12 羅睺の過程
荷台の中央に柱が立ち、ザルマが据えられた。後ろ手に縛られ、両脇に
「ほら。やつを見なよ」セディオがザルマを指差した。「昨日より角が伸びてる。牙も太いぞ」
頭頂の膚殻を破って一本の角がはっきりと姿を現していた。前側にやや反りかえっている。
「ザルマ、ついに頭角を現す」プビカリがダジャレを言ったつもりが誰も反応しなかった。
「よーし。出発だ」フォスが号令した。陽が登りはじめている。
ドリッコはいくらか復調したようだったが勾配は急になるばかりだった。なおかつ押し手だったザルマがいまや重荷になっている。各人がそれぞれの荷をできるかぎり背負い交代で押し手になった。それでも移動速度はかなり遅くなった。
道は脆くて崩れやすい。荷車が傾くたびにザルマの身体は柱を中心にして右へ左へと大きく振られた。
昼過ぎになり冷たい小雨が降り始めた。巨大山脈は霞に煙って見えなくなったがすぐそこに迫っているはずだ。北に向かい、調査隊が登った
小休止のあいだ、ペシェはザルマの様子をジッと観ていた。
「あいつの目を見ろ。いま瞑想している」小雨が雫になってペシェの冷淡な顔からこぼれ落ちている。「間違いない。あいつはいまジェムラインに繋がっている」
「どうしてだ。JSSは届いてないぞ」フォスが反論した。
「わからん。だが、我々が感知できない波長なのかもしれん」そういうと、ペシェはしばらく考えこんだ。「実験はできる。この先だ」
1時間ほど進むとペシェが前方の小高い丘を指差した。「あったぞ。あれだ」
雑草に覆われた丘の上にポツリと背の高い植物が一本だけ生えていた。天に向かって葉を広げている。よく見ればそれはJSS中継アンテナだった。地質調査隊が設置していったものだ。
「タイエン、出番だ。ついて来い」ペシェは突然、丘に向かって走りだした。僕は訳も分からずペシェを追った。
ペシェを見失わないように雑草をかき分け、丘の頂上に駆け上がった。
「いい調子にちゃんと機能してるな。俺たちが開発しただけのことはある」ペシェはリュックから聴診器のようなものを取り出し両耳にあて、もう片方の吸盤のような先端をアンテナの幹に押し当てた。「弱いが聞こえる。間違いない。なにか受信してる。どうやらザルマはこれを感知してるようだ」
「JSSなのか?」
「俺たちに隠れてあの化物と伏波で交信してるんだ。なんであろうと筋のいいもんじゃんないさ」そういいながらペシェは幾度も首を横に振った。
「タイエン、構わん。これを切り倒せ」
黒い幹は直径10センチほどだった。背中の太刀を抜身にして上段から振り下ろした。中継アンテナは斜めにスライドしてゆっくり倒れていった。
「想像はしていたが恐ろしいほどの切れ味だな。あの固いリグニンの塊をなんの抵抗もなく切ってしまうとは」ペシェは幹の切断面を指で触りながら呆れたように言った。
荷車に戻るとザルマは泡を吹いて昏倒していた。
「ビンゴだな。タイエン、この先にもまだ中継アンテナがある。片っ端から切り倒せ」
その日のうちにもう一本を発見して切り倒したが、そこまでで日が暮れてしまった。
雨はあがったが夜になってひどく冷え込んだ。一行はテントを所持していない。メンバーそれぞれが自由気ままなスタイルで床についた。
ドリッコとギ・フォングは小枝や雑草を集めたねぐらを作り、そこにシュラフをいれて二人で潜り込んでいた。それでもドリッコは上半身が収まりきっていなかった。
フォスはシュラフさえ用いずそのまま直接、地べたで寝ようとしていた。「寒さを我慢すればいいだけだ。俺たちは寒くても死なん。病気になることもない。ただガマンだ」
この我慢大会にプビカリも無理に付き合わされていた。
ペシェは荷台カゴの幌の中がお気に入りだ。すぐ横には爆弾が在るが、だからこそ熟睡できるのだそうだ。
セディオはどこにいったかわからなかった。
ザルマはさすがに柱からは降ろされたが、後ろ手に縛られたままで横いざりして逃げないように灌木に結わえられた。目は開けていたが意識は朦朧としているようだ。
僕は朝露がしのげる灌木の根本にシュラフを敷いた。リフォルとダゴゥがすぐに潜り込んできた。凄く窮屈だが暖かいので文句はいえなかった。
「なんでか、あなたの体温が一番ね。暖かいわ」と、ダゴゥ。
「この刀、邪魔ねぇ。外に出せないの」リフォルが身勝手なことを言うがもちろん拒否した。
彼女たちはすぐに寝息を立て始めた。
虫の音が聞こえた。秋が深まろうとしている。
この惑星ユングリムを周回する3番目の月ワカクサが西の空に浮かんでいた。3つの衛星のうちで最も大きく、唯一大気を持っていた。このため輪郭がぼやけ柔和な印象がする。薄緑の月光を茫洋と放ち、山嶺のいただきを優しく照らし出した。
山々の頂はとうに冠雪している。冬山を越えることになるのだ。雪山は遠目には美しい。だが、近づけばそこには生を拒絶した厳然たる自然の猛威が待っている。この旅の行く手には厳しい試練が待ち受けているのだ。
あそこにあるのは死だ。そうわかっていても僕たちはそこに向かっていく。他に選択肢はない。
ここにいる仲間たちは皆がそれを知っている。恐怖を押し殺しつつ自らの死地に向かっているのだ。ジェムラインとの一体感がなくなったいま、蘇生できるという安心感はきれいに失われている。死を克服したはずの者たちが、突如、迫り来る死に向き合っている。死は日増しに差し迫り、リアルにその存在を露わにしていた。
ところが、その一方で彼らは明るく活き活きし始めている。少なくともこの旅のはじめの頃の無気力な様子からは別人のように活気がある。残り少ない生を謳歌しているかのようだ。
あるいはジェムラインとの接続が途絶え、個々の人格が個性化を始めたからなのかもしれない。
カティがここに居たらなんというだろう。いずれも高度な自己融合体だ。カティは彼らをのっぺり薄っぺらと感じ、忌み嫌っていた。だが、今の彼らはそれぞれ個性的だ。もう薄っぺらの存在ではなくなった。
カティがいまここにいたらこの仲間たちを素直に受け入れてくれるだろうか。
ワカクサはその優美な姿をゆっくりと峰々の奥に沈めていった。
星明かりだけになった夜空をスカルムーンが通り抜けていく。一番内側の小さな衛星だ。白く歪な岩石の天体で、大きく開いた2つの窪みがドクロの眼孔のようにみえた。名称のわりにちっとも不吉な印象は持てなかった。あえて言うなら愉快な星だ。陰影を変化させながら慌ただしく通り過ぎていく。落ち着きがない子どものようだ。観ていて飽きない。そうやって想像を掻き立てているうちにスカルムーンは西の彼方に飛んでいってしまった。
夜が更けても目が冴えて眠れそうにもなかった。リフォルとダゴゥの吐息が胸に生暖かく、くすぐったい。
僕はどんな死に方をするんだろう。冬山での遭難は様々だ。断崖からの滑落か、雪崩に埋まり窒息するか、氷塊に押し潰されるか。それとも山腹で風に飛ばれるか、山頂で凍えて息絶えるか、雪洞で飢えて果てるか。このほかの想像もつかないような死を迎えるのかもしれない。
どんな死に方でも構わない。でも、死ぬ前にカティに逢いたい。どうしてもカティに逢わなければ死に切れない。真相がわからないまま死ぬことはできないのだ。そんな死は絶対に受け入れらない。
カティに逢いたい。カティがいれば僕はもっと強くいられるのに。死など怖くなくなるのに。
嗚咽が始まった。あの涙のない、胸の奥から止めどもなくこみ上げてくる嗚咽。抑えられない。
「タイエン。あなた、泣いてるのね」リフォルがシュラフから顔を出した。
「悲しいならちゃんと泣きなさい。我慢しなくてもいいの」リフォルは僕の頭を撫でてあやすように言った。「大丈夫よ。恥ずかしがらないでね。声を出して」
僕はリフォルの胸に抱かれて声を上げて泣き始めた。仲間全員にこの慟哭は響き渡っているだろう。そう思っても止めようがなかった。
「かわいそうな、タイエン」ダゴゥも顔を出して僕の左手を握った。「きっと、カティを思い出したのね。大丈夫よ、タイエン、きっとカティに逢える。もう直よ」
「わたしたちが必ずあなたをカティのところまで届ける。約束する。だから大丈夫」
「そうよ。あなたを連れてく。もう悲しまなくてもいいの」
僕はリフォルとダゴゥに慰められ励まされ、ようやく泣き止むことができた。
「さあ。眠るのよ。なにも心配要らない」
リフォルの胸に顔を埋めダゴゥに手を握られて、僕はしだいに微睡みはじめた。
西の空に第2番目の月ダークキャッスルが上がっているのがみえた。逆光して周回する暗い天体だ。主成分はほぼ鉄とされた。こいつのおかげでこのユングリムの地磁気が乱され、方位磁石は使いものにならなくなった。ときには電離層も撹乱され、電波障害を発生させる。
比較的最近になってこの惑星の重力に捕らえられた系外由来の天体だと、以前ペシェが教えてくれた。とはいえ、数千万年以上昔のことだ。観測によって徐々に公転周期が遅くなっていることがわかっている。そう遠くない未来、この暗くて重い異質の天体は地上へ落下する。そのとき地上には計り知れない壊滅的なダメージがもたらされることになるだろう。
暗黒の城。魔物の棲家のような気味の悪い形状。禍々しいのは見かけだけではない。真に暗黒の宿命を負った天体だった。
……夕日を背にして、坂道を駆けあがっている。後ろにはリフォルとダゴゥが従っているようだ。日没までにたどり着かなければ。
丘の中腹に白亜の邸宅がみえた。見覚えがある。建物のファザードに立つとシンメトリーでありながら細部ではその対称を破っていることがわかる。
大きく張り出したバルコニーの下にはすでに照明が灯り、そこに大きな玄関があった。
巨大なドアノッカーがある。苦痛に歪んだホミニンの顔だ。頭から角を生やし、口にハーケンを噛んでいる。
ザルマだ。
その取手を掴んで勢いよく玄関戸を叩いた。
しばらく待つとゆっくり戸が開いた。そこには白い髭を蓄えた大きな男が立っていた。
「どうぞ、お入りください。主人がお待ちです」ザクルタク校長が笑顔で僕たちを招き入れた。
「ここは校長の家では?」僕は虚を突かれて困惑してしまった。
「いまは執事をしております」あの狡猾そうな目つきに変わりなかった。
「タイエン様、よくおいでくださいました」メイド姿の3体のミウラv9がお辞儀をした。
「あの、ご主人って…」
「庭園にいらっしゃいます。さあ、こちらに」校長が僕たちを案内した。
マロニエの甘い香りが漂っている。
庭先で誰かがしゃがんでいた。頭の派手な羽飾りが風に揺れている。首には幾重にも赤いビーズのネックレスが巻かれ、肩から腕にドクロのような飾りが数珠つなぎに下がっていた。
その人物が立ち上がってこっちを振り向いた。リプリセンタだ。額から鼻筋に幾何学模様の刺青があった。
「タイエン。遅かったね、待ちくたびれたって」と、ジオが人懐っこく言った。
「ジオ! ここで何してる」
「ほら、これ」刺青だらけの腕にミミズトカゲが這い回っている。「こいつの繁殖だって」
「あら、かわいい」リフォルがジオからミミズトカゲを受け取った。
ダゴゥは逃げ腰だ。
「ジオ、カティがいなくなってしまったんだ。どこに行ったか知らないか」
「あそこ!」ジオは中空を指差した。
その指先を追って仰ぎ見れば、薄暮の空に薄緑の月があった。
「ワカクサか。なぜ、あんなところにカティは行ったんだろう?」
東の地平には巨大な塊が浮かんでいる。夕日を受けて赤黒く重々しい。いまにも落ちてきそうなほど地平線に近接している。
「てっきり、あっちの月に捕まってると思ってたよ」ぼくはダークキャッスルを指差した。
「そっちはハロガーの居城だって」
「ハロガーを知ってるのか」意外な回答に驚いてジオをまじまじと見つめた。
「そりゃだって…その…」
「なんだよ」
「ハロガーの中には…リュウエンがいるからだって」
「…なにをバカな。そんな訳ない。そんなことがあるか!」興奮してジオの胸グラをつかんで揺すった。ビーズがジャリジャリと鳴った。
「仕方ないよ。融合体なんだって。タイエン、苦しい…」
リフォルとダゴゥが止めに入った……。
……。
……揺さぶられている。
「…タイエン、目をさまして」ダゴゥだ。
「なに?」
「ザルマがいなくなったの」
飛び起きてザルマがいたはずの場所を見た。フォスが腕組みした横でリフォルがなにか説明しているようだった。
「…しっかり確認したわよ。あの縛りからひとりで抜けられるはずない」と、リフォルが強弁していた。
「誰かほかにそのザイルを解いた奴がいるとでも言うのか」
「そうよ。そうとしか思えない」
シュラフを抜け出し現場に行くと、あたりに引きちぎられたようなザイルが散乱していた。
「タイエン、お前の情けない泣き声に気を取られてる間に、ザルマが逃げちまったぞ」
「ごめん」恥ずかしさに震えるほどだった。
「何言ってるの。タイエンは関係ないでしょ。見張りをつけるべきだったのよ。あなたの判断ミス」リフォルがキレだした。
「いや、プビカリと見張りのつもりだったんだが…」フォスが珍しく弁解した。「お前がトロいんだ」フォスは隣にいたプビカリの頭を小突いた。
「これを見ろ」地面を這いずりまわっていたペシェが言った。「誰かが来た」
そこには足跡があった。
「みんなで踏み荒らしたんだ。なんの証拠にもならん」フォスは不機嫌になって確認しようともしない。
「爪痕がある。俺たちホミニンの足跡ではない」
「ザルマのじゃないのか」
「ひと回り小さい。別の誰かだ」ペシェは確信があるようだ。「そっちの藪かげから忍び込んでザイルを切って連れ出した。たぶんこの先の谷へ逃げた」
「まるで忍者だな」フォスは足跡を確認してペシェの説を受け入れた。
「わたしたちに気取られないなんて相当な手練よ」リフォルが谷の方をみて言った。
「探偵さんよ。もうなにかわかってるんだろう。そろそろ披露してもいい頃合いじゃないか」フォスがペシェに向かってこう質問した。
「俺がわかってることは2つだ。今後、俺たちがオルビオに帰ることはない。誰かにジェムラインが乗っ取られたからだ。そして、もうひとつ。その誰かが俺たちを追ってきてる」
「なぜ追ってくる?」
「おそらく山越えを阻止したいんだ。その理由は訊くな。まるでわからん」
「誰だと思う」
「俺に言わせたいのか」
「やっぱり。あいつだと思うんだな」
ペシェはゆっくり頷いた。「多分な」
「ふん。上等だ。相手してやろうぜ」残忍なフォスの闘志が燃え上がった。
出発をする頃になってもセディオが戻って来なかった。
セディオの所持品もなくなっていることがわかった。食料と登山用具、得意とするクロスボウだ。
僕たちは手分けして辺りを探したが見つからなかった。
「あいつまであっち側に取り込まれたか」と、フォス。
「その様子は感じなかったな。セディオの奴、ビビリだから臆病風に吹かれて逃げたのかも知らん」と、ペシェが推理した。
「逃げて何になる。バカなやつだ」と、フォスが吐き捨てるように言った。
僕たちはやむなく出発した。ザルマが連れ去られ、セディオが行方をくらませ、一行は8名に減っていた。
空は気持ちよく晴れ渡っていた。
圏谷が広がっていた。ペシェ・ロンチュリ山脈の入り口だ。ようやく山に入ったのだ。行く手にはもう雪が積もっているのがわかった。冷たい風が吹き下ろしてくる。
数時間、緩やかな傾斜の谷を登り続けた。植物はほとんど見られなくなった。ゴロゴロした石が荷車の進行の邪魔だった。ドリッコはきつそうに荒い息をしたが、持ちこたえている。全員で荷車を押し続けた。
周囲が雪景色に変わった頃、前方に滝がみえた。
ペシェは盛んに後ろを確認したがいまのところ異常はなかった。
「やつらが俺たちを追ってくるなら必ずここを通るはずだ」ペシェは思案顔だった。
昼過ぎになって滝つぼに着いた。荷車はここまでだ。ここから先は歩いて登るほかない。
一旦小休止だ。
ドリッコは滝つぼに入ってその巨体を浮かべていた。十分に寒いがそれでも身体の中で発生した熱を冷ます必要があった。さすがのギ・フォングもこれには付き合えず、水際に腰を下ろしてドリッコを待っていた。
僕はギ・フォングの横に座って休んだ。つま先を水面に入れてみる。
「こんな冷たいのによく入っていられるな」
「あのひとは特別なのよ。体の表面は凍えているのに内側は熱くて燃えそうなの。かわいそうな人。ひとりにしておけない」
「…そうだね。一緒がいい」
「タイエン。わたし、どうなってしまうの?」ギ・フォングは握っていた手を広げてみせた。
爪が太く鋭く変形していた。触ると驚くほど固い。ザルマと同じ爪だ。
「爪だけ?」
ギ・フォングは首を振って、口を広げた。そこにはふたつの突起がみえた。
彼女の頭頂部にもわずかに隆起がみられた。いまはコブのようだ。
「ドリッコはなんと?」
「…なにも言わない。わたしを抱きしめてただ泣いてるの。かわいそうよ、ほんとにかわいそう」ギ・フォングはむせび泣いた。「わたし、直にザルマみたいになるのね」
「わからないよ」
「あんな姿、あのひとに見せられない。あんな風になる前にわたしを殺して。お願い、タイエン」
「無理だよ。そんなことできない」
「そうしないと、わたしがあのひとを傷つけてしまう。この爪であのひとをズタズタに引き裂いてしまうかもしれない」ギ・フォングは強く拳を握り締めた。指の間から青い血があふれ手首にながれ始めた。
「止めないか。そんなことしちゃダメだよ」思わず僕は彼女の拳を開かせようとした。
「嫌よ、絶対に嫌。助けて、タイエン」
「ギ・フォング。冷静になるんだ。まずこの変化をできるかぎり誰にも悟られるな。隠すんだ」
「もう限界かも」
僕は太刀を抜き、ギ・フォングの爪を白刃に押し当てた。一本一本、爪は削がれていった。
「これでしばらくは大丈夫だ。伸びてくればまた切ればいい」
「わかった。でも、その場凌ぎよ。いずれザルマみたいになる。自分が誰だかわからなくなるときが…」
「もし、そんなときが来たらぼくに任せろ。君らは最後まで一緒にいるんだ。別々にはさせない。いいね」
「…ほんと、タイエン。ほんとうにそうしてくれるの」
「ああ、任せろ。諦めちゃダメだ」
「ありがとう、タイエン。わたし、頑張る」
荷車に戻るとフォスが怒鳴った。
「タイエン、なにやってる。早く荷物を仕分けしろ。お前だってもっと持てるだろう」
リフォルは長弓と短弓を各2本、矢筒5具いっぱいに矢を持って行くと主張して聞かず、ダゴゥはライフル銃2丁にショットガン、拳銃2丁、弾丸五百発を譲らなかった。銃器は樹脂で造られていたが弾丸は鉛だ。かなりの重量になる。
「これ以外に登山具ですよね。そりゃ、無理ってもんです」プビカリは途方に暮れていた。
「それが嫌ならお前は爆弾を持て」と、フォスが脅した。
ペシェは荷台かごの中に潜り込んでなにか作業に没頭し、長いこと出てこなかった。
長い小休止になったが、夕方近くになってようやく出発できた。
結局、ドリッコが半分近くの荷物を背負わされた。文句ひとつ言うこともなく彼はそれを背負い、崩れやすい堆積土をのしのし登っていった。
「日暮れまでにあの尾根を登り切る。奴らは夜影に乗じてやってくるはずだ。見通しの悪いところでは野営できない」
ペシェは、そう目標を示すと先陣を切ってスタスタいってしまった。南側の尾根を登り切ったあたりに窪みがあった。身を隠すに好都合な場所だ。
ドリッコの足取りは重い。どうしても隊列から遅れる。ギ・フォングはドリッコの背後を押しながら進んだ。僕はその彼女を庇いながらしんがりを務めた。
谷の深いところはすでに宵闇になっていた。積雪は氷結さえしていなかったが、滑りやすく、時に足底が抜けてバランスを崩した。前を行くメンバーの起こした落石に頻繁に襲われ、なんどか危険なサイズの岩石が轟音を立てて傍らを落ちていった。
僕たち最後尾の3人が野営地に登り切ったとき、すでに日は暮れ、満天の星空になっていた。
ペシェは自家製の双眼鏡を眼下に向けていた。「どうだ。絶好のポイントだろう。やつらはこの谷を必ず通る」
風が音をたて勢いよく吹き抜けた。僕たちは岩陰に身を沈め風をよけ、息をついた。
「温かいわよ。さあ、飲んでね」リフォルとダゴゥがスワイゲルのスープを3人分運んできた。
「お前たち、ご苦労だった。休めと言いたいがそうもいかん。ここであいつらを叩く。もうすぐ決戦だぞ」と、フォスがはしゃいだように言った。
谷はワカクサの光に照らされて、積雪が薄い緑に染まっていた。風が吹き抜けると雪が削れて舞い上がり、そのあと静けさが一帯を包んだ。
近くで弓がしなる音がした。リフォルが武器を準備しているらしい。ダゴゥはすでに狙撃に適した高台に陣取っている。
フォスとプビカリは腰にコンバットナイフを挿し、樹脂製の棍棒や槍を手にしている。さながら金剛力士像を思わせる出で立ちだ。ペシェは岩陰から谷あいに向けて辛抱強く双眼鏡を覗いている。
ドリッコはギ・フォングを膝に乗せ抱き寄せていた。ふたりは戦闘の準備をする様子はない。
僕は太刀をリュックから外し腰に佩刀した。身軽にして待つ。
眼下に火柱があがり炎と黒煙が天に舞い上がった。すぐあと爆音が轟いた。
「バカな奴らめ。あんな単純な罠に嵌まるとは」ペシェはいつになく興奮していた。
荷車に仕掛けたトラップが爆発したのだ。多くの爆薬が連鎖し、激しく爆発を繰り返した。
「やったぞ、ペシェ。全滅させたかもしれんぞ」フォスが手を叩いて喜んでいる。
「油断するな。そんな甘くはない」ペシェはもう冷静さを取り戻した。
爆発が収まると静けさが戻った。夜空にゆっくり煙が上がっていく。
僕たちは息を殺してそのときを待ち続けた。
ペシェが双眼鏡を構え直した。「来たぞ」
じっと目を凝らすがなにも見えない。
いや、なにか動いた。
黒い影が続々と駆け上がってくる。
「やつら、早いぞ」ペシェはそういうと照明弾を打ち上げた。
「距離五〇〇。尾根側にも登ってる。南側の守備を固めろ!」
フォスとプビカリが窪みから這い上がり尾根の上に対峙した。
ダゴゥが狙撃をはじめた。1発、2発。だが、その成果はわからない。
リフォルは窪みの入口付近に立って弓を引き構えた。もう少し引き付けるようだ。
「やつらは30前後だ。じゅうぶん行けるぞ。勝算はこっちにある」
ペシェは迫撃砲を発射した。尾根に白煙があがった。何体かの影が谷側に落ちていくのがみえた。ペシェはその後も迫撃砲を続けざまに発射した。窪地は硝煙で視界が悪くなった。
距離はあと二五〇m。黒い群れが獣のように駆け上がってくる。
リフォルが長弓を引き始めた。狙い定め、谷から登ってくる影に向けて射る。空気が裂けるような軽快な音があとに残る。ダゴゥも狙撃音が止むことがなくなった。連射に近い。
一旦、倒れた影がまた起き上がってくる。
「あいつら、不死身?」と、リフォルが叫んだ。
「心臓を狙って。そこなら一撃」と、ダゴゥが上の方から返してきた。
ペシェは迫撃砲をやめ、手榴弾を抱えて尾根側に登っていった。
「ドリッコ、尾根側からの侵入を許すな。谷は僕が守る」
「わかった。任せろ」ドリッコはギ・フォングの身を膝上から下ろした。「タイエン、こいつの最期は俺が決める。余計なことはしないでくれ」
「わかった」僕は朦朧としているギ・フォングの様子をみて頷いた。
「約束したぞ」彼はそういうと窪地から岩を這い上がり、戦場に出て行った。
ダゴゥがスナイパーライフルからアサルトに切り替えたようだ。速射音が単発的に響く。リフォルも短弓に持ち替えて連射をはじめた。
南側では爆発音が立て続けに響いた。ペシェが手榴弾を浴びせているのだろう。
窪地の正面に影とみえたものが人の形をはっきりと現した。
まっすぐに駆けてくるもの、右へ左へジグザクに走るもの、大柄なもの、小柄で敏捷なもの、様々だ。頭には巨大な角を持っていた。1本だけのものもいれば2本以上のものもいる。
まっすぐに駆け込んでくるものはリフォルの格好の餌食になった。胸を守るように腕をクロスしていても一撃で射抜かれ絶命した。縦横に動く敏捷なものはダゴゥが料理した。脚に連射して転ばしておいて、そこに集中砲火を加えた。寸断された肉片があがる。
そのふたりの速射を運良く掻い潜って距離を縮めてくるものがいる。暗闇でもその形相がはっきりみてとれた。蒼白の汚れた顔は引きつりあがり、むき出しの黄色い牙がむごたらしい。眼はあかく染まり狂気をほとばしり、そこには知性や人格が微塵もない。その心に宿るものは血に飢えた殺意と憎悪のみだった。
「こいつは僕が殺る」2人に合図して駆け出す。
そのおぞましい存在は不潔な唸り声をあげてたちまち、飛びかかってきた。俊敏な動きだ。足の速さでは遠く及ばない。しかし、このひと太刀はそいつにさえ見えない。なにをされたかわからなかっただろう。
首を落としたままで走り去っていった。首は不思議そうに自分の後ろ姿を見送っていた。
気を抜く間もなく、闇の中から鋭い爪が襲ってきた。反射的に下から太刀をあてると手首が消えた。その返しで正面を切り開く。胴体ごとふたつに割れ悪臭のする飛沫をあげて目の前からいなくなった。
「タイエン、下よ。下に気をつけて」ダゴゥが叫んだ。
ワカクサの月光が映える雪面はぬめりのある薄い緑色を返していた。凍結がはじまっているのだろう。
その上を滑るように移動してくる2つの影。四つん這いのまま猫のように音もなく駆け寄ってきた。ひとつは5mほど手前で宙に飛び、左方向から襲ってきた。同時に右のやつは低い姿勢のまま突っ込んでくる。太刀を高らかと上段に走らせ、上のやつの腹を裂き、その勢いにのって下に浴びせ倒した。上のやつは身を丸め、臓物を撒き散らしながら肩越しに飛び去っていった。下のやつは首筋から太刀が突き刺さり胴の中に埋まった恰好でのたうちまわっていた。太刀を岩に当てないように振り抜かなかったからだ。太刀を抉るように抜き、脊髄神経を破壊してその動きを封じ込めた。
「これじゃ、おっつかないわ」リフォルの声が聞こえた。
見ると3体が彼女を取り囲むように間合いを詰めていた。弓の連射を受けて矢がささり、あちこち貫通しているのだが仕留められないでいた。
「リフォル! 左のやつだけに集中しろ。ほかは任せろ」僕はそう叫ぶと、駆け込んで一番手前の首を刎ね、さらに3歩跳ね飛んでスライディングしながら真ん中のやつの足首を落とした。そのままつんのめって凍った雪の上を滑った。
体勢を立てなおそうとするところに岩陰に潜んでいた別のやつが襲ってきた。この体勢では太刀が振れない。そいつはその隙をついて牙を剥き、上から飛びかかってきた。だが、同時に爆裂音とともにそいつのすべてが吹き飛んだ。
「危ないところだったわよ」ダゴゥがショットガンを構えていた。
僕は手で感謝の合図を送る。
リフォルはなんとか1体の急所を射抜いて危機を脱していた。足首を失い、なおも這ってリフォルを襲おうとしているやつの首をえぐり取り、蹴飛ばしてやった。
「悔しい! 5匹が逃げていった」と、リフォル。
「こっちの方はだいたい終わったわね」と、ダゴゥ。
「尾根側を見てくる」
「わかった。まだ息のある奴は片付けておく」
僕は窪地に駆け戻ったが、そこには1体が無防備に立っていた。後ろを向いて身体を前後に揺らしている。こちらに気づくとぎこちなく襲いかかってきた。危うく切り刻みそうになったが、寸前で切先を止めた。
それはギ・フォングだった。細身の姿態は確かに彼女のものだ。しかし、その口元からは大きな牙がいやらしく伸び、頭頂には鋭く尖った禍々しい角が生えていた。夢遊病者のように僕に近づいてきた。
なにか喋っている。
「儚い。ああ、なんて儚い…」彼女の一部はまだ残っているようだ。
「ギ・フォング! しっかりしろ。まだだ。まだ逝っちゃダメだ」
「…ああ、あああああああ」
「ドリッコだ。ドリッコを待ってろ」
「ド……、ドリ、ド…ド…」
「そうだよ、ドリッコだ。いま連れてくる。待つんだ」
「あああああああああああああああ、あああああああ」
言葉にならない言葉、感情だけが声になって出ている。僕はこの間に太刀を抜き、一瞬で牙を切り、角を落とした。
彼女は頭を抱えてうずくまった。「ああああああああ、うううううううううぐうう」
僕はギ・フォングをそのままにして、尾根側に這い上がった。
そこには惨状が広がっていた。
ドリッコが絶叫し抵抗している奴の背を片足で踏みつけて、両手で首をもぎ取ろうとしていた。嫌な音をたてて首が剥がれて抜け、脊髄まで房のようにぶら下がって出てきた。よくみると脇にもう一体、暴れている奴を抱え込んでいた。首を始末するとその脇に抱えたやつの顔を両手に包み、胸のあたりで押し潰した。スイカの割れるような破裂音とともに脳漿が吹き上がった。
「ドリッコ、もういい。ギ・フォングのところに戻れ」
ドリッコは僕の言葉を理解するまでに少し間があった。それでも顔の潰れた遺体を無造作に投げ捨てると、のしのし歩いてギ・フォングの待つ窪地に降りていった。
尾根の上には敵だか味方だかわからないホミニンの残骸がいたるところに転がっていた。
下の方で誰かが棍棒を振り上げている。月明かりにフォスであることがわかった。
「このヤロー、このヤロー」フォスは繰り返し、棍棒で地面を叩いていた。近づくとそれはグチャグチャになったザルマのようだった。
「フォス、もう死んでるよ」
「こいつがプビカリに怪我をさせたんだ。まだ許せん」
傍らでプビカリが横たわっていた。こめかみに何かが突き刺さっている。よく見るとそれはあの鋼鉄製ハーケンだった。
プビカリにはまだ意識があった。
「ザルマを発見したら…ハッーケンで刺された」
「面白いぞ。プビカリ、お前は面白いやつだ」フォスはなおもザルマの残骸を叩きつぶしながらそうプビカリをほめた。
「…フォス、…どこだ。見えないんだ。フォス、近くにいてくれ」プビカリは弱々しく言った。
「プビカリ、お前は死なせん。死んではいかん」フォスはプビカリの手を握っていった。
「フォス、ありがとな」それっきりだった。
「プビカリ、おい。起きろ、プビカリ!」フォスは絶叫してプビカリを揺すったがもう動くことはなかった。「プビカリ! プビカリ!」フォスの号泣が永遠と続いた。
ペシェの姿がなかった。名を呼ぶと返事があった。
「こっちだ、タイエン」
谷の方からだ。
行ってみると、ペシェが岩にもたれて座っていた。なにかを抱えている。
「タイエン、あいつらを滅ぼしたか」
「いや、一部は逃げた」
「警戒を怠るな。間髪入れずにまた襲ってくるぞ」
朝陽が射し始めた。ペシェには下半身がなかった。ペシェの抱えているものはホミニンの首だった。水牛のような形の角が額から両脇に伸びていた。
「こいつはロンチュリだ」ペシェはその首を愛おしそうに撫でた。「俺の相棒、ロンチュリだ。…まさかこの相棒と殺り合うようになるとはな」ペシェの残った上半身に朝陽が当たった。
「皮肉な話だ、最期がこうとはな。まったく俺らしい。そう思うだろ、タイエン」
返事のしようがない。
「タイエン。お前は山を越え、必ず海に出ろ。どんなことがあってもそうするんだ。そう約束してくれ」
「約束するよ。必ず海に行く」
「是非、そうしてくれ。俺にはわかるんだ。俺たちの犠牲は最初からお膳立てされていた。お前を海に行かせるために俺たちは犠牲にならなきゃならん」
「どういうことか、わからないよ」
「いいんだ、タイエン。気にするな…」そこでペシェはこと切れた。出血量をみれば意識が保てたのが不思議なくらいだった。
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