若女将は女将になるのです。

 目を覚ますと頭上には旅館の天井が見えた。森の方からは小鳥のさえずりと葉と葉が擦れる音が聞こえてくる。頭が痛い。朧げにしか覚えていないが、何か暗いじめりとした夢を見ていた気がする。

 心路は掛布団を退けると、日課のように障子を開けて窓の外を眺める。音を立てて降っていた雨は上がり、森は霧と露に覆われていた。太陽光線は濃霧の中で分解され、水墨画のように白と黒のコントラストで森の形を浮き上がらせていた。見ようによっては沈んだ、あるいは幻想に包まれた世界であった。

 暫く、静かに蠢く森を見つめていた心路だったが、すぐに現実へと意識が戻り、名残惜しくも障子を閉める。洗面台で寝呆けた顔に冷たい水を浴びせ、化粧水や最低限のメイクを施し、髪を結った。そして、部屋の隅に掛けられている着物を手に取り、着替えを始めた。着物は昨日新調したものだ。もう何か月も繰り返した一連の動作はもう慣れたものだった。寝巻を脱いだが、もちろんその下にはパンツを穿いている。

 支度を済ませた心路は自らの部屋を後にし、エレベータまでのカーペットの敷かれた長い廊下を滑るように早足で歩いた。もう歩き方も板についている。一階に下り、エントランスで準備をしている静に軽く会釈をし、広間の前を抜け、厨房の扉を開いた。大女将が朝食の支度をしていた。

「おはようございます」

 声を掛けるが応答はない。普段と変わらぬ態度で、心路は多少なりとも安心した。何せ昨日のことがある。委縮されては心路もやりずらくなるだけだからだ。心路はそのまま厨房の端にある茶の間に上がり、腰を下ろした。茂美はまだ来ていない。

 調理場の方から包丁の音がトントン、とリズムよく聞こえてきた。きっと汁物の野菜を切っているのだろう、と思いテレビを眺めていたのだが、何故か時間が経つにつれ、そのリズムが狂ってきた。はじめは心路も気のせいだろうと気にも留めていなかったが、包丁の音は激しく叩きつける音になったり、かと思えば擦れるような音であったり、終いには音がぱったりと途絶えてしまった。流石にこれはおかしいと悟った心路は、意を決し、大女将に様子を訊こうと振り返ったのだが、心路が振り返るのと大女将が調理場の床に倒れ込むのとがほぼ同時であった。大女将の握っていた包丁も床に墜落し、金属音を立てる。

「大女将!?」

 心路は慌てて靴を履くのも忘れ、着物を引きずって大女将の元へ駆け寄った。大女将は倒れたその恰好のままで動かない。

「大女将!大女将!」

 必死で呼びかけるものの、大女将は反応を示さない。次いで肩を叩き、頬を叩きながらも呼びかけを行ったが、非情にも大女将の意識は戻らない。

「心路ちゃん、どうしたの」

 騒ぎを聞きつけた茂美が駆けてきた。

「大女将が突然……!」

 茂美も倒れた大女将を見て状況を理解したのか、悲鳴に近い声を上げ、固まってしまった。心路は一旦深呼吸をし、保健の授業で行った実習の内容を思い出していた。とりあえず、最初に手を口と鼻に翳し、息をしていないのを確認した。

「茂美さん!救急車を呼んでください!」

「き、救急車ね、わかったわ……119、119……」

「なんだなんだ?どしたんだあ?」

 金光も遅れて厨房へとやってきた。

「金光さん!この旅館にAEDってありましたっけ!?」

「DVD?ああ、それなら広間に……って大女将!?」

「もういいです!!」

 もともと当てにしていなかったので、相手にせずに大女将の横に回る。そして大女将の着物を緩め、両手を組んで大女将の胸のど真ん中へ当てがった。そして全身の体重を掛けて速いリズムで胸骨を圧迫した。肋骨が折れるくらい強くとはいうものの、やはり力加減が分からない。

「救急車、20分以上かかるって!」

 茂美が電話を切ってそう心路に伝えてきた。迂闊にも、この事態は想定していなかった。AEDがないのであれば、救急車が来るまでの20分間、とにかく胸骨圧迫を続けなければならない。

「心路ちゃん、人工呼吸はしなくていいのかい?」

 胸骨圧迫をしている中、横で茂美が心配そうに口にする。

「人工呼吸はあまり意味がない上に感染症に感染する可能性があるので必要ありません」

 心路がきっぱり言うと茂美と金光はすっかり黙ってしまった。その間も三分に一回息の有無を確認しつつも、一生懸命に等間隔で胸骨圧迫を続ける心路だったが、もちろんずっと続ければ体力が保たない。

「茂美さん変わってください!」

「え、え、私かい!?」

「両手を組んで胸の真ん中を真下に押すんです!一秒に二回くらいの早さで!」

「で、でも私にできるかい?」

「できますから!お願いします!」

 茂美はおっかなびっくり心臓マッサージを始めた。心路の「もっと強く!」の声で最終的にいい感じのリズムを掴んだようだ。

「金光さんは大通りに出て救急車をこっちに案内してください」

「お、おう」

 金光は心路に指示されて目を丸くしながらも早足で玄関から飛び出していった。そして今度は茂美が疲れを見せ始め、再び心路に順番を変わった。

 それからずっと胸骨圧迫を続けていると、丁度20分経過したほどで救急車のサイレンが山に響き始め、やがて金光が救急隊員を引き連れて戻ってきた。

「容態はどうなっていますか!?」

 一人の救急隊員が大女将に駆け寄り、呼び掛けを行い、もう一人が心路に話し掛ける。

「心臓マッサージを続けましたが息を吹き返していません」

 救急隊員は心路の返答に頷くと、持ってきた担架を広げ、二人がかりで大女将を担架に移した。そしてそのまま持ち上げ、駐車場に停まっている救急車まで運んだ。心路たちも救急車までついていく。フロントの静は目を見開いて運ばれていく大女将を凝視していた。救急車のベッドに移すと、片や胸骨圧迫をし、片や何やら機器を取り出して大女将に取り付けた。大女将の身体が音を立てて跳ねた。電気ショックを行ったのだろう。

「同乗される方はいらっしゃいますか?」

 救急隊員が外で心配そうに見守っていた心路たちに訊ねる。

「まず、心路ちゃんが乗んな。あとは茂美さんもついていってやれや」

 金光が真剣な顔をして言う。

「でも……」

「俺は後で静ちゃん連れて行くからよ。ほら、早く乗った乗った」

 金光に言われるがままに茂美と共に救急車に乗り込んだ。救急隊員がそれを見計らって後部扉を閉める。大女将は酸素マスクを当てられ、その他いくつかのコードが身体に伸ばされ、救急隊員から胸骨圧迫を受けていた。

「大女将……」

 心路は掛け布団から覗く大女将の手を握った。……まだ温かい。救急車が走り出してからも、とうとう病院に着くまで、ずっとその手を強く握りしめていた。

 病院に着いて扉が開けられると、大女将は救急外来に運ばれ、心路たちはその近くの廊下に案内された。一般の患者がいる一階を通り抜け、二階へ誘導される。

「……助かるかしらね」

 椅子に座ってからしばらくして、茂美が誰にともなく呟いた。いつも楽観的な茂美が俯いているのは珍しい。

「大丈夫です」

 心路は気休めではなく、本当にそう思っていた。

「手、まだ、温かかったです」

「……そうなの」

「信じましょう」

 心路はうなだれた体勢でただひたすら大女将の無事を祈っているしかなかった。

 途中で静と金光、そして町長と秘書、光輝までもが病院に駆けつけ、二つ並んだ長ベンチに座り、一言も喋ることもなくその時を待った。


 結論から言って、手遅れだった。死因も後から知らされたが、大動脈乖離が原因の心筋梗塞だったという。医者曰わく、定期的に動けないほどの痛みに襲われていただろう、その時に受診していれば助かったかもしれない、という。知らずに我慢していたのか、それとも元より死ぬつもりだったのか。

 死亡が確認されてからの医者の説明はまったく心路の頭の中に入ってこなかった。茂美と金光は泣いていた。

 そこからはあっという間だった。あれよあれよと言う間に通夜が終わり、葬式が終わり、火葬が行われた。葬式は寂しいものだった。あのような性格だったから、知り合いはあまり多くはなかったらしい。疎遠になっているのか、連絡はいっているはずなのに親族も誰一人として来なかった。横浜の叔父すら来なかったのは相当ショックだった。火葬の前に最期の別れと称して顔を拝んだが、生前となんら変わらない偏屈そうな痩せこけた顔をしていた。

 そしてお骨を寺に預け、臨時休業していた旅館めくがたも、やっと営業再開に向けて準備を始めていた。


 明日から営業再開という夜、心路はポットのプラグを引っこ抜いてスマホを充電しながらいじっていた。SNSを開いているが、呟くことは何もない。

 すると、突然入口の扉が叩かれた。扉を開けに行こうと思ったが、鍵をかけ忘れていたようで、扉が開いて光輝が中に入ってきた。

「お邪魔するぜ」

 大女将が倒れてから、光輝はずっとこの旅館に泊まっているが、心路の部屋に来たのはそれから初めてのことだった。

「どうしたの?突然」

 心路はスマホをいじりながら応対する。

「いや、どうしてるのかなって思ってさ」

 光輝は決まり悪そうに手を頭に回しながらも、定位置の広縁の深い椅子に腰かけた。

「まあ別にいいけど。明日から忙しくなるから、暇だったら手伝ってね」

「……なあ、心路」

 光輝は神妙な顔をして心路に話しかけてきた。でも、心路はそれに気付かないフリをした。

「明日から朝ごはん作るの手伝うことになっちゃてさー、まあ人が少ないから当たり前だよねー」

「心路」

「あと、私明日から女将になるんだよね。なんか実感わかないなー。大女将がやってたこと全部引き継がなきゃいけないんだなー」

「心路!!」

 突然光輝が立ち上がり、大声を上げた。

「なんでそうやって無理して我慢すんだよ」

「我慢なんてしてないよ」

 心路は笑おうとしたが、乾いた笑い声しか出せなかった。光輝はゆっくりと心路の方へ歩み寄ってゆく。

「お前、おばさん倒れてから一回も泣いてないだろ」

「確かに言われてみればそうかもね。でも、それはあの人と過ごした時間が短いからじゃないの?」

 惚けたつもりだったが、その声は震えていた。

「心路の顔見てりゃ分かるよ、我慢してるってことくらい」

 光輝の真剣な目線に射抜かれ、目を背けた。もう返す言葉の一つもない。

 しばらく部屋が静寂に包まれたが、不意に身体が圧迫された。――光輝に抱き締められたのだ。

「泣けよ」

 理由も何も聞くこともなく『泣け』と言うのは、やはり光輝らしい。阿呆だ。

「そんなんで泣くわけないじゃん」

 光輝に向かって笑ってやろうと頬を緩めたのだが、その頬に幾筋もの雫が滴っていた。意に反して、水の筋は増え続け、しゃくりあげ、光輝の胸に埋まった。声も上げた。

「これからは俺が心路を支えるから」

 心路を抱き締める手は、ちょっと力が強くなった。

「だから、結婚してくれませんか?」

 耳元で囁かれ、心路は涙を流しながらも目をぱちくりさせ、そしてしゃくるのとは別に、体を震わせた。

「まだ付き合ってもないのに結婚なんて阿呆じゃないの?しかもこのタイミングで」

 そう言いながら、笑っていた。

「で答えは?」

 緊張している光輝の顔に、更に笑いを誘われる。――やっぱどうしようもないやつだ。

「――よろしくお願いします」

 ――そしてそれに付き合っている私も同じくらいどうしようもないな……。

 心路は心の中で自嘲しながら、光輝と長い夜を過ごしたのだった。

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