7 地の底こそ、そここその地
ボルダーからコロラドスプリングスまでロボットカーで2時間あまりかかる。距離にして110マイルほどだ。国道36号でデンバーに入り、州間高速道路25号に乗り換え、ひたすら南に走る。パイクスピークの山麓に沿って走るうちにコロラドスプリングスに到着した。寒かったが空はよく晴れて澄みわたっていた。
車窓から航空機が薄い航跡を残して南へ飛び去っていくのがみえた。
「ナオ、タイエン。ここから30分ばかり急な山道で、ろくに舗装もされていないのでかなり揺れるよ」
「大丈夫よ、ローゼン。わたしもタイエンも車酔いなんてしない」
四人乗りのロボットカーには母と僕、それから向い合って黒尽くめのローゼンが乗っていた。そう、例のスパイだ。この頃にはすっかり親しくなっていて、お互いをファーストネームで呼び合うようになっていた。
シャイアン山に向かう細い山道は森林に囲まれ、まだ多くの残雪が残っていた。時折、対向車とすれ違うがどれも軍用車両だった。人が運転するところが珍しく、身を乗り出していると軍服のドライバーが手を振ってくれた。人ではなくアンドロイドだったのかもしれないが見分けがつかなかった。
ロボットカーは尾根沿いの山道を小さいモーター音をさせながら軽快に進み、僕たちを無事目的地まで運んだ。
セブンスヒル・スクール2年次の春先、僕はシャイアン・マウンテン空軍基地に招かれた。ボルダーに引っ越してから、山の神ハリーと海の神バリーの物語を創作することも絵を描くこともしなくなっていた。脳波がタウォーム射出時刻と同期することもなかった。『交絡』が解かれたようだ。ミウラ先生もそう判断していた。
どんなものと繋がっていたのか見てみたくなった。このことが母からローゼンに伝わるとすぐに各方面に手を回してくれた。海神バリーに会うことは無理な相談だった。しかしもう一方、ロッキー山脈の地底に棲む山神ハリーにはもうすぐ逢える。
この基地は巨大なトンネルが入り口になっている。20世紀半ばの冷戦時代にソ連からの大陸間弾道弾を想定して巨大な核シェルターとして建設された。当時、このトンネルの地下深くに航空宇宙防衛司令部が設置されていた。冷戦が終わると一旦は閉鎖され待機状態となったが、21世紀はじめに電磁パルスの脅威から情報通信機器やデータを守ることに適していると見直され、大規模な改修をして情報通信に関するバックアップ施設が置かれた。その後、急激な技術の進展でこの設備は不要となったが、電磁波が外部に漏れ出にくいという環境特性が再評価され、CHEBI(シャイアンマウンテン高エネルギービーム研究所)が設置された。空軍の所管だったがNSAもその研究内容に深く関与している。
CHEBIは、軍事衛星から特殊なマイクロ波を敵陣に照射し、生体に危害を加えることなく電子制御機器や情報通信機器を無効化できる軍事技術『ビッグシャワー』を開発した。地球上であればどこであっても可照射域としていた。1機のシャワーヘッド衛星で半径500キロまでカバーでき、どのような平面形状にもあわせて照射コントロールができた。また航空機やミサイル、ロケットなどの高速移動体であっても標的とした。
ビッグシャワーが実戦に投入されると極めて高い戦果を挙げた。全天をカバーするシャワーヘッド衛星網により敵陣地のはるか上空から高出力の特殊なマイクロ波が連続的に照射された。
特殊マイクロ波そのものは決して人体に感じられなかった。しかし、闇夜であったならば幻想的な光景を目にすることになる。上空より淡く発光する紫の霧が垂れ込みはじめたとみると、それはゆっくりと棚びくように形を変化させ空を覆い尽くしていく。気がつけば淡い光の層は地上にも到達し一帯を呑み込んでしまっただろう。人が動くとその周囲にハレーションが生じ、さながら後光が差しているかのようだ。不思議なことにどんな強風にあおられてもこの紫の霧は吹き払われることなく、それどころか薄い壁や天井であれば通り抜けていくようにみえた。
この神秘の霧の正体はマイクロ波によってプラズマ化したダスト微粒子だ。霧の中では電波が遮断され、有線電話や送電網さえ致命的な混乱をきたしていた。ほぼすべての電子機器は電源が入っていなくともショートして使い物にならなくなった。
仮想敵国のある朝を想定してみよう。人々はSST、PC、タブレット、テレビ、照明、調理器具、洗濯機、空調機器など家庭にあるいっさいの家電製品が使えなくなっていることに気付く。電気、都市ガス、水道などのライフラインも止まったままだ。仮に自家発電や太陽光発電を備えていたとしてもどういうわけか電力を供給できなくなっていた。
街に出ようにもロボットカーは立ち往生し、ディーゼルや水素などの自動車はなんとかエンジン始動できることもあったが、電子機器が作動せず結局まともに運転できなかった。信号機は色を失い、交通管制網は沈黙。電車、バス、航空機などの公共交通機関は動く気配が全くなかった。
火災に遭っても消防に連絡がつかず、直接消防署に出向いたとしても消防士は出払っているか、運よく見つかったとしても消防車が出動できなかった。
犯罪にあったとして警察官は来ず、犯罪者のなすがままの無法地帯になっていた。
病気や怪我をしても救急車どころか病院自体が動いていなかった。医師や看護師が出勤せず、仮に勤務していても適切な医療行為が難しかった。やがて医薬品も医療器具も底をつき病院の機能をまったく失った。
ATMは破壊され見る影もなく、クレジット、暗号通貨などはいうに及ばず現金であっても流通しなくなった。銀行は開くことがなく商店に物はなかった。
貨幣経済は崩壊し、物々交換に頼るしか食料や物資は確保できなくなった。AI、ドローン、ロボット、アンドロイド……、こんなものは最初の段階から打ち捨てられたままだ。
人々は神秘の空間に置かれながらも霧が晴れあがることをひたすら待つか、さもなければ霧のない地域に徒歩で移動せざるえなくなる。
しかし長期間、広範囲にビッグシャワーを照射し続けるにはエネルギー確保に無理が生じる。実際に敵国の弱体化を狙うなら主要都市や軍事施設ではなく、発電所を霧に包んでしまえばよかった。3ヶ月経過する前に反対勢力がクーデターを起こし、独裁政権は呆気なく倒されることになる。
アメリカは自ら一滴の血を流すことなく、ボタンひとつで敵国を自壊させる力を有したことになる。核兵器すら無力化できてしまうので、敵国は打つ手がなかった。天空の魔界として怖れられ、強い戦争抑止力をもった。
ビッグシャワーは戦術兵器としても高い有用性があった。クリミア紛争に投入されたとき、敵戦車隊は友軍との無線通信が途絶え、位置情報も失ったことで同士討ちが多発し戦闘不能に追いやられた。南シナ海での小競り合いでは軍事行動寸前の敵爆撃機3機が突然、紫の発光体に包まれ機体コントロールを失って海の藻屑となった。
ビッグシャワーの登場以来、地上の紛争地域からはことごとく高度な兵器が一掃され、最終的にローテク兵器以外、役に立たなくなってしまった。アメリカの支援を得られない紛争は銃と弾薬による肉弾戦を行うほかなくなった。
ビッグシャワーにも大きな弱点があった。マイクロ波は通常の雲なら難なく透過できたが、ハリケーン規模の厚みになると効果は薄れた。地下施設、屋根や壁体の厚い建造物、海中の敵にはまったく効力を発揮できなかった。
ロシアや中国、インドなどアメリカの覇権を好ましく思わない国家だけでなく、アメリカの同盟国・友好国であってもビッグシャワーに潜在的な脅威を感じていた。国防上、発電設備、送電線や通信ケーブルを地上に晒すことができなくなり、地下に埋設せざる得なくなっていた。このための社会インフラへの投資が莫大になり、財政が厳しい国家では中心地域や中枢設備を対応させるのが精一杯といった状況だった。
皮肉な話だがアメリカ自体も同様の脅威を感じて発送電システムを見直し始めていた。極秘技術が漏れでてその矛先がいつ自分に向かってくるかわからないからだ。アメリカはいつも自らの影に怯えていた。
いつしか主戦場は宇宙空間と海中に移った。各国では潜水艦の建造ラッシュが進み、海に溢れた。宇宙では人工衛星の潰し合いが半ば公然と行われるようになり、非軍事衛星や民間の小型衛星までそのとばっちりを受けて被害に遭った。いずれも国家間の深刻な問題となったが有効な対策が打たれず、政治的な駆け引きが事態をより複雑なものにしていった。各国の軍中枢司令部は地下に潜るようになり、通常の行政機関ですら地下化する傾向があった。
時とともにアメリカの世界覇権は鮮明になり、束になっても対抗できるような国家勢力は存在しなくなった。ビッグシャワーの功罪を問うなら、その功績が明らかに大きかった。なにより戦禍で人命が奪われることが激減し、大規模な戦争も紛争も起こりにくくなった。いざ行動を起こそうとしてもビッグシャワーの洗礼にあって戦闘能力を失い、戦意を奪われてしまうからだ。テロ支援国家は壊滅しテロリストも弱体化した。多くの難民が残されているものの世界は大きく安定化しつつあった。
しかし、アメリカは決して追撃の手を緩めなかった。ビッグシャワーによってもたらされた世界平和は束の間と考えられたからだ。文字通りの水面下、ビッグシャワーの効力が及ばない海中や地下で新たな火種が成長しはじめていた。それらが火を噴きはじめる前に、叩き潰す必要がある。
こういう軍事情勢だったからこそ、タウォーム射出実験に注目が集まった。コードネーム『ハリー&バリー』のことだ。
巨大なトンネルの入口で生体認証とセキュリティチェックを入念に受け、ロボットカーはそのままトンネルを1キロ以上奥まで進み停車した。出迎えの下士官に案内され、僕たちはエレベーターで地下200メートルまで降下し、将校用の応接室に通された。
しばらく待つと軍服に身を包んだ太った中年女性とその部下らしい男性が部屋に入ってきた。
「CHEBIにようこそ。所長のエリザベス・カンターです。エリザと呼んでいただいても結構ですよ」カンター所長の階級は准将ということだった。お堅い将校の制服に反してとても気さくで快活な印象がした。「あなたがタイエン君ね。なんてかわいい坊やなの。会えて嬉しいわ。あなたはわたしたちのヒーローなの」そういうとカンター所長は僕を抱きしめて頬ずりした。
「こんな地下深くて殺風景なところだけど今日は楽しんでいってね。ディズニーランドのアトラクションのようには行かないけど、ハリーを見学していって。あら、そういえば肝心のピーターが来てないじゃない。きっとまた実験にのめりこんでるのね」
部下を呼びにやろうとすると戸口にそれらしい男性が現れた。
「遅れてすまない。オンクリーです。よろしく」髪はボサボサ、無精髭を生やして着古したジャケットにジーンズ姿。握手したけど目を合わせるのは苦手らしい。
「その人がピーター・オンクリー博士です。ハリーとバリーの生みの親。これでもこの実験の主任研究員なの」カンター所長が紹介を付け足した。
オンクリー博士は苦笑いしながら降参のポーズをとった。
「僕の研究は中止に追い込まれる寸前だった。研究費が大幅に削減されたからね。なのに突然、風向きが変わった。あのときは本当にオッ魂消た。あとにも先にもあんなに驚いたのはあのときだけだ」
将校用レストランでフルコースのランチを御馳走になっていたが、オンクリー博士はクラムチャウダーしか頼まなかった。このところ常に食欲がないとこぼしていた。
「驚いたって? 研究費が元に戻ったということ?」と母が訊いた。
「それはもう少し後になってから。突然変わったのは実験データさ」
「どういうことかしら?」
「タウオンが地球を貫通できるなんて誰も思ってやしなかった。寿命は10兆分の2秒。ほぼ光速で飛ばして特殊相対性理論の効果をもってしても、せいぜい2ミリ程度しか進まない。すぐ安定粒子に分解しちゃうんだ。おまけに質量は電子の3500倍。こんなものがどうやって地球を貫けるのかってね。なにしろ地球の直径は1万3千キロ、中心核には高温高圧の金属が詰まってる。無理だと思うよな」
「まあそうかな。絶望的に無理だと誰もが思うでしょうね」とローゼン。
「この人、そこが変わってる。みんなが賛成することには興味をなくしてしまうくせにダメだといわれると俄然エネルギーがみなぎってしまうの。反骨精神というかチャレンジャーというか…ねえ、自分でもそう思うでしょう」と親しげにカンター所長が言った。
「僕はね、地球内部のレントゲン写真が撮りたかったんだ。地震波なんかで予想はできていたけど実際に見ることは叶わない。でも、それではつまらないだろう。日本の研究者たちはミューオンで火山を透過撮影してマグマ溜りを精密に測定できるようにしていた。だから、そんなに変とは思わなかった。ただ研究対象が大きすぎたんだよ」
オンクリー博士はパンを千切ってスープ皿を浚えながら話をつないだ。「強いて言えばそこだな。強い相手、大きい相手には立ち向かいたくなる、たとえボコボコにやられるとしても」
「やっぱりあなたは根っからの挑戦者なのよ。勝ち目があろうがなかろうが構わないんでしょう?」と所長。
「うーん、どうかな。アイディアはあったんだ。だから戦ってみる価値はあったと思う。決して無謀じゃなかった」
「あら、ごめんなさい。決して非難してるわけじゃないの。誤解しないで。あなたらしいと思っただけなの」
「もちろん、わかってるさ」
「その絶望的状況を打開できるアイディアってなんだったのかしら?」意外に思われるかもしれないが母は好奇心が強く科学技術にも興味を持っていた。
「物質っていうのはね、なにかと安定しようとする性質がある。ちょうど、水が高いところから低いところに流れるように一方通行にね。陽子や電子がその最たるもので、滅多なことでは崩壊しない。いわば超安定物質なんだ。だけど見方を変えると物質の成れの果てともいえる。宇宙はどんどん冷えていってる。いずれ熱的な死を迎える。ということは安定物質ってのはありふれたつまらん物質ってことになる。ここまでわかるかい?」
「ええ、だいたい。あなたの宇宙哲学って感じです」
「哲学っていうか、ものごとの好き嫌いかな。そういう理屈じゃない見方がかえってものごとの本質を見分けるときに役立つ。これってほんとなんだから」
「タイエン君、退屈してるんじゃない。大丈夫?」カンター所長が気遣いをしてくれたが、半分程度は理解できていたと思う。
「大丈夫、面白いです」僕は話の流れが止まらない方がよかった。内容はともかくオンクリー博士の話し方が面白かった。
「彼はエンタングラーだ。ここにいる誰よりも真の意味でこの現象を理解している。頭でと言うよりは存在そのものが体現してるよ」オンクリー博士はようやく僕の存在を認知したかのように目を合わせた。ただし、目線は冷ややかだった。
「それにしてももう少しわかりやすく話す努力が必要よ。まだ8歳なんだから」と所長。
「わかった、努力しよう。さて、ここで問題だ。タイエン坊や、宇宙の始まりは?」
「ビッグバン」と、はにかんで答えた。
「その通り」全員で拍手喝采。だけどわざとらしくてあまり嬉しくない。
「そのとき宇宙ははるかにエキサイティングだった。面白い粒子がたくさん飛び回っていた。なぜか?」
「無理よ。高度過ぎる」
「じゃあ自分で答えるよ。つまり高温高圧の空間にエネルギーが満ちていたからということさ。エネルギーは物質の食い物だ。じゅうぶんお腹が満たされれば崩壊しなくてもやっていける。タウオンだってもっと長生きだったはずだ」
「それってほんとうのこと?」
「ほんとうさ。誰も見たことがないけど」
「博士。あなたの実験でそのことは実証できたんじゃありませんか?」とローゼン。
「そう。ブラックマンさん、ありがとう。僕はタウオンの延命に成功できた。その機序がビッグバンで働いていたかどうかまだ解明できていないだけ。いずれ誰か証明してくれると思ってる」
「ピーター。そこが大事なところなんだけど、タウオンの寿命をどうやって伸ばしたのか? しっかり説明してあげてね」
「僕は科学者だから話せと言われればどこまでも詳しく話すよ。でも、どこまで話していいんだかよくわからない。最近の情報公開の在り方はオープンに過ぎるように思う。アキノさん親子は特別な立場だがそれでも民間人であることは変わりない。だからどうなんだろうね」
「それに答えるのは私が適任でしょう」ローゼンはそこでグラスに注がれた微炭酸水をひと口飲んだ。「このタウオンの実験は軍事転用される可能性が高い。その点で機密性は重要です。一方で実戦投入までの開発期間についてなんらかの抑止力をもちたい。つまりこういう兵器を開発中であることが真実味をもって漏れ出ることで、宇宙や海中での過度の軍拡競争にブレーキを踏むことが期待できる。隠しすぎず漏らしすぎない、絶妙なバランスで情報統制を行っています」
「技術はいずれ真似される運命よ」メインディッシュのラム肉を切り分けながら厳しい顔つきでカンター所長が言い放った。
「ビッグシャワーはいまのところ、その兆候がない。何でだ」とオンクリー博士。
「ですから我々がうまくやってるんですよ。これでも有能な組織なんです」ローゼンはここぞとばかり、やや声を張って主張した。
「NSA万歳だね」
「私もNSAはよくやっていると思う。でも、時間の問題じゃないかしら。いつまでも技術情報を隠し通せない。ジェムラインについてNSAはどう考えてるの」カンター所長は紙ナプキンで口元を整えながらローゼンの回答を待った。
「NSAはジェムラインについていまのところ公式見解を持ちません。私見なら話せます。披露するだけの価値があるかわかりませんが」
「是非、聞きたいわね。周知のとおり、軍人はSSEVを脳神経網に宿すことが禁じられている。これに違反すれば軍法会議に送られるの。軍人にかぎらず政府関係者は原則禁止され、違反すれば懲戒処分になる」
「そうです。アキノさん親子も特別措置として同様に禁じられています」とローゼン。母が頷く。
「でも、この軍規に軍内部は納得しているとはいえなくなってきている。禁止措置に強い反発があるのよ。下からの突き上げというより士官クラスにジェムライン推進派がすごく増えてる。この内部圧力をいつまで抑え続けられるかどうか。率直にいえば、とても危うくなってきてる。無責任だけど、この流れを止められるとは思えない」
「ご心労はよくわかります。もし、軍人がジェムラインにつながれば機密情報は駄々漏れになります。情報統制はまったく不可能になってしまうでしょう。すなわち、それは我々合衆国の危機であり世界の危機です。もし、敵国がビッグシャワーのテクノロジーを有したならどんな事態になるでしょう。考えるだけでも怖気が走るような結末が見えます」
「そうね。人類文明は終焉を迎えることになるでしょう。もしくは我々のような地底人になる選択もあるわね」
「地底人も安穏とはしていられないよ。ハリー&バリーがそれを許さない。ところで、エリザ。あなたはジェムライン推進派なのかい? それとも慎重派?」とオンクリー博士。
「わたしは軍人。そうである以上、反対を貫くことにしてる。だけど、そのために私生活を不意にしてしまったことも事実よ。いまになってもあのときの判断が正しかったのかよくわからない。だからこのことを考えるとなんだか不安にさせられる。いまも結論がないまま考えないようにしてる」カンター所長の私生活になにがあったのかわからなかったが、その不幸が垣間見えて場の雰囲気が変わってしまった。
「わたしもジェムラインに苦しめられたひとりなの。夫が急進派で意見が合わなかったから。この子に悪いことをしてしまった」母は少し涙を浮かべ僕を見た。「タイエン、ごめんね。あなたを悲しませているわね。でもあなたの気持ちはわかってるつもり」こんなところで突然、母の涙と謝罪を受けてどう応えていいかわからなくなってしまった。
このとき母ナオは父龍円と離婚協議中だった。ニューヨークのアパートを出て1年半になったが、僕は一度も父に会えていなかった。父に対して住所や連絡先を伏せたままだったので、弁護士を通じて数回、メールをやり取りしていた。
「アキノさん、あなたを誰も責められない。母親として当然のことをしただけ。あなたは立派よ。ほんとうによくやってる」カンター所長も涙目になってしまい、場が湿っぽくなってしまった。
「いや、すまない。変な質問をしてしまった。大した意図はなかったんだ」オンクリー博士は女性ふたりの予想外の変化にあたふたしていた。
「私見を述べようかと思っていましたが、これはナーバスな問題のようだ」とローゼン。
「いえ、いいのよ。みなさん失礼しました。もう大丈夫。ブラックマンさん、お話を続けて」所長は顔を真赤にし紙ナプキンで目頭を抑えていた。
「そうですか。では、……そう、ジェムラインへの帰属は合衆国人口の20%を上回ってその勢いはさらに増しています。高学歴・高所得者層だとその数値はもっと高くなっています。多くの先進国でもだいたい同じような傾向です。北欧ではすでに可半数に及んだというデータもあります。この潮流を止めることは誰にもできないでしょう。おそらく後3年を待たずして人口の過半数がジェムラインに帰属することになります。そうなれば政治的な実権もジェムライン側に落ちます。次回の大統領選はジェムライン帰属者が勝利することでしょう。我々はかつて経験したことのない人類社会の変容を目の当たりにしているのです。どういう社会が産まれようとしているのか容易に想像できません。しかし、それは人類が自らの意志で選択した結果です。決して悲しむべき事態ではありません。人類は次のステージに立とうとしているのですから、むしろ喜ばしいととらえるべきなのかもしれません」ローゼンはそこでコップに残った微炭酸水を飲み干した。
「さて、我々はいま、なにをすべきなのか? このような大きな変化の中で自らの居場所や役目を見失ってしまいがちです。それは個人も組織も同じです。目的が変わってしまったのでそうなるのは当然です。いまはまず、目的を再設定しなければならないときです」
「空軍の存在意義が変わったなんて思ってもいなかった。いったい、どういう目的になったの?」
「カンター所長、飽くまで個人的な見解だと思って聞いてください。軍もNSAもそれぞれ方法は異なりますが主任務は国家の安全保障にあります。合衆国の安全を脅かす敵を把握し、威信を示し、必要があれば攻撃する。そうすることで安全が守られてきました。ところが、今や守るべきアメリカ合衆国という国家が消えようとしています。世界から国家という枠組みが不要になろうとしているからです。我々の存在意義もなくなってしまうのでしょうか。いえ、決してそんなことはありません。守るべきものはちゃんと残っています。我々には人類の安全とその未来を守る任務が厳然とあるのです」
「立派なご持論ね。でも、どんな敵から人類を守れというの。わたしたち、未だに宇宙人から攻撃を受けていないのよ」
「それには人類の未来を想定しなおす必要があります。人類の未来はどうあるべきなのか、あるいはどんな未来が残されているのか。これをしっかり想定しないといけません」
「その未来のシナリオを誰が考えるの?」
「ここにいる我々でもいいじゃないですか」ローゼンは両手を広げて示した。
オンクリー博士が諸手を上げて賛成した。「ブラボー! その考えはなかった。でも、その通りだ。自分たちで考えなきゃいけないね。ほっといたら誰もなにもしないぞ」
「わかったわ。少し考えてみましょう。じゃあ、ピーター。あなたはどう思ってるの」
「そうだね、まずここでの研究生活を大切にしたいね」
オンクリー博士は軽口を飛ばしたが、カンター所長に睨まれて、例の降参のポーズ。
「冗談だって。僕個人はジェムラインに対していまのところ中立だ。しかしいずれ、命を永らえるためにSSEVを植え付けることになると思う。そこに永遠の命が有るなら手に入れたいと誰もが思うだろうさ。あえて拒絶する理由はなにもないよ。つまり、ほとんどの人間は僕と一緒さ。やがてジェムラインに帰属するようになる、老いも若きもね。軍の年寄り連中だって同じさ。老いぼれる前にジェムラインのお仲間に入りたいんだ。みんな同じなんだよ。そうなればリプレセンタが街にあふれるようになるだろう。そいつらが人間と呼べるならそいつらが保護されるべき対象ということになる。ただ、そのとき軍人が普通の人間だったら違和感を感じるだろうね。死すべきものが永遠の命を守るというのはなんだか変だろう。だから、遅かれ早かれ軍もジェムラインに門戸を開くようになる。それが必然さ」
「つまらない意見だけど説得力はあるわね。アキノさんはどうかしら」
「わたしはジェムラインを好きになれない。だから反対の立場です。永遠に生きるなんて不自然です。自分の人生を全うできればそれで満足。人としてそれが自然な生き方なんだと思います」
「その通りまったく同感します。永遠なんていらない。いまを生きることがすべて」とカンター所長。
すかさずオンクリー博士が口を挟んだ。
「それはね、人生観としては間違ってないよ。でも、統計的には間違ってる。反対派というか対抗人類というか、そっちの陣営は必ず少数派になっていく。なぜなら歳をとってどんどん死んでいくから。永遠の命が最後に残る。当然の帰結さ」
「子どもを作って命を繋いでいきます」母が珍しくむきになって反論した。
「それでもダメだよ。同じ比率でジェムラインに取り込まれたら先細りしていく。そう遠くない未来に生物学上の人類は滅ぶ運命にある」とオンクリー博士が母の意見を覆した。
「ピーター、黙りなさい。母の愛を踏みにじる真似はやめて」
所長に恫喝されてオンクリー博士はまた降参のポーズ。
「タイエン君はどう思うの? 難しかったら答えなくてもいいのよ」
「……人もジェムラインも仲良くできたらいい。きっとうまくやっていけると思う」と、咄嗟に答えたのだが一瞬、場が沈黙した。
「…ほんとうに素敵。そうね。そうしないといけない。ほんとうに正しい」カンター所長はまた涙を流し出した。母は声を出して泣き始めてしまった。なぜ、二人が泣きだしたのか訳が分からなかった。これには参った。
「偉いぞ、タイエン。よく言った」ローゼンもなんだか涙目だ。
「どうやら結論が出たみたいだ」オンクリー博士は腕組みして不満気にそう言った。
母はローゼンから黒いハンカチを受け取ってしばらくして泣き止んだ。
冷静さを取り戻したカンター所長は椅子を引いて立ち上がった。
「皆さん、ご意見をありがとう。それぞれに拝聴に値する意見でした。特にタイエン君、ありがとう。あなたの意見で目が醒めました。私達にはまだやれること、やるべきことが、たくさんあります。残された時間は僅かかもしれませんが、各々ベストを尽くして任務を果たしましょう。皆さん、本日はほんとうにありがとう。私は所用でここまでしかお付き合いできませんが、この後、タウォームビーム射出器『ハリー』をご覧になっていってください」
カンター所長は僕を強くハグし、続いて母と長く抱き合ってなにか耳元で囁き合ってレストランを出て行った。
「そういえばタウオンのこと、まだ聞いてないです」母は目を真っ赤に晴らしたままでそう言った。
オンクリー博士が例のポーズをとった。
僕たちは将校用レストランを出てオンクリー博士についてエレベーターに乗り、さらに地下へ降りた。通路は薄暗く、空調の音が騒がしい。レストランのあるフロアと比べると人気がない。
「ここは地下580メートルだ。ここにハリーが置いてある。ほぼ意味は無いがルールなんでヘルメットをかぶってくれ」
分厚い鋼鉄の扉を3つほど通って地下トンネルに出た。複雑な構造物が列車のように長く連なってトンネルの奥まで続いている。
「陽子加速器だ。1キロ奥まで続いている。これはね、電力を大量に消費するから実験は夜にやることにしてる。強い磁力をあたえて陽子を光速近くまで加速させる。ただそれだけの装置だ。で、次だ」
階段で3階分くらいおりると巨大な空間に円筒形の構造物がみえた。
「こいつはサイロクロトプスといって上で見た加速器がてっぺんの部分に繋がっている。陽子がここでグラファイトに衝突してタウオンを発生させる。でもそのままだとタウオンはすぐ分解して消滅してしまう。そこで同時に発生したプラス電荷のミューオンと混淆してタウォームという特殊な粒子を形成させる。そういう装置だ。タウオンをタウォームにすることで驚異的に寿命が伸びる。なおかつ、電荷もゼロになるので他の粒子との反応もなくなる。これでめでたく地球を貫通することができるようになったというわけだ」
「ずいぶん簡潔ですね。ちっともわからない」母が不服を述べた。
「すまない。説明下手でね。わからないことがあったら質問してくれるといい」
「このサイロクロトプスの中でなにが起こってるの?」
「タウオンとミューオンの距離が狭まって電磁力が働くようにアルフベン波という特殊な磁気エネルギーを与えるんだ。ふたつの粒子がじゅうぶんに接近するとタウォームになる。回っているコマを叩いてさらに回転力を与えるようなイメージかな」
「大きくてぶつかりやすくならないの?」
「ミューオンの軌道半径はすごく小さい。だから問題になるほど大きな殻はできないんだ」
「バリーに向かって打って大丈夫なのかしら。壊れたりしない?」
「10兆個のタウォームを放って7個程度を捕まえられる。検知するのにひと苦労という状況さ。収束ビームを射出しているつもりだがそれでも地球はずっと大きい。どうしても拡散してしまう。もうひと工夫もふた工夫もいるだろうね」
「あら、まあ」
「現段階で兵器として利用するなら1万倍の出力が必要になるね」
「とても無理な相談ですよ。ちゃんと完成してもらわないと困ります」とローゼン。
「ジェムラインの時代になっても研究を続けさせてもらえるなら約束しよう」
ローゼンは苦笑いして首を振った。
「なぜハリー&バリーって名づけたの?」ずっと気になっていたのでつい、訊いてしまった。
「おっと、タイエン坊や。ようやく興味を示したね。君らしい質問だ。ハリーとバリーはね、仲が良い一卵性の双子だった。ふたりでピクルス製造会社を経営してその社名がハリー&バリーだったんだ。製造したピクルスをスーパーマーケットなどに卸していた。自慢じゃないがかなりうまいと評判だったんだ。ふたりはゲイだったので結婚をしたかったが認められなかった。ゲイは尊重されるが、なぜか近親者同士はだめなんだ。それでもふたりは子どもを欲しがった。八方手を尽くして法律スレスレの行為で僕が産まれたんだ。僕はふたりの完全なるクローンなんだよ。ちょっと変わってる親子だろう」
「ハリー&バリーはふたりともにあなたの父親なんですね。珍しいといえば確かにそうだけど特に変には思いません。ひと昔前ならともかく、いまの時代はなにが普通でなにが変だなんて判断ができなくなってます。装置に名前をつけた訳はきっとふたりを大切に思ってるからなんでしょう」と母。
「まあ、そうかな。ふたりとも、とても良くしてくれた。自分たちはピクルスを漬けてばっかりなのに僕にはいろいろ手をかけてくれたし教育熱心だった。ずいぶんお金も使わせたしね」と、やや照れくさそうにオンクリー博士。
「人間味を感じて安心します。おふたりはいまもご健在なの?」
「ハリーはいまもピクルスを作ってる。でもバリーはジェムラインに逝ったよ。いまは肉体を放棄してしまった。一卵性双生児でも個性は別なんだ」
「そうでしたか。ハリーさんは寂しくないのかしら?」
「ハリーは職人気質で頑固なんだ。きっと寂しいだろうけど何も語ろうとしない。逆にバリーは商才があったが、それは柔軟だったからともいえる。職業の立ち位置が二人をわけたんだろうね」
「どっちがお兄さんでどっちが弟なの?」と僕。
「確かね、バリーが兄でハリーが弟のはずだ。双子だからね、書類上そうなってるだけだよ。そんなことが気にかかるのかい」
「この子の考えた物語には兄の海神バリー、弟の山神ハリーが登場するからなんです」
「なるほどね。その物語についてはブラックマンさんから詳しく聞いてるよ。こいつはやっぱり弟分ってことか」オンクリー博士はサイロのように屹立する巨大なサイロクロトプスを見上げた。「そういえば実験データの話だったね」
「そうです。なぜ、『オッ魂消た』のか気になってます」
「タウォームはね、世界で始めてこのサイロクロトプスで人工的に生成された。それまで誰もその存在を知らなかったし予測すらしていなかった。こういう変わった粒子をね、エキゾチックアトムと呼んでる。一般的に極めて寿命が短いと思われているけど、タウォームはそうじゃなかった。例外的に寿命が長いんだよ。それでも人間のスケールから言えば一瞬だけどね。当初は百万分の1秒くらいかな。びっくりするほど安定した粒子なんだが、残念ながら地球を貫通するほど長くはない。軍の関心が急速に薄らいでいくのがわかったよ。基礎研究としては面白いが兵器に転用できる代物でないことは明らかだ。だからお払い箱になる前にどこか物好きな大学に研究ごと引き取ってもらおうかと画策しはじめていたところだった。でもその矢先にね、実験結果に変化があった。同じ条件下で射出したタウォームの寿命がいきなり5倍近く伸びていたんだ。でも、その理由がまったくわからないんだ。そうやって実験を重ねる度に階段を上るように寿命が伸びていき、ついに地球を貫通してしまった。誓っていうが実験条件はまったく同じなんだ。でも結果は明らかに異なる。僕にとってはありがたい話だ。首がつながったからね。しかし、科学者としては首をかしげるばかりさ。なにが起きてるのかまるでわからない。共同研究員や技術者たちは互いに疑心暗鬼になって研究室の雰囲気もよくなかった。正直、誰もが気味が悪いと感じていたんじゃないかな。そんなときにブラックマンさんからコンタクトがあった」
「ナオのアパートメントを最初に訪ねる少し前のことだ。一見、無関係にみえる厖大な事象の中から関係性を見いだすことが仕事だからね。タイエンの脳波とタウォーム射出実験とのシンクロになにが隠れているのか調査するために来たんだ」
「あのグラフを見せられた時は膝がふるったよ。怖いと感じた。いや、畏怖の念というべきかな。見てはいけないものを見てしまったような気分だった。量子物理の世界に長くいるから奇妙な物質の振る舞いには慣れっこさ。でも、あれは特別奇妙な現象だね。ほんと魂消たよ」
「やっとすっきりしました。やはりあなたのような科学者でも驚くようことなのですね」
「そりゃ、驚くよ。基本的な粒子の寿命が短期間に三千倍にも引き延ばされた。自然法則が目の前で何度も書き換わってしまったんだ。神の領域を覗き見したような気分になったね」
オンクリー博士は向き直って僕の瞳をじっと見た。
「タイエン坊や。正直にいえば君に会うのが少し怖かった。君は普通の少年にみえる。でも、やっぱり違うんだ。なにかの力が宿ってる。その能力、物性交絡といったかな。それについて僕ら物理学者はいまのところ無力だ。なにも有効な説明ができないからだ。いま君はその能力を鍛えているというじゃないか。君の意思でコントロールできるのならいい。だけどなにか他の意志によってその力が乗っ取られコントロールを失ってしまうのであれば余程気をつけてくれ。宇宙そのものが変わってしまうことだってありうる」
オンクリー博士は真剣にそしてやや強張った表情で僕を見つめ続けた。僕は目を合わせ続けた。そうするのが正しいように感じたからだ。
「それは杞憂でしょう。そこまで力が及ぶとは考えにくい。それに他の意志っていったいなんですか」とローゼンは冷ややかに言った。
「科学者としての直観としかいいようがない。君らはこの能力を安易に考えすぎてる。焦る気持ちはわかるが、開けてはいけない扉だってあるんだ」
この人は本来、こんな風にシリアスな性格の持ち主だとこのときの表情でわかった。ランチの間にみせた浮ついて軽い印象は社交上の仮面のようだ。
「タイエン坊や。君の力がタウォームの寿命を引き伸ばしたことは認める。しかし、それが君の意志であったとは考えにくい。偶然だったとも思えない。なぜって、タウォームが兵器としてじゅうぶんになるまで寿命を伸ばしたからだ。そうなった途端に君の脳波と実験はシンクロしなくなった。それも示唆的だ。僕はここにどうしてもなんらかの意図を感じてしまうんだ。それは人間やジェムラインのような卑近な存在なんかじゃない。もっと大いなる存在がそこに関与している気がする。君はまだ幼い。だからこのことを記憶にとどめて時期が来た時に思い出して欲しい。決してマッドサイエンティストのたわ言とは思わないでくれ。君自身が宇宙の災厄とならないように用心するんだ」
僕が宇宙の災厄になる!! 凄い衝撃だった。言葉がなにも出てこなくなった。
「オンクリー博士。いい加減にしてください。タイエンが怯えています」母はそう言って僕の肩を抱き寄せてオンクリー博士から引き離した。
オンクリー博士は癖であるかのように両手を小さく上げて降参のしぐさをしたが、表情は固くこわばって深刻そのものだった。僕以上に怯えていたのだ。
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