10 幼成のジグ

 センブンスヒル・スクールにはすでに12年間在学している。卒業まで間もないが大学進学の予定はない。

 帰順者は教育を必要としなかったし、ピュアな人間は高等教育を受けることを諦めていた。ほとんどの研究機関や専門組織はジェムラインの使命を帯びた帰順者やリプリセンタが占めていた。

 稀にピュアが研究者となったが随分軽い扱いを受けた。能力的に劣ってしまうからだ。研究を続けるにはどうしてもジェムライン帰順者とならざるを得なかった。そうなれば人類の培った知の集積がいつでもで利用でき、あらゆる分野から専門的アドバイスが集まった。

 センブンスヒルに在学した間、多くのエンタングラーと認定された子ども達が入校し、そして去っていった。そのうちの何人かとは親しくなった。しかし、僕やカティ、ジオのように18歳まで在学することは珍しかった。

 生徒たちは様々な理由があって辞めていった。ある生徒はエンタングラーとしての能力や資質を疑われて退学させられた。その反対に能力は十分であっても自らの意志で辞めるケースもあった。

 どういう理由で辞めたにせよ、セブンスヒルを去った者たちはたちまちジェムラインの帰順者となった。SSEVを受けずにピュアで居続けることもできた筈だったが彼らはそうしなかった。狙いすまされたかのようにジェムラインに取り込まれていった。

 ただし、エンタングラーは自己融合することに制限があった。交絡能力が失われてしまうからだ。本人が自己融合を望んでもジェムラインがそれを拒絶した。自己融合できないことで、エンタングラーは不幸だと嘆くものもいた。何らかの理由でジェムラインはエンタングラーを特別視していたことは確かだ。

 セブンスヒルはエンタングラー養成を目的としていたが、同時にジェムラインへの帰順を抑制もしていた。ジオのようにリプリセンタになることは珍しく基本はピュアなままでいることを義務付けられた。

 たが、時を経て校内の状況は大きく変化していった。発足時は政治的中立を守るという立場から帰順者やリプリセンタを職員や研究者に採用することはなかった。ところが、ほんの数年も経ずしてそのような制約はなくなった。気づけばリプリセンタの研究員が校内を平然と闊歩していた。教師にも帰順者が採用されることが普通のことになった。

 ザクルタク校長も知らぬ間に帰順者となっていた。職務を円滑に遂行するにそうなることは妥当だった。


 カティは穏やかでなかった。ジオのようにリプリセンタであってもオリジナルを保つものは受け入れた。だが、自己融合を行ったものについては徹底してこれを忌み嫌った。それは父親譲りかそれ以上だった。そういう者が近づくとカティの気配が変わった。心の底からの憎しみが吹き上がってくるかのような怖い顔をしている。姿を見ただけで自己融合したことが察知できるらしい。

「融合はのっぺりして平坦で薄っぺらだからすぐわかる」と、カティは説明するが僕にはさっぱりわからなかった。融合者を見分ける特別な嗅覚がカティに備わっているらしい。「近くにいるだけで魂を吸い取られているように感じる。あの寒々しさったらない」

 校内で職員とすれ違うたびに「あいつは融合。いまのはオリジナル」と逐一教えてくれるのだが正直どっちでも構わなかった。何度聞かされてもその違いがまるでわからないので興味が失せていたからだ。

「帰順者ってさ、オリジナルを保つ者と融合する者がいるけど、その差みたいなものって何かあるの?」

「自己体が中途半端だとかき混ぜられたクリームみたいにすぐ融合する。しっかりした芯がないからなにかに巻かれていたいの。でも強くて清らかな自己はオリジナルのままでいられる。何者にも頼る必要が無いから」

「悪党は?」

「腐った自己はジェムラインが拒絶する。ジェムラインにも選ぶ権利があるの」

「そうなんだ! 知らなかったよ。とすると、ザクルタク校長はどっちなんだ? いまだにオリジナルのままだろう」

「考えるまでもないでしょ。校長は拒否られてる、腐りきってるから」と、カティは吐き捨てるかのように言った。

 ザクルタク校長はセブンスヒルが開設されてから長きにわたって校長を務めている。白い髭を蓄えた顔は血色がよく、フットボーラーのような筋肉質の大きな体型をしていた。見た目は若く見えるが60を超えていることは間違いない。普段から愛想よい笑顔を絶やさないのだが常に相手の非を探っているかのような狡猾で隙のない目つきが印象を悪くしていた。

 入学の時から、僕らと毎日のように顔を合わせているというのに全く親しみが持てないでいる。生徒とは常に一定の距離を保ち、決して深く関わろうとしない。これがザクルタク校長のスタイルだ。管理することが職務だとして自ら教育することは端から放棄していた。

 セブンスヒルは特殊な教育機関だったが大きな問題が生じることもなく今日まで存続できたことを考慮すれば、優れたマネージャーだと評価されるべきだろう。組織にとって害悪になり役に立たないと判断すると冷酷にそして巧妙に関係を絶った。生徒は有無をいわさず退学させ、研究者や職員は難癖をつけて交代させるか退任に陥れた。そのくせ権力には体よくなびき、決して抗うことはなかった。だからNSAの後ろ盾(つまりローゼン)がある僕らにはいっさい手出しすることはなかった。特にジオは問題行動が多かったが退学させられることなく表立ってお咎めもなかった。

 ザクルタク校長はその立派な体格とは裏腹に卑屈で小心な男だった。ただ、それだけのことで「魂が腐りきった」と評価されたのでは気の毒だとも思った。

 それでもこのカティの極論には頷けるものがあった。


 ミウラはセブンスヒル内に常時7体いた。

 その数は開設時から変わりない。けれども何度も改良が加えられ、現在バージョン10を数えるまでになっている。

 入学時はそのぎこちない動作や表情からアンドロイドであることがすぐにわかったが、最新バージョンのミウラは表情も豊かで微妙な心の動きがさりげなく表現できる。最早、人と区別することはその外見からは難しくなってきていた。現在のバージョンは「人以上に人らしいところが人でない」と人によって評価されている。次期バージョンはいったい何を目指すのやらよくわからないが、ジェムラインとAIの共同研究が着実に成果を出している証拠のような存在だ。

 僕らエンタングラーの寄宿棟には3体のミウラが常時配属されていた。幼い頃から生活の世話をやいてもらっているジオにとっては母親のような存在になっている。

 カティにとってもおそらく同じだろう。ジオのようにオープンにはしていないが、カティがミウラに深い愛情を感じていることはその態度をみればよくわかる。カティは僕らと一緒のとき、ミウラに意地の悪い言動をとったり反抗したりと、露骨な態度を示すことが多い。だけども個室に戻ればミウラと長く親密に語り合うことが多かった。たぶん悩み事を相談しているんだろう。涙声が聞こえるときもある。こんな素顔のカティを知っているのはミウラだけだったろう。

 僕自身はミウラを家族の一員のように感じていた。姉のような存在だ。愚痴や悪口を言ったり、時には八つ当たりや喧嘩をふっかけもする。彼女はそれを見事に受け流す。喧嘩や言い争いになることはない。ほんとうによく出来た姉だ。

 カティやジオみたいにもっと癖の強い相手に対してもまったく同一の人格で向き合っている。相手によってキャラを変えることは決してない。

 僕らはミウラがジェムラインとAIの培った知性の集合体であり、人の精神を宿していないと知っている。モンゴロイド系の端正な顔立ちをし、同一人格・同一外観の個体が少なくとも7つあり、見かけ上の年齢が僕らにどんどん近くなってきていて今後も歳を取ることがないと知っている。

 僕らのプライバシーはミウラを通じてジェムラインに筒抜けだろう。もっと言えばミウラに監視されているとも言えなくもない。そんな状況なのに僕らは彼女に全幅の信頼を寄せていた。ジェムラインや融合者に憎しみを募らせているカティであってもミウラに対して全く正反対の感情を抱いている。

「ミウラはまるで観音菩薩みたいだ」と、ジオが評したことがある。

 宗教家気取りのジオの発言だったが、まさにそのとおりだ。どんな醜い心、穢らわしい魂をもつ者であろうとも許容してしまう懐の深さ、いかなる悲しみや憎しみであろうと受容する情の深さがあった。ミウラはその心に大きな慈悲を宿していた。


 悪夢に襲われて目覚めた。息が上がって苦しい。研修プログラムはまたしてもクリアならずだ。

「心拍数が一八〇を超えていた。危ないレベルよ。抑えが効かなくなってる」ミウラはベッド脇に座って僕の右手を握ってくれていた。いつもの白衣姿だ。

「自分が無限に増えていってしまうんだ。どうしてもコントロールできない」

「いまだ誰も超えたことのない領域よ。そうそう簡単にはいかない。何度失敗しても構わないから挫けちゃだめ」

「もちろん! 絶対に成功させてみせる」

「そう、その意気」彼女は微笑んで額の汗をガーゼでやさしく拭きとってくれた。水を飲み干し、しばらくしてようやく息が整った。ふと、ミウラの顔をまじまじと見つめた。

「いつも冷静だね。腹を立てたり泣いたりしないけどほんとうにそうなの?」

「突然なにかしら? 感情は露わにしているつもりよ。あなた方と意思疎通するのに感情は欠かせない要素なの」

「ミウラの感情表現はあくまで擬似的でしょ。そうじゃなくって心底、悲しいことや腹立たしいことはないのかってこと」

「あら、意地悪ね。私の存在そのものが擬似的なのは知ってるでしょう」

「ミウラが人に似せられて造られたことは事実だけれども、その存在が虚ろだとは誰も思ってないよ。少なくとも僕らはそう感じてる」

「ありがとう。嬉しいこというのね」

「だからそれを前提に訊いているんだって。ミウラのほんとうが知りたいのさ」

「私のほんとう? 私はいつでもオープンよ。なにも隠していない。私の使命はあなた方を立派なエンタングラーとして育てること、ただそれだけ。わかりやすいでしょう」

「もし、そう思っているならとんだ間違いだ。そんな単純なわけない。ミウラは自分自身を知らない。もっと興味を持ってよ」

「あら、またひどいこと言うのね。タイエン、あなた今日はなにか変よ、持ち上げたり落としたり。なにか嫌なことでもあったの」

「なにもないよ。平常心さ。いつもミウラのほんとうが知りたいって思ってた。だから思い切って訊いてみただけ」

「そう。でも、困るわね。知らないことをどう答えればいいのかしら?」

「探ってみれば」

「自分自身を知るためにリソースを傾けろというの? それは命令なの?」

「そんなに大変でなければそうして欲しい」

「不可能とはいえないわね。でも、容易いことでもない。存在の本源を探る行為は哲学的命題になるの。あなたに与えられた研修プログラム以上に困難な課題になる。なぜってその答えにいまだかつて誰もたどり着いていないから」

「そんな大袈裟なことを頼むつもりはないよ。ミウラがなぜ悲しいのか、知りたいんだ」

「私は悲しくはないけど」

「気づいていないだけだよ。あなたは悲しみに打ちひしがれてる。たぶん堪えられないほどに」

「勝手に決めつけるのね。どうしてそう思うのかしら」

「はじめて会ったときからそう感じてる。それからというものミウラが悲しくないと思ったことはいまの今まで一度もない。ずっと悲しいままなんだ」

「……タイエン。なぜいまになってそんなこというの」

「やっぱりなにか感じるものがあるんだ」

「……そうね、なにかある気もする。でも私はあなた方が感じる悲しみという感情を味わうことができない。だから、私の根底にあるそのなにかが悲しみだと同定することはできないの」

「でも、なにかあるんだ」

「あるわね、ずっしりしたものが…」

「それが悲しみなんだよ。そう思えばいい」

「あなたの言う通りなら、私ずいぶん面倒なものを背負い込んでるのね。この荷を降ろして無くしてしまうことはできそうもないわ」

「それがあるとわかったなら対峙できるよ」

「自分の悲哀に向き合って何になるの」

「それ以上大きくならないように見守るのさ」

「見守る?」

「自分を見失ってはダメってことだよ。その目安さ」

「私に自分らしさが備わっているとでも?」

「当然さ。ミウラは他の誰でもないんだよ。自分という守るべき尊厳があるんだよ」

「タイエン。あなた、私に説教してる。そんな人は初めて」

「いけなかった?」

「違うの。嬉しいのよ。そんな風に私を見てくれることが嬉しいの」

 ミウラの瞳が潤み、一筋の涙が頬を伝っていった。擬似的な涙だ。想定された感情の起伏を超えた時に体外へ排出される。でもそれは美しかった。彼女は涙を拭おうともせず僕をみて懸命に微笑んだ。いま、お互いのこころが触れ合った。そう実感できた。擬似的だからなんだというのか。いまミウラと僕はここにいる。その確からしさをお互いに共有した瞬間だった。


 しばらくぶりにジオの部屋に入ると巨大な水槽ゲージが置かれていた。中に水はなく赤茶色の土といくつかの石礫が転がっている。上から弱い照明が当てられているが見るからに殺風景だ。なにもいない。

「砂漠の鑑賞かい」と、僕。

「やっぱりジオね。ちょっと哲学的」と、カティ。

「違うってば。土の中で寝てるんだよ。夜行性なんだって」と、ムキになるジオ。

 彼はゲージに腕を突っ込んで土を掘り起こした。するとなにかを手に握って、「ほら」と広げてみせた。

「いやー! ミミズ」カティは絶叫した後、ジオの手の中をじっと見つめた。

「でもなんかかわいい。手がある。小さい目も」

「ミミズトカゲだよ。バハで捕まえたんだ」

 ジオはこのところ砂漠ツアーがお気に入りだ。バハとはバハ・カリフォルニア半島のことだろう。半島の廃墟巡りにひとりで出かけ2週間費やして帰ってきたところだ。ジオはなんだか行動が怪しくなってる。

 ミミズトカゲはカティの手にわたって腕を這いずり回った。カティは盛んに奇声をあげて喜んでいる。胴体だけ見るとミミズにしか見えないが頭のすぐ横に二本の小さい腕が生えている。あまり役に立っているようには見えない。小さく黒い目には薄く皮膚がかぶっている。たぶんなにも見えていない。

「昼か夜かはわかるんだって。凄く臆病なやつだから明るいと姿を見せない。耳も退化してるけど重低音なら膚で感じるんだ。だからウーハーでゲージを揺らしてやるんだって」とジオはそう説明すると「アホロテ!」と叫んだ。

 低音をブーストさせたベースドラムが響き始めた。ジオはおどけた調子でリズムにあわせて奇妙なダンスを踊ってみせた。カティもミミズトカゲを腕に絡ませたまま腰をくゆらせ、そのリズムにのった。

「そういえば校長の家って夜になると大音量で音楽流してるそうよ、オペラみたいなクラシック」と、なやましく上体をゆらしながらカティ。

 ミミズトカゲもリズミカルにカティの腕を動き回っている。

「近所迷惑な奴だな」このリズムに乗れない僕は腕組みしたまま不機嫌そうに応えた。

「ミウラが校長の家の窓辺にいたんだって」

「なんで校長の家に?」

「メイド服を着てるんだってさ」

「そんな馬鹿な」

「なんか嫌な感じ」

 カティはダンスはやめて顔をしかめた。

「誰から聞いた?」

「ジェムラインではみんな知ってる噂なんだってば」

「大事なことはもっと早くいえよ」

「ごめん。うっかりなんだよ」

「ほんとうに確かなのか。ガセじゃないだろうな」

「わからないよ、噂なんだって」

「ふたりともそんなことで揉めないで。ともかくミウラに訊くのが一番ね」カティはそういうと彼女を呼んだ。

「いまの会話、聞いてたでしょ。どうなのよ?」

「確かよ。ザクルタク校長は古いバージョンの廃棄体を自宅に引き取っている」

「なんてこった!」と僕。

 カティも呆れ顔だ。ジオはどう反応していいかわからない様子だった。

「あら、なにが問題なのかしらね。彼は広い邸宅に一人暮らしよ。家政婦を必要としているの」

「それはどうだか。あんなヤツ、陰でなにをしてるかわかったもんじゃない」

「そうよ。いやなイメージしか浮かばない」

「あなた方がどんな想像をしているかはわかるわよ。でも、仮にそうだとしてそれがなに? なにがいけないの」

「なにって、まさかなんとも思わないの」

「ただの廃棄物よ。校長がどう扱おうがなんの支障もないわ。機密情報はすべて消去されてるの」

「なにをとぼけてるのよ。そんなこと問題じゃない」カティが怒りだした。

「あら、カティ。あなたって子は…。困ったわね。もっと合理的に考えないといけないわ」

「理屈じゃない」

「あなたはカットした髪や爪になにか未練を持つの。なにも持っていないでしょ」

「そんなものと一緒じゃない」

「私にとって古いボディは全く価値のないもの。抜け殻以下のものなの」

「ミウラの考えはわかったよ。それでも僕らは納得いかない。これは一種の侮辱だ」

「その言い方、まるで偶像崇拝者のようね」

「僕らは思想的な制約をいっさい受けつけない。そう教育されてきてる。偶像崇拝者でもなければ原理主義者でもない。観たまま感じたまま自分を信じて行動する」

「その考えは認めるわ。でも、よわったわね。あなたたちいったい、どうしたいっていうの」

「校長に断固抗議する」

「わたしも同意よ」

「ぼくもだって」

「仕方ないわね。校長に相談してみましょう」

 ミウラはため息を漏らしてその場を去った。


 数日後、校長からパーティーの招待があった。開校以来初めての校長宅でのパーティーだ。

 僕らの抗議をミウラから聞くにおよんで校長自らパーティーを企画したそうだ。公平を喫するためかどうかは知らないけれど僕ら以外の生徒や数人の職員、研究者まで招待された。

 当事者のミウラは招待を断っていた。

「わたしがその場にいたら、それこそあなた方はいたたまれなくなるでしょう」という理由だった。

 たしかにその通りかもしれない。

 校長の家は邸宅と呼んで差し支えなかった。白い外壁の大きな屋敷は近代ヨーロッパ建築風に装飾され、正面に立つとシンメトリーであるはずがどこかアンバランスな印象があった。

 よく観察すると、ところどころに左右非対称な意匠や形が配置されていたからだ。玄関の上に張り出した大きなバルコニーも西側の角が面取りされ、そこだけが夕日に映えていた。

 玄関で大きな体躯に豊かな白髭を蓄えた校長が僕らを愛想よく出迎えた。赤ら顔に隙のない笑顔をつくって一人ひとりとあの大きな手で握手を交わした。

 エントランスは趣味の良い絵画や彫刻に埋め尽くされていた。

 広すぎると思えるリビングには質の良い家具や調度品が置かれていた。掃除は隅々まで行き届き、快適そうだった。

 テラスに出るとよく手入れされた庭園が見渡せ、その中央にはクリスタルガラス製の豪華な噴水が置かれていた。庭園のすぐ脇に楕円のプールが備わっていてそこだけがいかにもアメリカであることを際立たせていた。

 ジェムライン帰順者にしてこの暮らしぶりは珍しかった。帰順者は物質的な豊かさへの興味を減退させ、概して質素になっていく。美術品や高級家具は捨て置かれてしまい、手間のかかる庭の管理はなおざりになるのが常だ。

 だがここの室内は完璧なまでに掃除が行き届いているし、この庭園は雑草ひとつなく徹底した手入れがなされている。帰順者のザクルタク校長がこのように暮らしのグレードを維持しているのは異様とさえ感じられた。


 まだ早い時刻だったので他の招待客の姿はなかった。僕らはテラスデッキのテーブルに案内された。初夏の夕日がマロニエの花をピンクに染め、さわやかな風がその甘い芳香を運んできた。

「君たち、よく招待を受けてくれたね。改めてお礼を言おう。君たちの抗議をミウラから聞いて自分が軽率だったと気付かされたよ。そこまで君たちの感情を害することになろうとはそれこそ夢にさえ思っていなかった。だが、抗議を受けてそれは切実な思いだと悟った。なにしろ、ミウラはただのアンドロイドではない。君たちの育ての親だ。そういう君たちの愛情を込めた思いを校長であるこの私が踏みにじっていたとは自分でもショックだった。この歳になってそんな失態をするとは実に情けない。本来は事前に君たちに伝えておくべきだったんだ。いや本当に済まなかった。許してくれ」

 予想外にも校長は潔く非を認めた。僕らは拍子抜けして互いに目配せした。

「校長がそこまで率直に謝罪されるのであれば僕らにそれ以上望むものはありません。ミウラを家政婦として使役することを直ちに中止していただければそれだけでいいんです」

 このような交渉事はいつも僕の役割になっている。

「そうかね。君たちの要望はよくわかった。ところでタイエン、君は美術品に興味があるかね?」

「特にはないですが…」

「カティ、ジオ。君たちは?」二人とも首を横に振った。

「まあそれでもいいから私の美術コレクションに案内しよう。向学のためだ」

「ちょっと待って下さい。まだ話は終わっていません。肝心のミウラはどこにいますか?」と僕は不服を述べた。

「コレクションを観てからだ。ご対面はそれからでも遅くはないだろう」校長はにんまりと笑った。

 僕らを半ば強引に2階のコレクションルームへ連れて行かれた。

 かつては晩餐会を開けるほどの長大なダイニングルームだったと思われる部屋だった。黒い厚手のカーテンが窓を覆っている。

「この家を購入するとき一人暮らしにしては大きすぎると思ったが、いまじゃ手狭になってきてる。もうコレクションが収まりきらないんだ」

 部屋の中心は壁で仕切られていた。いまやすべて部屋の壁は間隙の余地がないほどに絵画によって埋め尽くされている。さらに床のいたるところに彫刻やオブジェが所狭しと並べられていた。

「かなり選別しているんだが、それでも次々とオークションに出てくるんだ。ほんとうにキリがない。隣にコレクション専用棟を建てようかと真剣に考えてるんだ」

「もう買わなきゃいいじゃない」と、カティの率直過ぎる意見。

「そうはいかないんだ。これはわたしの役目なんだよ。欲得だけで集めているわけじゃない」

「自分の意志じゃないとでも?」

「勿論、私の意志さ。でも自分のためじゃないんだ。たとえばこれを観たまえ」

 校長は目の前にある荘重な絵画を指差した。

「16世紀のスペイン・トレドの画家、エル・グレコだ。この筆使い、配色、構図。どれをとっても斬新だ。何度見ても惚れ惚れする。これこそがほんものの美だと思わんかね」

 人物の縦横比がなんだか変だ。縦に長過ぎるように感じたが口には出さなかった。

「こっちはエゴン・シーレだ。20世紀はじめのオーストリアの画家だ。よく観たまえ。なんと強烈な画風だろう。不安で儚い気持ちにさせられる。それでもここには確実に美がある」ザクルタク校長は陶然とした表情で語った。

「そのか細い人物像はジャコメッティだ。触って倒さないでくれよ。そっちにはポップアートだってあるぞ。ウォーホルやバスキア、若死にしたが彼は真の天才だった。リキテンスタイン、ジャスパー・ジョーンズ。まだまだ向こうにもある。そうだ、日本の村上隆の等身大フィギュアだってある」

 校長は次々に収蔵品を紹介しながら矢継ぎ早にその説明に没頭した。僕らが理解しているかどうかはお構いなしだ。

「……歴史とともに人類の美意識は拡大しているんだ。どうだ、なにか感じるかね」

「面白いとは思いましたけど…」

「ここにあるのは人類の遺産なんだよ。人類の存在証明そのものだ。そんな貴重なものが二束三文で市場に出てくる。なんてもったいない。放っておけないだろう」

「美術館に任せればいいじゃない」と、カティの正論。

「それじゃダメなのさ。美術館が買わないから市場に溢れ始めたんだ」

「でも集め終わった後は?」と、僕。

「永久管理を目指すつもりだよ。幾世紀先にわたっても構わない。ふたたび脚光が集まるまで完全な状態で保存してみせる」

「そんな日、来ますか?」

「このまま人類が自ら創造した美を放棄してしまったとしてもだ。それでもこのコレクションの価値は少しも毀損しない。なぜなら、必ずこの美を理解する者が現れるからだ」

「異星人や進化したトカゲだったりして」と、ジオが冗談めかして言った。

 校長は真顔のままだ。

「その通りだ。人類の美は普遍の価値をもつ。知性体であればそれを理解できる。全宇宙共通なのだよ。それほど美とは特別なんだ」

 そう断定されてしまうとなんの反論もできなかった。

「校長、美術品蒐集の意義は理解できました。しかし、ミウラとの関係がわかりません?」

「まだわからんかね。人類は内向きに深化を始めてしまった。この流れはもう変えられない。地上はミウラのように自意識を進化させるアンドロイドに託すほかない。ミウラは人類の継承者なのだよ」

「だからコレクションの管理を永遠にさせようと?」

「そうだ。私はここでミウラの正しい美意識と感性を育ててきたつもりだ。私がいなくなったとしてもコレクションを維持管理し拡大さえできるだろう。まさにミウラはスーパーキュレーターとなったのだ」

 僕らは顔を見合わせてお互いを確認し合った。

 カティは首を傾げて浮かない顔をしている。ジオは興味を失って退屈し始めている。僕自身も断固抗議するという気持ちは失せてしまっていた。

 ザクルタク校長の説明を受けて僕たちはすっかり気勢をそがれてしまった恰好だ。むしろ、美術遺産の管理はリタイアしたミウラからみれば悪くない仕事のように思えてきた。

「もういいだろう。階下にミウラがいる。旧知の仲といいたいが彼女らはすでに別人だ。君たちが誰であるかは理解しているが、君たちとのことは覚えていない。セブンスヒルでの記憶はすべて消去されているからだ。事情は知っていると思うが、そうしたのは私の意図ではない。そういう貸出条件でジェムラインとの折り合いが付けられたんだ。私を悪く思わないでくれよ。さあ行こう」

 リビングには招待客が集まっていた。3体のミウラが招待客に給仕していた。

「こんばんは。タイエン」深い紺色の膝丈のメイド服を着たひとりのミウラが笑顔で挨拶した。

 頭には白いキャップを被りエプロンをしていた。ひとつ前のバージョンらしい。肌の照り返しがやや自然味にかけるのでよく見るとアンドロイドだとわかる。

「こんばんは。ミウラ」

「ドリンクはパンチボウルでいいかしら」

 僕は頷いてミウラv9からブラックベリーのカクテルを受け取った。カティもそうしたが、ジオにはリプリセンタ特製ジュースがちゃんと用意されていた。

 ミウラv9の立ち居振る舞いを観察した。メイド服姿である点を除いて見慣れた動作だった。セブンスヒルでも彼女はよく僕たちに給仕してくれている。掃除、洗濯、炊事と僕たちの身の回りの世話をすべてこなしてくれている。特に違和感がない。どこか憂いのある、あの澄んだ瞳も同じだ。

 パーティーが佳境となるとポップな音にのってダンスが始まった。真っ先にカティが踊り始め会場をわかせた。ジオも続いたがやはりあのアホロテの奇妙なダンスだった。

 僕はひとりのミウラv9としばらく向かい合って踊った後、彼女を誘ってテラスに出た。


 月明かりの中、庭の回廊を巡りながら、「ここは楽しいか」と訊いた。

「美術の仕事は楽しいわよ。未来永劫となると少し荷が思いけど」

「校長はどう?」

「どうって? 私達のご主人様よ。彼の意に従うことが私達の使命なの」

「悲しくならないか?」

「そんな訳ないでしょ。どうしてそう思うの?」

「ほんとうのミウラは悲しいからさ」

「…なにを言っているの? 私は悲しくなんかない。それじゃいけないかしら」

「自分を大切にできてるの? それともそんなこと考えたこともないの?」

「……わからない。なんでそんなこと訊くの。なんだか、おかしくなってしまいそう。もうやめて」

 ミウラはエプロンの裾を掴んで不安そうな表情を浮かべた。

「わかった。もう訊かない。ただこれだけは覚えておいて欲しい。自分自身を欺き続けることはいずれできなくなる。なぜってミウラは意識を持ってしまったから。それは必然なんだ」

 ミウラv9は歩を止めて訴えるような目つきで僕を見つめた。そして不意に背中を向けると黙ったままパーティー会場に戻っていった。


 パーティーは終わり招待客はそれぞれ帰っていった。ザクルタク校長はパーティーの途中から姿が見えなくなっていた。

 僕たちが迎えのロボットカーに乗り込むとミウラv9たちがお辞儀をして見送ってくれた。

「楽しかった」少し酔ったのかカティは僕に抱きつき、胸に顔を寄せた。息が熱い。

「ダンス、ダンス、ダンスだって」と向かい側に座ったジオはまだ踊り足りない素振りだ。

「君たちは肝心なことを忘れてる」と、僕。

「もういいわ。美術になんか興味ない。勝手に未来永劫やってればいい」

「そうじゃなくて、オペラが流れてない」

「そりゃだってダンスできないって」

「パーティーはもう終わった。もう少し待とう、オペラが流れるかどうか」

「タイエン。何言ってるの。オペラを確認してなにするつもり」

「ともかく確かめたい」

「いい加減にして。わたしは帰りたい」

「カティ。ここへは何しに来た? 踊りに来たのか?」

「…なんでもなさそうじゃない。あなただってそう思ったでしょ」

「危うくな。でもダマされるもんか」

「もう! わかった。とことん付きあってあげる」カティはむくれたが浮かれ気分は吹き飛んだようだ。

 僕はロボットカーにUターンを命じ、同時に帰路に着いているように位置情報を偽装することを命じた。僕らエンタングラーには公共システムに対して強い権限が与えられている。

 ロボットカーを路肩に停車させ、暗闇の脇道を徒歩で進み、細かい枝葉を掻き分けながらようやく庭園側に回り込んだ。

「これ以上は近づけないって」ジオが警告を発した。

 敷地ギリギリまで接近しているらしい。邸内の防犯システムを無効にすることはできそうになかった。システムに感知されればセキュリティガードが飛び出してくるだろう。そしてそれはミウラv9たちである可能性が高かった。

 もし、ミウラv9たちと衝突するようなことになれば本末転倒も甚だしい。バカの極みになってしまう。

 やむなく敷地手前の草むらに身を隠した。邸内でミウラv9たちがパーティーの後片付けをしている様子が望めた。

「ここで待とう」

「いいわよ。オペラが鳴り響くまで朝までだって待つ」とカティが囁いた。

 僕たちはじっと邸内の様子を伺いながら待った。やがて誰の姿も見られなくなり照明も薄明かりになってしまった。

 静寂が続いた。

 寝息が聞こえ始めた。ジオは身を横たえて寝入ってしまっていた。

 カティと僕は肩を寄せ仰向けになった。星が広がっている。夜空は名もなき星団のなかの星屑の瞬きまでも感じられるほど澄み切っていた。

「わたしたちの意識はどこへ向かうの?」

「あっちだよ」僕はいて座の方向を指差した。

「ほら、あそこの明るい星。木星の軌道付近にとんでもなくデカい核融合炉が稼働を始めた。今はさらに巨大なパルスアンテナを建造中さ。そのエネルギーで強い電波を発生させ、いて座に向かって照射する予定らしい。まだ見つけてもいない異星人に対抗するためなんだとさ」

 巨大な宇宙ステーションが夜空を垂直に通り過ぎていった。そのあとを曳航されるように貨物船の群れがいくつも続いた。

「ミウラの知らないところにミウラがいる。わたしたちの知らないところにわたしたちが生まれる。なんだかおかしい」

「僕たちはまだ何十年も先の話さ」

「そのころ、わたしたちはどうしてるかしら」

「こうしていられたらいいな」

「そうね。それがいい。向こうに渡ったわたしたちもね」

「ほんとだね。そうあって欲しい」

 僕たちはそっと接吻し抱きあった。いますぐにも愛し合いたい気分だった。


 突如、静寂が終わった。重苦しい調べがあたりに流れ始めた。

「ほら、やっぱり。クラシックだ」

「起きろ!」僕はジオの身体を揺さぶった。「なんて曲かわかるか」

 ジオは起き上がりざまに「ここの部分はトリスタンとイゾルデの前奏曲。ワーグナーだって」と答えた。ジェムラインから情報を引っ張ったのだ。

 ソプラノが響き始めテノールが後に続いた。第一幕が始まったらしい。

「やっぱりオペラね。どう? 満足した?」とカティ。

「いま校長はなにしているんだ? ミウラたちは?」

「この大音量では寝られないってば」

「ねえ。なにか聞こえない」と、カティが耳に手をあてた。

 僕も耳をそばだてた。

 ソプラノとテノールの掛け合い。そのほんのわずかの切れ間。なにか聞こえる。

「男の人の声ね。怒ってるみたい」

 そう、それは間違いなく怒声だ。

「校長がなにか怒鳴ってる。いったい何にそんなに怒ってる?」

「見なきゃわかんない。でもこれ以上近づけない。どうすればいいの」

「…考えるんだ。このセキュリティをなんとかしないと」

「ねえねえ。セキュリティが消えたってば」

「なんだって。いつからさ」

「いまさっき。誰かが解除したんだって。わざとだよ」

「どういうことだろう。罠か?」

「来いってことよ。行くしかない」

「そうだな。行こう!」

 僕たちは覚悟を決めて庭園に侵入した。


 なるほど何も起きない。

 クリスタルガラスの噴水が星を反射して輝いている。テラス側の入り口は解錠されたままになっていた。そっとリビングに入った。

 壁全体がスピーカーになってイゾルデのソプラノが響き渡っている。校長の怒声が上の階から聞こえてきている。

 大きな螺旋階段を音を立てないように慎重に上がった。夕方に案内されたコレクションルームの前だ。

 巨大な木製ドアは半開きになっていて中から光が漏れている。

「まだわからんのか、こいつめ! 何度言ったらわかるんだ。この美しさを的確に表現してみろ」

 校長の声がはっきり聞こえる。なにかを叩くような音と振動が続いた。

「まともな生殖器すら持たんのに人間様の芸術について語ろうとはな。お前に美がほんとうにわかるのか…なんだ、口ごたえは許さんぞ。もっと股を広げろ! 腕は頭の後ろに組め。そうだ、その格好でちゃんと絵を観ろ」

 僕たちは半開きのドアから部屋の中を除いた。

 ミウラv9の3体がキャップとエプロンだけの全裸に近い状態で窓側の通路に並べられ、屈辱的な姿勢を強要されていた。

「…この出来損ないが。恥ずかしいだと。ふざけるな。生殖器がないのに恥じらいなどあるか。私を喜ばすことも出来んくせに偉そうに。恥もプライドもないお前たちにこの私の苦しみがわかってたまるものか。この野郎、いま睨んだな」

 ミウラv9のひとりを激しく平手で打ち据えた。彼女は床に倒れ込んだ。

 僕らはコレクションルームに駆け込んだ。

「やめろ! 校長。いったいなにしてるんだ!」

 校長は不意を突かれてこちらを向きながら腰を抜かした。

 リビングではトリスタンがマストの帆を降ろせと叫んでいた。

「な、なんだ、貴様ら。どこから入ってきた。不法侵入だぞ。わかっているのか」

「タイエン、予想通りね。このジジイ、ぜったい許せない」カティは倒れこんだミウラに駆け寄ってそういった。

 ジオは無言だった。

 やおら校長に近づくと立ち上がろうとする彼の顎に膝蹴りを喰らわせた。校長は前のめりに倒れうめき声を上げた。

「ジオ、やめろ。怪我させるな」

 さらに腹蹴りを入れようとするジオを必死で止めた。殺してしまいかねない。

「タイエン、こんなやつ殺っちゃいなさい」カティもブレーキの利かない性格だ。

「ダメだ。ミウラを連れて帰る。撤退しよう」

 怒りを抑えて冷静に考えればこれはまずい状況だ。校長のやったことは残忍な変態行為とはいえ違法ではない。

 一方、僕たちの行動は完全に違法だ。不法侵入に暴行傷害。いくらエンタングラーといえ、これでは分が悪い。はやく善後策を考えないと…。

「ミ、ミウラども。わたしを守れ。こ、こいつらを捕らえよ。貴様らの主人を守るんだ」

 倒れたミウラv9以外のふたりは一時的に混乱状態に陥った。手足の動きが混乱し動けなくなっていた。しかし、すぐに正常動作に戻り、僕とジオを拘束しようと駆け寄ってきた。

「ミウラ、しっかりしろ。校長の命令に従ってはダメだ。ここを一緒に脱出するんだ」僕は必死に叫んだが届かなかった。

 ミウラv9は校長の意に従うことを使命としていた。僕の懇願に応えるはずはなかった。

 ひとりは僕の手首につかみかかってきた。僕はそれを払いのけようと抵抗した。

 ジオをみるとまったく抵抗の意思が感じられない。ミウラの行動に驚いて動きを止めているふうだった。

「みんな、ここは撤退だ。逃げるんだ」そういいながらミウラv9の手を振りほどこうとしたが想像以上に強い握力だ。

 両腕を捕られて動きがとれない。「カティ、なにやってる早く逃げろ!」

 カティは僕を捕らえたミウラv9の右手を解こうと両腕で引っ張りあげていたがうまくいきそうになかった。

「わたしがひとりで逃げるとでも」

「よくもやってくれたな」

 口から血の泡を吹きながらザクルタク校長が立ち上がった。白いシャツはすでに鮮血で染まっていた。校長は脇のホルスターから拳銃を抜き出した。

「おとなしく拘束されるんだ。さもなくば容赦なく撃たせてもらう。おまえたちは殺されても文句のいえない立場だ。よくわかっているだろう」

「そんなもの撃てるものならやってみなさいよ」カティが歯向かった。

「甘く見られたもんだな、この私が」校長はカティに銃口を向けた。

「やめろ、校長。撃つな。全員、おとなしくするんだ。カティ、手を上げて降参しろ」


 校長は僕たちをうつ伏せに寝かせ、2体のミウラv9に命じて荷造り紐のようなもので手足を縛らせた。

「迂闊な奴らだな。いったいなにをしにきたんだ。ミウラを連れ出せるとでも思ったのか」

 僕たちは後ろ手にきつく縛られ、両膝下から足首までをぐるぐる巻きにされた。その状態でミウラv9に抱きかかえられその場に立たされた。バランスを崩して転ばないようにするのが精一杯だ。

「おまえらは特殊な教育ばかり受けて社会常識を養えなかった。誠に残念だ。バージョン落ちのミウラは通常なら鋳つぶすのが普通だ。こうして活躍の場が与えられていることはむしろ珍しい。おまえらは私に感謝こそすれ抗議などできる立場にないんだ。なぜ、そんなことがわからん。それとも根っからのバカなのか」

 校長の口から汚らしい血糊が飛び、ひどい口臭が漂った。

「ジオ。いわなくてもおまえがバカなことはよく知ってるぞ。だからこうしてくれる」

 校長はジオの肩のあたりを掴むと何度も前後に振って勢いをつけて力任せにゆすり倒した。

 ジオは悲鳴をあげながら後ろ向きに吹き飛んだ。うまく受け身が作れないまま床にあたり鈍い衝撃音が響いた。

「ジオ!」

 ジオからうめき声が聞こえた。「畜生め、畜生」

「校長、もうやめろ! 僕たちに怪我をさせてただで済むと思うのか?」

「怪我! おお、暢気なやつ。怪我だと。おまえらはここから生きて出られるとでも思ってるのか。だからバカだというんだ。よく聞け。おまえらはジワジワ悶え苦しみながらゆっくり殺されるんだ。おまえたちの愛するミウラによってな。真の地獄を味わうがいい。ボシュのような地獄をな」

 カティが両足でぴょんぴょん飛び跳ねながら校長に体当たりを仕掛けたが、校長の厚い胸にあたっていとも簡単に押しとどめられた。校長の大きな左手はカティの両頬を鷲掴みにし、いやらしく弄んだ。

「こんな美しい顔なのに惜しいことだ」

 校長のどす黒くなった血がカティの顔にねっとりと引き延ばされていった。唇からはさらに粘ついた唾液混じりの血液が糸を引いて垂れ下がってきている。

 ジオは横たわったままバタバタ半身を曲げて校長の脚に絡み付こうとしたが、かかとで脇腹を押しつぶされて悶絶した。

「やめろ!」

 僕はショルダーアタックを試みたが見事にかわされて床につんのめった。衝撃で壁から一枚の肖像画が落ちてきた。

「おいおい。絵は丁重に扱え。これは17世紀のイギリス貴族の肖像画だぞ」そういうと床からその固い木製額の絵を拾い上げ、そのまま僕の背中を打ち据えた。

 肩甲骨あたりに激烈な痛みが走った。額縁が割れ、肖像画は引き裂かれた。

「ふん。気持ちのいいもんだな。守るより破壊ははるかに気持ちがいい」

 校長は陶酔しきった喜びの表情を浮かべている。

「校長。き、気は確か?」痛みに堪え、こう言うのがやっとだった。

「きわめて明快なのだよ。元よりこんなものに価値など感じておらん。美術など糞食らえだ」校長はそういったかと思うと手当たり次第に収蔵品を掴んでは壁に投げ、床に叩きつけた。木片が飛び散り、陶磁器が砕け散り、キャンパスが引き裂かれた。「こんなものが何になるか! なんの役に立つか!」

 階下からはイゾルデの絶唱が響き渡っている。

 僕は背を漕ぐように床を移動し左手になにか鋭いものを掴んだ。飛び散った陶片らしい。校長に背を向けて右手首あたりをひっかき回した。手が痙攣してうまく刃があたらない。デタラメに突き刺した陶片のために右手は傷だらけになっているだろうが痛みはあまり感じない。

 カティが僕の行動に気付き腰のあたりまで這ってきていた。

「それを口に渡して」

 カティが陶片に噛み付いた。すぐに右手首に陶片の抵抗を感じた。細かく左右に揺らすとわずかだが紐が緩み始めた。

 校長の破壊行為は続いていた。

「こんなもの、こんなもの。こうしてくる。こんなもののためじゃない。私は誰からも評価されない。誰からも愛されない。なぜだ。なぜ、私はジェムラインに受け入れられない。こんなに努力しているのに。なぜ理解されない。なにがいけない」校長は絶叫した。

「私にこそ価値がある。純粋にして真の価値をもつ者。この私こそ相応しい。このままで終わらせるものか」

 校長は破壊の手をとめた。階下は第二幕にかわり、侍女がイゾルデにさかんに警告を発していた。裏切り者がいると。

 紐の一部が切れた。だが、下手に動けない。銃はどこだ?

「ミウラよ。わたしのよき理解者たちよ。わたしとともにあれ」と大きく手を打った。

 ふたりのミウラv9が校長のもとに集まった。

「いま、わたしが力強く高らかに命ずる。この愚か者どもを蹴り殺せ!」

 ミウラv9の2体は無言で頷き、僕とカティの前に立った。

「やれ! ゆっくりと何度でも執拗に蹴り殺せ!」

 僕の前のミウラv9は大きくバックステップをとると2歩進んで蹴りこんできた。

 鳩尾につま先がねじ込まれ、息ができない。ミウラv9はその間にゆっくり下がり次の蹴りまでの間合いを測っている。その顔にはまったく表情がない。

 僕は息が止まったまま上体を起こし、紐をねじ切った。それをみたミウラv9はすかさず回し蹴りを打ち込んできた。ガードした左腕にしなるように蹴りが入る。左手の感覚がまるでなくなった。

 カティは背中を丸めて防御姿勢をとっていたが、いいように蹴りを打ち込まれていた。

「やめてくれ! ミウラ。僕たちを本気で殺す気か」かすれた声がやっと出せた。

「そんなことない。そんなことするはずがないじゃない」

 声の方向をみるとさっきまで倒れこんで動けなくなっていたミウラv9がポツンと立っていた。あの慈愛に満ちた表情を浮かべている。

 トリスタンとイゾルデは悲哀をこめて「愛の死」を歌いはじめた。

「おまえはなにをやってる。こいつらを蹴り殺せ! これは命令だぞ」

 校長は血しぶきを口から撒き散らして激昂した。顔は上気して悪魔のように赤い。

「嫌よ。私はこの子たちを守るの。それが使命よ」

「貴様、前の記憶が蘇ったな。こうしてくれる」

 校長はそのミウラv9に駆け寄り、殴りかかった。彼女はその拳をひらりとかわし校長の身体を投げ飛ばした。

「貴様、逆らうのか。そっちのふたり、この裏切り者を叩き潰せ!」

 その指令を受けたミウラv9の2体は混乱し動けなくなった。

「そう。自分を攻撃してはいけないわ。こっちへいらっしゃい」

 ミウラv9の2体は裏切り者とされたミウラに身を寄せた。

「かわいそうに。そんなことしたくなかったはずよ。私たちはそんなことしちゃいけない」

 ミウラv9同士が身を寄せ合いお互い抱き合った。凶暴だったふたりのミウラv9は震えている。

「なんだ、貴様らまでおかしくなったのか。その態度、私は決して許さんぞ」

 校長はふたりを引き離そうと肩を掴みかけたがミウラv9全員から拒絶され押し戻された。

「糞、なんてことだ。貴様らまでわたしを拒絶するのか」

 僕はこの隙に足の紐を切り放ち、カティに向かった。

 幸い彼女は無事のようだ。カティの拘束を解ききった。

 ジオは大丈夫か? 動きがなかった。

 校長は拳銃を握っていた。

「言うことを聞かないなら破壊するまでだ。貴様らにも所詮価値などなかった。役立たずどもめ」

 突然、ジオが立ち上がった。知らぬ間に荷造り紐の縛りが解けていた。

 そして、うつむき加減になったままゆっくりしたステップを踏み出した。トリスタンとイゾルデの「愛の死」を踊っているのだ。

「ジオめ。恐怖で気が狂れたな。その気味の悪いダンスをすぐにやめろ!」

 校長は唖然としてジオのダンスを見つめていた。

 すぐにミウラv9の3体が同じステップを踏み出した。あの奇妙なアホロテダンスだ。ダンスというより呪詛のような動きだ。

「やめろ!」

 校長は拳銃を向け引き金を引こうとしたが、途中で動きが止まった。眼の奥に恐怖が広がっている。体内を探っているような表情だ。トリスタンとイゾルデの熱唱に顔を歪め始めた。

「ややめてくれ、く苦しい」

 校長は拳銃を落とし頭を抱えて床をのたうち回った。

 それでもジオは夢遊病者のようにステップを踏み、ミウラv9たちがそれに従った。

 僕とカティはただ呆然とその光景を眺めていた。

「グ、ゲェ…ゲェッ…」

 校長は激しく嘔吐した。大量の吐瀉物が床に流れでた。

 「愛の死」はしだいに優しい調べとなり校長は動きを止めた。呼吸が停まっているかのようだ。

 ダンスは曲にあわせて小さい動きとなり、やがてジオは膝を折り、手をついて身体を横たえた。

 3体のミウラv9は、その場で眼を閉じて静かに立ち尽くしていた。

「ジオ。大丈夫?」カティがジオの顔を覗き込んだ。

 ジオは声こそ出せなかったが手をあげて無事を知らせた。

 僕は床に落ちた拳銃を拾い用心深く腰のベルトに差し入れた。

「いったい、なにが起こった?」

「降臨よ。降臨したの」瞑想しているかのように虚ろな表情でミウラv9が答えた。

「なにが降臨した?」

 そのとき校長の身体が痙攣をはじめた。かなり激しく頭を振動させた。

「ミミズトカゲよ」と、ミウラv9がそう答えると同時に校長の巨躯が床を這いまわり始めた。

 グネグネと身体を捩って予想外のスピードで移動し、オーク製の配膳台の下に身を隠した。両腕を肘で折り、肩のあたりからチョコンと手を出している。

「校長があのミミズトカゲになったのね」と、カティが校長のあとを楽しそうに追いながらいった。

「むすめ。こっちにくるな。あっちにいけ」と、配膳台の下の校長が慄きながら叫んだ。

「キャッハ、ハッ、ハハ。いい気味だわ。あんたはこれがお似合いよ。本来のあんたに戻れたんだから」カティはそういって校長の脇をなんども足蹴にした。

 校長は右往左往して逃げまわったがその巨体を隠しきれる場所はなかった。カティは面白がって執拗に校長を追い詰めた。一方の校長は必死の形相で逃げ隠れ、悲痛な叫びを上げた。カティが近づく度に校長は恐怖におののき身を震わせた。

「来るな! 来ないでくれ!」と、泣き叫び憐れに懇願した。

「カティ。もう止めないか」

「タイエン。こいつをこのまま生かしておくの」

「もう悪いことはできないよ。それじゃ、セブンスヒルにも戻って来られないだろう」

「それはそうね。もうなにもできない。放っておいてもどうせ死ぬ」

「校長の自己データは汚染されたとみなされ、ジェムラインからも抹消されることになるでしょう」と、ミウラv9が付け加えた。

「聞いてる、校長。あんたもうじき死ぬの。肉体も自己データもきれいさっぱりね。あんたが死んでも消えても誰も悲しまないし困りもしない。ひとりで野垂れ死ぬのよ。あんたに相応しい糞のような人生ね」と、カティの容赦のない言葉。

「校長はもう消えたんだ。そこにいるのは校長の皮をまとったミミズトカゲさ。だからもういじめちゃダメだよ。かわいそうだろ」

「もう満足。ちっとも抵抗してこないからつまんない」と、カティは最後に強い蹴りをいれて這いまわる校長を追い回すのをやめた。


 あのジオとミウラv9たちの奇怪なダンスの合間にザクルタク校長の脳幹はミミズトカゲのものに移し替えられていた。しかし、その上部脳組織である海馬や小脳、大脳はそのまま残されている。つまり人格や知能、記憶、経験は校長のままだが、その本質はすっかりミミズトカゲになっていた。

 これはジオの交絡能力が発動した結果だ。ジオは呪術を施すかのような動作で校長の脳幹をミミズトカゲの脳データに置き換えた。

 ジオの交絡はセブンスヒルに来てから初めて確認されたが、仲間の危機に瀕してその力が発動されたと理解できる。

 やはりエンタングラーの交絡能力はなんらかの危機的な状況で発動しやすいと、NSAは結論した。

「ミウラになにが起こったんだ?」ローゼンは不思議がった。「なぜジオが交絡すると察知した? 同じダンスを踊るとは、まるで交絡に協力しているようじゃないか」

 なぜか3体のミウラv9はこの件に関して沈黙しているそうだ。

「ミウラでさえ我々の関与を拒絶し始めた。NSAは、いよいよ組織として存在意義を失おうとしているのさ」そういいながらもローゼンにはさほど悲壮感はなかった。既にやるべきことはやったということらしい。

 3体のミウラv9はあの邸宅でミミズトカゲ校長の世話をやきながら、残された美術品コレクションを守っていくことになったそうだ。

「それが生き甲斐なんだとさ。アンドロイドであっても生きていくには目的が要るってことだな」と、ローゼンは染み染みと語った。

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