う暇もなく、多賀はごく自然に廣田に肩を軽く当てた。

 笑顔で放った「すみません」の一言と引き換えに、多賀はスマートフォンを手中にする。向こうもまた笑顔で多賀を許した。廣田は全くスリに気づいていない。


 スマートフォンをスってそのまま入ったトイレの、洋式便器の蓋に腰を下ろした多賀は、ワイシャツの袖で画面を丁寧に拭った。

 途中、どのボタンを押し間違えたか、画面がふっと明るくなる。

 スマートフォンにはパターン認証型のロックがかかっていた。そりゃそうだ。今時、ほぼ全ての人間が自分のスマートフォンにロックをかけている。


 多賀には、このロックを破って証拠を掴みとるという勝算はまるで見えない。

 しかし指令は指令、多賀は完全に指紋を拭き取ったスマートフォンを手中に隠し、トイレを出た。自席に戻る道中に廣田の席があった。廣田はタキシードのジャケットを椅子の背もたれにかけていた。


 内ポケットにスマートフォンを滑らせるのは朝飯前、いや寝ていてもできる。


 首尾よく標的のスマートフォンを戻して自席に帰り、また女性とのトークにも少々慣れてきた多賀は、いつの間にかスマートフォンのことなどまるっきり忘れ、ただ飯と酒を楽しんでいた。


 仕事中であることを思い出したのは、自分の尻ポケット内にあったスマートフォンが鳴り、章からメッセージが来ているのを見つけた時だった。


『この事件、インサイダーじゃない』


 短いが鋭いメッセージに、思わず多賀は章の方を見る。

 章はどうやら机の下で自分のスマートフォンを操作しているらしい。

 談笑し、酒を飲みながらよくやるものである。多賀は舌を巻いた。


 指先が器用であることに自信を持っている身としては、章と同じことくらい、容易たやすくできねばならない。

 片手がずっと机の下にあるのは奇妙なので、打ち込む手を途中で変えつつ、多賀は素早く送信する。


『なぜわかるんですか?』

 返信はすぐに来た。

『奴のスマホを見た』


 合コンが始まって一時間、多賀がスマートフォンを盗って戻してから三〇分ほど。

 どうやってその短時間に、ロックを解除して中身を見て判断したのかは知らないが、不穏な情報である。


『今日はここまで。食事楽しんでおいで』

 章から続いてメッセージが届いたが、どうにも多賀には、食事の続きを楽しめそうになかった。

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