若女将なんてやめてやるです!

 いつものように朝がやってきた。目を開ければ質素な天井が見え、微かに鳥のさえずりが聞こえる。

 唯一違うのは下半身の感覚だ。良く言えば開放的で、悪く言えば気持ちが悪い。

 むくりと起き上がって着替えようとするが、パジャマのズボンを脱ぐことが躊躇われる。

 何せ、昨日の夜から、心路はノーパンなのだ。一枚布の下には何も穿いていない。

 それでも女将の仕事がある。時間までに着替え、厨房へ向かわなくてはならない。

 意を決してズボンに手をかけた。さっと下ろして一瞬で着替えようかと思ったのだが、そういうときに限ってどっかしらが引っかかって慌てふためく。

 とにかく夢中で着替えること数分、やっと襦袢を羽織ることができた。これでひとまずは外から見えることはない。

 そこからは普段通りに着物に袖を通して、なんとか着替え終えた。しかしながら、やはりノーパンであるわけで、スースーして落ち着かない。

 これで人前に出るのはやはり恥ずかしいのだが、時間も時間なのでそのまま突っ立ってはいられない。心路は遂に心を決め、顔を両手で叩いて部屋を出た。


「おはようございます」

 挨拶を済ませて、大女将が用意した食事を広間に運ぶ。

 運んでる最中もスースーするのだが、今日は光輝や町長たち以外にも、数人一般客が来ている。お客様の前でそんなこと気にしていられない。羞恥心を抑えて、必死で膳を運んだ。

「ふぅ~」

 全ての膳を運び終わって、やっと心路は一息ついた。大女将も仕事を終え、厨房の丸椅子に腰掛けていた。

「あんた、パンツは脱いだかい?」

 ――きた。

 心路の予想通り、大女将はパンツを脱いだかどうか確認してきた。これまでは断固として首を横に振っていたが、今は違う。

 心路は少し間をおいてから「脱ぎました」と答えた。

「……本当かい!?」

 突然、大女将は大声を上げた。本当も何も、大女将に言われたからやったのだ。心路はそのまま首を縦に振った。

 すると、大女将はスッとその場で立ち上がったかと思うと、緩みきった顔をして茶の間にいる心路の方へ突撃してきた。

 そして心路の着物に飛びつくと、あろうことか裾を捲ってきたのだ!

「きゃあああああ!!?!?」

 心路は訳も分からず大女将を止めようとするが、悪魔のような笑い声を上げる大女将は力が強く、引きはがすことができない。

「ノーパン着物JKうっひょー!!!」

 大女将はそんなような奇声を上げながら、尚も心路の着物を剥ごうとしてくる。心路がもう駄目だ、と思ったとき、騒ぎを聞きつけた茂美が廊下からやってきた。

「あらまあ!何やってるの大女将ったら!」

 茂美は慣れた手つきで大女将を羽交い締めにし、畳の上に伏せさせた。

「っ……」

 心路は恐怖で目に涙を浮かべていた。心路の着物はめちゃめちゃにはだけ、右肩が露出し、裾に至っては着物自体が大女将の怪力によって傷んでしまっていた。

「心路ちゃん、これ何があったの」

 後からやってきた金光も加わり、心路はやっと落ち着きを取り戻した。

「常日頃から大女将にノーパンで働けって言われていて、女将はそれが普通だって言われて、それで頑張ってノーパンで来たら大女将が……」

 自分でもよく分かっていないため、説明もぐちゃぐちゃになってしまっているが、茂美たちには伝わったようだ。

「そりゃ嘘だね」

「え?」

 茂美の軽い一言に心路は呆気に取られた。

「大女将はこんな歳して、若い子――女の子が大好きなんだよ。心路ちゃんが来てから抑えてると思ってたんだけどなあ」

 金光が衝撃の事実を口にする。

 ――大女将がロリコン……!?

「……ということは私にパンツを穿くなって言ってきたのは……」

「多分、大女将の趣味だな」

 金光は「ははは」、と笑う。

 ――笑い事じゃない。

 心路はある意味での怒りを覚えて、拳を握った。

「じゃあ……じゃあ大女将は最初から私をそういう目的で……?」

 心路はまだ茂美に抑えつけられている大女将を見て震える声で聞いた。

「そうかもしれないねえ」

「ふざけないでください!」

 心路は気付けばそう叫んでいた。

「私は今までこの旅館のために、この旅館をもっとよくしようと一生懸命頑張ってきたのに!だから大女将の言う通りパンツまで脱いだのに!私はなんのためにここに養子に来たんですか!!」

 すると、今まで狂ったようになっていた大女将が突然元の無表情に戻ると、一瞬で正座をして細長の目で睨みつけてきた。

「じゃあなんだい?出て行くかい?」

 その目は冷たく、無慈悲なものだった。

「大女将、流石にそりゃあ……」

「……っ!!」

 金光が大女将を窘めたが、既に手遅れだった。心路は心に大きなダメージを負ってしまった。

 心路は耐えきれなくなって、咄嗟に身を翻して走り出した。

「心路ちゃん!」

 茂美が呼ぶ声が聞こえたが、振り返らずに廊下を走った。

 途中で光輝たちとすれ違ったが目もくれず、そのまま外へ飛び出した。そして、心路は道路ではなく生い茂る森の中へと飛び込んだ。


※ ※ ※


「なんか心路ちゃんが走って行きましたけど、なんかあったんすか?」

 光輝はいつもと様子の違う心路を目にして、気になって厨房を覗いていた。

 厨房にはいつも通り仏頂面をした大女将と、心配そうな顔をした金光、茂美がいる。

「ああ、実はね、大女将と喧嘩しちゃったのよ。まあ、大女将がほとんど悪いんだけどね」

 茂美がそう答える。

「もしかしたら家出するつもりかもな」

 金光も心配そうに顎をさする。

「だったら早く連れ戻した方がいいんじゃないっすか?」

 心路も慣れてきたとはいえ、この辺りには詳しいわけではないだろう。森の中に迷い込んだとなれば、とても危ない。

「追いかけるか」

 金光が小走りで厨房を出て行き、次いで茂美もその後を追った。

「俺も手伝います」

 光輝は急いで靴を突っ掛け、傘を持って外へ飛び出した。空はどんよりとした雲に覆われ、嵐になりそうだった。


※ ※ ※


 地面は所々緩み、何度も足を取られた。着物も泥でべしゃべしゃになり、元の鮮やかさを失っていた。

 ――なんで。

 ひたすら走って、森の中をだいぶ進んだところで息が切れ、流石に足を止めた。上を見上げてもどんよりと暗い雲が広がっているだけで、光は差し込んでこない。

 ――どうして。

 心路は辺りでひときわ目立つ、大木の下へしゃがみこみ、うずくまる。

 ――私は旅館のために一生懸命働いてきたのに。

 ふと、葉に水滴がぶつかる音が聞こえ始めた。雨が降ってきたのだ。それはやがて本降りになり、木の下にいた心路にも雨が降り注ぐ。

 ――大女将はこの旅館なんてどうでもいいと?

 あっと言う間に着物は水を含んで重たくなり、乱れた髪の毛は湿ってぺったんこになっていた。やがて、水は服の中に染み込んできて、じわじわと心路の身体を冷やす。

 ――私の努力は無駄だったのだろうか。

 どこかで雷の音も聞こえる。風も強い。心路は滝のように頬を流れる水もそのままに、じっとうずくまっていた。

 ――やっと居場所を見つけたと思ったのに。

 横浜の伯父さんや、自分を見る親戚たちの目を思い出した。腫れ物に触るような反応をする人、散々文句ばっかり言う人、端から気にしていない人。心路を見る目はいつも負のエネルギーで溢れていた。

 雨は留まるところを知らず、後から後からバケツをひっくり返したように降り続ける。手の先が冷たくなってきた。耳にはただただ、水が地面や木に打ちつける音だけが聞こえてくる。

 ――私はこの後どうなってしまうのだろうか。

 身体が勝手に震えだした。気温はそれ程低くないものの、液体が体中に纏わりついて体温を奪っていく。

 ――このまま死ぬのかもしれない。

 森に入ってからかなりの距離を突っ走ってきた。すぐには見つけられないだろう。

 ――死ぬ前にお世話になった人達にお礼がしたかったな。

 心路はそんなことを考え、何故か笑みを浮かべていた。そしてゆっくりと目を閉じた。

「ねえ」

 目の前で声がした。

「生きてる?」

 目を開くと、そこにはスニーカーを履いた足が見えた。

「金光さんたちも心配してるよ」

 顔をゆっくり上げると、ずぶ濡れになった光輝が傘を心路の上に差していた。当の本人は雨に打たれている。

「どう……して?」

 震えてうまく声が出なかったが、心路は必死にそれだけ絞り出した。

「どうしてって……森の中を見たら足跡があったから追いかけてきたんだよ。俺が林業やってなかったら死んでたよ」

 光輝はやれやれ、と笑ってみせる。

「そうじゃなくて……なんで捜しに来てくれたの……?」

 今度はしっかりと、光輝の顔を見つめてそう言った。

「なんで……って、当たり前でしょ?まさか心路ちゃん、本当に死ぬだなんて言わないよね!?」

 光輝は急に眉をハの字にして心路に顔を近付けた。

 ――この人は本当に私を必要としてくれている……!

 思えば、大女将にはあんなことを言われてしまったものの、金光や、茂美や、静は心路のことを必要としてくれているのかもしれなかった。

 ――だとしたら私、なんて自分勝手なことを……。

 心路は一時の感情で旅館を飛び出し、あまつさえ死のうとしていた自分を呪い、恥じた。そして、周りの方々に謝って回りたい衝動に駆られた。

「ごめんなさい……ごめんなさい、私、わだし……」

 心路は光輝の濡れたパーカーに縋って声を上げて泣いた。

 光輝はそれを嫌がることなく受け止め、そして心路の頭を優しくさすった。

「……帰ろう、一緒に」

 光輝の優しい声かけに、心路はまだ泣き止んでいないものの、ゆっくり、しかし大きく頷いた。


「本当にご迷惑をおかけしました!」

 厨房に集まった従業員たち、そして光輝に対して心路は腰を90度折り曲げ、謝罪をする。大女将だけはその場にいないのだが。

「とにかく無事で良かったわ」

 茂美は普段通りの口調でそう言った。金光も捜して回ってくれていたのか、息を切らしているが、笑いかけてくれている。

「なんか私が勘違いさせちゃったみたいでごめんね?」

 静はそう言って、決まり悪そうに髪を触っている。

「いえ、私が鈍くさいだけなので、静さんのせいじゃないです」

 心路が擁護しても、やはり責任を感じているようで、元の通りの態度に戻る、とはいかなかった。

「……にしても肝心の大女将はどこに行っちゃったのかしらねえ」

 茂美が「全く」と嘆声を上げた。

「後で会ったら話します」

「二人だけで大丈夫かい?何せああいう人だから、また暴れ出すかもしれないよ?」

 金光が心配して引き留めてくれようとしている。

「そうかもしれませんが、でももう一度二人だけで話したいんです」

 金光はまだ何か言いたそうにしていたが、心路が強い口調で言うと、何も言わずに引き下がった。

「それじゃ、午後の仕事もあるので着替えてきます」

 帰ってきてすぐ、心路は泥だらけの着物から私服に着替え、そのまんまであった。

「あ、でも着物は……」

 厨房を出ようとする心路に茂美が後ろから声を掛ける。

「着物は使えなくなってしまいましたが、私服で接客するわけにもいかないですし、荷物の中に高校の制服が入ってるのでそれを着ます」

 はっきりと答える心路の様子に安心したのか、茂美は「そう」とだけ言って普段通りにお茶菓子をつまみ始めた。

 心路も心路で、普段に戻りつつある従業員たちの様子を見て、ほっとした気持ちのまま自分の部屋へ着替えに向かった。


 結局、仕事を終えるまで大女将と話す場は持てなかった。何回か顔を合わせ、話をしようとしたのだが、ことごとく「仕事中だよ」で一蹴されてしまった。どうやら、避けられているらしい。

 しかし、だからといっていちいち気にしている余裕はなく、いつものように仕事をこなして1日が過ぎた。

 大女将と話すことができていないことが胸の隅に引っかかりながらも、心路は普段通り、大浴場へと向かった。

 中へ入れば相変わらず暴れているパンツの山。あと3ヶ月もすれば露天風呂の建設が始まる予定だ。

 身体をさっと流して湯船に浸かる。初めの頃は全く受け付けなかったパンツ温泉も、慣れてしまえば悪いものでもない。

 と、浴場にドアの開く音が響いた。また静か茂美だろうと思ったが、入ってきたのは予想外の人物だった。

「大女将!?」

 今まで大浴場に来たことがなく、茂美曰わく奥の居住スペースの風呂を使っているから大浴場には来なかったのに、突然どうしたというのか。

 大女将は心路がいるのも構わず、シャワーを浴びて浴槽に入ってきた。

 ――まさか突然襲ってこないよね……?

 若干体が強張る。

「完全な裸体には興味ないよ」

 心路の考えを悟ったのか、大女将はそれだけ断った。

 ――完全に、ということは完全じゃなく少しはだけた状態なら襲われるのか……。

 そう考えずにはいられなかったのだが、大女将の言う通り、どうやらこの場で襲ってくることはなさそうである。

 しばらくはお互い黙って蠢くパンツに埋まっていたのだが、沈黙を破ったのは大女将の方だった。

「……あんたと話をしようと思ったんだよ」

 心路が見ると、大女将は目をつぶって天井を仰いでいた。

「正直なことを言うと、あんたを招いたのはあんたの予想通り、私の趣味だったよ」

 もしかしたら……とは思っていたが、面と向かって言われるとやはり胸が痛くなる。

「あんたが来てからも、しばらくはあんたを変な目で見ていたよ」

 しばらくは――ということは途中からは違うということになる。

「あんたがこの旅館のために身を粉にして努力しているのを見て、目が覚めたんだよ。あんたと、この旅館を、今まで以上に大切にするべきだ、って気付いたんだよ」

「……!」

 ――大女将も私のことを大切に思ってくれていた……?

 あんなことの直後でにわかに信じられないが、しみじみとしたその口調は出任せには聞こえない。

「……知っての通り、あたしゃこんなんだから、この旅館を取り仕切る権利はないと思ってるよ。だから……」

 そこで言葉を止め、大女将はゆっくりとその場で立ち上がった。

「……この旅館をよろしく頼むよ」

 そう言って大女将はゆっくりとした動作で浴場の出口へと向かった。

 ――まるで今の最後の言葉みたいだった……。

 大女将の後ろ姿には、何か物悲しい雰囲気が渦巻いていた。

「大女将!」

 心路は咄嗟に声を掛けた。その瞬間、大女将が首だけ振り返る。

「さっきはすまなかったよ」

 心路はまだ話がしたかったのだが、返事を待たずに大女将は浴場を出て行ってしまった。

 一人残された心路はそのあと、大女将を追いかけようとした格好のまま、ボーゼンと、のぼせるまでパンツの中に浸かっていた。

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