赤い足跡

田辺屋敷

第1話

 目を覚ますと、自宅リビングのソファーで横たわっていた。寝ぼけ眼を擦りつつ体を起こし、ぼんやりと掃き出し窓から外を見やる。マンションの五階に位置するその部屋からは、地平線に沈もうとする夕陽の様子を窺うことが出来た。

 そこまで来て私はようやく意識を覚醒させた。

 どうやら今日一日を眠って過ごしてしまったらしい。

 夕陽が差し込むリビングには、幽寂の空気が広がっていた。静かで、寂しい。壁掛け時計の指針の音が侘びしく一定のリズムを刻む。

 私はしばらくソファーに腰掛けたまま時間を過ごした。

 重い腰を上げたのは、陽が沈んでリビングが真っ暗に染まった頃だ。

 このまま行動しないわけには行かない。近いうちにこの部屋は暴かれてしまうのだから。

 そう考え、リビングから移動して寝室へと向かう。

 途中、廊下を通るのだが、明かりを点けていないそこは当然のように真っ暗。まるでトンネル。真っ直ぐ行った先にある玄関ドアの覗き穴、そこから侵入する外の共同通路の明かりが、まるでトンネルの出口のように見えた。

 寝室に入ると、私は明かりも点けずに箪笥からタオルを抜き取る。そして浴室へ。

 明かりを点け、脱衣所で服を脱ごうとホックに指を伸ばす。母の趣味で着ているドレスのような服。それを半ばまで脱いだところで、思い留まった。

 やはり脱ぐのはやめておこう。

 私は脱ぎかけた服を着直し、そのまま浴室に入った。

 浴槽は空。お湯は入っていない。仕方なくシャワーで済ませることに。

 ふと、備えられた鏡に映る自分の姿が目に入った。

 ぱっちりとした大きな目に、鼻筋の通った顔。我が事ながら、じつに整った容姿である。そのお陰で母にはずいぶんと愛でられたものだ。その象徴とも言える母好みのリボンが髪に付けられている。

 だが今、私は全身を真っ赤に染めている。髪も、体も、服も赤い液体を被って汚れてしまっている。母が愛したすべてが穢れてしまっている。

 だから洗わなければならない。

 私は蛇口を捻り、シャワーで水を浴びる。体を清めるように、穢れを落とすように。

 赤い液体はすでに乾いていたが、水を浴びるとすこしずつ溶け出し、流れていく。赤色に染まった水が排水口に吸い込まれていく。

 その間、私は昔のことを思い返していた、母にひときわ愛されていたかつてを。

 母はよく私と遊んでくれた。特にままごとは楽しかったと記憶している。

 母は何処に行くにも私を連れて行ってくれた。そして可愛いでしょ、とみんなに自慢してくれたことを覚えている。

 しかしそれも過去の話。

 いつしか母は私の相手をしてくれなくなり、仕舞いには私をクローゼットの奥へと押し込んだ。

 悲しかった。怖かった。

 母に見捨てられたと思った。要らないと思われたと思った。

 それでも母を信じようと心に言い聞かせてきた。

 なのに、母は久方ぶりに私を真っ直ぐに見据え、簡単に言い切ったのだ。

 もう要らないか、と。

 だから私は母を背中から刺してしまった。

 捨てられるくらいならば、いっそのこと……。

 そこで私はハッとして顔を上げる。目の前には鏡がある。そこにはすっかり綺麗になった私の姿があった。だからシャワーの蛇口を閉め、浴室を出た。

 そして体を拭いてふたたびリビングへと戻り、元の位置――ソファーに腰を下ろした。

 これから私はどうすれば良いのだろうか。

 考えたところで答えなど出てくれない。

 出てくれるはずもない。

 何故なら――。

 私はすぐ隣でぐったりとする母へと寄り添う。すでに息は無く、体もすっかり冷え切った母。それでも私にとっては掛け替えのない存在。だから私が朽ち果てるとすれば、母の側で在りたいと思う。

 そして私はふたたび眠りにつく。

 また、あの頃のような温かい日々を迎えられると期待して。




 数日後、それはトップニュースで報道された。

 とあるマンションの一室で、引っ越しの準備をしていた若い女性が何者かに刺殺されたというのだ。

 犯人は不明。

 しかし不可解な点があるとして現場を見た警察官は頭を傾げる。

 犯人の侵入経路がわからなかったのだ。

 部屋の窓も玄関もしっかりと施錠されており、またそのマンションにはオートロックから監視カメラまで防犯設備が充実しているのに、不審人物の姿が監視カメラには映っていなかったのだ。

 では、犯人は被害者の知人なのではないのか。そう考えるも、全員がアリバイ有り。

 いよいよどうしたものかと頭を傾げる警察官達は、一様にそれに目を止める。

 ソファーに腰掛ける一体の西洋人形。

 綺麗なドレスを着たそれが、異様に気になってしまうのだ。

 何故なら、リビングには被害者の血痕による足跡があったのだが、それは人のモノとは思わない小さなモノだったからだ。

 それこそ西洋人形の足と同じくらいの。

 しかしそんなはずはない。

 警察官達は失笑と共にかぶりを振る。

 そして何処かにいるであろう犯人の捜索を続行するのだった。

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