9 無機物だって悪くない
ひと月後、ジオが戻ってきた。小さかったはずのジオは僕より3インチ高くなっていた。なんだかジオじゃないみたいだ。でも、話してみるとやっぱりジオだ。
「このボディで3年過ごさなきゃいけないんだって。すごく高価なんだって。激しい運動はしちゃいけないんだってさ」
でも結局、ジオはスケボーで無謀なライディングをして下りコナーで転び、右膝を大破させた。ザクルタク校長から大目玉を食らっても懲りもせず、そのあともスケボーを続けた。僕が誘ったからなんだけど。
ジオになぜ自己融合しないのか訊いてみたことがある。
「エンタングラーは自己融合しちゃダメなんだって」
「誰かに誘惑されない?」
「誰も来ないよ。エンタングラーを誘惑しちゃダメって規則があるんだって」
「ふーん」ジェムライン内はまるっきりの無法地帯ということでもなく、ルールや規則を反映させることができるらしい。ただし、その規則はジュムライン特有の摂理によって決定されるもので人間の意向が入り込む余地はなさそうだ。
母は週末になると自宅に戻るようになった。それに合わせて僕も自宅に帰り、週末だけ一緒に過ごした。目は虚ろで元気はなかったがなんとか家事をこなそうとしていた。
食卓ではローゼンの話をニコニコしながら耳を傾けているように見えたがまるでその内容を把握できていなかった。ただ頷いてるだけで何も頭に入っていない。
やっぱり変だ。そんな状態だったので僕はセンブンスヒルのことをなるべく話さなかった。どうしてもジオに繋がってしまいそうになるからだ。もちろんジェムラインやリプリセンタの話はタブーだ。まして父やイーサンのことはもってのほかだ。絶対に触れてはいけない。細心の注意を払って母に接したが、それでも何でもないところで突然泣き出すことがあった。
「心の疲労なのさ。治すには時間がかかる。今はゆっくり休んで静養することが大切なんだ」
いっそ、ジェムラインに繋いでしまえばいいのにとよく思った。父はジェムラインで精神の危機が救われたと語った。母の苦しみだってきっと解決する。ローゼンにそういったことがある。
「そうできればそんな楽なことはないよ。できないから苦しんでいるんだ」
「イーサンみたいにウイルスに感染したら」
「そうなっても絶対に自己融合しないよ。ナオはそういう人だ」
「……」
「タイエン、人には信念ってものがある。時に何よりも大切になるんだ。誰の意見にも左右されない。どんなに理屈に合わなくてもそれを守る。どんな犠牲を払ってでもそれを貫き通す。そういう信念があるんだ」
「……でも」
「わかるさ。とてつもなく厄介ってことさ」
あの時の父の予告通り、感染性SSEVによるパンデミックが人口の多いアフリカや中東、南アジアを中心に発生した。
感染しても体調を少し崩すほどの軽い症状しか出ない。もちろん直接的に命を奪うものでもない。そういう理由もあってほとんどの貧困地帯ではあまり対策を講じることもなく警戒もされなかった。
従来、ジェムラインの帰順率が低く真空地帯と呼ばれたこれらの地域では感染が急拡大した。この結果、感染者はおそらく20億人規模と推計された。わずか半年で人類の4分の1がジェムラインに帰順した。
しかし、父の予告の一部はハズレていた。フランスでワクチンが開発されたのだ。このため先進国では感染率は低く抑えられた。それでもアメリカ国内だけでも二千万人以上が知らぬうちに感染し、自らの意思とは関係なくジュムラインと繋がっていた。
ジェムラインに対して激しい非難が寄せられることになった。
ジェムラインにスポークスマンのような役割を果たすリプリセンタがいた。彼らは「ジェムラインに意思はなく、故意にそのようなウイルス改変を行うはずはない。想定外の事故である」と強調し火消し役となった。それでもかなり強い非難を浴び、多くのリプリセンタが至る所で暴力を受け破壊された。一部の地域では暴動が長期化し街が廃墟となった。しかし、ワクチンが浸透することで次第に暴動も収まりジェムラインへの非難も鎮まっていった。
幸いなことに僕は優先的にワクチン接種を受けられた。イーサンがいたら間違いなく同じようにワクチンを受けられただろう。父がイーサンにあんなことをしなければ家族は離散せず、平和な暮らしを続けていたと思う。
それでも父の行為を非難する気にはなれなかった。当を得た行動だったからだ。
小さな子どもが感染したケースのほとんどで強制的な自己融合が発生し、大人の人格を持った幼児が全世界に溢れる事態となった。気味悪がって育児を放棄する親達がたくさんいた。その結果、多くの子どもたちが行き場を失って命を落としていった。数千万人の子どもがこんなことで命を失ったのだ。父は「子どもを守れ」と強く主張していたがその憂慮は現実になっていた。
ローゼンは父を評価していた。
「リュウエンは悪い奴じゃなかった。ジェムラインに帰順してもなお、お前たちのことを気にかけていた。これは凄いことだ。お前たち兄弟は愛されていたんだ」
「うん」
「イーサンはリュウエンといつも一緒だ。そんなに寂しくないかもしれない」
「うん。きっとね」
「タイエン、お前はどうなんだ。ナオと離れて寂しいか?」
「少し。でもここに戻ってこられるから大丈夫」
「すまんな。俺はお前たちをちゃんと守りきれなかった。もっとしっかりできたはずなのに」
「ローゼンは悪くないよ。ちゃんとしてたよ」
ローゼンは僕の頭を撫で、しばらくハグしてくれた。「俺はこれからナオをしっかり見守って、元のように元気にさせる。もう少し辛抱してくれ」
「うん。待ってる」
ジェムライン帰順者の増加にともなって世界経済は縮退の一途をたどっていった。自己融合を果たした帰順者は消費行動をしなくなる。肉体を維持するための最低限のものしか購入しなくなるからだ。人によっては食料すら入手しなくなり肉体を餓死させてしまう者までいる。同時に彼らのほとんどが職業までも放棄してしまう。生への執着や興味が著しく失せてしまうのだ。
市場経済は需要・供給ともに大きく落ち込んだ。ジェムラインが誕生した頃のバブルと裏腹に全世界は回復の見込みのない大不況に見舞われた。多くの国では市場経済を諦め、国民の基礎的な生活を維持することを目的として計画経済に移行した。食料や資源の確保、製造や流通、インフラ維持など経済活動の基盤となる労働はアンドロイドやロボットが人に代わって請け負った。さらにこのロボットたちが働いて得た富や果実はベーシックインカムなどの手法で国民に還元された。資本主義経済が崩壊して、初めて人類が労働から解放された。歴史の皮肉とはこういうことを指すのだろう。
危機を感じて志のあるものはジェムライン破壊論を唱え、何度も実行に移そうとした。しかし、土台無理な話だった。ジェムラインはナノチェーン化して世界中のあらゆる工業製品に散らばってしまっていた。そのほとんどが自己修復・自己増殖が行えた。石器時代に戻る覚悟で臨んだとしても実質的に破壊不能になっていた。対象物があまりに膨大すぎた。なおかつ、その極論には対抗人類側でさえ受け入れるものが少数だった。
政府組織や軍は健全性を維持しているだろうか? 軍人が感染して帰順者になったらどうなったのだろう。やっぱり軍法会議になったのだろうか。
「シッチャカメッチャカさ。誰が帰順者かなんて調べきれなくなってる。機密情報なんて有名無実だ。上辺だけ機密扱いにしてるが、ほとんどセキュリティなんてないに等しい。悪用されないのが不思議なくらいだ。そもそもAIすら信用できない。個人の信念だけで軍や政府機関は維持されているようなものだ」と、ローゼンは珍しく弱音を吐いた。
シャイアンマウンテンのカンター所長やオンクリー博士がどうしてるのか気になった。
「カンター所長は変わりないようだが、オンクリー博士はステルス性胃がんが悪化してリプリセンタになったそうだよ。彼はわざと治療を怠ったのさ。リプリセンタになった方がジェムラインの知のバックアップが無尽蔵に使える。あの時すでにそれを狙ってたんだろうな。軍規は変更され今もCHEBIで研究を続けていられる。研究優先とはいえあざといやり方だ」
『君自身が宇宙の災厄となることに用心するんだ』
オンクリー博士の忠告が思い出された。後になって不用意な発言だったと謝罪を受けたがあの言葉は本心から吐露されていた。今も僕の心の淵に突き刺さったまま消化されずにいる。
もし、僕自身が宇宙の災厄になろうとしていることがわかったら一体どうやって用心しろというのか?
その時は自らを消し去ってしまえということなのか。博士はそういう行為を暗に仄めかしている。
いざという時、僕にそんなことができるだろうか?
宇宙の災厄になっているのかどうかなんて判断できそうにない。そもそもいつ何に交絡しているのかさえわからない。実践が困難なうえに冷酷で無慈悲な忠告だ。それでもあの時のあの言葉を無視してしまうことはできそうになかった。
「あの時のランチでオンクリー博士が言っていたことがいよいよ本当のことになろうとしてる。軍がリプリセンタを守ることになりそうだよ。ボディ工場や同期センターが狙われ始めたんだ。対抗人類のやつらが首謀者だ。馬鹿なやつらさ、そんなことしても困るのはジェムラインじゃなくて自分たち人類だってことがわからないんだから」
リプリセンタのボディはバイオ樹脂工場で成形される。脳を除く臓器や器官はすべて擬似細胞からなっていてサイズや性別などが規格化されて出荷されていた。脳細胞のみが培養された自然細胞から構成されていた。ブレイン同期センターでボディに脳が移植されたのちにSSEVを感染させジェムラインを通じて自己体と同期した。
同期条件にもよるが早ければひと月余りでニューロンネットワークが完成する。自己体が同期されたこのボディをリプリセンタと呼んだ。同じ自己体を持つリプリセンタが複数体、製造されることもある。リプリセンタとジェムライン内の自己体の意識活動はリアルタイムに同期されたが、意識下に貯留される膨大なデータは睡眠時にまとめてバッチ処理された。
「対抗人類は、白昼堂々と工場を襲い、手当たり次第に設備を破壊して火を放っていく。もう3つのボディ工場と同期センターがやられたよ。リボルバーや軽機関銃で武装しているんだ。まるで骨董品さ。既に軍の投入が決定した。すべての工場に対人型ロボット兵器が配備されている。旧式の武器では手も足も出ないさ。あっという間に制圧されてしまうな」
対抗人類は元々は政治組織だった。ジェムライン急進派とその勢力を伍していたこともあったが最近は急激に勢力が衰えてしまった。いまや大義を欠いたテロ組織に成り下がってしまっていた。
しばらく後のニュース報道で、シカゴ近郊にあるブレイン同期センターが襲撃されたことを知った。
武装した50名近いテロリストが操業中の工場を一斉襲撃したが、待ち構えていたロボット兵により瞬時に制圧されてしまった。軍は損傷なし。同期センターの設備にも目立った損害はなかった。
テロリスト側には数名の死傷者があったが大部分は無傷で捕らえられた。
ロボット兵の対人兵器ブレインシェイカーが威力を発揮した。強力な音波を浴びせることで軽い脳震盪を発生させテロリストの意識を昏倒させた。動けなくなって這いずり回っているところを次々とロボット兵が拘束した。このテロ未遂で対抗人類の主要メンバーがほぼ一掃された。
この日を境にアメリカ国内ではジェムラインに対して暴力によって抵抗する組織は現れなくなった。
「まったく呆気なかったな。戦闘にすらならなかった」ローゼンはそう言うと大きく溜息をついた。「俺たちはいったい何をやっているのか? 本当に人類のためになっているのか、よくわからなくなってしまったよ。それでもこの仕事が辞められん。まだやらなきゃならんことがあるんだ」
以降も非暴力による抵抗は見られた。デモやハンガーストライキ、抗議の自殺などだ。それらの抵抗運動は一定のメッセージを発し同調者も少なからずいた。しかし、形勢を逆転させるような力にはなりえなかった。
リプリセンタの合衆国大統領がこの年の2月に就任した。議会も過半数をジェムライン派に占められた。軍は完全に掌握されたとは言えないまでも幹部が次々にジェムライン支持を表明している。
「クーデターを起こすなら今をもって他にないだろうな。だが、そうしたところで結果は何も変わらんかもしれん。多くの人はジェムラインを理想化しすぎている。天国だ、パラダイスだと誤った情報を受け取ってそう信じこもうとしてる。よほど生きにくい人生を歩んでいるのさ。楽をしたけりゃそうすればいい。だが、そんな風に人生を放棄した奴らに我々の生きかたについてどうこう口を挟んでほしくないね」
上層部にジェムライン帰順者が出現したことをひどく嫌がっていた。彼らの命令に従いたくないのだ。
「組織を構成する人員はその組織で培われた人格を前提としているんだ。NSAであってもそれは変わらない。わかるか。だがジェムラインで自己融合された人格はすでに別物だ。そんなものが組織にいてはいけないんだ。まして上司になる資格などない。そんなやつの命令に従うことこそ国に対する背信行為だ。本当に情けないことになってきた」
冬の間、母は自宅に戻っても寝室に引きこもりがちだったので、週末はローゼンと二人で過ごすことが多かった。よくスキーにも連れて行ってくれた。ローゼンは愚痴が多くなってきていたが、職を辞する気は無さそうだった。
春を迎える頃になって季節外れの大雪が降り続けた。玄関の雪かきをしながらなぜかローゼンは特別に機嫌がよかった。
「タイエン。また見つけた。今度はすごく可愛い女の子だ。惚れるなよ」
月曜の早朝、僕はジオとセブンスヒル3階の窓から外を眺めていた。この敷地から一般道に通じる下り坂に前の晩からいい具合に雪が積もっていた。
「やろうよ」とジオ。
当然の成り行きなのだが、こんな雪を見たらやっぱりボードで攻めたくなる。ミウラ先生に聞き取られないように声を潜めて話し合った。雪が踏み固められる前に決行だ。
そう決めた僕らの傍にいつの間にか痩せっぽっちの女の子がやってきていた。頬のそばかすが印象的だった。
前日の夕方、僕らと同じフロアに暮らすことになったとミウラ先生から聞いていた。でも顔を見るのはこの時が初めてだった。来た早々に部屋に入ってそのまま出てこなかったし気配もなかった。親の姿も見なかった。
「スキーは嫌い。でもスノーボードは大好き」その女の子は少し訛りのある英語でしゃべった。それがカティから聞いた第一声だった。
「そうだよ。ボード最高。スケボーも最高」と喜ぶジオ。
僕はスキーも得意だったので少し閉口した。
「君のレベルを知らないから一緒には滑れないよ」と僕。
「ここで見てるだけならいい?」
「もちろんさ。そうならいいよ」
誰も起きだしてこないうちに僕とジオは裏口から抜け出し、パウダースノーに覆われた坂道にボードを滑らせた。
朝日が眩しかった。見た目以上に雪は柔らかくカービングすると大きな雪煙が上がった。少し離れてジオが続いた。僕たちはノンストップで新雪の坂道を完璧に滑りきった。
「タイエン、なんか凄い。虹が飛んでる。ワォだって」ジオは坂道を振り返って歓喜の声をあげた。
振り返ると吹き上がった雪煙が天高く拡散し朝日に反射したそのあたりから、多角形の結晶のような形をした虹が無数に生まれていた。それが虹でないなら虹色に輝く何かだ。その研ぎ澄まされたように凛として輝く虹は、空中を巻き上がりシャボン玉のように舞っていった。虹の舞う校舎の出窓に飛び跳ねながら手を振っている女の子が見えた。
この光体の群れは、朝日が陰った雪面に虹色を投影し、葉を落とした木立の中をゆっくり漂うように流れていった。そしてその先でひとつづつ静かに消えていった。
「あの子、凄い。虹を操れるんだ」
僕とジオは顔を見合わせて微笑み、拳を合わせた。
それから僕たち3人は同じフロアで生活し、いつも一緒に行動した。ただし、僕は週末になると決まって自宅で過ごしたが、カティとジオはセブンスヒルに残された。自宅に連れて行ってあげたかったけど母のことを考えると難しかった。特にジオはあの事件以来、僕の家のことに触れなくなっていた。僕もジオの気持ちを思うと何も言えなくなっていた。
「イーサンは?」一度だけジオはそう訊いた。
僕はリュウエンのこと、イーサンが遠いところに転校になったことなどを話した。ジオは「そう」と言ってなんども頷いた。
後になってその話をカティにする機会があった。
「リプリセンタは嫌いだけどリュウエンは特別にかっこいい。でも、あなたのママって最低」それがカティの感想だった。
「いや、でも……」僕は二の句が継げなくて黙ってしまった。
カティは物事をはっきり分けたがる。なんでも白黒に線引きを行わないと気が済まない。本人に悪気はないのだがときに他人を傷つける。長く付き合ってるのでもう慣れた。でも正直に言うと未だに心に刺さることがある。
あるときローゼンはカティの生い立ちについて語った。
「カティは南ウクライナのヘルソンという地方都市で生まれた。母親はカティが物心つく前に病死したというが本当のところはよくわからん。父親のアンドリ・グラシェンコはレジスタンスに身を投じ、駐留するロシア軍に対してゲリラ活動を繰り返していた。ビッグシャワーの影響下で電子兵器が利用できない戦闘だったからお互いに肉弾戦だったんだ。かなり壮絶な戦いだったらしいが戦況は一進一退だったようだ。だがこのクリミア紛争が長期化する中でロシア軍のジェムライン敷衍戦術が徐々に効力を持ち始めた。ウクライナ人の多くがジェムラインに帰順することでクリミアでの抵抗運動は下火になったんだ。彼の仲間も次々に捉えられ強制的に帰順者にされたそうだ。アンドリはカティを連れてクリミアを脱出しキエフに逃れたが身の安全が確保できず、やむなくアメリカに亡命した。間をおくことなく対抗人類に参加した。対抗人類が政治組織からゲリラに変質していったのはアンドリのような亡命者を受け入れ続けたからだ。アンドリにしてみれば抵抗する相手がロシアからジェムラインに変わっただけでやることは同じだった。そうすることで一矢報いようとしたんだろう。感染性SSEVで世の中が騒然となった時は大暴れしたそうだ。心の底からリプリセンタを憎み、徹底した破壊活動を行ったらしい。組織内でアンドリの評価は高まり幹部クラスまで昇格した。ところが対抗人類の勢力は衰退の一途をたどった。クリミアと同じように仲間がどんどんジェムラインに帰順してしまうからだ。同時に支援者も激減し活動資金もままならない。工場襲撃は一種のパフォーマンスだったんだろう。無意味な抵抗とわかっても組織を維持するには必要な行動だったんだ」
「アンドリはシカゴでの工場襲撃で死んでしまった。あの時の唯一の死者なんだ。他のメンバーはブレインシェイカーの発する音波で動けなくなっていた。脳脊髄液に細かい気泡を発生させ脳を麻痺させる仕組みなんだが、どういうわけかアンドリだけその音波の効力が及ばなかった。一人だけ行動できたんだ。彼の遺体を解剖した所見では脳内に気泡の痕跡はなかった。何かの理由で彼だけブレインシェイカーの音波から逃れることができたらしい。結果としてはそれが悲劇に繋がってしまったわけなんだがな」ローゼンは苦り切った表情で話を続けた。
「なあ、タイエン。勇敢であることと無謀であることは別物だろう。アンドリはどっちだったんだろうな。たった一人で軽機関銃を乱射しながらロボット兵の隊列に飛び込んでいったんだ。勝ち目など考えなかったろうが、あんな死に方じゃリプリセンタになって生き返ることもできない。完全なる死を望んだだろうな。娘をひとり残してね」
「カティはその現場近くのワゴン車の中に隠れていた。銃声が聞こえるくらいの距離にいたんだ。父親が死んでしまったことは知らされなかったはずだが、どういうわけかその瞬間がわかったらしい。近くにいた他の子どもによると絶叫して倒れてしまったそうだ。それからしばらく保護施設に預けられていたがその間は口を閉ざして何も喋ろうとしなかった。ずっと誰とも話そうとしなかった。ところがエンタングラーとわかってセブンスヒルに入ってから急に良くなった。父親の死んだ後、カティが初めて口を聞いたのはタイエン、お前たちとなんだ」
あの奇跡のように美しい朝を思い出した。無数に舞い散る虹の光体に彩られた窓から大きく手を振るカティ。カティは確かに微笑んでいた。その頬にはきらきら反射するものがあった。カティはあのとき同時に泣いてもいた。多分ジオも気づいていただろう。でも僕たちは何も触れなかった。誰にでも何かある、詮索はいらない。
「そのときカティは何かを吹き切ったのさ。虹はその心の発露じゃないかな。カティは強い女の子だ。本当に強い。何も頼らず自分自身で心を修復できてしまえる子だ」虹の話を僕から聞いてローゼンはそう言った。
ある晩、僕たち3人は小さいテーブルを囲んでボードゲームをしていた。いつもカティが大差をつけてゴールした。サイコロを振るゲームはカティがめっぽう強かった。
「とてもカティには勝てそうにないや」と投げやりに僕。
「完敗、完敗」とジオ。
「負けられないの、どうしても」駒をゴールさせたのになんだか元気がない。「あたし、お父さんを殺してしまったの」カティは唐突にそう漏らした。
僕もジオもなんと答えていいのかわからず顔を見合わせてまごまごした。
「カティ、そんなはずないと思うけど……」僕はローゼンからアンドリの最期を聞いていたけどカティは詳しく知らされていなかった。ただ勇敢に戦って死んだと聞かされていただけだった。「どうしてそんな風に思うのさ」
「あたし知ってるの、誰も教えてくれないけど。お父さんがどうして死んだのか、知ってるの」
「ロボット兵に撃たれたからだよ。カティじゃない」
「でも、あたしなの。あたしがあんなことしなきゃお父さんは死なずに済んだの」
ブレインシェイカーの音波が無効化されアンドリが失神しなかったのはおそらくカティの力が関わっている。ローゼンもそう思っていたようだ。カティはそのことを薄々わかっているのだろう。
「それは不運だったからだよ。カティのせいじゃない」
「違う。あたしが余計なことしたからよ」
「君はお父さんを守ろうとしただけだ。お父さんは逃げることもできた。でもそうせずに勇猛に戦うことを選んだんだ。カティ、君のせいじゃないよ」
「違う、違う。あたしがバカだった。ああ、お父さんごめなさい。本当にごめんなさい」
カティは下を向いて静かに泣いていた。涙がテーブルを濡らした。
僕はテーブルに出されたままのカティの右手を握った。もう一方の手でジオの左手を握るとジオは右手でカティの余った手を握った。しばらくそうして手を握り合った。
「カティ、見てごらんよ」
カティが顔を上げて「何を?」と訊いた。
「僕らエンタングラーだよ。宇宙最強のエンタングラーズなんだよ」
「そうね、あたしたちエンタングラーズね」
「宇宙最強! 最強のトリオ!」ジオがはしゃぐ。
「知ってるわ、そんなこと」と、いつもの強気なカティが戻ってきた。
週末、自宅に戻りカティだけでも連れてこられないかローゼンに相談してみた。
「このところナオの調子がいいみたいだし悪くない考えだ。ナオよりカティがどう感じるか、そっちが心配だな」
どうもローゼンの歯切れが悪い。
「以前にも話したが、カティが保護施設に預けられていたとき、いろいろ奇妙な現象が起きた。最初は些細な出来事だ。例えば風もないのにブランコが揺れ続ける、夜なのに太陽光発電システムが威勢よく発電する、AIが嘘をついたりひがんだり罵声を浴びせたりする。そのうちタンクの水が突然グツグツと沸騰したかと思えば同時にその配管はすべて凍りついただとか、晴天なのに施設内の避雷針に何度も雷が落ちるだとか、徐々に現象がエスカレートし始めた。施設長は危険を認めてNSAに助けを求めてきた。状況から見てカティの持つ力の影響だろうとは容易に分かった。もちろん奇妙な現象だがエンタングラーとしてはよくある物性交絡に分類できる。しかし、カティはそれだけではなかった。どうにも分類が困難な力が認められたんだ」
ローゼンは白いものが混じり始めたあご髭に手を当て思案する風に構えた。
「未だにあれにはうまいネーミングがないんだ。名前をつければいいてこともないが、呼び名があれば認識しやすくなるだろう。誰もいい名前をつけないから話し合うとき、あれとかそれとか曖昧な表現が飛び交う。誰も先を見ようとしないからそんな怠慢が許されるようになったんだ。まったく情けないね。タイエン、いいネーミングを思いついたら提案してくれないか」
「カティの父親アンドリが殺られたのは、シカゴのブレイン同期センターだっただろう。このセンターには目立った損害はなかったと報道された。アンドリが乱射した軽機関銃の弾丸の痕跡が外壁にいくつかあったが損害と呼べるものではない。軍も現場を検証した警察組織も戦闘のあったセンター外側しか頭にはないから損害なしと発表した。まあ、これは仕方のないことだ。同じ役人として責める気にはならない。でもかなり大きな損害がこのときすでに発生していたんだ。誰にも予想外のことだったので発見が随分遅れた。まるまるひと月だ。極めて深刻な傷が与えられていたのにそんな長い期間、誰も気づかなかったんだ。まったく興味深いことにね」
「知っているとは思うが、ブレイン同期センターはジェムラインの中の自己体と完全同期する脳を育てる施設だ。同期が完了すればリプリセンタとして出荷される。ジオもそうやってジェムラインの中からこの世界に出てきた。襲撃を受けたあの日、シカゴのセンターには数十体の出荷を待つリプリセンタがいた。一部は意識が発動し始めていたらしい。何度も繰り返すがリプリセンタはジェムラインの自己体と完全同期しているはずだ。当然だが記憶もまったく同じでなければならない。ところが、あの日にあのセンターにあったリプリセンタに限って記憶の一部が書き換わってしまっていた。そんなことはかつて一度もない。センターのシステムや同期工程にいっさい誤りはないと確認されている。カティの力が介在したんだ。そう考えれば筋が通る」
「カティはあの日、ブレインシェイカーの強烈な音波から父親の脳を守った。音波に干渉して無効化させたのかもしれん。しかし、このときにリプリセンタのニューロンネットワークを結び変えたのではなさそうだ。その次だ。アンドリが高熱ハドロンビームの連射を受けて上半身が蒸発したとき、ほぼ同時にカティは絶叫し気を失った。このときリプリセンタの脳内神経網の電位がわずかに下がった記録がある。このときだ。どこからか情報が与えられてその記憶の一部が一斉に書き換えられたんだ。いったい何の記憶に置き換わったのか。そう思うよな。NSAは総力を挙げてこれを調査した。大げさに聞こえるかもしれんが本当なんだ。あらゆる手立てを使って調べた。それでも判明したことは僅かだし不確かだ。事前に言っておくがこれは機密情報だ。だが俺の勝手な判断でお前には伝えておく。お前が知っておくべき情報だからだ。絶対に外部には漏らすな。いいな」
僕は頷いた。もちろん何があっても約束は守るつもりだ。
「該当する約30個体のリプリセンタはすでに活動を始めていた。特定もできた。だからそのうちの一個体を誘拐した。これは完全に一線を超えた行為だ。ジェムラインとの平和協定を破ったんだ。そうでもしなけりゃ詳しい調査なんてできない。ときにNSAだってリスクを負うのさ。どうだ、スパイみたいだろ。対抗人類の下部組織による誘拐のように偽装したんだ。最高に興奮したね。昔に戻ったみたいだったさ。このリプリセンタをベンとでも呼ぼう。ベンは政府組織で働く予定だった。だから俺と同じ小役人だな。ベンをジェムラインと同期できないように隔離された研究施設に連れて行き、ありとあらゆる方法でその記憶を調査した。脳は電極だらけさ。最終的にはスライスされて電子顕微鏡で分子構造まで調べられた。ベンには気の毒なことをしたが仕方がない。ジェムラインに必要とされるならいずれベンはリプリセンタとなって復活できる。人道上は問題ないとそう思うようにしている」
「さて、そこまでして何がわかったか。というかまず何でないかがわかった。置き換わった記憶情報は人のものではない。生物のものでもない。AIや量子コンピューターのようなビット情報、キュービット情報を基にするものでもない。人でもその他の生き物のでもコンピューターでもない記憶情報だ。そうだ、謎かけみたいだ。最初聞いたときは俺もそう思ったよ。いったいなんだよ、それって。そこでAIによるデータマイニングで解析を行った。その結果、最も近似の情報パターンが見つかった。さらに困惑することになったがな」
「あえて言うとそれは『大地の記憶』に近いとわかった。岩や石のような鉱物、雪や水、大気、地磁気、そんなものだ。それらの波長や振動に近似しているんだそうだ。なあ、変だろう。そうなんだ、変なんだよ。もし鉱物や水などの自然物の持つ情報なら記憶という表現は変だ。せいぜい記録というならわかる。主体があって始めて記憶と呼んで意味をなす。言葉の定義としてそうあるべきだ。そうなんだが記録だったものがリプリセンタの脳内に書き込まれた途端、それは記録から記憶に変わったんだとさ。百歩譲ってそうだとしてベンはその大地の記憶をどう感じたんだろうか。何か意味のある情報となるのだろうか。普通に考えれば意味をなすはずがない。無意味な情報の羅列でしかない。お前だって、そう思うよな。ところがそうじゃないんだ。脳は驚くほど柔軟な組織なんだ。脳が作り出す意識は無意味な情報に勝手に意味を与えるのさ。無意味な情報が意識を創り出すとも言える。これはベンに限ったことじゃない。俺たち健全な脳でも同じことなんだそうだ。だからベンは記憶領域をカティによってかき混ぜられ挿げ替えられたにもかかわらず、何食わぬ顔で日常生活を送り職務もこなせた。本人にしてみれば自分らしく健康に生活していただけだ。このままだったらベンたちの異常は誰にも発見されずそのまま放置されただろう」
「でもな、やっぱり差がではじめた。何か普通とは違うものが意識に昇り始めたんだ。ベンたちは徐々に行動がおかしくなっていった。リプリセンタとしてありえない行動をとったんだ。彼らの多くが宗教に帰依したんだ。笑えるだろう。いまどき宗教だぞ。既存の教団がジェムラインのために壊滅状態になったのに、その末端のリプリセンタが神を唱え始めたんだ。神秘体験というか至高体験というかそんな通常ではありえない経験をしてしまったようだ。ある者は廃墟と化しつつある教会を訪い洗礼を受けた。ある者は山や森に籠り瞑想に耽っている。またある者は街頭で神の救いを説き、ある者は信者を率いて砂漠を放浪し始めた。かなり後手になったが異常を察知したジェムラインはベンたちリプリセンタとの同期を停止した。ベンたちを亡き者にしようと刺客を送り出しているようだ。何人かはその手に落ちてしまったようだが、所在不明となったリプリセンタがまだ多く残っている。NSAとしては生き残ったベンたちを保護するように画策している。あまり表立って行動できないのが残念だができる範囲で彼らを守ることに決定した。ジェムライン内部は我々の力の及ぶところではない。ジェムラインはベンたちとの自己融合を禁じた。またベンたちを含んだ自己体を発見次第、隔離し抹殺しようと躍起になってる。それでも一旦広まり始めた大地の記憶をジェムライン内から完全に除去することはできないとAIは予想している。遅きに逸したのさ」
「なあタイエン、これは凄いことだと思わないか。今までというもの人類はジェムラインにやられっぱなしだったじゃないか。手足をもがれ養分を吸い続けられていたじゃないか。誰もが諦めかけたそのときになって快心の一撃が決まったんだ。それも、あんな小さい女の子がやったんだ。命を賭けたアンドリもその栄誉に浴していいだろう。コサックのグラシェンコ親子が人類を救ったと歴史に名を残すような偉業だ。人類が生き残っていればだがな。まあそのところはまだ何も言えない。この先ジェムラインがどのように変容していくのか誰にもわからない。しかし少なくともアンドリは命を賭してジェムラインに一矢を報いたんだ。彼は犬死しなかった。その勇気を讃えよう。本当によくやったと言いたい」
「さてタイエン。カティのこの力をどう分類すればいい? 分類してどうにもなるわけではないんだがなにしろ俺たちは分類好きだ。分類するとなんだかわかったような気になる。そういう気になりたいのさ。まあそうだな、確かに記憶は情報だから情報交絡と名付けることはできる。だけど現象を分析すると違いがあるんだ。カティが保護施設で示した交絡を思い出してみてくれ。ブランコを揺らす、水を沸騰させる、雷を落とすなどだ。物理現象を伴っているので物性交絡だな。派手さは異なるものの同じ原理がその根底に働いている。その場のエネルギーに一時的な偏りを与えることでそういう現象を起こしていると理解されているのさ。闇夜に太陽光システムを稼働させることもエネルギーの偏りで説明できる。AIの邪悪化は一見複雑そうに見える現象だが、AIシステムの構造を調査した結果、エネルギーの一時的な偏りで発現させられることが判明した。擬似人格システムを司る感情アルゴリズム群の一つのルーチンを無効化するだけでAIを劣情の塊にできるそうだ」
「場の揺らぎっていうのは量子論で説明できるそうだ。だが、それをどう偏らせるのかについて人類の科学は何も語れない。お前たちエンタングラーの能力についてどんなに細かく説明しても仮説の域を出ない。御託を並べているだけだ。まあそういうことらしい。さて、これを踏まえて、リプリセンタの記憶の書き換えを考えてみてくれ。いずれもカティによってなされた現象だ。同じように不思議だ。でもそこには明確な違いがあるんだ。13歳にはちと難しいか。俺もな数学や物理が得意な方じゃなかった。だがこれでもな、お前たちのことはできる限りちゃんと理解したいと思っているんだ。だからお前らの学校にいる研究者を捕まえて根掘り葉掘り聞き出して少しでもわかろうとしている。お前たちが何をなせるのか、どういう存在なのか、どうしても知りたいんだ。単に自分の好奇心を満たしたいだけなのかもしれん。タイエン、お前はどうだ? 自分たちエンタングラーの能力について興味はあるか? それともそうでもないのか?」
もちろん興味はあった。ただ、ローゼンの出した問題はいくら考えてもよくわからなかった。今晩のローゼンはいつにも増して饒舌だった。赤ワインの飲み過ぎだ。もう三本空けている。
「やっぱり少し難しかったかもしれん。わかった、答えを教えよう。記憶を書き換えるのはまずそこにある記憶を消す作業が必要だ。これがステップ1だ。次に置き換えるべき情報をどこからかコピーしてこなければならない。これがステップ2だ。最後に貼り付けだ。これがステップ3だ。この3つの手順がなければリプリセンタに大地の記憶を挿入できない。かなり巧妙で複雑な過程になる。この手順を単にゆらぎの偏りだけでは説明することはできない。研究者の一人は3つの手順を重ね合わせの状態とすれば説明可能だと主張しているが俺はそんな戯言に聞く耳は持たないね。カティのその能力は意図を持って発動していると言わざるえない。ある程度コントロールされているように見える。他のエンタングラーにはない特徴だ」
「タイエン。翻って自分自身の能力についてもっと考えるんだ。お前はかつてたった一度だが、エンタングラーの能力を発動させた。タウォームという基本粒子の寿命を大きく延長させたんだ。そのときの記憶は薄らいでいるかもしれん。だがそれは現実に起こった。多くの目撃者もいる。考えてみろ、エネルギーの一時的な偏りで説明できる現象か? 絶対に説明できない。それはさっきの間抜けな研究者も認めるところだ。基本粒子の寿命を恒久的に伸ばしたんだ。宇宙の基本法則そのものを変えてしまった。これは途方もない能力だ。お前はエンタングラーの中でも特別な能力を発揮した。そのことをよく自覚しておくことだ。決して俺の言うことをプレッシャーに感じるな。自分自身を大きな器だと認識しておけばいい。日頃、そのことを自覚して行動するんだ。その能力がどのタイミングでどのように発動するか誰にもわからない。もう二度とないことなのかもしれない。しかし、自覚して行動していれば感知することはできるようになるはずだ。それで十分だ」
ローゼンまでオンクリー博士みたいなことを言っている。そのことはよくわかっている。だけど、そうなったらどうすればいい。誰も知らないし、誰もまともなアドバイスができない。
シャイアンマウンテンのサイロクロトプスの前でオンクリー博士に忠告を受けてからずっと考え続けている。もし大きな力が動き始めたと自覚されたら、いったいどうすればいい。
それは宇宙の災厄なのか、それとも宇宙の巧妙なのか、どうやって判断したらいい?
そのときが来たら自分ひとりだけで決断をしなければならないということか。
僕に正しい判断はできるだろうか?
そんな勇気があるだろうか?
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