ある夏の街の図書館にて

マングスタン

ある日の夏の図書館にて

 今日の朝の時間から帰りに図書館に寄って本を借りようという、ふとした衝動に駆られて開館時間までの時間を本屋やレンタルビデオ屋で過ごしてきていた。

 朝の通勤ラッシュの時から感じてきていた緩い痛みのキリキリとした腹痛に腹を擦りながら、日差しが強まる昼の炎天下を重たいバックを肩に担いで汗を全身から滝のように流して鉄板のような熱さを放っている歩道の黒いアスファルトの上を歩いて行く。

 本来ならこんな昼の時間に図書館に寄る事は普通なら殆ど無いが、前々から決まっていた休暇であるこの日に早出の出勤日と勘違いして朝早くから出てしまったのだから、せめての外出した理由に近くの市立図書館で目星を付けていた本を借りたくなってきていた。ふとした衝動の根源はそこにあった。

 職場からさほど遠くない場所にある図書館までは歩いて15分、職場の近くにあるレンタルビデオ屋から出たから特に何の滞りもなければ開館時間には余裕を持って着ける筈だ。

 仕事のあるいつものように朝早く起きて朝飯を抜いて職場に出向いて損をした、という後悔は特に買う気のない本屋で立ち読みをしていると、いつの間にか無くなっていた。

「暑いなぁ……やっぱり夏は暑い」

 独り言を無意識に漏らし、空いてる右腕を伸ばすと半袖Tシャツの袖を額に当てて滴る汗を拭き取る。汗でぐっしょりと濡れて色が濃くなった袖を少しの間だけ見つめると、また前を向いた。

 見えるのは陽炎が立ってる熱いアスファルトの表面とじりじり照らしてくる太陽の眩しい光、そのせいか見える景色が全て白く光っているように見える。よく通っている道なのに、図書館まであとどのくらいなのか、いつの間にか分からなくなっていた。

 〈あと、どのくらいで着くんだろうか〉

 暑さで頭が溶ける、そんな言葉を何度か耳にしたことがあるが、まさしく今がそうなのだろう。

 本当に頭が溶けそうな気がしてきている。

 しばらく歩いたような気がする中、横断歩道の一歩手前で遠くにあるような歩行者用信号機が赤である事に気づいて足を止める。重たいバックが体にのしかかっているように感じ、サイドポケットにあるぬるいお茶のペットボトルを取ることさえ躊躇う。いつまでこの炎天下の中にいる、もうそろそろ着いてもいい頃合いなのに。

 思考がだらけている間、目の前を通り過ぎていく古いディーゼル自動車の黒い排気ガスを全身に浴びて顔を左背いて咳き込もうとしたその時、見慣れたようで見慣れてなかった目的地の建物が視界に入ってきた。

 あった、あんな所に。

 視線の先には目指していた図書館の建物の断片と杉の木が見え、傍にある小さな看板がまた光っているように見える。間違いなく目的地である図書館だった。

「よし、あともう少しだ」 

 ちょうど信号が変わったのと同じタイミングに足を90度左に向けて渡ることのなかった交差点をあとにして、のろのろと足を進ませていく。あと少しでこの暑さから解放される、そう思っていても足は重たいままだった。そういえば、今日は家を出てから1度も座った事はなかった。

 そこらにあるネットカフェで休憩しようと思ったが、手持ちの金が千円札を出すことさえ真剣に考え込む程に無いことを思い出して却下した。元々、生活費の余りで使えるお金なんてものは無いに等しい。だから図書館で、せめてもの気晴らしをしようとしている。

 社会人になったばかりで金のやりくりがまだ未熟な事に後悔している。

 交差点の曲がり角を曲がった後、また熱にやられたのかいつの間にかそんな事を考え始め視線が歩道のアスファルトへと向いていた。その時になってようやく頭がきちんと動き始めて首を上げた。ほぼ反射的に左を振り返ると、そこには都会の中のオアシスとも言える空間の入口がすぐそこにあった。

 黒く曇ったガラスの自動ドア、ボロボロのマットがその前に置かれ何とも言えない古臭さを放っている。建物の外見は現代風なのに、中の方は昭和の雰囲気が色濃く残っている。

 汗でドロドロになった体を涼ませようと自動ドアの前へと足を1歩踏み出したその時、自動ドアがガーと音を立てながら開き、中の冷気が一気に全身を通り抜けていった。

 天国だ、まさにここが都会のオアシスなのだろう。

 涼しいというより寒いほどに冷気に汗が冷やされ思わず身震いをする。そしてすかさず足を前に出して図書館の中の方へと入っていく。

 色濃い赤レンガタイルが張り巡らされたエントランスホールを抜け、左右に分かれている道の右を歩いていくと広々とした大部屋の入口へと着く。反対の道を行くと自習室と小さな喫茶店がある。その喫茶店もまた、昭和の雰囲気がいい感じに染み出していて見る目さえも癒してくれる。所持金に余裕があった時は、いつもそこで薄いような苦いコーヒーを味わっていた。

 背中に背負っていたバックを背負い直して入口の中へと入っていく。暖色電球で明るく照らされた広々とした室内、入ってきた入口の左右が図書館司書が常駐する受付の長いカウンターに挟まれ、目の前には狭い間隔で並ばされた本棚が視界の端から端まで並んでいる。圧倒するかのような本棚の数とその広さに、訪れた者は1度ここで足を止める。

 ここの図書館の総保管書物数はまさに測りようがない。

〈さてさて、目当ての本を探しに行こうかな〉

 ついつい顔をにやけさせ、目当ての本がある本棚へと足を向けて歩き出した。

 目当ての本とは今の職場と関連のある深刻な人為的機械的事故を題材とした古い本と、数ヶ月くらい前に背表紙の題名に惹かれて手に取ったある小説に前々から目星をつけていた。これまで仕事が思うように早く終わらず、この目星を付けていた本を借りようと何度も図書館に行こうと思っていても残業を終えた頃には閉館時間を過ぎていた。それに加え、市外利用者用の特別な貸出カードを何度か家に忘れてきたこともあり、いざ閉館時間前に借りようとしても借りられなかった苦い思い出がある。

 今回こそはその目星の本を借りよう、今日は貸出カードを持ってきているし、しかも1日中お暇なのだから。

 そう思いながら1冊目の本棚へと向かい、目を四方に向けながら記憶をたどっていく。最近ほとんど来てなかったせいで記憶が少々抜け落ちてたり、外装の色や本の冒頭数ページしか覚えてないのもある。今日、借りようと思っている本のうち2冊はまさにそんなイメージしか覚えていなかった。

 それでもどうにか探し出して借りたい、今読みたいから借りようとしている。

 それから本棚を探り出してから間もなく、目星の付けていた1冊目は記憶通りの箇所に見つけ、すぐに手を伸ばす。記憶が新しいこの本がここにあるのは確かだった。あとは記憶が曖昧なあの2冊だ。

〈まぁ、すぐに見つけれるだろう。題名はうろ覚えだが、表紙の色なら覚えてる〉

 そう思い、適当に別の本棚へと向かって搜索を始めた時、これまで静かに息を潜めていたアレが再び息を吹き返してきた。

「あいたたた、なんでこんな時に痛み出して来るんだ……」

 またキリキリと痛みだしてきた腹痛、しかもさっきの時よりも一段と痛みが増して来ている。こうなるのなら後回しばかりするんじゃなかったと、後悔の念が駆られてくるが今はそんな事を考えてられる余裕なんてものは無かった。

 〈どうしようか、もう本は手に取っているし目当ての本もこの近くの本棚にあるかもしれない。また本を本棚に戻して遠い所にあるトイレに行くのも億劫だ、それに些かめんどくさいし……〉

 快適性よりも効率性、それを重視する自分の頭の中ではどうするべきかと口論が始まっていた。とにかく効率を良くしたい、段取りの数を少なくさせたいという思いばかりが強くなっていく。一番理想的なのは、目当ての本を全て借りてからトイレに行き、ここを出るという流れだが、便意がきた今ではそれもただの理想となる。我慢大会なら上等、でも今すぐ出るとなれば面倒なことになる。一々手に取っていた本を本棚に戻してそれからトイレに行かなければならない、かと言ってそこら辺に置いて真っ先にトイレに行くと運が悪ければ巡回してる司書に本を回収されて返却棚の本と一緒にされてしまう。そうなるとまた、二度手間三度手間となってしまう。

 〈我慢していこうか、どうせすぐ収まってくるだろうし〉

 腹痛がまたさっきのように収まるのに賭け、本棚を探し出していく。さっきも一時的に収まったんだ、という安易な慢心が我慢の原動力になっている。もし収まらなかった時の事は考えてすら無い。今はそんな事を考える暇よりも本を探す事が先決としていた。面倒なコースを痩せ我慢までして避ける性癖に加えて、男にとって本とは三度の飯よりも重要な、自己の欲を満たすモノと言える程、無意識に本を愛していた。

 故に、男はただ2冊の本を借りる為に便意さえも我慢して、おびただしい数の本棚の間を、どうしても読みたい本の為に縦横無尽に駆け巡って行く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ある夏の街の図書館にて マングスタン @mangusutan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ