14 第三・第四・第五の男たち

 大雪原にひとりきりだ。

 行く先は西の海としかわからない。コンパスもなければ地図もない。食料はすでに心許ない。

 仲間はひとりもいなくなった。ただ、ひとり生き残った。仲間たちの犠牲の上にここまで来られたのだ。

 命を捨てて僕を助けてくれた仲間たちのために、その死に報いるためにも決して諦めない。どんなに困難な道程であったとしても必ず踏破してやる。なにがあろうとかならず海に出てやる。


 この旅の目的は当初、カティを追いかけることだった。カティに逢ってどうして僕をおいて行ってしまったのか、ただそれだけを聞き出したかった。今はどんな事情であろうと元気にさえいてくれたらそれでいいと思えるようになった。

 ただ、一目会えればそれで満足だ。

 ワラフは? いまだに強い怒りをもっている。しかし、斬り捨てたいとまで思っていない。

 もし、ワラフに会うことになれば、「裏切り者」と罵倒してやろう。それで充分だ。

 ここまでたどり着く間に旅の目的が変わってしまった。知らないうちに優先順位が入れ替わってしまっている。

 

 ともかく海に出よう。そこになにがあろうと必ず海に行く。そしてどうあっても生き延びる。

 これが、この旅の目的だ。


 まず北を目指そう。そうすれば、しばらくは地質調査隊と同じ道筋を辿れる。この雪原の下にある氷河を調査隊は踏破した。氷河をまっすぐに北上しU字谷を抜け、北西にある峰を越えた。そこまでは同じルートを辿ろう。その先にどんな地形があるのかほとんど情報がない。そこからはひたすら西へ進めばいい。


 よく晴れていた。空はいつもの薄紫色よりずっと淡い。透き通るような藤色をしていた。大気が薄くなってきたからだろうか。強い紫外線が膚殻を差した。直射日光より地表の雪からの照り返しがきつい。

 正面からは一方的に寒風が吹き続け、歩きを遅くした。それでも辛抱強くアイゼンを踏み込んで前に進んだ。膚殻の劣化を防ぐためときどき歩を休め、全身にワックスを摺りこまなければならなかった。

 西には壮大な峰々が連なる山嶺が地平の彼方まで続いていた。その規模はロッキー山脈を優に超えているだろう。壁のように幅広の嶺の連なり。剣山のように屹立した峰の群れ。傘が幾重にも重なっているような山塊。バラエティ豊かな山の表情が拡がっている。

 西の海へはいままさに成長しようとしている山々のこのうねりを越えていかなければならない。山嶺の驚くべき眺望とそこに待ち受けている試練に圧倒されてしまいそうだ。

 この永遠の流れであるかのような氷河は、この大地を削りとっている。あの圧倒的とも思えた荘厳断層が侵食されているということだ。悠久のときの流れは立ち止まることを知らず、たゆとうようにゆっくりとそして確実に大地を刻み続ける。わずかな変化が積み重なって、盤石と思われる地形を葬り去っていく。あのV字の切れ目はその前兆だ。数千万年後、この氷河に侵食され続け、あの荘厳断層も瓦解する運命にある。


 日が陰り、進路が暗く見えなくなるとそこで野営した。簡易シャベルで穴を掘り、シュラフを沈めて風を防いだ。燃料を節約するため口に雪を含み、溶かしてからスワイゲルを齧って飲み込んだ。なかなか喉を通らず食事が終わらない。気づけば途中で眠りこけてしまっていた。凍てつくような寒さに何度も目覚めながら朝を迎えた。

 あくる日も好天に恵まれた。嶺々は寒さに研ぎ澄まされていくかのように美しい。朝日を受け、嶺々は輝いた。その光を山体に集め、尾根を煌めかせ、谷を紫のグラデーションの織物に仕立てた。その強烈なコントラストが山嶺を非現実な存在であるかのように魅せつけた。

 氷河は突如、引き裂かれ大きな口を開けている。雪に埋まってそのクレバスが見えないことが多い。落ちればもう這い出てくることできない。誰も助けはいない。一歩一歩、噛みしめるように慎重に歩いた。最初のうちは神経が疲労したが、馴れてくると意識しないでもクレバスを警戒した歩法になった。


 地質調査隊の観測機器が崖の中腹に設置されているのがみえた。彼らはこのあたりで洪水に遭い、危うく難を逃れた。天候が激変しやすい初夏の出来事だ。

 同じルートを通っていることが確認できて安堵の気持ちがあった。

 ペシェ、セディオ、ドゥ・ウィンギ、ザルマ、そしてワラフ。この5人の地質調査隊がわずか3ヶ月前にここを通過した。うち4人までもが命を落とし、いまはもういない。

 懐かしく悲しい気持ちがこみ上げた。

 5人はここから北西30キロ先に進み、標高三千五百mの地点に観測機を据えている。いまや本来の役割を失い、貴重な道標となった。その観測機を次の目標地点としよう。

 彼らはその地点から行動がおかしくなった。本来、北の三連火山を目指すところをその地点から突如としてルート変更し、ひたすら西を目指し始めた。

 そこでなにかがあった。


 西の海からの交信? 同胞か?

 5人の調査隊は西ハロガー海に出て、海上でなにものかに襲われ4人が殺された(?)。

 ワラフはそこでなにがあったか黙して語らなかった。

 おそらくハロガーはそれを知ったが、他のホミニンたちには秘匿した。

 猩々はそれを海竜と呼んだ。人類の敵だと。

 さらに猩々は、海竜は僕に出会って目覚めるという。目覚めていないのに4人を殺ったというのか?

 海竜はハロガーにとって目覚められると都合の悪い存在らしい。

 ワラフとカティはオルビオを捨てこの海竜のいるところに向かったのか?

 少なくともスワイゲルが供給される仕組みがそこに存在しているはずだ。


 まとめてみたが、なんとも筋が通らない。情報が不確かすぎる。誤った情報が混じっているからだろう。考えても仕方なさそうだ。海に出てこの目で確かめるほかはない。


 深夜になって、ふぶき始めた。シュラフがあっという間に埋まってしまった。なんとか脱出し、岩陰に身を隠した。それでも朝までに身の半分が雪に埋まっていた。天候は回復せず先に進めない。2日の足止め。食料を減らし体力を消耗した。


 天候は不安定だったが待ちきれず、未明から西の峰に登り始めた。身を切るような冷風が尾根を越えていった。荷物が重く感じられる。体力が充分ではないからだろう。

 昼過ぎには天候が回復し、空が藤色に輝き始めた。

 しだいに風の音も雪を踏みしめる音も聞こえなくなってきた。自分の呼吸音しか聞こえない。荒くリズミカルに大気を吸う。酸素はこの高度で既に薄くなっているようだ。とても苦しい。

 余計なことはなにも考えなかった。目的を果たすことだけに集中した。全エネルギー、すべての資源、すべての思考をそこに集中した。ちょっとした判断ミスや不注意、わずかな無駄や不効率が命を脅かすことになるからだ。

 このような極めて過酷、苛烈な環境に晒されてなお、生きていくことができる。そういう潜在的な力が備わっていることが自覚できる。目的が明確であるならば、人は強い存在だ。その生命力はどんな高等生物をも凌ぐ。この過酷で孤独な環境にあって「生き辛い」とは思うことはない。「生き抜く」という単純でわかりやすい目的の前に、「生き辛い」という複雑でわかりにくい感覚はすっかり排除されてしまっていた。


 午後遅くになって名も無き峰の頂上に立った。雄大なパノラマに魅入った。

 北の方角にいままで姿を隠していた三連火山が望めた。アルニラム山、ミンタカ山、アルニタク山。巨人の首飾りの異名を与えられた美しく巨大な成層火山が縦に重なってみえた。白い噴煙が高々と空に上がっている。

 西にはいよいよ大きな山嶺が迫ってきていた。あの嶺を越えたところから海が見通せるような気がする。あともうひと踏ん張りだ。身体はすでに限界を迎えつつあることがわかったが、心は勇んで前に向かっていた。

 強風が頂きを襲った。吹き飛ばされそうだ。気温も急激に下がっている。日没までに少しでも山を下ろう。

 足早に下山をはじめた。凍りついて滑りやすい。強風が音を立ててこの身を持ち去ろうとした。

 陽が陰りはじめた。凍てつくようだ。おそらく外殻靭体の限界気温マイナス20℃に近い。膚殻は寒さを伝えず、痛みを持ち始めた。危険な状態だ。


「タイエン。やっと追いついた」

 誰かが知らぬ間に脇にいて一緒に尾根を下っていた。

「フォス。生きてたのか」

「俺がそんな簡単に殺られるとでも思っていたのか」

「ギ・フォングは?」

 フォスは首を振っただけだった。

「タイエン。こんなに寒くちゃ凍っちまうぞ。こっちに来い」

 フォスに言われるままに最短と想定した尾根ルートを逸れた。フォスに従い、しばらく降りると風に雪が飛ばされ岩場が露出した場所に出た。

「こっちだ。ここで休もう」

 フォスは大きな岩の下で僕を手招きした。2つに合わさった巨岩の根元に人が這って通れるくらいの合わせ目がみえた。

 その入口付近に風車が回っていた。その発電用の風車は調査隊の観測機器に繋がっていた。

「フォス。よくここがわかったな。調査隊の記録には設置場所までなかったはずだけど」

「ペシェが選びそうなルートだろう。ここで暖を取るぞ」

 巨岩の合わせ目は中が広く空洞になっていた。

「燃料が乏しいんだ」

「なにを言ってやがる。頭を使え」フォスはそういうと入り口の観測機器を持ちだした。

「この観測データ、もう誰も使わないだろう」

 そういって岩の角にぶつけて観測機器を破壊した。

「筐体はバイオプラスティックだ。よく燃えるぞ。中には大量にオイルが入ってる。どうだ、一晩燃やし続けられるだろう」

「ほんとだ。思いつかなかったよ」

「なるべくたくさん食え。いまは体力の回復が優先だぞ」

 バイオプラスティックを燃料にしてお湯を沸かし、しっかり食事を摂った。

「そうだね。ちょっと切り詰めすぎたかな」

 身体が温まってきた。

「タイエン。よく寝ろ。明日に備えるんだ」

 

 目覚めると入口付近が明るくなっていた。

 フォスの姿はなかった。確かに向かい側に座っていたはずなのにその痕跡もない。

 訝しくはあったが身支度して外に出た。

 寒かったが風は止んでいた。歩が進み無難に下山した。美しく、名も無き峰をひとつ越えた。

 真西に進んだ。前方に横たわる長大な嶺に立てば、きっと海が望める。俄然力が湧いた。


 昼過ぎになって異変に気づいた。なにかの既視感に付きまとわれた。

 ここは以前来たことがある場所だ。というより、居た場所という気がする。とても慣れ親しんだ土地を歩いているよう気分だ。

 懸命に記憶をまさぐった。なにか記憶の改変が行われたのかもしれない。

 前に進むほど、既視感が強まってくる。それとも精神に異常をきたしたのか。

 歩を休めるわけにも行かず、構わず進んだ。

 大きな岩陰を抜けるとそこに雪原が広がっていた。


 眼前に天を突き、地を穿つような巨大な岩の板が連なっていた。

 岩は白く雪をかぶっていたが赤褐色の岩肌がところどころにみえた。


 これは、フラットアイアンズだ。


 なんてことだ。いったい、なぜここにある。

 

 針葉樹の森はない。雪と岩だけの冷たい景色だ。

 しかし、そこにあるのは紛れも無く、フラットアイアンズだ。


 一番手前側の槍の穂先のような一番峰(ファースト・フラットアイアン)

 やや傾きの大きく地層の割れが特徴的な二番峰(セカンド・フラットアイアン)

 最も急峻に店に突き刺されるかのような三番峰(サード・フラットアイアン)

 棘のように多くの峰を抱える四番峰(フォース・フラットアイアン)

 地を垂直に貫いた五番峰(フィフス・フラットアイアン)


 フラットアイアンズの奥にはグリーンマウンテンのなだらかな稜線もみえる。

 間違いない。すべの岩の峰がちゃんと連なって天を向いている。

 故郷ボルダーに聳えているフラットアイアンズが、なぜここにある?


 頭はひどく混乱した。地球にいるかのような錯覚に陥った。

 あの小径を行けば懐かしい我が家がある。母が暖かく出迎えてくれる我が家が、あの先にある。


 世界で最も崇高で厳粛な土地。

 心の原風景。

 自らを誇らしく自信を持たせてくれる景観。

 全宇宙で最も好きな場所。


 そのフラットアイアンズがここにある。

 これは偶然なんかであるはずがない。

 いったい、いつからここに在り続けたのか? 昨日今日の話ではないことは確実だ。


 茫然としてその場に立ち尽くした。息をするのを忘れてしまうくらいだ。

 フラットアイアンズは三億年前に形成された堆積岩が隆起してできた。いまの形になったのは五千万年前くらいと推定されている。だとすると、この地形もその程度の地質年代を要しているはずだ。

 ありえない。全くありえない。


 前に進み、もっと近づく。決して幻ではない。いま、この場に確かに厳然とフラットアイアンズが存在している。

 見誤ってもいなければ記憶違いでもない。

 これはフラットアイアンズと似た地形ではない。フラットアイアンズそのものだ。

 ここでなにが起きてる? これから何が起きる?


 誰かが手前の雪原を歩いてきた。ホミニンだ。鬼化はしていない。

「タイエン。よく雪山を越えられたね」

 目の前にワラフが立っていた。

「ワラフ…お前はワラフ…。どうしてここに来るとわかった」

「わたしもこの経路を辿りました。だからそのとき、あなたが必ずここに来るとわかりました。しばらく待たせてもらいましたよ」ワラフは平然としていた。

「この裏切り者。信用していたのに……」ワラフの態度を見て怒りがメラメラと燃え上がり始めた。

「私はあなたを騙しました。そしてカティさんを連れ去りました」

「カティはどうしてる。ここにいるのか」

「いえ。ここにはいません。海にいます」

「元気なのか」

「まあ、そうだとしておきましょう」

「なんだ、その煮え切らない言い方は。会わせろ、カティに」

「お断りします。あなたにカティさんを会わせる訳にはいかない。これ以上、先には行かせられない」

「なぜだ? 海竜が目覚めることと関係があるのか」

「ふん。ハロガーから聞いたのですね」ワラフは鼻で笑った。

「ハロガーはもう倒した。残るはお前一人だ」

「威勢がいいですね。私を斬りますか」

 ワラフの言葉にたじろいだ。

「そのつもりはない。僕は海に出なければならない。そしてカティには会わせてもらう。ただ、それだけだ」

「できません。何度もいいます。あなたをここから先にはいかせるわけに行きません」

「だったら…押し通る」

「ここを通るにはわたしを倒していくほかありません」

「なぜだ、ワラフ。なぜ、そうしたい?」

「我々の宿命です。どちらが強いのか、はっきりと勝負するのです。その童子切とこの同田貫。2つがこの星に現れてからそう運命づけられたんです」

「どうしてもやりたいようだな。僕はそれを望んではいない。だが、なにが何でも先に進まなくてはならないんだ」

「さあ、来てください」ワラフは腰の同田貫に手を掛けていた。

「そうするさ。お前を斬って海に出る」

 鞘に取り付けた口金のロックを外す。鞘の口から3分の1に切れ目が開いた。


 日は逆光だ。いままさに三番峰(サード・フラットアイアン)の頂きに入ろうとしている。

 リュックから下がる愛刀『異改童子切大円模』の柄に右手を掛け、肩に担いだ。足先で徐々にワラフににじり寄る。アイゼンの刃が立って思ったように移動しない。ワラフはそれを知ってか、にじり寄るスピードを上げ始めた。

 居合の間合いに入った。ほぼ同時に鞘から抜いた。

 真下から楕円軌道を描いて同田貫の切先が向かってきた。

 我が太刀は真上から垂直にその刃に振り下ろされた。


 示現流の威力を思い知れ!!


 同田貫の切先が喉元に伸びてくるのがわかった。

 高い金属音があたりに谺した。

 同田貫は根元から折れ、僕の後方へ飛んでいった。

 ワラフの顔面から青い血しぶきがあがった。そのまま膝を落とし、力なく倒れた。

「ワラフ!」

 僕はワラフに駆け寄り、抱きかかえた。

「ワラフ!」

「凄い抜刀でした。お見事です」

「ワラフ、死ぬな!」

「これで役割を果たしました。だからもういいんです。…カティさんをよろしくお願い…」

「折角、会えたのに。こうして会えたのに。なんてことだ」

 僕はワラフの亡骸を抱えたままその場を動けないでした。

 もし、同田貫が折れなかったらこの首を持って行かれただろう。よくても相打ちのタイミングだった。


 なぜ折れた?


 僕は同田貫の折れた刃を雪の中から探し出し、その破断面を確認した。特に仕掛けがあったわけではなさそうだ。

 原因はこの寒さだ。ワラフは鍛造時間を短縮するために素延べ打ちを早めに切り上げていた。

 そのためヒ素が抜けきらなかった。重金属が残ると寒さにもろくなる。もし、こんな低温でなければ僕は殺られていただろう。この寒さが僕の味方をしたということになる。


 我が太刀はいっさいの欠けもキズもなかった。この極低温の中、ますます凛と冴え渡っている。

 ???

 刃文に見慣れない照り返しがある。

 十字文の紫の色の中に金属質な緑の輝きが宿っているのだ。

 光の加減だろうか?

 角度を変えてもその輝きは変わらない。

 太刀の内側から放たれているかのような輝きだ。

 こんな輝きは以前にはなかった。いま、突然現れたのだ。


「ワラフ。僕たちは正々堂々と勝負した。もう僕は君を恨んだり憎んだりしていない。君は僕の大切な友だ」

 ワラフの胸に同田貫を添えてその場を去った。


 フラットアイアンズの岩塊を横目にその谷間を登った。雪が深くなかなか上に進めない。グリーンマウンテンらしき嶺を越えた頃にはすでに日暮れていた。下山しようにもルートが見いだせない。ここまでくると故郷ボルダーと地形はまったく異なっていた。目印にできるはずのサドルロックが見当たらなかった。尾根の脇は急峻な崖になっている。下手に動けば滑落する。岩の根元に雪洞を掘った。今夜はそこで野営だ。風に吹かれないことだけ祈った。

 祈りに反して夜半すぎから猛吹雪となった。雪洞は半壊しとても寝ていられる状況ではない。体全体が痛み出した。凍結を始めた証拠だ。このままでは確実に凍死するだろう。山を下って風をしのげる場所を探すほかに生き延びる道はない。

 前方がまったく視認できない崖を手探りで下りて行く。谷の底から雪つぶてが吹き上げてくる。下っているのか吹き上げられて登っているのか、わからないような状況だ。

 突然、足が抜け、体重を失った。そのまま身体が回転を始め、なんどもバウンドした。

 深い谷へ滑落しているようだ……。


 気づくと傍らに火が起こしてある。

 誰かが口元に温かいスワイゲルを運んでくれている。よく見るとそれはペシェだ。

 やれやれ、フォスに続いて今度はペシェか。こんなに立て続けに幻覚を見るようではかなり危ないな。

「タイエン。なにを呟いてる。ちゃんと飲め」と、ペシェ。

「潮の香りがする。変わった味のスワイゲルだな」と、僕。

「なんだ、お前にも味覚があったんだ」ペシェが笑った。


 目覚めると空が明るい。なにかに乗せられて運ばれている。

 足元をみるとそこにはなんとザルマがいた。

「お前、ザルマじゃないか」驚いてよく見てもやはりザルマだ。おまけに鬼化していない。普通のホミニンだった。

「そうだけど、いけないか」ザルマがまともに喋った。

「そこでなにしてる」

「お前を運んでいるのさ」

 どうやら担架に乗せられているようだった。なにがなんだか訳がわからない。

「お、気がついたな」誰かが上からのぞいた。

「セディオ! 食われたと思ったよ」

「おいおい、物騒なこと言わないでくれ。どこに食人族がいるんだ」

「混乱してるな。もう大丈夫だから安心して寝てろ」と、どこかでペシェの声がした。

 また意識が遠のいていった。


 2日の間、担架に乗せられ移動した。担架といってもシュラフに2本のシダの茎を通しただけの簡易担架だった。

 前がドゥ・ウィンギで後ろがザルマと決まっていた。ドゥ・ウィンギの腕のほうが若干長いことが理由だそうだ。平らな道なら後ろを高くすることで早く移動できるらしい。シダやソテツに似た灌木の森を抜け、背の低い蔦のような植物が地を覆った野原を進んでいた。積雪はみられない。あの凍てつく痛みを伴った寒さをもう味わなくて済む。

 前方に山はみえない。ペシェ・ロンチュリ山脈を越えたのだ。最後まで自力ではなかったが、ともかくまもなく海に出られそうだ。旅の目的は達成間近だ。

 この2日というもの彼らと様々なことを話した。そのお陰で、多くの疑問が氷解した。

 あまりに疑問が山積していたのでわかった順から説明していく。

 

 まず、なぜ担架に乗せられているか、から。

 あの雪山で凍死しそうになり決死の下山をした。そのとき足を踏み外し雪の崖をなんと五百m以上、滑落したそうだ。

 翌朝、ザルマが雪に埋もれた僕を発見し、引き出してくれた。柔らかく厚い雪の上に落ちたことで運良く命は取り留めたが、足を負傷した。左脛の外殻が割れて筋束がむき出しになっている。応急手当を受け痛みは引いたが、歩くことはできない。

 ザルマいわく、太刀が輝いていたから発見したのだそうだ。しかし、それは朝日に反射したからではない。ザルマはそのときの輝きを強烈な緑色だったと言い張っている。いま現在、その輝きは失せている。我が太刀は妖刀、魔剣の類か。


 次。なぜ彼ら4人があの場所にいたのか。

 数日前からキャンプをしていたそうだ。それはワラフの要請だった。ワラフは僕が来ることを予測したらしく、日中はフラットアイアンズの下で僕を待ち、夜はキャンプに戻ってきた。ワラフが僕と決闘することを彼らは事前に知っていた。しかし、それを止めることはしなかった。ふたりの決闘が決着しなければならないとわかっていたからだ。さらにはその勝者は僕であるとさえ予測していた。

「一〇〇%ではないよ。だけど、ワラフの方に勝つ気はなかったね。まるでその決闘はお前を迎える儀礼のようだった」と、セディオは説明した。

「ワラフという奴は超然としたところがあっただろう。本心はわからなかった。でも、なにがなんでも決闘をするという意志ははっきりわかった。あの雰囲気では俺たちには止めようがなかった。ワラフにとって極めて重要な意味があったと思う」


 次。そもそも死んだはずの4人がなぜここにいるのか。

 「死んでないし」と、ドゥ・ウィンギ。

 オルビオでドゥ・ウィンギの惨殺体を見ているので妙な感じだったが、本人はワラフに殺された自分のことは知らない。

 4人は地質調査の途中、同胞らしき存在を察知した。JSSに近い電波を捉え、同胞の可能性が高いと判断して地質調査を中断。海に向かった。

「なにものかに襲われ海に引きずり込まれた」という事実はまったくない。ワラフの偽言だ。

 では、彼らの身になにがあったか? 実はなにも起きていない。彼らはこの3ヶ月の大半を海辺で焚き火をして過ごしたそうだ。ただし一度、荘厳断崖を超えてオルビオ側に戻っている。これはもうすこし後で説明する。


 次。同胞らしき存在とはなんだったのか。

「海にいるよ。いや、在る、かな」と、セディオが言ってから4人は顔を合わせた。

「それがなんであるかを説明することは難しい。いまだに同胞らしき存在のままだ」と、ペシェ。

「一目見ればわかるさ。まあ少しびっくりするかもしれん」セディオが付け加えた。


 次。どうやって食料を確保したのか。

「お乳が出る」と、ドゥ・ウィンギ。

「お前、やっぱりそう感じていたんだ」セディオが大笑いした。

「海にいるモノから貰っているんだ」と、ペシェ。

「貰う?」

「見ればわかるさ。意図してこちらに渡しているわけではないかもしれない」


 次。なぜオルビオに帰って来なかったのか。

「帰ろうとはしたのさ」と、セディオ。「だけどワラフの説得にあって待つことにした」

「あいつの言うことには幾つか思い当たる節があった。4人で相談して信じてみることにしたんだ」と、ペシェが話を継いだ。

 ペシェの思い当たる節というのは、オルビオでの奇妙な出来事をいくつか知っていたからだった。

 たとえば、異常のあるホミニンの発生頻度が急激に高まっていた。ホミニンはニューロ胞内で最終調整されて成体となってからすぐに自律的な生活が営める。

 ところが成体後も自律的な意識を発動できず活動ができないホミニンが多数発生した。なかには意識を得られないまま狂気にとらわれ、他のホミニンを襲った個体も数例あった。異常のあったホミニンはすぐに停止(つまり殺す)か、監禁して様子を見るようになった。僕が閉じ込められた地下坑道の檻はこのための施設だった。

 これと相まって情報の秘匿が常態化しはじめた。地質調査隊の遭難情報も秘匿されていたが、それ以前からジェムライン内では情報が隠されることが頻発していた。ホミニンの間で不安が拡がっていた。ジェムラインとの一体感を喪失させたと訴えるものまで現れたという。

 ワラフからハロガーの企てを明かされてそれらの出来事との辻褄があったことからワラフを信用することにした。

「ワラフは俺たちにこう言った。『ハロガーの魔の手からオルビオを奪還しよう』、と」


 次。ワラフひとりでオルビオに戻った理由は?

「奪還作戦の一部だそうだ。俺たちにはちゃんと説明してくれなかったがね」と、ペシェ。「あいつは自分一人ですべて決めた。俺たちは添え物みたいなもんだ。俺たちは文句も垂れず、言われるがままに動いた」

「丸い岩を探していっぱい掘った」と、ザルマが口を挟む。

 ノジュールのことらしい。太刀を研いだ天然砥石になった鉱物だ。

 ワラフはその石灰岩のノジュールを慎重に吟味し、一抱えもありそうなものを選んだ。それを背負ってひとり、オルビオに旅立った。

「なんでそんなに苦労して岩を運ぶのか、訳がわからなかったが、日本刀の砥石だったんだな」セディオは感心しきりだった。

 出発のとき、ワラフは1月後にオルビオ近くの岩山で待機するように言い残したそうだ。4人は指示通り、荘厳断崖を越えてあの岩山で数日、待機したそうだ。

「ある夜、そこへワラフが現れたのさ。カティを荷車に乗せてな」

「荷車に乗せて! そのときカティはどうしてた?」

「まったく意識がなかった」と、セディオ。

「いまはどうなんだ?」

「まあ元気ではある」

「どうしてそう煮え切らない言い方なんだ」

「もうすぐ会える。お前の目でみて判断しろ」

 少なくとも元気なのがわかって安堵したが、含みのある言い方に気は急いた。


 砂地を踏む足音に変わった。潮の香りがほのかに感じられる。

 海にいるもの、それがなんであるかはわからないが親しい存在であることが感じられた。

 JSSによく似た電波がこの浜辺に届いている。電波の中に懐かしさと優しさを感じる。

 猩々が言ったことを思い出した。

「お前と根っこが同じ…」

 確かにそうらしい。こいつは仲間だ。強くそう感じられた。


「タイエン、そろそろお前の知っていることを話せ」と、焚き火を囲んでいる時にペシェが言った。

 確かに質問攻めばかりにしていた。

 そこで、ペシェたち4人にオルビオであったこと、ここに来るまでの道中について詳しく語って聞かせた。

「なるほど。やっぱりガデルはハロガーの手先だったんだな。どうも余所余所しく感じてたんだよな」と、セディオが感想を述べた。

「俺は鬼になったのか。なんてこった」ザルマは驚いていた。

「俺なんか輪切りにされたんだってさ」と、ドゥ・ウィンギ。


「結局のところ、ワラフとは何者だ?」

 ペシェのこの質問は僕の抱き続けた疑問とまったく同じだった。「ハロガーの手に落ちていたわけではなさそうだ。かといってホミニンをやたら切り刻んでる」

「そこなんだが、斬られた連中はそのとき既にハロガーのサイドにいたんじゃないか」と、セディオ。

「なるほど、筋が通ってる。ドゥ・ウィンギ、お前は鬼の仲間になり始めていたんだ」

「そんなこと言うなよ」ドゥ・ウィンギは悄気げた。

 いま思えばミモザもそうだったのかもしれない。太刀を破壊しようとしたところをワラフに制止されたと考えればわかりやすい。おそらくミモザは鍛冶工房の炉で太刀『異改童子切大円模』を溶かそうとしたのだろう。

「あいつは二重スパイのように振る舞ったのさ。ハロガーに与する振りをしてジェムラインの暴走に対処しようとしていたんじゃないかな」ペシェは思案顔で語った。「あいつにはなにが起ころうとしているか、ことの顛末が見えていたんだ」

「地質調査隊は?」と、僕。

「ガデルの起案だがハロガーの指示であったことは間違いない。ハロガーにそれを提案したのはワラフだったかもな」と、ペシェ。

「だったら、ワラフは最初から海を目指していたということになる。なぜ、海にあれがいると知ってたんだよ」と、セディオ。

「そういえば…同胞捜索時の一度きりの返信についてワラフが質問してきたことがあった」と、ペシェが思い出したように言った。

「それだけの情報で海に向かうことはできないだろう」と、セディオ。

「…カティならあるいは…その存在を感じていたかもしれない」僕は改めて衝撃を受けた。カティは知っていた。そして、そのことを僕に黙っていた。

「そうか。カティはエンタングラーだ。あの存在に関わりがあるってことだ」

「タイエン、お前は何故知らなかったんだ。お前もエンタングラーだろう」と、ペシェ。

「わからない」僕はただ首を振るしかなかった。

「ともあれ、ワラフはカティをここに連れてきた。そこまでしておいてワラフは死んじまった、タイエンに斬られて。なぜ、決闘しなければならなかった?」

 このセディオの疑問にしっかりと答える義務を感じた。

「ワラフは死に際に『役割を果たした』と言ったんだ。おそらく決闘は最後の集大成だったんだ。最後の槌の一振りのようなものだった」

「どうもよくわらん。どういうことだ」と、ペシェ。

「この太刀なんだ。決闘のあと、この太刀が不思議な輝きを帯びた。ワラフの死がその輝きをもたらしたと思ってる」

「ほら、やっぱり緑に光ってたんだ」ザルマが言った。

「この太刀にはなにかが宿ったように感じる。それがなにかはわからないけど」

「ワラフがお前に託したんだ」セディオは息を潜めて太刀を見つめた。「オルビオ奪還の鍵を」


 海は凪いでいた。優しい潮風が傷んだ膚殻を癒やすように撫でていった。

「タイエン、よく見ろ。これがこの星の海だ」と、セディオが燥ぐように言った。

 白い浜辺の波打ち際を僕は担架に乗せられ運ばれていた。

 水平線いっぱいに淡い緑色の海洋が広がっている。波頭が陽の光に煌めいていた。


 結局、ワラフ。君は何者なんだ?

 君はハロガーを欺き、僕を騙して、その目的を達成した。

 この太刀になにかの息吹を与えた。

 そのために自らの命を犠牲にした。


 それはオルビオ奪還のためなのか?

 この太刀一本でそれができるということか?


 君はすべてお見通しだった。

 悪鬼ハロガーを手球に取るくらいに。

 誰にもわからなかった未来をただひとり知っていた。

 その知識はどこからもたらされたんだい。


 結局、君と僕の関係は?

 友達だったのか?

 それともただ利用しただけなのか。

 恋敵だったのか、それとも…


 クールで賢い。

 ときにどこか間抜けで憎めないヘマをした。

 好奇心が強く、冒険を好んだ。

 責任感も人一倍強く、傷つきやすい。

 それでも誠実で優しい。

 

 だが、君はいつからか孤独を抱え、ひとり悩みぬいた。


 君は僕を友達と思ってくれただろうか?

 もっと相談してくれればよかったのに。

 もっと力になってあげられたのに。


 いや、君は命を賭して僕になにかを託したのでは?

 こういう形でしか伝えようのないなにかを。


 もしそうなら。もしそうなら、

 その望み、必ず叶えてみせる。

 この生命を投げ打ってでも必ず果たして見せるよ。


 ワラフ、もっと話したかったよ。

 君のことをもっと知って、理解したかった。

 勝手に誤解していたかもしれない。

 君の思いも知らずに自分勝手に。

 もしそうならすまない。赦して欲しい。


 さらに勝手言うけど、

 君の最期のとき、君の思いを

 全部受け取れた気がする。

 あのときに僕は君を許していたんだ。

 君の思いがちゃんと伝わってきたから。


 安心して欲しい。

 僕は君が命がけでやってきたことを

 しっかり引き受ける。

 どんなことがあろうと、そのなにかを

 成し遂げてみせる。

 約束するよ。


 だから、最後まで見守っていてくれ、ワラフ。



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る