若女将が物申すのです!
――若女将生活二日目の朝。
今日こそは部屋に備え付けのデジタル時計を使って五時五十分に起きた。
そして、布団を畳み、髪を梳き、和紙を敷いてパジャマを脱ぐ。そして、押し入れに補充されている襦袢を取り出し、羽織る。
長襦袢を着て、着物に袖を通したが、帯を巻く段階で分からなくなってしまった。
心路は慌てず騒がず、着物を押さえながら隣の茂美の部屋の戸を叩いた。
「はあい」
部屋の中から茂美の声が聞こえ、すぐに戸が内側から開けられた。
「あらあら、帯の巻き方が分からなかったのね」
大声で確認しなくてもいいではないか。幸いこのフロアには静くらいしかいないだろうが。
「これをここに掛けておいて、一回巻いたらここに通して……」
茂美は頼られたことが余程嬉しいのか、丁寧に一つずつ教えてくれた。お陰で、明日からは一人でできそうだ。
「他にも分かんないことあったらどんどん頼ってね」
またも大きな声で茂美は部屋を出ようとする心路を送る。できるだけ世話にならないようにはしたいが、家事やなんやをやったことのない心路はこれからも茂美に頼ることが多そうである。
茂美の着物帯教室が終わったら、時刻は六時二十分。心路は特に持ち物もないので、さっさとエレベーターに乗り込んだ。
最初はぎこちなかった歩き方も、段々余裕が生じてきた気がする。しゃがんだり、座ったりという動作にも慣れ始めていた。
厨房を覗くと、大女将が朝食の支度をしていた。
「おはようございます」
心路が挨拶をするが、大女将は振り向きはせず、黙々と食材を切っている。
「七時に朝食を広間に運ぶから、それまでお茶でも飲んでるんだよ」
お茶でも飲め、と言われたが、茶葉の場所もわからないのでとりあえず茶の間に座る。
「……ちなみに、パンツは脱いだかい?」
「へ!?」
唐突な質問に思わず声が裏返る。
そういえば女将たるものパンツを脱げ、なんて言われていたのだったか。
「い、いえ、まだです……」
「早く脱げるようになるんだよ」
「は、はあ……」
正直、心路はまだパンツを脱ぐことのメリットを感じていないのだが、大女将にここまで言われては努力しないわけにはいかないではないか。
その後、大女将から話しかけられることもなく、ぼーっとすること三十分。スマホ持ってくれば良かったなどと考え始めた頃、大女将が心路に声をかけた。
「そろそろ行くよ」
「はい」
心路は倒れないように柱を持って立ち上がり、脚のしびれをやり過ごすと、大女将の元へと向かった。
大女将は既に一つの膳を持っている。
「あんたはもう一つの方を持ってくるんだよ」
「はい」
言われた通り、心路は台の上に置いてあった膳を両手で持ち、大女将の後を追って厨房を出た。
膳に乗っているのは焼き鮭と、たくあんなどの漬け物、ほうれんそうのお浸し、そしてご飯の入った蓋つきの小どんぶりと、汁物の器。一般的な和の朝食だ。
大女将と共に入ったのは心路が最初に来たときに通された部屋の隣だった。だだっ広い部屋の真ん中に、テーブル一つとイス二つがぽつんと置かれていた。奥にかかっている大型テレビから発せられる喋り声が反響して物悲しい。
大女将がテーブルに膳を置いたので、心路も真似して、もう一つのイスの方に膳を置いた。
「このあとは見送りまで休憩だよ」
大女将に言われて、物足りなさを感じつつ部屋を出る。休憩と言ったって、一日中ほぼ休憩みたいなものだ。
部屋を出たとき、丁度お泊まりになったお客様と鉢合わせになり、軽くお辞儀をした。
お客様は昨日までのテンションはなく、この世の終わりでも見るかのような目で心路を見ている。…きっとパンツ温泉が想像以上にあれだったのだろう(明言はしない)。
――やはりこれでは駄目だ。
改めて心路はこの旅館の変革の必要性をひしひしと感じた。今となっては心路はこの旅館めくがたの若女将だ。自分の宿がボロきれなのを良しとしていい理由はない。
――私がやらないで誰がやる!?
そして、ここにこの旅館を這い上がらせてやる、という強い誓いを立てたのだった。
「大女将!」
心路は仕事を終え茶の間で休んでいる大女将の前に正座した。脇には金光と茂美もいる。
「どうしたのよ」
大女将は急に大きな声を出した心路を見て目を丸くしている。
「大女将はこのままでいいと思ってるんですか」
強い口調でそう言い放った。傍にいた金光と茂美は顔を見合わせておろおろしている。
「……どういう意味だよ」
大女将は飲んでいた茶碗を畳の上に置いて、鋭い目を心路に向けた。もちろん怖いが、ここで引いては女が廃る。
「この旅館には一日一人泊まるか泊まらないか、経営は完全に赤字、評判もボロクソ、ましてや税金で賄ってもらってるなんて、この旅館の女将として恥ずかしくはないんですか!?」
大女将は顔をぴくりとも動かさず、心路の直談判を聞いていた。金光と茂美はその顔を青い顔をして覗いている。
「……なら、あんたはこの旅館を変えられるっていうのよ?」
――語尾を統一してるからってそこでわざわざ「よ」を付けなくても……。
しかし、怒り出さないということは、心路の意図を察しているのだろう。
「変えられます……と言ったら語弊があります。私は精一杯、変えられるように努力します。その結果変えられないかもしれない、それでも、悔しいじゃありませんか。自分の旅館に人が来ないなんて。だから、私は足掻きたいです」
心路の心の声を、大女将は目を瞑って耳を澄まして聞いていた。
「大女将……どうか私に勝手な行動を許して貰えないでしょうか」
心路はその場で手を付き、頭を地べたにつけて許しを請うた。金光と茂美ははらはらしながらその様子を見つめている。
大女将はしばらくなんの反応も示さなかったが、その間、ずっと顔を上げない心路を見て、大きく溜め息をついた。
「わかったよ。あんたの好きなようにしなよ」
「ほんとですか!?」
心路は土下座から飛び上がらんばかりの勢いで顔を上げた。目の前には心なしか、目を潤わせているような大女将の姿があった。
「ただし、事を起こすときには必ず金光か茂美さんに了承を貰うことだよ」
「はい!」
心路が早速了承を貰おうと二人の方を向くと、二人は相当気を揉んでいたようで、へたり込むようにしてほっとしていた。
「――と、いうことで、作戦を言いたいと思います」
大女将が仕事で退席してすぐ、茶の間に残った心路は二人に今後の計画について話すことにした。
「作戦なんて考えてあるのかい」
茂美が盆に乗った饅頭へ手を伸ばす。
「はい。まずは施設改革からです」
「しせつかいかくぅ?」
金光が首を傾げて変な声を出す。
「いくらなんでもあのパンツ温泉だけじゃ人は集まりませんし、逆に遠ざけてます。パンツ温泉は残すにしても、普通のお湯のお風呂をいくつか用意すべきだと思います」
ハキハキと喋る心路を前に、茂美と金光は「はあ~」と感嘆の声ばっかり上げている。
「でもそんなお金あるのかね」
茂美がふと疑問を口にする。
「そこは町長さんに直談判します。もちろん、断られればそれまでですが。赤字経営を続けるより、客足を伸ばすための投資をすべきだと熱弁します」
「ほう、じゃ心路ちゃんがんばれよ」
オーナーのくせに、金光はどこか他人ごとだ。
「次に、路線バスをひいてもらいます。交通の便が悪いと来たくなくなりますからね。金光さんの車で送迎することも考えましたが、万一お客さんが増えたときに対応しきれないと思うので」
「路線バスかあ。それは思い切るねえ」
「でも、こんなとこにわざわざバスなんかひいてくれるかしら」
茂美の意見は最もだが、それに対する回答を心路はしっかり考えていた。
「ここって目陸田町の中心部と隣の阿賀市の真ん中くらいじゃないですか。だから、その二つを結ぶバスを作って貰えれば、この旅館と目陸田駅を経由してもらうこともできるはずです」
「なるほど!心路ちゃんはかしこいな」
金光は豪快に笑い飛ばした。ちゃんと考えているのだろうか。
「まだあります。そこまでできたら、次は町から無作為にお客さんをお呼びします」
「お客さんを?」
「できればインターネットが使える人がいいですね……。その方々は無料で泊めて、宿の評判をネットで拡散して貰うんです。更に、私が『じゃばらん』にこの旅館を参画させます。それだけで多少なりとも変わってくるはずです」
「ほう……よくわからんけど、心路ちゃんはいろいろ考えてるなあ」
分かってなくては困るのだが、こればかりは説明しても無駄な気がする心路であった。
「ということで、最初は町長さんに直談判するところから始めます。金光さん、町役場まで乗せてって下さい」
「心路ちゃん、ちょっとまって」
今から町役場に出向こうとした心路を茂美が呼び止めた。
「確か町長は今夜うちに泊まるはずよ」
「そんなんですか!?」
「たまに様子を見に来るついでに泊まってくださるのよ~。ちょっと予約の確認してくるわね」
「お願いします!」
茂美はさっさと廊下履きをつっかけて、静のいる受付の方に向かった。
「……どうして急にこの宿を変えようと思ったんだい?」
二人しかいなくなったところで、急に金光が低いトーンで話しかけてきた。静かにしようとしているのか、真面目な話をしようとしているのかは分からない。
「私、昨日の夜、ようやくこの家の子になる決心をしたんです。あ、いえ、それまではそう思ってなかったってわけじゃないんですけど、覚悟を決めたというか、この旅館を継ぐっていうのが現実にある以上、何か動きたいなって思ったんです」
「……そうかい」
金光は柄にもなく目を細めて物思いに耽っているようだった。
そこへ茂美がドアを開けて戻ってきた。
「やっぱり今夜よ!役場へ出向く手間が省けたわね」
茂美が嬉しそうに報告する。
「あ、そういえば町長には心路ちゃんと同い年くらいの息子さんがいたっけなあ」
金光はすっかり元の調子に戻っている。この旅館には表裏の激しい人しかいないのか。
「何言ってんのよ、光輝くんは大学生でしょ?」
「ああ、もうそんなに大きくなったのか。俺からすりゃあ高校生も大学生も同じ様なもんだがな。がはは」
茂美に訂正されるが、金光は酔っ払いのようにがはがはと笑う。心路はますますさっきの挙動とのギャップに困惑する。
「言いたいことはまとまってるの?」
本日いくつめかの饅頭を手に取った茂美が心路に訊ねる。
「はい。昨日の内に」
「じゃあ準備は万端ね」
茂美はそう言ってウィンクをしようとしたらしかったが、両目をつぶってしまい、瞬きをしているだけにしか見えなかった。
夕方、心路はいつもの様に玄関先に正座していた。ようやく正座にも慣れてきて、痺れも大して気にならない程度になった。
隣にはこれもいつも通り、大女将も座っていて、町長のご到着を二人して今か今かと待っている。
自動ドアの向こうに坂を登ってくる小型車が見えた。あれが町長の車だろう。
その車から男女数人が降りて玄関へやってくる。
「ようこそお越し……」
「お久しぶりですぅ、最近のご調子はいかがてすかぁ?」
心路がいつも通り接客しようとしたところ、大女将の親しげな声に打ち消された。よくよく考えてみれば当たり前である。
身の置き所の分からなくなった心路は、取りあえず黙って例をした。
「お久しぶり、女将さんも元気そうでなりよりだよ」
大女将の出迎えに返答した、白髪のふくよかな男性が、きっと町長なのだろう。
「こちらが話に聞いていた新人さんかね?」
「はい、心路と申します。以後お見知り置きを……」
「へえ、君が例の」
町長の隣にいた青年が心路をじろじろと見る。彼が大学生だという町長の息子だろう。
「礼儀正しいいい子じゃないか。これからも頑張んなさい」
町長はそう言って受付を済ませると、大女将と談笑しながら、秘書の女性と息子と共にエレベーターへと向かった。
※ ※ ※
「町長、夕食は6時だそうです」
長谷川くんが相も変わらず抑揚のない事務的な声で告げる。
部屋の前に着き、鍵を差し込む。
「わかった。もうここまででいいぞ」
「そのことなんですが、光輝くんが今日は一人で泊まりたいと言って鍵を持って行ってしまいました」
なんだって突然。いままでいつも父子二人で泊まっていたじゃないか。思春期のときだって文句言わず一緒に寝ていたと言うのに。
「後で咎めておくか……ひとまず君もこの部屋で休んでいなさい」
鞄を中で下ろして、座布団の上に座る。今日も町議会で一日中座りっぱなしだったのでお尻が痛い。長谷川くんもハイヒールで一日中町長室の整理をしていたらしく、足の裏を揉んで解している。
部屋に来てから暫くして、部屋の戸をノックする音が響いた。長年、何度も泊まっているが、宿泊中に来客があるなんて初めてのことだ。
「どうぞ」
ドアに向かってそう言うと、「失礼します」という少し幼い声と共に戸がゆっくりと開いた。
「ああ、君は若女将さんだね」
「はい、心路と申します。以後お見知りおきを」
先にも言ったが、やはり礼儀正しい子のようだ。
「突然にお邪魔してしまって申し訳ありません」
「いや、いいんだ。どうせ暇だしね。ところで、何か用があったのかな?」
すると、心路くんは町長の目をじっとまっすぐ見た。純粋な目で見られるとなんだか照れるものがある。
「町長にご相談したいことがございまして……」
「相談したいこと……」
すると、心路くんは視線を全く揺らがすことなく、自らの改革案をはきはきと述べた。要約すると、
・この旅館に普通の湯船を設けること
・この旅館に路線バスをひくこと
・お試し宿泊を実施すること
この三点である。
「ふむ……なるほど。よく考えているね」
意見を述べ終った心路くんは回答を今か今かと待っている。早く答えてあげた方がいいだろう。
「じゃあ一つずつ答えていくね。まず大浴場なり部屋なりに普通の浴槽を用意すべきという件だが、正直もう町にはこの旅館に費やせるほどの経費が残っていないんだよ。それに、この旅館を経てた時のローンがまだまだ大量に残っていることを考えると、旅館のさらなる改装は難しいだろうねえ」
酷かもしれないが、これはしっかりと現実を教えねばなるまい。心路くんは暫く畳を見つめて考え込んでいたが、再び町長の方をまっすぐに見つめなおした。
「しかし、毎月この旅館の赤字分を町の経費から出しているんですよね。それならば少し高くついても、この旅館の経営が黒字になるように投資すべきです。でなければ、町はこのままずるずるとこの旅館に手を煩わせることになります。町のためにも、改装をして少しでも客を呼び込んだ方がいいと思うんです」
淀みのない目でそう反論された。痛いところを突かれたが、はいそうですか、と了承するわけには、残念ながらいかない。
「心路くんは改装をすれば人が来ると思うかね」
いじわるかもしれないが、実質、一番の問題はそこだ。
「では、町長はパンツ温泉で体を休められますか」
「それは……」
「物珍しさも大切ですが、実用性というのも大切です。実用性がなければ、旅館に人なんて来ません」
ぐうの音も上がらない。正直なところ、町長も普段パンツの溢れかえっている湯船には入らず、シャワーで済ませている。もう反論の余地が見つからない。
「……わかった。今度の議会で案として提出しよう」
「ありがとうございます」
その言葉を待っていたとばかりに心路くんは頭を深く下げた。この調子ではすべて要求をのむことになってしまいそうだ。
とはいえ、町政には協議がつきもの。町長が認めるまではどの案も上げることはできない。ということで、足早に次の話題に移ることにした。
「次に路線バスの件だが……先にも言った通り、もう町にはお金が残っていない。隣町に走らせるにしても、需要がどれほどあるのかもわからない。それに、隣町まで運行するということは、隣町でも認可してもらわなければいけない。かなりの労力が必要となるが、それにはそれほどの労力をかけるほどの価値があるかね。私は金光くんが送迎の車を走らせればいいような気がしてしまうのだが」
少しきつい言い方になるが、致し方ないだろう。これに心路くんがどう出てくるか。
「確かに送迎という手もあるでしょうが、仮にお客様が増えたときに、金光さんのワンボックスカーでは不安がありますし、金光さんはオーナーですから、オーナーとしての仕事で旅館に常駐していられません。不在のときに送迎ができないのはかなり頂けません。もし、送迎用のマイクロバスないし大人数用のワンボックスと送迎用の運転手を用意してくださるなら、それでも構いません」
心路くんは妥協という言葉をよく心得ているようだ。それでいて不利益になる事柄に見落とさない。案外経営者に向いているのかもしれない。
「分かった。その件も今度議会に提出しよう。……さあ、最後の件だが、お試し宿泊だったね。これについてもかなりの労力が必要なわけだが……それ相応の効果を出すと思うかね」
「思います」
今度は即答だった。ここは事前に反論を見越していたのかもしれない。
「このご時世、旅館の経営を支えているのはお客様の評判です。お客様もまばらな状態では、その評判や噂すらも立てられないのです。良しも悪しも、評判がなければ何も始まりません。お客様を迎える準備が出来次第、私もインターネットにて宿泊サイトにこの旅館を登録しようと思っています。とにかく大人数に泊まって頂くことで評判をつけてもらわねばなりません。最終的にはその宿泊サイトで誰かしらに星を付けてもらうことを目標とします」
「なるほど……」
どのみち赤字だから、という考えがあるのかは知らないが、旅館のことを周知させるにはいい手かもしれない。何にしても、心路くんの旅館に対する想いはかなり強いようだ、というのはひしひしと感じられた。
「わかった、それも考えておこう」
結局全部承認してしまった。優柔不断なのが悪い癖だ。
「ありがとうございます」
心路くんは再び深く深く頭を下げている。
「君みたいな跡継ぎをもらって、女将さんも喜んでいるだろうな」
「それはどうでしょうか」
心路くんは顔を上げてはにかんだように笑っている。これが年相応の顔だと思う。
「あ、あともう一点だけお願いがございまして」
心路くんは見た目のか弱さによらず、図太いのかもしれない。まあ、長所と言えば長所なのだろう。
「これはおいおいでいいのですが、もう少しこのあたりの観光資源を増やしていただきたいんです……」
それはごもっともだ。というか前々から町でもそういう風に動いている。その活動の一環としてこの旅館を建てたのだから。
「我々もそう思ってるんだけどねえ……それがなかなか」
「周囲の市町村にも後日伺おうと思ってます。観光客が来なければ宿屋は意味を成しませんからね」
「まあ、おいおい、ね」
「はい、おいおいです」
そう言って、心路くんはすっと立ち上がるとそのまま履物を履いて「失礼しました」とぺこりと頭を下げて部屋を出ていってしまった。もう正座に慣れてしまったのか。気合の入れ方が尋常じゃないな。
「礼儀正しい子でしたね」
長谷川くんが湯のみでお茶を注ぎながら言う。
「これからが楽しみだねえ」
町長はこの旅館を建設し始めたときと同じような小さな希望を胸の中に抱いた。
※ ※ ※
「あ~~~疲れた~~~」
厨房の茶の間に戻った心路は今頃ぴりぴりし出した足を伸ばして寝ころんでいた。
「お疲れ様」
隣から茂美が饅頭を一つ心路に差し出した。心路はそれを素直に受け取り、むしゃむしゃと頬張った。緊張したなんてもんじゃない。あの優しそうなおじいさんも、政治の話になるとああも鋭い目になるのか。だてに町長をやっているわけではないんだ、と感じた。
「そろそろお夕飯ね」
そう言うと、茂美がいそいそと活動を始めた。正直、今日はもう心路の仕事はない。そう思うとなんだか安心して目を瞑ってしまった。
――気が付くと、目の前には大女将の姿があった。はっとして飛び起きる。
「今何時ですか」
「九時だよ」
なんと……六時前に町長の部屋に行ったのだから、実に三時間寝ていたことになる。
「すみません、はしたないことしちゃって……」
「別にいいよ誰が見てるわけでもないんだからよ。それはそうと、九時からは従業員も大浴場使っていいよ。さっさと入ってきなさいよ」
「ああ……はい」
そういえば昨夜は疲れすぎてお風呂なんてすっかり忘れていた。考えてみればすごく汚い。早くお風呂に入ろう。
部屋に帰って着物を干した後、部屋着に着替えて、タオルと下着を手に大浴場へ向かう。脱衣所に入ると、誰かが既に入っているらしく、棚には衣服の入った籠があった。
心路もささっと服を脱いで籠に入れて、浴場へ向かった。
先に入っていたのは受付担当の静だった。左の方でシャワーを浴びている。心路はその隣に座ると、昨日お風呂に入らなかった分、念入りに体を洗った。
隣にいた静はシャワーを浴び終わり、そのまま何のためらいもなく、パンツの荒ぶる湯船へと向かった。心路もシャワーを浴び終えたが、静のように湯船に入ろうか迷った。
「入ってみ」
突然、湯船の中から静が呼んだ。心路も覚悟を決めて足を突っ込んでみる。
「ひゃあ」
足はずぶずぶとパンツに引き込まれ、そのまま胴体も中にすっぽり入ってしまった。
「初めて?」
「は、はい」
静は溢れかえっているパンツの山に気持ちよさそうに埋もれている。
「私は結構好きなんだけどね。なんか圧迫感あるじゃない?それがマッサージされてるみたいだし、なんだかんだ、布団にもぐってるみたいだしね」
まあ、確かに言われてみればそう捉えられなくもないかもしれない。
「もう慣れた?」
「あ、いや、まだ若干気持ち悪いです」
「そうじゃなくて、この旅館に」
急に訊ねられて、心路はぎょっとした。静にそんなことを聞かれるなんて夢にも思ってなかったからだ。
「だいぶ慣れたと思います。私もこの旅館に尽くす覚悟を決めましたから」
「ふーん」
静は無表情だが、これでも考えるところがあるのだろう。
すると、静はおもむろにパンツをまき散らしながら立ち上がった。そのスタイルのいい体が
「私はただここにいたいからいるだけ。覚悟も何にもない。でも、あんたが何かをしたいんなら、そん時は手伝ってあげる」
それだけ言って、静は浴場を出ていった。口数の少ない人だが、周りのことについてもいろいろ考えてるのかもしれない。
心路はパンツの波に肩まで浸かってみた。……確かに気持ちいい、かも。
「あー、さっきのマッサージがなんたらって話、嘘だからー」
脱衣所から静が言った。
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