13 計都の妙技
窪地に戻るとギ・フォングがドリッコの胸で暴れていた。ドリッコはそれを必死に抑えていた。
「タイエン。あれ、どうするつもり?」リフォルがギ・フォングを差した。
「縛ってやってくれ。ドリッコの胸に」
リフォルは渋々だが、同意した。
ギ・フォングの両手はドリッコの肩に回されて両脚は腰のあたりで頑丈に結ばれた。なにやら意味のわからないことを喚き散らしていたが猿ぐつわはしなかった。
泣きはらしたフォスが戻ってきてその姿をみたが、なにも言わなかった。爪や牙で青く出血している箇所にパテを塗りこんで応急処置をした。
「急げ、出発だ」フォスの力ない号令で僕たちは窪地を出た。
「やつらは残り10匹ほどだ。死力を尽くしてどこからでも襲ってくるだろう。決して侮るな」
荷物は大きく減っていた。ペシェがいなくなって爆弾を運ぶ必要がなくなったからだ。ダゴゥの銃のうち、ライフル類も銃身が溶けて使い物にならなくなっていた。ショットガンもあと数発の寿命だったがこれは持っていくことにした。
かわいそうに、プビカリがいなくなったのでドリッコの分担量は変わらなかった。胸にギ・フォングを抱え、背中に大量の荷物を背負ってのしのし登山を開始した。
尾根の雪は風に飛ばされたのかほとんどなかった。その尾根沿いに数キロ進み、嶺の上に立つと眼下に黄色い湖がみえた。湖面は泡立ち、クリームのような固形物が浮かんでは消えることを繰り返していた。
「硫酸の湖だぜ。風が向かってきたら息をしないことだ」と、フォス。
少し降りると卵の腐ったような臭いがした。下から風が吹き上がっている。
僕は思わず息を止める。
「フォス。ここは危険だ。ルートを変えよう」
「ここが最短ルートだ。他のルートを探す余裕はない。突っ切るぞ」
フォスは尾根をやや逸れて、湖と反対の谷側にルートを取った。雪深く歩きにくい。
「待てよ。このままだと湖より低い窪地に降りてしまう。かえって危険だ」
「うるさい奴だ。お前に指図される覚えはないぞ。勝手にしやがれ」
フォスは意に介さず雪を踏んで降りていった。ダゴゥがそれに追従する。僕はそのまま尾根の上を歩いた。後方にいたリフォルとドリッコは僕の取ったルートに着いてきた。
尾根を降り切るとすぐ右下に硫酸の湖があった。風に吹かれ湖面が波打っている。その水際には枕のような形の黄色い鉱物が幾重にも積み重なっていた。硫黄が析出してこの不思議な景色を作り出していた。嗅覚が馴れてしまったのか硫化水素の臭いはしない。
「タイエン、なにしてるの。サッサといきましょう」
景色に見とれているとリフォルが先を促した。小走りに進みだす。
左下側を見ると、フォスとダゴゥが窪地を渡りはじめていた。
「見ろ!」と、ドリッコが指差す。
窪地の縁から鬼面の奴らが現れてフォスたちに向かって駆け下り始めた。その数3匹。
「フォス。襲撃だ」
フォスはそれに気付いたようだがダゴゥが動かない。その場に崩れ落ちてしまった。フォスがダゴゥを抱えこちら側に向けて走りだしたがすぐに転んでしまった。脚がもつれているようだ。
リフォルは長弓を射かけ始めたが、奴らはすぐに窪地の縁に隠れた。
「まずい。硫化水素だ。すぐに助け出さないと…」
「安易には近づけない。同じ目に遭うわ」
「俺が行く」と、ドリッコ。
「危険だ」
ドリッコは僕の忠告に頷いたが荷を降ろし、胸にギ・フォングを抱えたままでフォスたちの救出に向かった。
「タイエン、こっちも来たわよ」
リフォルが前方を示す。やつらが物凄い勢いで駆けてくるところがみえた。雪が後方に跳ね上がっている。その数6匹。
「リフォル、援護してくれ」
僕はそういって前方にかけ出した。リフォルが後方から矢を射った。
風切音とともに肩越しから矢が飛んで行く。最初の矢が先頭の奴の腰を砕いた。それをきっかけに奴らは横に展開して、なおも向かってきた。
リフォルの連射が胴に、胸に、突き刺さるのが見えた。
僕は中央に進路を維持して駆ける。その距離30m。
「きゃあ!」リフォルの絶叫が聞こえた。
後ろを振り返ると湖の淵から両手が伸びてリフォルの右足首を捕まえていた。
「しまった! 罠だ」
地を蹴って方向転換したが、すでに離れすぎていた。リフォルはバランスを崩して引きずられるように落下した。汚れた飛沫があがるのがみえた。
その場に戻った時、リフォルは湖面に浮いていた。激しい泡がリフォルを包み、白い煙が噴き出している。
「リフォル!」
彼女は手を振ったように見えたが、見る間に激しく音を立てながら外殻靭体が溶け、繊維状のもやもやした物体に変わっていった。そのもやもやした物体もすぐに泡と消えた。
隠れていた岩の窪みから這い上がろうとする汚らしい奴がいた。側頭部から斜めにスライスすると力なく湖に落ちていった。
行く手にはリフォルの矢を受けた2体が倒れていた。ほかの奴らの姿は既に見えなかった。
ドリッコが両肩にフォスとダゴゥを担いでゆっくり戻ってきた。
僕は太刀を鞘に戻すこともできず立ちすくんでいた。「リフォルがやられた」
ドリッコは静かに頷き、「タイエン。行こう」とだけ言って荷物を拾い歩き出した。
フォスとダゴゥに意識はないようだ。腕をだらしなくぶら下げている。
途中、腰に矢を受けて這いずっている奴がいた。ドリッコはその後頭部を踏み潰して進んでいった。
硫化水素の影響がなくなったと思われるところで、ドリッコはふたりを下ろした。
フォスには意識が戻ったようだ。激しく咳き込み、嘔吐しはじめた。
ダゴゥは危険な状態だった。呼吸がない。口移しで人工呼吸を試み、やったことのない心臓マッサージを行った。我を忘れて胸を押し続けた。
「ダゴゥ。頼む、生き返ってくれ」
「タイエン。もうやめろ。ダゴゥは死んだ」ドリッコは胸の中で暴れるギ・フォングをあやしながら言った。
なおも胸部圧迫を続けたがその鼓動が戻ることはなかった。
「すまん」フォスはそう一言いうとまた意識を失った。
下腿がひりひり痛い。あの場所に立っていただけで膚殻が灼けて損傷していた。
水筒の水をフォスの口に流し込み、全身を雪でこすった。そうやって膚殻に付着した硫化水素を中和した。
ドリッコもギ・フォングの背中や脚に同じことをした。
ドリッコの膚殻は茶色く変色している。僕は泣きながら彼の背中や脚を雪で擦った。なにかがボロボロ剥がれ落ちてきた。
「俺は大丈夫だ。まだ保つ。自分のケアをしろ」ドリッコは僕の手を止めてそういった。
僕は泣きやめず、ただ雪で脚をこすっていた。
「タイエン、どうする。ここは野営には危険だ」と、ドリッコは周囲を見回していった。どこからでも襲ってこられそうな場所だ。逃げ場もない。
「どこだっていいさ。もう無理なんだ。あの壁を登れない」
「まだ諦めるのは早い」
「クライマーがひとりも残ってない。手の打ちようがないよ」
「俺はお前をその断崖の下まで必ず連れて行く。そこまで行ってから考えろ」
ダゴゥの亡骸を雪に埋め、ショットガンを墓標とした。
固形燃料で火を熾し、お湯を沸かした。襲撃がしやすい危険な場所での野営だ。疲労が極限に達し、安全な場所を探す気力を失っていた。いや、むしろどこからでも襲ってこられる場所であることが有利にさえ感じられた。やつらは飛び道具がない。近接戦であるなら僕とドリッコは無敵だ。奴らはおいそれと襲ってこられない。そんな不遜な考えになっていたのだ。
スワイゲルを気絶したままのフォスの胃の中に流し込む。一旦、むせ返したが必要量を飲ませることができた。
ドリッコは座ったまま、眠りについた。胸にはギ・フォングが抱かれている。彼女はドリッコの首元に牙をあて、乳飲み子のようにその体液を吸っていた。そうしている間は騒ぐこともなくおとなしかった。
僕も岩にもたれ、太刀を支えにして眠りについた。熟睡しながらも周囲の気配に神経を研ぎ澄ます。なにかが近づけば、一瞬で太刀を浴びせられる。
………周囲に気配がある。岩陰に潜むもの。這いつくばって移動するもの。高い位置に待機するもの。その身を隠そうともせず仁王立ちするもの。
鬼道に落ちたものどもの位置、鼓動、そのいやらしい息遣いを把握しながら、いま眠りについている。
そいつらは虚勢を張っているが皆が怯えていた。怖くて恐くて、僕たちを襲うことができないでいる。
憎しみ、妬み、恨み、辛み、ありとあらゆる劣情に苛まされる存在。飢えと寒さと痛みに堪えつづけ、生きているかぎりその苦しみから決して解放されることはない。永遠の絶望の中にいる。
寒々と暗い心にけっして光差すことなく、自らの存在を悔い、呪いながらそれでも生への執着を捨てきれない。
ただただ卑しく、浅ましいものども。
その中からひとつが悠然と近づいてきた。
ガチャ……
ポンプ式の装填音がした。
「余裕だな。こんなところで寝てしまうとは」
わずかな残り火に人影がみえた。頭に3つの大きな角、手にはショットガンがある。
「俺たちに知能はないとでも思ったのか。生憎だが俺はちゃんと残してある。こんなところにショットガンを置いとくとは油断するにも程があるぞ、タイエン」
「ガデルか」
「そうだ。お前が生き残っていてくれて嬉しいよ。こうして俺の手で始末できる」
「お前がこの化物たちのボスか」
ガデルの後ろに影のように従う者達がいた。
「まあそういうことになる」
「なぜ、こんなことをする。仲間を殺してなにが楽しい」
「仲間? 勝手に決めつけないでくれ。ただの一度もそんな風に思ったことはないぞ。俺は常に仮の姿だったんだ。気取られないように隠し続けていたのさ。善人面した奴らに合わせるには一苦労だったぜ。あの御方が俺を救ってくれたのさ」
「あの御方?」
「お前は知っているだろう。ハロガー様だ」
「ハロガーに感化されたのか?」
「その通りだ」
「ワラフも仲間か?」
「ふん。お前はうまく騙されたな。糞面白かったぜ」
「……許さん」
「惜しかったな、タイエン。あと少しで岩壁を越えられたのに…さあ観念しろ」そういうとガデルはショットガンを構え、引き金を引いた。
破裂音が響いた。至近距離だったので鼓膜が破れるほどだった。
静かだったギ・フォングが騒ぎ出した。
「な、なんだ?」尻もちをついたガデルは動揺していた。
「見たままさ。お前の腕が吹き飛んだのさ」
ガデルの両腕は肘の手前でなくなっていた。神経束や血管、筋束など繊維上の組織がはみ出してぶら下がっている。ガデルは失われた手があった箇所を驚いたようにみつめていた。
「仕掛けしたショットガンが爆発したんだ。それだけさ。そんな単純な罠に嵌まるとはな。ガデル、お前は焼きが回ったんだ」
「畜生。やられた。畜生…ちくっ」
綺麗に首を落としてやった。後ろにいた雑魚どもはどこかに霧散した。
フォスはそんな事件も知らず眠り続けている。ドリッコは何も語らず、事の顛末を見届けるとまた寝入った。
ギ・フォングの悲痛な叫びが続き、夜が更けていった。
激しい風。身体を持って行かれそうだ。
先頭を僕が歩く。フォスは快復した様子だったが、終始無口だった。南西にひたすら進んだ。体温が風に奪われ下がっていく。
やつらが後方を遠巻きに追ってきている。隙があれば襲ってくるだろう。しかし、リーダーを欠いた今、僕たちの脅威にはなっていなかった。襲ってくれば叩き切る、ただそれだけだった。
小さい峰を越えると霧の中に忽然と巨大な壁が姿を現し行く手を塞いた。
そうペシェが命名していた。
標高三千メートル、東西におそらく二千キロ以上続く大断層だ。海側の地殻プレートが陸側に潜り込んで生じた逆断層ということらしい。峰の上からでも見上げなければならず、覆いかぶさってくるような圧迫感がある。東西の地平の彼方まで繋がり、その全容を一望することはこの地上からは到底できない。
固い花崗岩に雪が張り付いて白黒のまだら模様になってみえる。上部に降り積もった雪と氷が張り出し、壁の亀裂に巨大な氷柱が下がっていた。
荘厳断層。
この壁をまともに登りきることはどんな天才クライマーでも難しい。調査隊のペシェたちもそう判断し、更にここから南に下った。彼らはここから30キロ南に大きな切れ目を発見した。それは、水と氷河の侵食で荘厳断層が引き裂かれた箇所だった。地上から切れ目までは徒歩で登れる。切れ目の奥に向かうルートに登攀ラインが繋がっている。ベース地点から高さ一三〇m。唯一無二、絶好のポイントだ。
とはいえ、ほぼ垂直の岩の壁だ。
「絶望の壁」。フォスはこの登攀ラインをそう表現していた。いまや、それは重々しい現実となっていた。その壁を前にして、なにもなすことができない。すべてのクライマーはいなくなってしまったからだ。一三〇mもの高さを誰の助けも借りずに素人が登攀できるものだろうか。
このまま、その場に辿りつけてもそれまでだった。そこがこの旅の終焉の地となる。
カティには逢えない。厳然たる事実がまもなく突きつけられる。ただ、その事実を味わうためだけにこの寒風の中、歩き続けているのだ。すでに絶望と無力感がこころを満たし始めている。
引き裂かれそうな悲しみを味わいながら谷を下り、凍りついた沢を歩いた。
この沢では、荘厳断層は圧倒的な存在だった。沢の右手は垂直に立ち上がり、見上げると天空を貫く巨大なカーテンにみえた。天が半分欠けてしまったかのような錯覚を覚える。壁の内側から重力さえ感じられるほどだ。
行き場を失った風が渦を巻き、雪を舞い上がらせ、不気味な唸りをあげた。
日が傾くと西日が届くことはなく、たちまち闇が押し寄せた。岩の削れた洞のような隙間を見つけ、一夜のねぐらにした。火をおこし氷を溶かしてスワイゲルを飲む。
「登れなきゃもっと迂回してほかのルートを探すのさ」フォスは気休めのように言った。誰も返事しなかった。
「タイエン、これを見ろ。まだ諦めなくても良さそうだ」ドリッコがなにかを指につまんでいた。
なにか樹脂性の燃えさしだった。まだ新しい。
「あいつめ」フォスが悔しそうに言った。
沢をしばらく下ると湖が拡がっていた。湖畔を周ると目の前に荘厳断層の切れ目があった。巨大なV字に削り取られている。完全無欠に思えた荘厳断層だが、やはり侵食が進んでいることがわかる。なぜ、ここだけがそんなに深く侵食を受けたのか想像が及ばない。
崩壊した土砂や岩石が沢をせき止め、この湖を形作ったようだ。V字の真下にはその土砂が積み上がり、崖錐を形成して山のように湖から頭を出している。その崩れやすい土砂を登り、切れ目の中に登ることができた。入り口から奥深く進んでいくと荘厳断層の中を貫くような溝になっていることがわかった。数キロほど上り勾配で進んだ。
しだいに薄暗くなった。気づけば垂直に切り立った岩壁が行手を塞いでいた。
上を仰ぐと高みに細いスリットのような隙間がみえた。西の陽がそこから射している。スリットから氷柱が伸び出ている。氷柱のすぐ下あたりの壁面は凍結しているようにみえた。
平均落差一千m超の荘厳断層にあってここは絶好の登攀ポイントだ。他を探して見つけられるとは思えない。それでも真下から上を見上げると、気が遠くなるような高さだ。
頂上まで一三〇m。
昨日まで「絶望の壁」と呼ばれたポイントだ。しかし、いまは「希望の壁」となっていた。
「遅かったな。待ちくたびれたよ」と、セディオが言った。
「貴様。よくもノコノコ出てきやがったな。こっちはどんだけたいへんだったと思うんだ」と、フォスが激しく怒った。
「なるほど。随分と数を減らしたようだな」
「なんだと! この野郎。許さんぞ」フォスが殴りかかったがドリッコがその腕を遮った。
「フォス。あんたはいつも偉そうだったが、俺はあんたのリーダーシップに疑問を持っていた。ザルマを連れていこうなんてとんでもない。全くのミスリードだ。だから、あのとき決めたのさ。このポイントまでひとりで先に行こうと」
「辻褄合わせの言い訳だろ」
「だったら結果だけ見ろ。もし、この場に俺がいなかったらあんたらどうしていた?」
「ふん。どうもしねえよ」
「そりゃ、いったいなんだ。ここで終わったってことだろう。俺たちの目的はなんだった。フォス、あんた、途中から忘れてなかったか」
「目的を忘れただと! 何言ってやがる。ちゃんとここに来ただろう」
「ちゃんと! どこがちゃんとだ。まともなクライマーがひとりもいないぞ。4人もやられたんだ。なぜ、守りきれなかった」
「なるようにしかならないんだよ。仕方ねぇ」
「追い込まれると開き直る。常に精神論だけで戦略の欠片もない。なんであんたがリーダーなんだ」
「俺はもうリーダーを辞めたんだ。お前の言うとおり俺はリーダー失格だ。それはよくわかってる。リーダーになりたきゃ、好きにやりな」
「ほら、また開き直る」
「うるさい。俺に話しかけるな」そう言い捨ててフォスはその場を去った。
「タイエン。まずお前と登る。上では風が強い。吹き飛ばされるな」
セディオが、岩壁登攀ラインの説明をはじめた。
登り出しから50mは既にセディオによってボルト(これはミモザ作の金具だ)が打ち込んである。ボルトにフックをかけながらボルダリングの要領で登る。
そこから50m上までザイルが垂らしてある。そこを手だけで登るのだ。疲れたら留め具を使って休めという。
この間、セディオとザイルで結ばれた状態なので手を滑らせても墜落しなくてすむらしい。
問題は最上部のラスト30mだ。氷結しているがボルトやハーケンがうまく固定できない。ピッケルとアイゼンを使ってアイスクライミングになるのだそうだ。
登山道具を装備した。太刀はリュックにぶら下げたままだ。
登り出す前にドリッコと握手した。ギ・フォングの爪と牙によって傷だらけにされた上半身が痛々しい。ギ・フォングの膝頭に触って彼女への挨拶のかわりにした。
「先に行かせてもらう。必ず登ってきてくれ」
「もし、お前が落ちたら下で受け止めてやる。安心して登れ」
フォスの姿はなかった。名前を呼んだが出てこない。
「上であえる。さあ、やるぞ」セディオが登攀を始めた。
ボルトにフックを掛け、登り、フックを外し、また掛ける。この繰り返しだ。セディオは、少し下側にいてフックの位置やホールドについて細かく指示してくれた。気づくとザイルの先を掴んでいた。もう50m登った。
「いいぞ。タイエン。要領がいい」セディオにおだてられる。
下をみるとドリッコがこっちをみていた。軽く手を振る。
ザイルを掴んでよじ登る。やや力がかかる。
「脚を使うんだ。疲れたら登高器をとめて安め」
ザイルの半分くらいのところから、岩壁の一部に凍結しているところがみられた。
そこから2度、器具をとめて腕を休めた。パンパンに張ってその部分の膚殻が熱をもってきたように思えた。
80mくらいのところで下を見ると小さくドリッコがみえた。なにか様子がおかしい。ギ・フォングの叫び以外にもっとけたたましい咆哮がした。白く毛深いものがドリッコと向かい合っている。
「セディオ、下を見ろ!」
「なんだ、ありゃ?」
その白く毛の長い生き物は、ドリッコと同じかそれよりも大きかった。ドリッコと腕組みしているようにみえた。
「ダッ! ウォッ!」ドリッコの絶叫のような声が聞こえた。
ドリッコがうつ伏せに倒れているように見える。頭が消えている。
「ドリッコ!」僕は思わず、ザイルを降ろうとした。
「タイエン、待て。ドリッコの死を無駄にするな」
「ギ・フォングがいる」
セディオは首を横に振った。「一緒に死なせてやれ」
「フォスはどこだ?」
「ともかく、お前は上に登りきれ」
下を見るとその白い化物が壁を登ろうとしている。
目が合った。笑ったように見えた。
「猿のような奴だ。すごいスピードで上がってくる。タイエン、急げ! 上で仇をとるんだ」
セディオがリードし、僕を引っ張るような形でザイルを登った。氷につま先が滑る。
「なんて奴だ。もう20登った。このままでは追いつかれる」
セデイオが焦っていることがわかった。
パーン、パーン、パーン。銃声が響いた。
見下ろすとフォスが地上から白い大猿に銃口を向けていた。ダゴゥの拳銃だ。両手に持っている。
パーン、パーン、パーン。乾いた発射音が岩壁に伝わってくる。
大猿はかなり嫌がっているようだ。動きが止まった。
「あいつでも少しは役に立つな。この隙に上がるぞ」
パーン、パーン、パーン。フォスは執拗に撃ち続けた。
大猿は手を放し、地上に舞った。
「仕留めたか?」セディオが期待を込めた。
が、間違いだった。崖を器用に捕まえて降り下り、後退しようとしていたフォスを蹴った。フォスが飛ばされたのがみえた。
大猿はさっきより勢いを増して崖を登り始めた。
ザイルのビレイされている地点まであと少し。
「畜生め。俺が食い止める。お前はともかく登るんだ」
セディオは下に垂れたザイルを巻き上げ、自らの腰に結んだ。
「ピッケルとアイゼン、両方がちゃんと固定されているか、確認しながら行け。ハーケンはあてにするな。たぶん抜ける」
最後の30mは張り出した氷塊を登る難所だ。そんなところをひとりで登れるだろうか。アイゼンを足裏に装着しながら強い不安を感じた。
「セディオ、何をする気だ」
「毒針を打ち込んでやるのさ。さあ、行け。タイエン」
最初のピッケルは氷に弾き返さる。角度を深くしてもう一度トライするとうまく突き刺さった。
右のピッケル、左のピッケル。互い違いに氷に差し入れては腕を引き上げる。アイゼンのつま先に力を加える。
セディオは腰にザイルを巻いて壁に立っているかのような恰好でクロスボウを構えていた。
大猿との距離はおよそ80m。まだ撃たない。ミモザ製ブレードヘッドを備えた矢がセットされている。
距離70m。狙い済ませて1射目。音もなく矢が放たれた。大猿は敏捷に右側の壁に飛んで躱した。気落ちすることなくセディオはクロスボウを二つ折りにして弦を張ると2本目をセットした。大猿は岩壁のほんの小さな窪みに指をかけてリズミカルに上がっている。
距離60m。2射目。やや右方向に飛び出る。大猿が飛びあげた着地点を予想しての射撃だった。大猿の右太ももに突き刺さった。咆哮が響いた。それは痛みと怒りが発したものだ。
僕は巨大な氷柱の中ほどに到達していた。しかし、次のピッケルがうまく引っ掛けられず、上がれずにいた。盛り出した氷塊の上側にピッケルの角度が浅くしか入らなかったからだ。無理に手を伸ばせば足場を失ってしまう。別の方法で足場を確保しなければ…。
距離50m。3射目。真下にいる大猿の顔面に一直線に向かっていった。額を貫く寸前で拳によって跳ね返された。鋼鉄のブレードヘッドを弾いてしまった。なんという拳だ。
距離40m。4射目。もう一度同じコースで射る。拳が空振り、矢は肩甲殻辺りに斜めに突き刺さった。大猿が絶叫した。左の迫り出した壁に飛び移って射手の真下を避けた。
ピッケルを手首にかけて、太刀を抜き、固い氷にその先端を挟んでいく。力を少し入れるだけで切先が氷に吸い込まれていく。突然、切先を差したあたりにヒビが走った。慌てて太刀の柄を足場にして身体を上げ、左のピッケルを氷に引っ掛る。すぐに右手のピッケルのリングで太刀を絡めて抜いた。途端に氷柱の一部がひび割れて崩れ落ちた。
距離30m。セディオは壁を蹴って大猿のいる左方向に飛んだ。大きく左に振れた空中から5射目を放った。不意を突かれた大猿は防御姿勢を取れず、左脇腹を晒したままだった。矢は見事にその脇腹に深々と突き刺さった。白い大猿は苦痛の声をあげ、セディオを睨み返した。
距離20m。空中に蹴り出たことでバランスを崩し、弦を張ることができない。
距離10m。宙ぶらりんの状態でなんとか矢をセット。大猿はすぐ左にいる。矢が刺さった脇腹から青い血が流れていた。体毛に覆われているが疑いなく外殻靭体を持った生物だった。
風の揺れを足で抑え、狙いを定める。一気に横に飛んで来るつもりか、一旦上に飛んで斜めからくるか。
「どっちだ」
セディオはフェイントをかました。
大猿はまさに猿臂を伸ばして上に飛んだ。最大のチャンスが到来した。
「この角度なら狙える」
心臓を狙って矢を放った。
あと、50センチ。大猿の左後ろ脚が心臓をかばった。矢は脹脛を切り裂き、地上に落ちていった。
大猿は左上のあたりから一気にセディオの頭に跳びかかっていった。
大氷柱のトップに這い上がった。狭く尖った場所だ。吸い付けられるかのような猛烈な風が吹いている。まるで巨大なストローの先のにいるようだ。後ろの岩壁に開いたスリットのような切れ長の縦穴から吸われていることがわかった。
断崖にあたる風がV字の切れ目に流れこみ、ここに収斂している。その風圧が極度に高まり、縦穴内部を陰圧にしているからだ。
しゃがんだまま動けずにいた。とてもセディオの様子を窺い知ることはできそうにない。
突如、下から毛むくじゃら顔がのぞいた。白く長い毛が激しくなびいている。大きな顔だ。幅50センチはあるだろうか。顔いっぱいに口が広がっている。
猿というより蛙に似ている。こいつは猩々だ。青く巨大な目が人懐っこく笑っている。口にはセディオのものらしき腕がはみ出していた。
「腹が減ってな。なにしろ食えるものが限られてる。お互い、苦労するな」口を動かしながら、猩々がしゃべった。
「なんてことを! よくもやったな」
猩々は腕を伸ばして大氷柱の頂上に登ろうとした。巨大な爪が目の前の氷に刺さった。
太刀を抜き、指を狙う。
が、…氷柱が突然崩落しはじめた。足場を失って右脇腹から転げ落ちた。太刀を右手にしたまま背中からスリットに吸い込まれるよう落ちた。
とても暗い。氷上を滑落しているようだ。落下速度は加速しつづけた。このまま地面に叩きつけられたら跡形もなく砕け散る。そう覚悟した直後、重力が加わり腰に摩擦が生じた。膚殻の突起が熱く痛い。激しく減速していることがわかった。しかし、どうあがいても態勢を立て直せない。暗がりの中、為すがまま滑り落ちていく。
そのまま明るく白い世界に放り出された。
浮いているような感覚だった。空中で何回転か身体がまわった。肩から着地した。柔らかく冷たい。ザクザクした音に顔が埋まった。
意識を失うことはなかった。身体を動かしたが痛いところもなかった。顔を上げ周囲を見回すと、そこは大雪原が拡がっていた。陽が射して眩しい。右手には太刀を握ったままだった。
振り返ると岩壁の中ほどの洞穴からここまで飛ばされたようだった。あのスリットからこちら側に滑って抜け出たのだ。
いまこの瞬間、荘厳断崖を越えたのだと悟った。旅の途中、何度も諦めかけた願いがこんな形で実現した。だが、今はまだとても喜べない。
あの猩々はどうなった? あのまま断崖から墜落したのか?
いや、あの身軽で敏捷な動き、そう簡単に落ちたりしない。
まもなくこの雪原に姿を現すだろう。逃れたり身を隠す場はない。そうしたい気持ちも毛頭ない。
ドリッコとセディオの仇だ。おそろくギ・フォングとフォスも。
あの猩々を倒す、この大雪原で。
登山用具を外し、リュックを降ろして太刀を腰に佩刀し直した。ミモザ製ピッケルを右腰に下げ、アイゼンは履いたままにした。この雪原では有利だ。
明るい光のなかで猩々を待った。強い横風だけが吹き抜けていった。
最初、片腕だけが現れた。あの穴だ。目を慣らしながら外の様子を伺っているのだろう。かしこい奴だ。
異常がないと得心したのか、長い腕を使って器用に岩壁を降りてきた。僕の姿は最初から見えていただろう。まっすぐ向かってくる。喜び勇んで駆け寄ってくる子犬のようだ。
「タイエン、待たせてすまんね。危うく落ちるところだった」腹話術でも聞かせられているかのような甲高い声だ。その巨体から発せられているように感じられない。
ドリッコを遥かに凌ぐ巨体だ。なのに、この敏捷な身のこなしはどういうことだ。外殻靭体の構造を持っていることは疑いない。しかし、その身体能力は従来のものと比べ物にならない。ホミニンたちが知らないうちにジェムラインの中で技術革新が起こったようだ。
「お前はハロガーなのか」
「かつてはそう名乗った。いまは違う。でも、そう呼びたければそれでいい。名前なんてどうでもいいじゃないか」
「なぜだ。なぜ襲ってくる」
「向こうへ渡られるとなにかと都合が悪いんだ」
「どういうことだ?」
「それを知りたきゃ、俺を倒すことだ。できっこないとは思うが」
「糞っ。どうしたってお前だけは許さん。切り刻んでやる。さあ来い!」
「威勢がいいな、タイエン。そういう奴、好きだよ。だって食うときにうまいんだもん」
言うが早いか、右手がまっすぐ襲ってきた。貫手だ。腕が長く、予想よりはるかに到達距離がある。右に躱したがすぐに左が来た。後ろに飛び退け、体勢を維持した。
猩々がニコニコしている。「いい身のこなしだ。ここまで追ってきた甲斐がある。次は足が加わるぞ。ちゃんと見ろ」
右足を踏み込んで同時に右手が伸びてきた。さっきより遥かに伸びがある。右に避けず、右貫手を掻い潜って後ろ手に太刀を振りぬいた。
「痛っ!」
猩々の右脛に切り口がみえる。浅くはない傷だ。
「わかってるな、タイエン。左に行けば受け手がなかった。さて、次はどうかな」
猩々の身体が宙に舞った。爪が鎌のように予想外の水平方向から襲ってきた。空中で身体をねじっているからだ。左後方に飛び退いて間一髪で攻撃をかわしたが、猩々は横っ飛びから綺麗に着地し、さらに踏み込んで爪で引き裂いてきた。逃れるタイミングがないと察知し、太刀を爪に向かわせた。
猩々の手は指先から血を吹きながら宙を掻いた。数本の指先ごと爪が舞い散る。
「やったな、タイエン。遊びは終わりだ」猩々は失った指をみても冷静さを無くさなかった。
猩々のリーチは、太刀の切先をあわせたこっちより倍近くある。爪を失った左手を囮にして右の貫手で中心を襲ってきた。左を相手にすれば確実に貫手の餌食になる。かといって貫手を相手にすれば左手のフックを食らう。致命傷にはならないがダメージが大きい。左後方に避ける手もあるが、それではキリがない。
とっさの判断で猩々の留守になった左懐に飛び込む。と、同時に左膝が上がってきた。このとき猩々はこちらの動きを読みきったと確信していただろう。
「今だ!」左手に隠し持ったピッケルを下手投げで猩々の顔に放ち、足先からスライディングして左脚をくぐって背中側に抜けた。同時に硬質の音が響いた。
すかさず立ち上がると猩々は左目を押さえて振り返るところだった。
「左目が見えなくなったじゃないか」
レンズが割れ、白く曇っている。
「綺麗な青い目が台無しだな」
「俺を甘く見るな。グラフェンSS繊維で固めた拳だ。喰らえ!」
猩々は闇雲に正拳突きを繰り返した。隙を作って蹴りを狙っていることがわかった。片目の視力を失ったことで距離感が掴めていない。身を逸らすだけでわけなく躱せた。
そうさせておいて自慢の拳を両方とも縦に斬り裂いてやった。
正拳突きをすると激痛がしたようだ。拳を両脇に挟んで腕組みしているように立ち尽くしていた。
「タイエン、痛いよ。なんてひどいことするんだ。もう決闘は終わりだ。俺は帰る」
その姿勢のまま猩々は来た方向に逃げ出そうとした。
「そんなわけに行くか!」
左足を奪う。駆け出そうとした猩々は軸足を失くして斜めに倒れた。
「降参してるのに。こんな仕打ちがあるもんか」必死に立ち上がろうともがく。
「もし、命が惜しいなら質問に答えるんだ」
「なんでも言います。だから殺さないで」さっきまでの威厳は消え失せていた。甲高い声なので余計に情けない。
「そうか。約束できるか」
「はい。約束します」
「ちゃんと守るんだな」
「はい。ちゃんと約束を守ります」
「では、訊ねる。僕が海に出るとなぜ都合が悪いんだ?」
「えーと、それは……えー」
太刀の先で喉元を小突く。
「ですから、海竜が目覚めるのであります」
「なんだ、その海竜って?」
「人類の敵であります」
「そうか、そうか。お前も人類なんだな」
「もちろんであります。オレっちは人の端くれであります」
「どうして僕が海に行くとその敵が目覚めるんだ?」
「お互いに呼応するからで…コンチワ、ドウモーって具合でやんす」
「なぜ、そうなる?」
「……根っこが同じにゃ。あんたと、あいつは同じもんってことにゃ」
あきらかに人格統一ができない状態だ。死の恐怖を前に猩々の自己崩壊が始まっていた。
「僕と同じならそいつも人ってことだろう」
「貴殿は見方によっては人ではござらぬ」
「ふん。お前のような化物に言われたくない。なぜ、ジェムラインからお前のような化物が生まれたんだ?」
「……究極の統合体ぞ。化物とは心外ぞな」また別人格だ。
「もういい、ハロガー。僕はもう行く」
「そんな名前を名乗る奴はとうにいなくなった。タイエン、もう少し話していけ」また別のやつだ。馴れ馴れしい。
「もう訊きたいことがない。あんたは用なしだ」
「そう言うな。久しぶりじゃないか」
「誰さ?」
「わからないのか?」
「まさか…リュウエンなのか」
「そうだ。わかってくれて嬉しいよ。ひとつ、言っておく。命乞いのために出てきたわけじゃない。もう助からんことはよくわかってる」
「…なぜ、今頃出てくる」
「早く出たかったんだが正面に行くのが順番待ちなんだ。強い奴が優先されてしまってな」
「親子で殺り合いたくなかったよ」
「すまん。でも、俺の意志じゃなかった」
「わかってる」
「お前を死なせずにほんとうによかった」
「なぜ、ハロガーなんかと合わさったのさ」
「面白い高説を垂れてたんだ。見込があると思ったのさ。まさかこんな風になるとは思いもよらなかった。散々さ」
「騙されたの」
「いや、そうともいえない。ハロガーの主張は筋が通ってた。その通りに進んだらこうなったってところだ」
「想定外ってこと?」
「まあそうなる。革命大失敗さ。世界を救おうとした結果だ。世界は複雑すぎた」
「父さんを責めたくはないけど、その所為で多くの仲間を失ってしまった。仕方ないと言うこともできない。とても残念だけど」
「すまない。故意でないとはいえハロガーの勢力に加担したことは間違いない。お前の命まで危険にさらしてしまった。ほんとうにすまない。大きな誤りだった」
「イーサンも一緒なの?」
「まさか。俺はイーサンを守るだけだ。道連れになんかしない。あいつは道理が知れる年齢になっていた。おそらくだが、母さんのようにジェムラインに繋がらない。そういう道を選んだだろう」
「ありがとう、父さん。イーサンを守ってくれて」
「……タイエン」
「なに?」
「こんな俺を赦してくれるのか?」
「…うん。最初から赦してるよ。父さんは世界を救おうとした。その気持ちはむしろ誇らしいよ」
「ありがとう、タイエン。話しあえてよかった」
「僕も。こんなところで父さんと話せるなんて思ってもなかった」
「ほんとにな。地球でも俺は同じようなことを仕出かして、こうやってお前に成敗されたかもしれん」
「地球のジェムラインがそうなってないことを祈るよ」
「それはどうだろうな。こうなってしまうのはジェムラインの宿命じゃないかな」
「どういうこと?」
「俺はジェムラインで自己融合した途端、穏やかな気持ちになって幸せに暮らしていた」
「うん。それはボルダーの家で父さんから直接聞いた」
「しかしな、あるとき俺の持っていた負の感情や劣情が失われていないことに気付いたんだ。それらはただ抑えこまれて意識に上らなくなっているだけだと。負の感情ってのは発散させるか昇華させないかぎりなくならないんだ。ジェムラインはこの負の感情を抑えるためその規模を膨張させ続けるほかなかった。新規の帰順者が増えているときは問題ない。だが、そうでなくなったら抑えこまれた負の感情が暴走を始める。ある臨界を超えるとコントロール不能になる。オルビオではそれが起きたのさ」
「それはひどい設計ミスだよ。なんで気づかなかったんだろう」
「そうさ。ひどいミスだ。ハロガーは元々、ジェムライン専門の研究者だった。リプリセンタになってもその研究に従事していた。その研究を通じていち早く、ジェムラインの内部矛盾に気付いたんだ。このままではジェムラインは負の感情に支配され、いずれ暴走が始まると警鐘をならした。ところが、それに対処できる能力を持つ者は既にジェムラインに取り込まれていた。つまりジェムライン自身で自らを修正する以外に手立てがなかった訳だ。歯医者が自分の歯を自身で治療するようなものさ」
「それはかなり難しい手術だね」
「そうなんだ。そこで根本原理の修正を先送りし、ハロガーはまず負の感情の解消を優先させた。負の感情を自己体に分担させて発散させ、バランスの回復を目指した。負の感情との共存を模索したのさ。俺はそれに共感した。このままでは破滅が待っていると確信していたからだ。だが、結果は見ての通りさ。遅すぎたのさ。噴火寸前の負のエネルギーを帯びた個体は鬼化してしまった。あんな化物になるとはまったく想像していなかったんだ」
「ハロガーはなぜこんな風になってしまったんだろう」
「あの気球に乗ってから様子が変わってしまった。恐怖に支配されてしまったのさ。気球での恐怖体験がトリッガーになったんだろう。ミイラ取りがミイラになるってやつさ」
「地球では正気でいられたんだろうか?」
「どうだろう。それはわからない。仮にハロガーが正気だったとしてもジェムラインのコントロールは難しいと思う。オルビオのような小さな統合体でもその負のエネルギーを手懐けることは困難だった。まして地球規模の統合体ではどれほど壊滅的なエネルギーなのか想像すらできない」
「じゃあ、地球でもこんな恐ろしいことが……」
地球。
突然、郷愁が呼び起こされた。
フラットアイアンズで過ごした満たされた幼少期。
カティとの甘酸っぱい日々が懐かしい。
あの日々からもう半世紀以上が経過しているなんて、まるで実感がない。
二度と戻ることのない地球。そしてその運命すら永遠に知ることができない。
「さあ、誰か救世主が現れたかもしらん。考えても無駄さ。遠い場所の遠い過去の話さ」
「…父さん。オルビオはこれからどうなる?」
「ハロガーが解放した負の感情・劣情がジェムラインを支配している。この先どうなっていくのか、誰にもわからん。だが、決して諦めるな。どんなことをしても生き延びるんだ。生きていればいつかチャンスが巡ってくる」
「できる限り、そうするよ」
「そろそろ時間らしい。タイエン、元気でな!」
「父さん!」
リュウエンは返事をしなくなった。誰かと正面を交代したからだろう。
猩々は、雪原にその巨躯を横たえてどこか清々しい表情だった。もの悲しい異国の子守唄を歌い始めた。少年のように清らかにその子守唄をいつまでも歌い続けた。
僕は悄然としてその場を離れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます