第二章 フラットアイアンズ周辺
6 闇の構え
秋野家の長男としてニューヨークに生まれ、6歳まで暮らした。
母ナオは日系5世で日本語はカタコトしか話せなかった。小柄な体型で顔立ちはわずかに眉から瞳あたりにモンゴロイドの特徴がみられた。
父龍円は日本の高校を卒業してからニューヨークの大学に留学した。卒業後、貿易雑貨商を営みながら苦労して市民権を得ていた。日本からの輸入品トラブルの訴訟で、弁護士事務所に出入りしていているうちに母と知り合い懸命のアプローチの末、交際に発展し一年後結婚した。翌年には早くも僕が生まれた。
ニューヨークの思い出をよく聞かれる。よちよち歩きの弟イーサン(父は漢字表記にこだわり維山をあてたが母は無視していた)を押し倒しておでこに怪我をさせたとか、父の大切にしていた金魚(かなり高価だったらしい)をトイレに流してしまっただとか(どちらもその後こっぴどく父に叱られた)そんなろくでもないことはよく覚えている。狭い廊下の薄暗さや隣の飼い犬の吠え声、照明にたかる蛾、一晩中鳴り響くサイレン、そんな記憶とも呼べないあいまいで断片的な印象しか残っていない。そんなにひどいところではなかったと母は言うが、それでも良い思い出はなにもない。そんな訳でここから語ることは後日、母から聞き知った内容だ。思い込みの激しい母の主観によって事実がねじ曲げられていることも少なからずあるかもしれない。
夜驚症と診断されたのは5歳の頃だ。深夜に絶叫して隣室の両親を跳ね起こした。しばらくの間、絶叫と意味不明の行動しているのだが本人はまるで覚えていない。イーサンと一緒に子供部屋で寝ていたはずが朝、目覚めると両親のダブルベッドに割り込んでいた。こんなことが連日繰り返すので母は児童マインダーに相談し、セラピーを受けさせることにした。美しい女性に優しく語りかけられた場面がわずかに記憶にある。肝心のセラピーの内容はまったく思い出せない。
しばらく、このセラピーに通った。プレスクールに馴染めないストレスが夜驚症の原因だったのだが、その根底には軽いADHDがあると診断された。愛のホルモンといわれるオキシトシンの点鼻薬を処方され、就寝前になると泣き叫びながら逃げ惑う僕を母は無理やり押さえつけ、無慈悲にそいつを鼻の奥に打ち込んだ(実は途中から貼り薬に変えてもらった)。こんなドタバタを繰り返した甲斐があってか、夜驚症は快方に向かったようだ。
その後、経過観察という名目でベッドの下にポータブル型のfMRIを取り付けられた。こいつは水筒くらいの大きさでときどき唸るような振動音がしたが、幼児の睡眠の妨げになる程でもなかった。無線で給電されていて、普段は目にすることもなかったので、すぐさまそんな物の存在は家族全員から忘れ去られた。
あるとき、担当のセラピストと一緒に黒服の男がアパートメントを訪ねてきた。コートもスーツもシャツも黒尽くめ。わずかに黒ネクタイに赤い薔薇が刺繍されていた。事前にアポイントメントがあったのだが、あまりに怪しいスタイルなので母はアパートメントに招き入れることを拒否したくなったそうだ。セラピストの説得によってなんとか黒服の男の訪問がかなったのだが、母は決して警戒を緩めなかった。僕はといえばプレスクールに登校していて残念ながらこの場に居合わせなかったそうだ。
長身で痩せた男は名刺を差し出した。
『ローゼン・ブラックマン』
さすがの母も本名とは思わなかったそうだ。
このとき母は三十台後半、法律事務所での実務経験(僕の産休中にAIの技能進出で失職した)も十分あったのだが、名刺を受け取るのはおそらく生まれて3回目くらいの経験だった。生体認証で身分証明を行うことが至極一般的な社会で、名刺は信用されなかった。しかるにその名刺にはジョークのような名前に加え、NSA(アメリカ国家安全保障局)の文字と白頭鷲の紋章が印刷されていた。ジョークにしてはやり過ぎだ。
母は非礼を顧みずSST(社会保証端末)を使って生体認証を行おうとした。顔や身体の特徴、体臭、虹彩などを読み取り、ソーシャルデータベースから個人を特定できる。その精度はほぼ100%だ。ただし、該当する個人データが登録されアクセスが許可されていればの話だ。
「アキノさん。申し訳ありませんが職務の性質上、一般権限でわたしの個人保証データにアクセスすることはできません」男はきっぱりと言った。認証結果もコードエラーになっていた。セラピストの女は引き攣ったような笑みを浮かべたままでなにも話そうととしない。
「あなた、スパイなの?」
「NSAは諜報機関ですのでそういう意味ではわたしは諜報員となりますが、あなたがイメージしているようなスパイとは少し違います」
「どうやってあなたを信用すればいいのかしら」
「最終的にはわたしどものオフィスに来ていただければご信頼いただけるようになろうかと思います。ですが、遠隔地にありますので大まかにでも、趣旨ををご理解いただいたうえでないとならないでしょう。今はまず情報共有が優先されます」
思いのほか、スパイの口調は穏やかで丁寧な話しぶりだったので母はその提案を受け入れた。
「ご子息タイエン君のことで参りました」
「伺っております。タイエンは国家を揺るがすほど問題児なのですか」母はジョークのつもりだったのだが、スパイはにこりともせず、これを真摯に受けとめた。
「問題というと語弊があります。むしろ、ポジティブに受け取ってください。タイエン君は特別な能力をお持ちです。その能力をアメリカ合衆国が必要としています」
「タイエンが特別な能力を…国が必要としている、幼児の能力を…」母は意味もなくケタケタ笑った。
「驚かれるのも無理はありません。でも事実なんです。合衆国政府は国家の安全と繁栄のためにその能力を必要としています」
「まあ面白い。いったい、どんな能力なんでしょう」
「特別な情報伝達能力です。時空を超えて情報を伝え、ときに因果関係を反故にします」
「時空…因果関係の反故…わかるように仰ってくださいね」
「テレパシーって知ってますか」
「知ってますとも。超能力でしょう」
「そうです。それに近い。でも、現在は科学的な判定がある程度できるようになりましたので超能力者やテレパスという呼び方はしません。我々はこの能力が顕在化した人々をエンタングラーと呼んでいます。テレパスは情報を能動的に送る力といえますが、エンタングラーは情報に感応する力です。働きかけができるのです」
「何を根拠にタイエンがそのエンタなんとかだというの?」
「エンタングラーです」そこから美人セラピストが代わって経緯を説明した。「タイエン君の夜驚症のセラピーに様々な療法を試みました。タッチやマッサージ、色彩、アロマ、音楽などですが、特にお絵かきが好きだったようなのでアートセラピーを中心に治療計画を組み立てました」
「そう、アートセラピー。タイエンはとても絵が上手になったわ」
「ほんとうにそう。とても上手ですわね。その上、どの絵にも共通のストーリーがありました」
「よく絵を描きながらなにか話してくれてます。でも、なんだったかしら、ストーリーって」
「山の神と海の神の物語です。タイエン君は絵を描く時、いつもこの二人の神を中心にして神話を創作してます。凄いことですよ、神様を創っちゃうんですから」と言って、セラピストはとてもチャーミングに微笑んだ。
「そう、神様ね。たしかにそんな感じの絵を描いてました」
「山の神がハリー、海の神がバリーって云うんですよ。二人の神は山の自慢、海の自慢をして争っていたかと思うと、お互いを助けあったりします。少しづつ物語が変化しながら進展しています、たぶん今も」
「ちゃんと聞いてあげてなかったけど面白そうな話なのね」
「そう、わたしも小児セラピストとしてとても強い興味を持ちました。幼児がこのように具体的なストーリーを組み立てることはとても珍しいことです。そこでその基となる物語が何かあるのではと調べてみました。あったんです、日本の神話に。海幸山幸の神話です。海幸彦が兄、山幸彦が弟。日本で有名な浦島太郎という童話はこの神話から派生しています」
「そうでしたか。たぶん日本に行ったとき、お祖父ちゃんから聞いたのかもしれませんね」
「おそらく、そうでしょう。タイエン君の中で、その海幸山幸の神話が変容を遂げ、絵という形で立ち現れているという捉え方をしています。希少な事例でしたので、この物語性のある幼児絵画について専門誌に報告させていただきました。各方面から様々な反響がありましたが、最も強く反応されたのがこちらでした」
ここでまたスパイが話を引き継いだ。「我々は世界中にアンテナを張り巡らせ、広く情報を収集する立場にありますからね。学術誌にかぎらず、インターネットや出版物などありとあらゆる文章や文字の羅列に目を通します。それどころか画像や動画、音声、通信など情報と呼べるすべてのデータを随時読み込み、解析しています。もちろんAIの仕事です。解析作業は一瞬です、問題有りか無しか。果たしてその小論文は問題有りに分類されました。国家機密に抵触しているとAIに判定されたのです」
「国家機密って、幼児の絵なのにずいぶん大袈裟ですね」なにか突然得体のしれないものを手渡されたかのように母は不安になった。
「個人的にはそう、馬鹿げていると思いました。それでも調査を行わなければならない。そういう仕事ですから」
「それでどうでした、調査結果は?」
「結論を急がれるお気持ちはわかりますが、もうしばらくこの話にお付き合いください。一部が公開情報となりましたので話せるところまでお伝えします」そこでリビングのソファーに深く腰をおろしていたスパイは身体を前に起こした。「ハリー&バリー、なんだと思います?」
「兄弟の名前でしょ、山神と海神の。いまほど聞いたばかりですけど」
「そうです。そして同時に機密プロジェクトのコードネームなのです。ハリーはロッキー山脈の地中深くに、バリーはオーストラリア大陸西のインド洋海底にそれぞれ研究施設があります。山のハリーと海のバリーです。わずかの関係者以外にこのコードネームを知る者はいませんでした」
「ただの偶然でしょ。そんなことよくあることよ」
「そう。それだけならなんということもないでしょう。でも、タイエン君のストーリーはこの機密プロジェクトの核心を突いていました」スパイはセラピストを手の平で指し示し話の続きを引受させた。
「はい。タイエン君のストーリーはいくつかのパターンがありますが、概ね、山神ハリーと海神バリーの争いと和解の物語です。あるときは互いに攻撃を仕掛け、ある時は自慢の品を贈り合うという内容です。この相反する行為にひとつだけ共通項があります。攻撃するときのレーザービームやミサイルであれ、贈り物の海の幸山の幸であれ、お互いに地に空いた穴を通して相手に届けるのです」
「洞窟に向かってミサイルを打つのね。その絵は見たことあるわ。お魚が穴から飛び出したりもしてたわね」
「実にユニークな発想です。地球を貫通させてなにかをやり取りするという幼児の発想はわたしの知る限り前例がありません。タイエン君の独創といってもいいかもしれません」
「褒めて頂いてるのかしら。だとしたら嬉しいわね」
「もちろんです。素晴らしいイマジネーションです」
「そしてその部分がまさに核心なのです」スパイが会話に割って入ってきた。「我々の研究施設ハリーとバリーは互いにタウォームという粒子ビームを送受する実験を行っていました。地球の中心を貫通させてその裏側にエネルギーを到達させるのです」
「そのビームは地球を貫通したんですか?」
「ええ、成功しました。エネルギー拡散率はまだかなり高いですが、将来的にはもっと低く抑えられそうです」
「それって兵器開発なんでしょ?」
「軍事への転用は考えられますね。荷電粒子砲の一種になります。地球の裏側から敵の軍事施設をピンポイントで破壊できるようになるかもしれません。敵にしてみれば足元から突然、高熱が吹き上がりますから一溜まりもないでしょう」
「まあ恐ろしい」
「平和利用もできます。発電設備のない辺境にも簡単にエネルギーを送り込めます。どんな技術も諸刃の剣です。ハリー&バリーは地球を貫通して攻撃も贈り物もできるのです。似ているでしょう、タイエン君の絵に」
「確かに似ていますね。でもどうしてそんな偶然が起こったんでしょう」
「アキノさん、最早偶然と呼ぶことはできません。これを見てください」そういうとセラピストははトートバックからタブレットファイルを取り出し、横長のグラフを示した。
「このグラフはご自宅に設置させていただいたfMRIがひと月にわたって記録したタイエン君の睡眠時の脳波と脳内血流量の変化です。わかりやすいように必要な情報だけに絞ってグラフを表してみます」
折れ線グラフには縦軸に高いピークを示しているところが多数あった。
「このピークはかなり興奮した状態といえます。発作といってもいいくらいの状態です。夜驚症の症状は治まっているとはいえ、いつ再発してもおかしくないレベルです」
「またホルモン療法を始めなきゃいけないのかしら」母は浮かない気分にさせられた。
「心構えだけはしておいてください。ただ、この発作を招く原因は外部にあるようなのです」
「どういうことでしょう?」
「このグラフにハリー&バリーのタウォーム送出実験の時刻を重ねてみます。送出時間はほんの一瞬です」今度はスパイがタブレットファイルを操作した。実験開始時刻を示す緑の縦棒が加えられた。「どうです。ピッタリ重なるでしょう。これを偶然ということはできません」
緑の縦棒は全部で13本。そのすべてが発作のピークと重なっている。
「これはどういうことなんでしょう?」母は唖然としてスパイの顔を見つめていた。
「タイエン君は感応しているんです。詳しく見ますとタウォーム送出時刻の約20秒前に脳波が興奮を始めて、ピークを迎えて約2秒後にタウォームが送出されています。送出施設がハリーでもバリーでもほぼこのパターンです」
「なんて不思議なことなの。感応ってどういうことなのかしら」母は手のひらで両頬を押さえつけて興奮を抑えなければならなかった。
「我々がいう感応とは、いわば時空のほつれを紡ぐ行為もしくは現象を指します。この現象を『交絡』と呼んでいます。この交絡は必ず相互作用を伴います。タイエン君とハリー&バリーが互いに交絡するとき、必ず相互に作用しあっていることになります。タイエン君はハリー&バリーの送出実験の作用を受けて興奮状態になります。この逆にハリー&バリーもタイエン君からなんらかの作用を受けていると推定されます。それがどのようなものかは私の口からは申し述べられません。ここから先はまだ機密事項に属します」
「それでは国家機密の漏洩はどういうことに?」
「判定はグレーです。誰かが故意に情報漏洩したということでもハッキングなどの不正侵入があったわけでもありません。それでも機密プロジェクトの情報がタイエン君に伝わっていたことも事実です。これはタイエン君にエンタングラーとしての特殊能力があったためと考えられます。つまり我々の持てる情報セキュリティ技術では原理的に防止できなかったということです」
「それではタイエンは?」
「ご安心ください。今回の件で誰かが責任を問われることはありません。もちろんタイエン君を含めご家族にはなんの責任もありません」
「ああ、よかった。ほっとしました」
「状況から見てタイエン君はエンタングラーとしての能力が自然に発現したと思われます。地球上では毎年数百万人にひとりの割合でエンタングラーが現れていると推定されますが、その発見は極めて困難です。今回の件は、AIのデータマイニングがあったことを差し引いても奇跡の発見です。多くの場合、幼児期にエンタングラーの素質を示したとしても、本人も周囲も気付くことなく、成長するに連れてその能力は萎んでいきます。本人の自覚と適切な訓練がなければその能力を大きく伸ばすことができません」
「大きく伸ばすって?」
「我々は手を拱いているばかりではありません。まもなくエンタングラー専門の研究機関と訓練施設が発足します」
母はそれこそ目を白黒させた。「それは何? タイエンの他にもいるということ?」
スパイはニッコリと微笑んでみせた。「ええ。他にも多くの仲間がいます。タイエン君には大きな世界が開かれているのです」
それからの母の行動は早かった。一週間後には僕とイーサンを連れ立ってコロラド州ボルダーに移り住んでいた。父の出張を見計らっての引っ越しだった。
父はそもそもエンタングラーについて何も聞かされていなかった。母は、スパイが訪ねてきたことも、そこでのやり取りも一切なんの説明もせず、何の気配もさせず、いきなり引っ越して父の前から姿を消した。
出張先から帰った父はかなり面食らっただろう。母が別居する旨の通知や連絡を父を含め友人知人に残しているため市警には捜索願を受理してもらえなかった。むしろDVを疑われて立場を悪くする結果になった。
父は怒り狂い、呪い、苦しみ、泣き叫び、後悔し、孤独に陥った。突然、家族を失えば誰でもそうなる。そしてそんなことはニューヨークでは誰にでも起こる日常茶飯事だった。
僕は当初、父に会えなくなった理由を母にしつこく訊いていたそうだが、しばらく経つとそのことについてなにも触れようとしなくなった。母の表情からそう得心したのだろう。父に会えなくなって寂しい気持ちはあったが、母を悲しませたくなかったのだ。
ボルダーの住み心地は最高だった。まず、なによりもプレスクールに通わなくてもよくなった。代わりに母と一緒にオフィスのようなところに何度も出向いて、あれこれ質問されたりテストを受けたり、運動したりした。嫌いではなかったが退屈だったことを覚えている。
そのオフィスには例のスパイがいた。やはり黒尽くめで母と僕に会えばいつも微笑んで声をかけてくれた。
「タイエン、君は特別なんだ。凄い能力がある。ここでその力を伸ばしていくんだ。それはきっとみんなの役に立つ素晴らしい力なんだよ。自信をもつといい。それからもう一つ、お母さんとイーサンを大切にするんだ。どうだ、できるかな」彼は腰をかがめて僕と顔を合わせ、よくこんなことを言って聞かせた。
凄い能力がなんなのか母に訊いても納得のいく答えが得られなかったが、特別視されていることについては得意気だった。
ボルダーでは母が優しくなった。イライラした様子がなくなり、よく遊びの相手をしくれるようになった。イーサンと母の奪い合いをしたが、それでも充分な愛情が注がれた。そのためか、捻くれて陰湿なイタズラをすることが止んだ。もちろん夜驚症も治まったままだった。
家はボルダー市の西端にあり、三人で住むには大きすぎるくらいだった。家と小路を挟んだ向かい側に雑木林があり、その先は草原が広がっていた。
草原の小路を進み小さな丘に登るとそこから巨大な岩の峰々が望めた。平らな地層が急傾斜し、赤褐色のその荒々しい岩肌を露わに天を突き、地を穿つように連なっている。
ずっと後、思春期を迎える頃の話だが、よくひとりでこの岩山に望んでその偉容に自らの誇らしさを重ねて佇んでいた。溢れ出てくる歓喜に打ち震えていたこともある。そんなことがあった場所だなんてカティにさえも話してはいない。
誰にも秘密だが僕にとっては世界で最も美しく勇壮な景色だ。原風景といってもいい。地元ではこの岩山をフラットアイアンズ(Flatirons)と親しみを込めて呼んでいる。
抜けるような青空、清々しく乾いた空気感、清冽で冷たい水。この気候が身体に合った。絵を描いてばかりのインドア幼児が一変して表に出て遊ぶことを好むようになった。買ってもらったマウンテンバイクにも乗れるようになり、スケボーも上達した。
兄貴ぶって幼いイーサンにもバイクの乗り方やフリスビーの投げ方を教えこもうとしたが、いつも根気が続かず二人とも笑い転げてうまくいくことはなかった。二人でよく林の中でリスの餌付けをしたり草原に寝転び、空を見上げて好きなアニメのキャラクターについて訳もなく語り合った。そのうちに近所の子どもとも仲良くなって近隣の探検ごっこに明け暮れ、小高い丘に登ったり小川で小動物を獲ったりして遊んだ。
この間もオフィス訪問は続いていたが、夏が終わり秋を迎えようとするころ、訪問先が変わった。ロボットカーのコースがいつもと違っていたのですぐに気がついた。母の表情もやや固かったのでなにか変化が起きたことは察したが、なにも気づかないふりをして到着まではしゃいで過ごした。
ロボットカーは速度を落とし一旦停車した。鉄の門扉を抜けると広い敷地にアドービ風の外壁を施した多面体構造の建築物が現れた。正面玄関でロボットカーを降り母が生体認証を終えると入り口が開き、受付アンドロイドに出迎えられた。
エントランスホールには静かな環境音楽が流れていた。ラウンジでしばらく待つと白い髭をたくわえた男性が現れた。
「ボルダー・セブンスヒル・スクールにようこそ。タイエン・アキノ君」彼は校長のマーク・ザクルタクと自己紹介した。「入学、おめでとう。今日から君は当校の第一期生だ」
訳も分からずザクルタク校長と握手した。ものすごく分厚い手だったことを覚えている。それから5つ星ホテルのような造りの校内をひと通り案内され、個室に通された。東向きの明るい間取りで家具や照明器具がいかにも子ども部屋らしく設えてあった。
「ここがタイエン君の部屋です。自由に使っていただいて結構ですよ」
「タイエン、素敵じゃない。大きな恐竜のお人形だって持ってきていいのよ」デンバーのダウンタウンでせがんで買ってもらった巨大なTレックスのことらしい。母はすっかりこの学校が気に入ったようだ。僕はといえば、なにか不安を感じたがとりあえずニコニコしていた。
「それでは教室に行こう。お仲間が君を待ってる。とびっきり美人の先生もいるぞ」
美人の先生には興味津津だったが、お仲間という表現がしっくりこなかった。すごく特殊なものを表すような響きが込められていて嫌な気分だった。おそらくこのとき初めて差別されるということを経験したのだと思う。
教室はニューヨークのプレスクールと変わりなかったので少なからずがっかりした。同い年くらいの子どもが5名とその保護者らしい大人が数名。両親に伴われた子もいるようだ。
ザクルタク校長のほかに教師が2名、研究員と事務職員が数名。それぞれ簡単に自己紹介した。最後にカウンセラーが自己紹介に立った。美人だがエキゾチックな雰囲気があった。ザクルタク校長のいうとびっきりの美人さんとはきっと彼女のことだ。
「皆さん、はじめまして。カウンセラーのミウラと申します。子どもたちの心のケアを主に担当しますが、教員の皆さんのサポート役もいたします」
親たちがお互いに目を合わせて動揺したように騒ぎ出した。
「心のケアと言うが、あなたは人間か?」男親が憤慨したように問いただした。
「やはりお気づきですか。ミウラは特殊なアンドロイドです。できるかぎり人に近づけて造っていますがまだまだですね」ザクルタク校長が弁解した。
「なぜアンドロイドがいるんだ?」と、同じ男親。
「ジェムライン側との取り決めなんです。この件については皆様との入学契約の重要事項として既にご承諾いただいていると思います」
この時、既にジェムラインは稼働を始めて2年が経過しようとしていた。急激に社会的な勢力が増している時期にあたる。
「そうじゃない。アンドロイドではなくリプリセンタを配置すべきじゃないのか?」と男親は興奮し抗議をはじめた。
リプリセンタとは人型のジェムライン表象体のことだ。このときはまだホミニンという表現は存在しなかった。人以外の形をした表象体は社会に受け入れられず禁止されていたからだ。
「あなたは推進派に属されておられますね。ご存知のように慎重派にも根強い支持があります。当校は教育機関であり研究機関です。よって政治思想的に中立であることをなによりも重んじます。ミウラは双方の合意に基づいて開発された特殊なアンドロイドなのです」
「そうなのか。なら、いいんだ。しかしなぜジェムラインから情報が引けない?」
「情報公開が遅れておりますことはお詫びします。ミウラについてはいましばらく極秘事項にすることが双方によって取り決められています」
男親は納得し、親たちの騒ぎは収まった。この間、アンドロイドは澄んだ微笑みを絶やすことなく、退出時には軽く一礼した。その笑みを不敵と捉えた保護者もいたようだが、僕はアンドロイドが底知れぬ憂いを湛えているように感じた。そしてとても気の毒になった。
当初、僕たち生徒は彼女のことをミウラ先生(Doc.Miura)と呼んだ。博士号をもっているわけでも、その資格をとる権利もないのに気づくとみんなからそう呼ばれていた。いつも天使のような白衣だったし彼女の話し方がお医者みたいだったからだ。やがて親しみを込めてファーストネームであるかのようにミウラと呼ぶようになった(発音はミューラに近かった)。もちろんMIURAがファミリーネームですらないことは誰もが知っていたが、「対等であるための相互知性の非表象体(Mutual Intelligences Un-Representa for Antagonism)」という長く奇怪な呼称の略だとは知らされることはなかった。
セブンスヒルでは、通常の小学校と同じカリキュラムに加えて特殊なトレーニングが行われた。通学はロボットカーにひとり乗せられることもあったし、母と一緒のこともあった。そういうときイーサンはキンダーガーデンに預けられた。そして決まってお昼寝トレーニングがある。眠くはないのだが、個室のベッドに横たわって母から眠る前の心構えを聞いているうちに眠くなってくる。
「夢を見たらどうするの」
「気づくこと」
「そう。夢と気づいて、それから」
「チェックしてみる」
「リアリティチェックよ。どんな風に」
「ボーノ?」
「それでもいいわ。ほっぺに指をこうね」母は僕の頬に指を置いてグリグリ押した。「指が貫通するかもよ。だったら夢ね、そうなるとは限らないけど。夢とわかったら?」
「好きなことをやってみる」
「どんなこと?」
「ロッククライミング」
「いいわね。他には?」
「あとはハングライダーとか、パラグライダーとか」
「空を飛びたいのね。いっそ鳥になってみたらどう?」
「ううん。手がなきゃ嫌だ。だってロッククライミングできないよ」
「わかった、いいわよ。準備完了よ。さあ眠るのよ。ママが起こしたら夢はちゃんと覚えておくのよ。できるかしら?」
「うん…」
レム睡眠が始まると部屋付きのミウラ先生から母に合図が送られる。母は僕の耳元で優しく夢を見ていることを告げ、気づきを与えようとする。この刺激の加減が絶妙だ。強すぎれば目覚めてしまうし、弱すぎては気付きが起きない。脳波と血流部位を診ているミウラから最適の指示が出され大抵はうまくいった。
希望通りの夢を体験することもあれば、全く予想外の夢もあった。
希望の夢。それは決まってフラットアイアンズの上空をハンググライダーで飛び回る夢だ。1番峰(ファースト・フラットアイアン)から5番峰(フィフス・フラットアイアン)までの岩の峰を縫うようにジグザグ飛行してみる。上昇気流にのって谷をまたぎそのままデビルズサムで急旋回してまた高度を上げ、岩の峰々をジグザク。夢だとわかっていても爽快な気分になる。青く深い空、頬に吹く風、岩から立ち上る乾いた熱気流、針葉樹の香り。すべてリアルに感じられた。
このお昼寝時間はだいたい1時間位だ。レム睡眠が終わろうとする頃、母が優しく起こしてくれる。起こすタイミングもやはりミウラ先生の指示だ。
「どんな夢を見たの」目覚めに聞く母の第一声だ。
僕の夢は傍らにあるディスプレイにリアルタイムでモデリングされていたが、こう訊くことで夢を忘却から救いだせる公算が高くなる。
それから録画された夢のモデリング映像をみてできる限り細部まで本当の夢の内容に近づける作業がある。
「気持ちのいい天気ね。いま横切った青い鳥はなにかしら? カラス?」
「パインジェイ、カケスの仲間だよ」
そう答えると曖昧だった鳥の輪郭が青いカケスに映し変わった。次の夢で脳の血流パターンがいまの映像と同じだったらこの青いカケスが割り当てられることになる。
フラットアイアンズの映像は細部まで完璧だった。巨大な一番峰から滑空してやや低い二番峰(セカンド・フラットアイアン)をくぐり、もっとも急峻で鋭い三番峰(サード・フラットアイアン)、そこから右手に旋回してグリーンマウンテンの頂上付近まで上昇、四番峰(フォース・フラットアイアン)、五番峰まで一直線に滑降。岩山にみえる堆積層のひび割れて乾いた質感まで明瞭に観察できる。地形データをそのまま映像にモデリングしているのだから当然だ。本来の夢ではこんなリアルであるはずはないのだが、この映像をみることで夢が強化される。フィードバックされて夢のリアリティが増すのだ。こんな訓練を数回繰り返すと、フラットアイアンズ周辺の夢があまりにリアルになっていて、現実と区別がつかなくなっていった。
それでも夢とわかっているので現実では絶対できないようなコースをとることもできた。たとえばロイアルアーチと呼ばれる結婚指輪のような真ん中が繰り抜かれたアーチ状の岩が四番峰の中腹あたりにある。登山カップルがこのアーチの下で指輪を交換したり、求婚したりする名所になっている。そのアーチをハンググライダーで急降下してくぐり抜けたちもした。現実には穴の直径が狭く、とても通り抜けられない。
あるとき母がこんな指示をした。「次のときはグリーンマウンテンを越えてずっと西まで飛んでいって」
グリーンマウンテンは、フラットアイアンズをその脇にいだいた標高二千五百メートルの美しい山だ。これを越えて西に進めばロッキー山脈の入り口に当たるフロントレンジに到達するが、ボルダーからはその先の景色を眺望することはできない。どんな地形があるのか、ほとんど知識がなかった。まったく未知の領域だったのだ。
「行ったことないから墜落しちゃうよ」
「大丈夫よ、ママが観てるから。危なかったら起こしてあげる」
いわれるまま夢の中でグリーンマウンテンを越えてみる。強い上昇気流に煽られてかつて経験したことがないほど高度にあがった。ハングライダーの翼が激しく振動し音をたてた。強烈に冷たい風が膚に突き刺さり顔を正面に向けられない。
眼下にはフットヒルズとよばれる小高い山々が広がっていた。後方にはボルダーの街が確認できる。ようやく顔を上げるとそこにはロッキー山脈のいくつもの雄峰がそびえていた。南西にはエバンズ山、グレイピークス、西正面にアパッチピークス、北西にはロングピークスなど四千メートルを超える峰々を一望できた。見たこともない地形なのに正確に展開している。夢の中に現実の地形データが流れ込んでいるのだ。そうするために磁気で血流部位をコントロールしているのだとミウラは説明した。
いつもフラットアイアンズの上空を舞ってばかりの爽快な夢をみているように思われるだろう。しかし、多くの夢は希望に沿わない支離滅裂な内容だった。悪夢もみた。
悪夢 ―― これに関しては別の機会に譲ろう。本当におぞましい夢だったから。
ともあれ、こうした周到な方法によって、夢を見ているという気付きが得られるようになった。しかし、まだまだ夢を自在に操るまでには至らなかった。幼すぎたのだ。現実世界での記憶や経験が不足していた。夢を正しくコントロールするにはそうした経験的事象や心の成長が必要とされた。世界の在り様を脳に刻み込んであげないと、夢はカオスに支配される。カオス世界では、脳は意味を求めて夢の中を暴走し続ける。とてもコントロールどころではない。7歳児であれば、夢を夢として認識するという段階で可とされた。コントロールするのはまだまだ先でよい。
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