第2話
砂戸を閉めきってしまった部屋の中を照らすのは、淡く黄みがかった電球の光だ。朝方のわずかな時間のあの日差しが恋しくないといえば嘘になるが、この明かりでも充分に事足りる。女性のように、白粉をはたいて化粧をするわけでもないんだから。
鏡の前で自分の身だしなみを確認する。ポンチョのボタンは掛け違えなく止まっている。鞄の蓋もきちんと閉まっている。ズボンに穴は空いていないし、その下の靴下も大丈夫。髪が跳ねているのはどうせ隠れてしまうから構わないだろう。髪を押さえつけた手を降ろすついでにポンチョの胸ポケットを触れば、そこに紙が入っているのが分かった。万が一、落ちたりしたらかなわないし、ズボンのポケットの方へ移してしまおう。そう決め、胸ポケットの小さな紙束を取り出し、ズボンのポケットの奥底へねじ込んでおく。ポケットを叩いて、鏡を見る。日焼けした褐色の顔が無表情に僕を見ている。――まあ、こんなもんだろう。
部屋を出て階段を下り、玄関ホールへ続く二重扉の一枚目を手前へ開く。二枚目の扉の向こうに人がぎゅうぎゅう詰めになっている気配がするので、一枚目の扉を閉めて、人ひとり居るのがやっとの狭い空間で息をひそめる。今、向こう側に出て行ったら、ポケットの中のメモがまた増えるかもしれない。これ以上、頼まれごとを抱えておくのはごめんだ。
壁により掛かりながら、目を閉じて外の気配にじっと耳を澄ましていれば、人の話し声、あるいは足音の向こうに、タタタタと、軽く小さな音が聞こえる。タタタタ、タタタタと、間断なく聞こえてくるその音は、砂が宿舎の壁を、砂戸を、それから、今し方出て行こうとする同僚たちを、叩いているのに違いがなかった。
今日も砂が降っているし、昨日も降っていた。明日もきっと降るだろう。週の終わりの一日だけは、機械の休みで砂降りはないけれども、それ以外の日にはこうして、タタタタと街のあちこちを叩きながら、砂は降ってくるのだ。乾いた、白や薄茶に見える砂、砂。街には今日も、砂が降る。
がやがやと声が遠ざかって、ドアの閉まる音がする。騒がしさが戻ってこないのをしばらく、確かめてから、僕は目を開けて、思わず出そうになるあくびをかみ殺し、ドアノブに手を伸ばす。ノブを押し下げ、ゆっくりとドアを外へ向かって押せば、少し散らかった玄関ホールには誰も居なかった。
砂がドアを、壁を叩く音だけが聞こえてくる静けさの中、壁へ目をやる。それぞれの名札が取り付けられた下、大きな帽子が金具に引っ掛かけられてぶら下がっている。自分の名札の下にも、赤い帽子がぶら下がっている。ふっくらと丸くて、幅の広いツバのついた赤い帽子。はじめは真っ赤だったけれど、使っているうちの日焼けと、洗濯で、色褪せてしまった僕の帽子。
ツバをもって帽子を金具から外せば、同じ金具にゴーグルがぶら下がって、そのベルトにはマスク代わりの赤いスカーフがくくりつけられている。帽子をポンチョの下の小脇に抱えて、スカーフを解く。解いたのを自分の鼻と口を覆うように顔の下半分へあてがって、耳の上に引っかけるようにしながら、頭の後ろで端と端とを結ぶ。解けないように固結びにする。その結び目を上側に引っかけるように、ゴーグルのベルトを後頭部にあてがう。レンズの位置がずれないように手で支えながら、鼻当てが軽く食い込むぐらいに少しきつめにゴーグルのベルトを締める。偏光樹脂に覆われて、視界は少し暗くなった。それでも分かるぐらいに赤い帽子を被る。耳まで隠すようにすっぽりと被る。ツバをいい具合に、傾けて。
後は、だ。石畳の上にずらりと並んだ地下足袋から、自分の名前が刺繍されたものを見つけて、足を入れる。地下足袋の底は砂でわずかにざらついていたが、さして気になるほどでもない。板間に座って、腿の内側にくる小鉤を留めていく。上まできちんと留め終わってから立ち上がり、つま先で床をとんとんと叩く。もう片方も同じようにして、それから、両足の裏で床を踏みしめる感覚を確かめる。いつもと変わらない。著変なし。いつものように街中を走り回るのには問題ないだろう。
外に出ようとドアノブに手をかけたところで、後ろのドアが開く音が聞こえた。二重のドアの一枚目、それからすぐに、二枚目が。後ろを振り向く。すでに顔の上に汗をだらだらと流しながら、イムがそこへ立っている。
「アス、遣いを頼む。間に合うか」
「ぎりぎりだ。もう、出ようと思ってたところだよ」
ドアノブから手を離して、イムの方へと二、三歩近付く。イムの指先から、小さなメモを抜き取って、中身を見ないままズボンのポケットへねじ込む。
「結局、時間がかかったなあ」
「うるせえやい。寝れずに悩んだんだぞ」
「それが、すごいよなあ」
僕が心からそう感じて呟けば、イムは決まりが悪そうにそっぽを向いた。イムが指摘されて居づらさを感じるように、誰かについて眠れないほど真剣に考えられることは、まるで得難くて素晴らしいことだ。
イムはまだ、僕から顔を背けている。僕は「じゃ、お先に。行ってきます」と言ってから、イムの方を見るのは止めて、前を、ドアの方を向き直った。後ろに「気をつけてな、頼んだぞ」と言うイムの声を聞きつつ、ノブを押し下げて、ゆっくりとドアを外へ押す。自分の体がぎりぎり通り抜けられるだけの隙間を開けて、そこからするりと、外へ出る。
風と、頬に叩きつけられる細かな砂粒のくすぐったさ。
ゴーグル越しに、砂がパラパラと上から降ってきて、或いは風に流されて、視界を遮っているのが見える。
後ろ手にドアを閉める。砂を少しでも中へ入れないようにするために、なるべくはやく。マスクの下の口と鼻で呼吸する、空気は熱くて乾いていた。
そして、砂が降っている。今日の風は確かに西風で、砂は、今から僕が向かう方角へと流れているようだった。ゴーグルを通しているから、はっきりとした色までは分からないが、どうも、今日の砂も黒っぽいようだ。いや、近頃の砂はずっと黒っぽいのだ。黒っぽい砂は重たく、白っぽい砂は軽い。だから最近は余計に、街の中に砂が降り積む。
僕の足元に、ポンチョの肩の上に、帽子のツバにも、こうして立ち止まっているうちに、タタタタと砂が降ってくる。それに身動きがとれなくなってしまう前に、僕は、自分の仕事をするため、走り出す。
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