4 友愛を以って備えよ

 ジェムラインに記録された地質調査隊の足取りを調べた。この足取りの一部は観測隊に加わったホミニンたちのJSS(Jemrhine Synaptic Signal)を基にしている。

 ジェムラインに蓄積され誰でも自由に閲覧できる。JSSが取得できなくなった地点からは後述するように観測機器の設置状況からの推測だ。

 調査隊のメンバーは、ワラフの他に気象天文部からペシェとセディオ、剛力役にドゥ・ウィンギとザルマ、総員5名によって編成されていた。全員が登山スキルと地質学学識をインストールしての参加だった。

 今から47日前、オルビオ入植区を出発した一行はペシェ・ロンチュリ山脈に向けてひたすら西へ進んだ。出発から二百五十キロ、草木の広がる平原を順調に進んだ。この間、小高い丘を見つけるとおよそ30キロおきにジェムラインとのJSS中継アンテナを設置した。

 この中継アンテナの外観は樹木そっくりだった。高さ10メートルまで引き伸ばせる構造で、根や幹、枝、葉があり、実際に光合成をしてエネルギーを蓄えることができた。その設置作業はさながら植樹しているかのようだっただろう。先端のディスコーン型のアンテナは主に短波をJSS中継アンテナにリレーしてジェムラインと交信できた。その通信量は小さく、オルビオ入植区に居るときのようにホミニンたちのの精神活動を表すJSSをリアルタイムで送出することは不可能だった。位置情報や活動状況、生存に不可欠な情報などが最優先に扱われ、JSSは簡略化されタイムラグをもって送られてきた。

 出発から5日後、平原からいきなり急峻な道のりに変わった。巨大山嶺の端に到達したのだ。

 調査隊は北に迂回路を取って山越えができそうな圏谷カールを探した。かつて氷河によって削られた通り道があるはずだ。

 この山脈の高さは最高峰でも標高四千メートル級だが、南北に少なくとも千キロ以上連なり、東西の厚みも深い。もし、ペシェ・ロンチュリ山脈を超えられれば西の海岸線までそう遠くはない。

 しかし、今回の調査では山脈を渡り切る予定はなかった。山脈中央部まで侵入して地震計などの観測機器を設置することが目的だ。この機器は地震の揺ればかりでなく温度や傾斜度、気圧、大気成分、磁力、重力などを測定しそのデータを電波で送信できる。

 ようやく大きな圏谷を見つけられた。急な登りだったがなんとか荷車を牽くことができた。清冽な水が流れる渓谷に沿ってしばらく登ると滝に突き当たった。そこから先は荷車を牽くことはできそうにない。すでに標高千五百メートルを超え、植生は希薄になって苔ばかりが目立つ。

 ワラフら一行はいったん野営し、それぞれできる限り機材や物資を背負って登山を始めた。観測機器やその他の資材・食料・装備品を合わせると一人当たり40キロ以上を担ぐ計算になる。剛力役のドゥ・ウィンギとザルマはその倍の重量を背負った。それでも全員が堆積物が崩れて足場の悪い急峻な斜面を軽々と登りきった。

 最初の尾根に越えると眼下には黄緑色の巨大な湖が広がっていた。形状からカルデラ湖のようだった。湖面には沸々と気泡が沸き立っていて少し降りると硫黄臭がきつくなった。危険と判断して湖畔には降りることなく岩棚に石室を建て観測機器を設置した。

 その後は稜線に沿って南西方向に進んだ。行手にはほぼ垂直に切り立った断崖が聳え、その頂上は雲を越え天空に抜けていた。地上からの落差は優に千メートル以上だろう。到底、登攀できるような岩壁ではない。

 さらに南西に迂回してしばらく行くと、永遠と続くかに見えた断崖絶壁に切れ間を発見した。崖が大きく崩れ落ち、V字に割れ崩落していた。崩落した土砂や岩石が地上に大量に堆積し、沢をせき止め湖を形成していた。切れ目までは地上から四百メートルほどだが堆積物が積み上がった崖錐を登ることができた。割れ目の中は奥が深く、溝のような地形をゆるやかに登っていくことができた。

 突然、終点があった。垂直の岩壁が行く手を阻んでいる。高さは一三〇メートルほどの絶壁だ。

 身軽なペシェとセディオがこの岩壁登攀を先導した。水の侵食でできた岩溝を、彼らは互いをロープで結んだだけでフリークライミングで登った。後続の3人のためにフックやボルトを打って登攀を補った。かなり苦戦したが全員がこの崖の登攀に成功した。

 崖を登り切り、深い洞穴を抜けるとそこに突如、眺望が開けていた。

 雄大な峰々が連なり、遥か彼方まで襞のように重なりあっている。眼下には青白色の氷原が南北に横たわっていた。常に寒風が吹き抜けているためか氷紋がさざ波のように南に流れていた。

 北側のU字谷は奥が深そうだった。調査隊はこの氷原に降りて岩壁のくぼみを探してJSS中継アンテナと観測機器を設置した。

 超音波測定の結果、氷の厚みは浅いところでも15メートルを超えているようだ。岩壁との境を観察すると岩肌が削り取られたような痕がみつかった。ゆっくりとだが、押し流されているようだ。氷河に間違いない。

 踏破しやすいように樹脂製のアイゼンを装着して氷河の上を北に進み、岩壁の高みにもう一基の観測機器を設置した。

 U字谷は予想通り奥行きが深く山脈の深部に続いているようだった。緩い上り勾配が続き、ところどころに深い割れ目があったが比較的順調に足が進んだ。

 と思えたが突然、激しい雷雨に見舞われた。季節は行きつ戻りつしながら夏に向かっている。不安定で変わりやすい天候は氷河にも雨を降らせる。だが、氷は雨水を吸収できない。U字谷には水の逃げ場がないのだ。たちまち激しい水流が調査隊を襲った。

 やむを得ず岩壁によじ登ったままビバークして一夜を過ごした。翌朝、水流は治まったが濃霧が発生し、ホワイトアウトが続いた。視界が得られず、ほとんど進めていない。出発から12日目のことだった。

 ここで一旦、調査隊の足取りが途絶える。最後に設置したJSS中継アンテナから遠ざかりすぎたことが原因だろう。すべての中継アンテナを設置し終え、ジェムライン到達域の拡大任務をすでに果たしたことになる。残りの任務は火山周辺の地質調査と観測機器の設置となった。JSSが届かなくなったことで、ここからは調査隊の詳細な行動を知ることはできなくなった。

 その2日後に新たな観測機器からの電波を受信できた。このことから調査隊が無事に活動できているとわかる。最初に足取りが途絶えた地点から北西へ30キロ、標高三千五百メートルにこの観測機器は設置された。気温氷点下3度を示している。この位置から推測すると濃霧に阻まれた地点から氷河をさらに北に進んだようだ。ここオルビオ入植区から直線距離で北西に四百キロ以上離れている。

 さて、ここからの経路は想定外といってよい。調査隊は尾根を伝い、渓谷を下りながら真西に進み始めた。ペシェ・ロンチュリ山脈の深部を目指すなら北方向であるべきだ。

 観測機器の設置も一貫性がない。およそ30キロ間隔だったものが5キロに縮まったかと思えば、50キロ設置しなかったりで、思いついた時に設置したというような印象を受ける。理由はわからない。

 調査隊は執拗に西進し、ついには山脈を渡りきってしまったようだ。最後に設置された観測機器は標高一八〇メートル、気温23度を報らせてきた。その座標はここから西北西六百六十キロの地点に当たる。出発から19日目のことだ。

 そこからの調査隊一行の足取りは一切不明となった。そのまま西進を続けたなら海に到達しただろう。この海は西ハロガー海洋と名付けられていた。

 ハロガーは発見者の名前だ。


 オルビオ入植区の気象天文部はかつて3度にわたって気象観測気球を飛ばしている。

 このうち2つの観測気球は高度を調整しながら強い偏西風にのって東に飛んだ。地上への音波測定結果から五千キロ以上、陸地が続いていることをはじめて証した。内陸へは深い森林が続き、東に行くほど乾燥化が進み砂漠が存在していることもわかった。その先は観測気球からの通信が途絶えてしまったことでどこまで陸地が続くのかわかっていない。いずれにしろ予想を超えた巨大な大陸だ。パンゲアのような超大陸なのかもしれない。

 もうひとつの観測気球は高層の気象データを測定することとオルビオ入植区近辺の地形を把握することが目的だった。

 温度・湿度・気圧の測定器とホミニンの頭部を積載していた。

 血液を循環さえすればホミニンは頭部だけでも3時間程度生存できた。その間に高層まで一気に気球を上げて地形を目視させる狙いだ。

 オルビオ入植区では、カメラなどの映像機器は工業設備が不十分なために製作できない。当時、この方法以外に直接、地形映像を得られる手段がなかった。生きながらハロガーの頭部を切断して観測機器の一部にしてしまった。なんともホミニンらしい蛮行といえる。呆れるほかはない。

 憐れハロガーの頭部は気球観測機器の底部に顔を下に向けて据え付けられた。気球は一気に地上三万五千メートルまで上昇し様々な観測データを電波で伝えると気圧の低下で膨張破裂してその使命を終えた。搭乗したハロガー頭部はそのときすでに絶命していたらしいが、観測装置もろとも勢い良く落下し、いまや地上の砂塵となってしまっただろう。

 ハロガーの決死の覚悟で送られた視覚データはジェムラインに貯蔵されいつでも誰もが閲覧できる。

 オリジナル映像はクルクルと周囲の景色を振りまわすような内容だったがジェムラインによって補正され、いまはなんとか船酔いせずに済む。

 上空にあがると想像していたよりこのあたりの土壌の色が暗いことがわかる。黒土と呼ばれ、金属イオンが豊富な火山灰が堆積してできた土地だ。東は、平原が続き、そのさきに広大な原始の森が広がっていた。大河や湖も確認できる。南には赤茶けた低い山地がどこまでも連なっている。

 南北に連なるペシェ・ロンチュリ山脈の威容が映し出されると一瞬息を飲んだ。

 大地に深刻なひび割れが走り崩壊してしまいそうなほどのひずみに見える。

 途轍もないエネルギーを溜め込んだ地殻プレート同士がいまそこで衝突している。ジワジワと岩が砕かれ迫り上がっていく音が聞こえてきそうなほどだ。

 山脈を超えた平野との境が海岸線だ。薄茶色の陸と暗い緑のコントラストでそこに海岸線があることがわかる。沖にはわずかに白い波頭がみえる。丸くなった水平線いっぱいに西ハロガー海洋が広がっていた。

 北の峰に幾筋かの噴煙が確認できる。

 噴煙は五千メートル近くに達し、北の空の視界を遮っている。この噴煙はオルビオ入植区でも確認できているが、位置の関係で山体はみえない。

 この空撮映像には、三座の美しい円錐形の巨大火山が連座しているところが捉えられている。この三連の成層火山はオリオン座の三ツ星に因んで北から順に、アルニラム山、ミンタカ山、アルニタク山と名付けられた。

 惑星ユングリムでは三つ星の見かけの位置が地球と異なるので、遠方のミンタカよりアルニラムの方が先頭になっている。この呼名はアラビア語で「巨人の首飾り」を意味しているが、水蒸気と火山ガスを激しく噴出する三連の火山はまさに巨人の首飾りに相応しい様相だ。

 調査隊はこの北にある三連火山の活動を調査することが主任務だった。

 なぜ方位を変更し、まっしぐらに西を目指してたのか?

 なんらかの理由で海の調査を加えたことも考えられる。ジェムラインにコネクトできないので、意思決定は現場に委ねられる。調査の途中で海を調べる必要性が出てきたのかもしれない。調査隊の5人は地質学学識のインストールによって全員一流の地質学者になっているのだから、状況に応じてルート変更も充分にありえる。


 ともあれ、それから15日間、その行方はようとして掴めなくなった。オルビオ入植区側では遭難したものと判断しようとしていた。

 そこに突然、ワラフからの交信が生じた。彼のJSSが中継アンテナにキャッチされたのだ。氷河の上で洪水に見舞われた地点までワラフ一人が戻ってきていた。

 中継アンテナからのJSSなのでワラフの記憶情報から観測隊を襲った不測の事態を把握することは難しかった。このためガデルがジェムラインを通じてワラフの思念に直接、問い掛けを行った。その際の応答を記す。


「予定を変更してどこに行ったのか」

「海だ。西ハロガー海洋に出た」

「出たとはどういうことか」

「海を渡ろうとした」

「どうやって」

「筏を組んだ」

「目的地はどこだったのか」

「海上の島だ。だが到達できなかった」

「なぜ、予定を変更したのか?」

「出会うためだ」

「何にだ?」

「別のものがいる」

「それは何だ」

「うまく説明できない」

「なぜ、その存在がわかった」

「我々のJSSに反応があった」

「JSSにコネクトがあったということか」

「それらの交信可能域に入ったからだ」

「ならば同胞ではないのか」

「そう思ったが、いまは確信がもてない」

「ほかのメンバーはどうしたのか」

「4人は死んだと思う。なにかに襲われた」

「なぜ死んだとわかる」

「海に引きずられた。生存の可能性は低い」

「別のものと襲ってきたものは同じなのか」

「わからない」

「救出を要求するか」

「致命的な外傷はないが、食料を喪失した。まもなく動けなくなる」


 急遽、ワラフ救出のため3名が選抜され、翌日にはオルビオ入植区を発った。

 救出隊は調査隊とほぼ同じルートを驚くべきスピードで進み、活動できなくなったワラフを発見した。

 ワラフは氷河にその身を横たえ意識を失いかけていた。すぐに完全食料スワイゲルの大量補給処置をとるとわずか半日で完全回復した。

 これが6日前のことだ。

 いま現在、ワラフは救援隊とともにオルビオ入植区に帰還中で後三四日ほどで戻るという。

 ミモザを通じて日本刀製作の承認を得たのはいつだった? 今から20日前だ。このときには既に調査隊が消息を断ってしばらく経過している。

 しかし、いま思い返してみると僕が日本刀製作の準備を始めたのは、調査隊が突如、謎の西進を始め山脈を越えたと思われる日の翌日にあたる。ミモザはその準備を知りながら見て見ぬふりをしていたように思える。実質的にはこの日にすでにジェムラインやホミニンたちは日本刀製作を感知していたはずだ。

 この時点でジェムラインは既に異常事態として認識をしていたのだろう。この異常事態が武器製造の必要性に直結するだろうか? 可能性の一つとして選択肢にあっても不思議ではない。この件に関してジェムラインに疑念をもつ必要はないかもしれない。

 それでも釈然としない。なぜ、僕は日本刀鍛造に魅入られたのか? タイミングが良すぎやしないか? 


 釈然とはしていないが手は休まない。

 素延べの刀身を火床ほどで沸かし、切先を打ち出す。

 次に火造り。

 ここで刀の姿がほぼ決まる。最もセンスが要求される工程だ。もちろん童子切をイメージして小槌で叩く。低い温度で刀身を沸かし、水打しながら刃先を叩き薄く延ばしまた沸かす。これを百回以上繰り返し、刀身を真っ直ぐに延ばしていく。自然としのぎが立ち上がってくる。

 完成時の姿を想像しながら刃と棟をヤスリで削って形を整える。

 刀身の形がある程度整ったら低温で沸かして、藁灰でゆっくり冷ます。

 こうして火造りで生じたムラを均し、割れや歪みを出さないようにする。

 この後もヤスリや小槌で姿を微調整した。

 いよいよ焼入れだ。

 土置きはしない。ズブで焼く。最初から決めていた。

 焼刃土やきばつちを刀身に塗ることで刃文をある程度コントロールできる。しかし、童子切にみえる複雑な刃文、丁子ちょうじ乱れは土を置いてしまっては再現させられない。

 平安後期の刀匠はどうやってこの刃文を現したのか? 実はわかっていない。偶然の産物だったのかもしれない。

 当然だが刀匠スキルにその方法はない。勘と運だけが頼りだ。


 外は激しい雷雨だ。

 日暮れまでまだ少し間があったが、辺りは闇に覆われ始めている。時折、突風が工房を吹き抜け火床に火華を散らした。焼入れに使う湯船には既に水が張ってある。

 童子切が時空を超えて現れるに相応しい刻だ。いまをおいて他にはない。覚悟を決めた。

 フイゴで火床に空気を送り込む。

 赤紫の焔がかえり、渦を巻いて勢いを増す。

 刀身をまっすぐに片手で掲げ、ゆっくりと火床に沈める。

 いつのまにかミモザが傍らでこの作業を見つめていた。瞳がなぜか妖しい。

 定期的にフイゴを押す。ひたすら火床と刀身を見つめる。次第に熟した柿のような色に刀身が変わっていく。

 息を止め、なかごをハサミで掴んで火床から上げ湯船に浸す。

 一瞬の音に激しく蒸気があがる。

 ハサミを通して刀身に力が加わっていることが伝わってくる。いまこの瞬間に反りが生まれたのだ。

 湯船から刀身を上げると直刀に近かった形が腰から大きく沿った太刀に生まれ変わっていた。

 刃文は?

 暗くてよく見えない。

 火床にかざしてみる。まだらに入り乱れた照り返しがみえる。丁子乱れかどうか。そこまでは確認できない。

「うまくいきましたか?」静かだったミモザが訊いてきた。

「よくわからない。暗くて見えないや。明日のお楽しみだな」

 なぜそこにミモザがいるのか。やはりホミニンたちは武器の完成を待望しているのだ。おそらく討伐隊を送ることになるのだろう。


 明朝、夜明け前に目覚め、そのまま白み始めた中を工房に向かう。

 嵐は収まり静かだった。小動物の気配も感じられない。

 カティも一緒だった。刃文に興味をもったらしい。

 軽く砥石にかけてから刀身を工房から持ちだして朝日にかざしてみる。

 複雑な刃文が刻まれている。細かい丁字に加え、ところどころに十字が現れている。見たこともない刃文だ。

 見る角度を変えてよく覗くとこの十字は空色から紫色に映える。

「綺麗ね。ここに小宇宙があるみたい」

「うん」

「浮かないのね。嬉しくないの?」

「…童子切とは違う刃文だ」

「まじめすぎ。バカみたい。この刃文はあなたの独創よ。誰にも真似できない刀なのよ。そうでしょ?」

「たぶん、そうだと思う」

「だったら素直に喜びなさい」

 またやり込められてしまった。

 焼戻して刀身に柔軟性を持たせてから砥石にかける。地肌は板柾目いたまさめだ。これは童子切と同じだ。少し納得する。

 砥石の目が粗い。もっと良い砥石を。

 ふとワラフを思い出した。

 

 救出隊にともなわれてワラフが帰還した。彼らは荷車を一台牽いて帰ってきた。

「お帰り。無事でよかった」

「心配かけちゃってすみません」ワラフは元気そうだった。

「しかし、たいへんな目に遭ったね。怪物に襲われたんだってな」

「ええ、まあ。でもこれのお陰で助かりました。応戦してやりました。向こうにも被害があったはずですよ」

 ワラフはサバイバルナイフを抜き取ってみせた。

「そうだったのか。役に立ててよかったよ」

「ところで進んでますか? 日本刀」

「丁度、焼入れたところだよ」

「お土産、持ってきましたよ」

 ワラフは荷車の荷台を指した。草木をクッションにして直径50センチほどの丸い岩塊が積まれていた。

「まさか!」

「石灰岩のノジュールです」

「ノジュール?」

「ご所望の天然砥石ですよ」

「やっぱり、そうか。その状況でよく持って来られたね」

「重大使命ですから、最優先ですよ」

「どの辺で見つけたの?」

 ワラフが言うに、山脈を越えた西側の付加体と呼ばれる地層から発見したものだということだ。

 付加体とは、海洋プレートが陸のプレートに潜りこむとき、海底の堆積物が削ぎ取られて陸側に残された堆積層を呼ぶ。地下水の侵食を受けたノジュールという丸い形になった天然砥石がまだまだ大量に残されているという。

 信じられないことにワラフはこんな重い岩石をひとりで担いで山脈を越えてきたのだ。食料さえ失っていたというのにそこまで命がけだったとは。感謝もしたが呆れもした。

「ワラフ、君はどこか変わってる。でも、何よりありがたい贈り物だ」

 工房に戻ってワラフに刀身を示すと、彼は両手でうやうやしく刀身を持ち上げしばらく見入った。

「凄い刀だ。見事です」

「ありがとう」

「僕も打ちますよ、こういう刀を」

「本当?」

 冗談ではなさそうだ。

「ワラフ、君はつくづく変わってる。日本刀は強い武器になる。でも、海の敵ならもりのような武器が向いているんじゃないか」

「いえ。そんなものでは戦えません。日本刀です。これであいつらを切り捨ててやります」

 いったい、どんな敵だったんだろうか?

 いまこの瞬間にもワラフの記憶はジェムラインに吸い上げられ、ホミニンたちに共有されているはずだ。しかし、奇妙なことにその記憶を辿れなかった。ジェムラインによってアクセスが制限されているようだ。

 隠す必要があるだろうか? 不都合だから? 以前、カティがそう言っていたことを思い出す。

「君がそういうならとことん手伝うよ」

「是非とも。急ぎましょう。おそらく討伐隊が出発するまでそう日がありません」

 寒冷期に入る前に山を越えようとするなら、確かにそのとおりだ。20日以内に出発しなければ山は雪に閉ざされてしまうだろう。

「君はまた行くのか?」

「当然です、唯一の生き証人ですから。タイエン、あなたも来ていただけませんか」

「僕が? なぜ?」

「無理強いしません。でも、一緒に来ていただきたい」

 そこには有無を言わせぬ雰囲気があった。

「二三日、考えさせてくれ」

「わかりました。待ちます。蛇足かもしれませんが、これは僕個人の希望です。忘れないで下さい」

「わかった」

 ワラフ本人の希望だって? ジェムラインやホミニンたちの意図ではないといいたいのか? この違和感はなんだ?

 ワラフは旅から帰ってなにかが変わってしまっている。他のホミニンにはない、なにかがある。


 ワラフが命がけて運んだノジュールと呼ばれる丸い岩塊にくさびを打って慎重に割った。

 次いでノミを使って丁寧に切り出し3本の砥石を取り出すことに成功した。

 水を打って手触りを確かめると肌理きめの整った滑らかさがあった。

 考えうる限り至高の砥石だ。刃先を究極にまで研ぎ出すことができるだろう。鉄原子ひとつひとつが均等に整列するほどの究極の刃先にだ。

 ありとあらゆるものを断ち切り、いかなる闇も切り開く光明の太刀とするのだ。

 刀匠として最大限の力をもって太刀を研ぎだした。

 これ以上、やるのなら研師とぎしのスキルをインストールしなければならない。しかし、いまはやめておこう。実戦で使うにはもう充分だ。美術品にする必要はない。なにより今は時間がない。生きて帰って来られたらまたやればよい。


 知らぬ間に結論が出ていた。行かねばなるまい、だ。

 ただ、ひとつの憂鬱があった。

 カティだ。

 彼女がどういう態度をとるかは極めて明確だった。どのタイミングで、どう切り出せばいいか?

 いっそのこと、何も知らせないほうがいいのか?

「あたしも行く」

 案の定だ。

「そういうと思ったよ。でも、君を連れていけない」

「どうして?」

「高い崖を登らなけりゃならない。登山スキルをインストールしなければ到底登れないよ」

「…入れる。ならいいんでしょ」

「本当か」

「我慢すればいいだけ。できるわよ、そんなこと」

「危険はそれだけじゃない。正体不明の敵と戦いにいくんだよ。戦争に行くってことさ」

「だから、何。あたしだって戦える。見くびらないで」

「カティ、ダメだってば。みんなの足手まといにしかならないよ」

「絶対に付いて行く。なにがあっても」

「……ああ、カティ。無茶だよ」

「あたしを一人にしない、約束したでしょ」

 やはりダメだ。行けない。ワラフに断ろう。


 翌朝、カティの様子が変だった。ぐったりしていつもの元気がない。

「入れたわ、登山スキルとコンバットスキル」

「2ついっぺんに! 無茶苦茶だな。急ぎすぎだよ」

「これで、文句無いでしょ」

 あれほどジェムラインとの接触を嫌っていたのに、こうも簡単に変えられるものか? いままで言い争って喧嘩してきたことは何だったんだ。

「だけどワラフに行くのを断ろうと思っている」

「いまさら何。ありえない。まさか臆病になったの」

「君を危険にさらせないからさ」

「あたしをおもんばかってくれる気持ちは嬉しい。でも、とんだお門違いよ。むしろ、迷惑」

「なぜ、いつもそんな言い方なんだ!」

「言い過ぎだったらごめんなさい。でも、いまがチャンスなの。この機会を逃しては駄目なの」

「またか。君の言うことは謎掛けに近い。チャンスってなに?」

「未来を拓くの。わずかな可能性に賭けて」

「もっと謎が深まったよ」

「タイエン。いまはとても疲れてるの。そっとしておいて」

「…わかったよ」


 工房に出向くと、ワラフが火床をおこしていた。奥の方でミモザがなにか細かい作業に没頭していた。

「タイエン、本日から刀匠になりましたよ」とワラフ。

「予備の心金と皮金が一振り分、残ってるよ。よかったら使ってくれ」

「ありがとう。遠慮無く使わせてもらいますよ。大幅に時間短縮になります」

 ワラフにカティのことを相談してみた。

「いいじゃないですか。連れて行きましょうよ」

 ピクニックにでも連れだすようになんの躊躇も感じられない。

「4人の仲間がやられたんだよ。危険じゃないか」

「それはそうですが、ここに一人カティさんを残していく方が問題有りです」

「その通り。だから行けそうにない、遠征に」

「わかりました。無理強いしません。でも、カティさんにその選択肢はないかもしれません」

「なぜ、そう思うのさ?」

「カティさんはそういう方です。一度、言い出したら決して譲らない」

「よく知ってるじゃないか、ワラフ」

 どうも面白く無い。


 火床はワラフが占拠している。鍛冶はできない。どのみち予定の一振りを打ち出したのだから、刀匠はもう卒業だ。

 最後の仕上げに太刀のなかごにタガネで銘をいれてみた。


異改童子切大円模いかいどうじぎりたいえんも


 自己満足と知りつつも悪くない銘だ。

「大円って漢字は、タイエンの宛字ですか」ワラフが訊ねてきた。

「本名だよ。漢字でこう書く。大きい丸という意味さ」

 この名前は父親の命名による。

 僕の家系は代々、名前に「円」を入れてきた。父親は龍円だったし、祖父は淵円だった。その前も某円だったはずだがよく知らない。祖先は日本仏教の僧侶だったらしい。とうの昔にお坊さんは廃業していたが、命名法だけ残った。おそらく意味なんてない。則から外れることができなくなっていただけだろう。父らしい。

「なるほど面白い」ワラフは漢字にも日本の風習にも興味を惹かれたらしい。


 ジェムラインの樹脂成形ラインから届いたばかりのこしらえ一式に刀身を収めてみる。

 鞘の部分は漆を塗ったように漆黒に塗装され、柄は鮫皮を巻いて研ぎだしたかのような仕上げになっていた。刀身の鞘への収まりが実にいい。しっくりしてる。抜身にして鞘に収める動作を執拗に繰り返してしまった。

 ただひとつ残念なことは、つばが樹脂製ということだ。この強度では真剣による斬撃を充分に防御できないだろう。

 なにか斬ってみたくなる。この白刃はくじんを見ているうちに次第にその欲求が大きくなっていく。軽く上段に構えて何度か素振りをしてみる。軽く振っただけで高音の風切音がする。小気味よい。太刀の軌道に薄紫の残像がみえる。錯覚だろうか。

「タイエン。怪我しますよ。日本刀を扱うなら、まず先にスキルのインストールからです」

 様子を見ていたワラフがお節介にも声をかけてきた。やっぱりここのホミニンらしくない。

 討伐隊に加わることを断念しようとしているのに剣術スキルをインストールしたくなっている。

 この星に来てジェムラインから次々にスキルを入れ込んでいる。製鉄スキル、鍛造スキル、刀匠スキル。さらに、剣術スキルか。はじめの2つはともかく、その後は欲求にほだされている。なぜかモノに囚われてしまい、スキル取得の抑制が効かなくなってきている。

 最初は、和鉄の最高峰玉鋼に囚われ刀匠になった。

 いまは自分で鍛えた太刀『異改童子切大円模』に強く誘惑されている。

 どれだけスキルを渡り歩いたところで誰にとがめられるわけでもない。殊更にいけないという理由もない。だが、自分らしくない。場当たり的だ。

 ほんとうに自らの意思なんだろうか。誰かに脳を操作されているのかもしれない。

 技術的には不可能ではない。ジェムラインならそんな操作は容易いだろう。もし、そうなら僕に日本刀を造らせ討伐隊に加えようとする、その目的はなんだ? なにがしたい?

 しかし、はっきりしていることは、もし誰かの操作があったとしてもジェムラインの仕業ではないということだ。ジェムラインはそんなまどろっこしいことはしない。本当に必要ならば無慈悲に脳を書き換えてしまうだろう。

 犯人は別にいるということになる。この惑星ユングリムにいるとも限らない。

 僕は日本刀に惹かれている、幼少期の強いトラウマによって。いまに始まったことではない。たまたま、今のタイミングで顕在化したにすぎない。たぶん、それが本当のところだろう。

 誰かに脳の操作なんて受けてない。なんでもかんでも疑いすぎだ。いつからそんなに猜疑心が強くなった。

 いいさ、剣術スキル。いれてやるさ。どのみち、この欲求に逆らえやしない。

「タイエン、手伝ってください」ミモザが暇を持て余しているようにみえたのか、そう要請してきた。

 事実、なにもする予定はなかった。聞けば、クロスボウのブレードヘッドを五百枚仕上げなければならないところに、コンバットナイフ5本の注文が入ったという。

「一人ではこなしきれません」

「ついに軍需産業に昇格したね」と、軽口をいうとミモザが笑ったように感じた。ミモザにも笑いのツボのようなものがあるらしい。

 とても五百枚のやじりを研ぎ出すなんて芸当はできそうにないので、コンバットナイフ5本の製造を請け負った。

 耐火レンガで臨時の炉を組み上げて、さっそく取り掛かる。

 討伐隊は五六名で編成するのだろう。弓とナイフで戦うつもりか。その程度の装備で勝算はあるのだろうか。

 ジェムラインによってワラフの記憶データを分析してのことだろうから間違いはないはずだ。

 スチール鋼を材料にしてナイフ製造を始める。刃長21センチ強、刃の背側にギザギザの鋸刃を刻む予定だ。日本刀のときとはまた異なった面白さがある。軽快で作りやすい。このペースなら完成まで3日間もかからないだろう。


 日暮れになれば仕事を終え、居室に帰る。

 給与こそないが地球のサラリーマンと変わらない。

 スワイゲルという味気ない食事をし、その後眠る。生活リズムも同じだ。

 眠らなければ脳から老廃物を排出できない。脳内組織は人体と同じ構造だが、睡眠時間はむしろ長い。

 カティはまだ眠っている。

 スキルを2本同時に入れたことで無理が祟ったのだ。嫌がるカティの口からこぼれ落ちないようにゆっくりとスワイゲルを流し込む。明日になれば快復するだろう。

 太刀『異改童子切大円模』を工房から持ち帰ってきていた。

 手元から離したくない。強い執着が生まれている。誰かの手に渡るということが堪えられない。刀匠のはずがその太刀に魅入られてしまったのだ。これではまるで妖刀だ。

 やはり逆らえない。この太刀を携えて遠征に参加することになるのだろう。そしてこのカティも連れて行くことになる。カティはなんらかの目的を持って遠征に加わる。その目的は謎だ。明かしてもらえない。なぜかワラフは知っているかのような素振りだ。これも気に入らない。そのワラフが遠征参加を要望してきたことも納得いかない。なぜ僕なのか。

 周囲で大きなうねりが起きているのにその中心にいて一人取り残されているかのように感じる。

 そのうえ自分の意志を貫けず、場当たり的に行動している。操られているのだとしてもその正体も理由もわからない。まったく不甲斐ない状態だ。

 剣術スキル、入れてしまえばいい。とことん乗ってやるさ。その先になにがあるのか見届けてやる。

 ジェムラインを探索すると複数の剣術スキルがある。刀匠スキルには選択肢はなかったから悩む必要もなかった。しかし、剣術は修練人口が多かったためか、7つの流派がスキルとして選択できた。


 どの流派を選択すべきか。


 柳生新陰流/ 北辰一刀流/ 鹿島新當流/ 示現じげん流/ 二天一流/ 無念流/ 香取神道流


 これら剣術スキルは重複してインストールできない。ひとつ限りだ。ならば最も適した流派を選択したい。

 ワラフの記憶データが開示されないのでどういう戦闘状況だったかまるで把握できない。コンバットナイフで応戦したというのだから近接戦であることは間違いない。しかし、どの流派も基本は白兵戦を想定している。そこに差はない。

 まず、外すとなると二天一流だ。宮本武蔵には申し訳ないが、二刀を構える予定はない。

 太刀『異改童子切大円模』はその形から古刀に分類される。

 古刀は切先が短く、腰反りで刀身は長いという特徴がある。

 この長刀を扱うに適した剣術となると、柳生新陰流か示現流に狭められる。

 新陰流も捨てがたいが、示現流に決めた。薩摩で育まれた示現流は一撃必殺で知られ、敵に怖れられたという。あの新選組の土方歳三にして「示現流の初太刀を外せ」と言わしめたほどだ。一撃で鬼の首を刎ねる童子切に相応しいではないか。

 示現流がインストールされ始めた。

 頭の芯が痺れるような感覚。かなり強烈だ。脳内神経ネットワークの創生される部位が他のスキルと異なるらしい。目眩めくるめくようで目を開けていられない。しばらく、後頭部を抱え込んで耐え忍んだ。思わずうめき声が漏れでてしまう。

 カティはこんなのを2つ、相次いで入れた。そんなに慌てることはなかったのに。無茶苦茶だ。それともなにか急ぐ必要があったのか。


……あの洞窟の前に立っている。

 ガデルに扮した悪魔のいる魔窟だ。冷たい空気が吹き上がってくる。前回はこの奥でガデルに返り討ちにされ絶命した。今回はそうはさせない。

 傍らにはカティがいる。白地にオレンジの花柄ワンピースから形のいい長い脚を露わにして、素足のままスニーカを履いていた。いつものカティより少し幼く見える。

 よくみれば腰にコンバットナイフを装備していた。表情は固く締り、既に臨戦態勢だ。

 僕はといえば、腰にはなにも佩刀はいとうしていない。まさか丸腰か。左目のメガネフレームの外側になにかが見えた。首を向けると左肩からつかが伸びていた。太刀を背負っていたのだ。これは抜刀できるのか? 左手で柄を握って前側に引き倒してみると鞘も尻を上げた。なるほど、肩に担いだスタイルから居合いあいができそうだ。

 気持ちを整えて洞窟に足を踏み入れた。凍えるような寒さだ。闇の奥には邪悪な気配が満ちている。

 カティは僕の少し後ろを付いてきた。彼女が迷ってしまわないように一歩一歩、ゆっくり歩を進める。

 子どもの笑い声のような音がこだましている。

 しばらく進むと、ヘッドライトにエロティックなダンスに興ずる男女の浮彫がみえた。人に似ているが人ではない、異形の男女。男の人差指が右を向いている。

「待って。タイエン」右へ進もうとするとカティが制した。「よく観て。この二人はあたしたちよ。このボディ、こっちがあなたで、こっちがあたし」

「言われてみればそうだ。なんで気づかなかったかな」

「あなたは右を指さしてる。でも、あたしの左手は逆に行くことを促してる」

「ほんとうだ、そうみえる」

「こっちよ。左に行くの」

「わかった。そうしよう」

 前回と逆方向に進んだ。

 ガデルに方向を見誤ったことを罵られたことを思い出した。カティとおぼしき女の姿態を完全に見落としていた。

 次に現れた接吻する男女のレリーフ、その次のペッティングする男女、いずれも女の示す方向に歩を進めた。

 哀しい別れの旋律は聞こえてこなかった。寒々しさも消えた。

 岩壁全体が輝いているように仄かに明るい。ライトに綺羅びやかに反射するものがある。ところどころから青い鉱物の結晶が現れていた。水晶だろうか。

 行き止まりになった。あたりを調べると壁面の腰高の位置に一人がやっと通れそうな抜け口があった。そこをくぐり抜け、地底に伸びる長い回廊を下っていく。

 徐々に清涼な気配に包まれていった。

 百メートル以上降りただろうか。突然、巨大な空間に出た。蒼く茫洋とした光がこの空間を満たし、海底に佇んでいるかのように錯覚させた。

 直径5メートル以上ありそうな太く青い水晶の柱が空間全体にひしめくように縦横に伸びている。数万本あるだろうか。あるものは横たわり崩壊し、あるものは伸び続け、遥か虚空の天蓋を支えていた。静謐でありながら激しい躍動があった。


 ここは凍りついた時空、結晶化した精神の世界――ひとり合点する。


 遠く、この地底大空間の奥深く、なにかがゆっくりと明滅している。この位置からは群立する巨大な柱の陰になっていて確認できない。

 僕らは倒れた水晶の柱に登り、それを伝って脈動する光源をめざした。柱はところどころで折れクレバスのように深い裂け目が覗いていた。亀裂に陥ってしまわないように飛び越え、カティの手をとって慎重に進んでいく。

 柱と柱の交錯した合間をくぐり、斜めになった柱をよじ登り、明滅する光を見失なってしまわないように方向と道筋を確認しながら進んだ。崩壊した柱が積み上がった丘を越えると円形闘技場のようなすり鉢状の地形を見下ろせた。その中央に光の渦がゆっくりと規則的に脈動していた。

 巨大な彫像がそそり立っている。愛し合い立位でまぐわう異形の男女。水晶を素材に彫られている。その内部から光が漏れでて地底の大空間を照らしている。その巨大さに唖然とした。

 こんなものをなぜ造った? これは僕らを表しているのか? 

 すり鉢地形の底まで降り立ち、彫像を見上げた。大きすぎて腰あたりまでしか目が届かない。巨大な男根が女の股間を貫いている。この男女は正しく性交している。

 なんだか笑えてくる。唖然としながらも少しバカバカしい。この荘厳な空間に圧倒的な存在感を持ちながらまったく不釣り合いだ。少しもそぐわないじゃないか。

 それに格好もかなり変だ。背びれや尾ひれのようなものがあり、手や足の指には水かきまである。これでは半魚人だ。

 いったいなんのモニュメントなんだ。

 カティは神妙な面持ちで彫像を見上げている。僕の受け取った印象とは異なるものを感じている。少なくとも馬鹿にはしていないようだ。

「わが世界にようこそ、恋人たち」いつの間にか人影が立っていた。

「誰だ」

「君がタイエンだね。そしてそこのかわいいお嬢さんがカティ」

「そうよ」健気けなげなカティ。嘘は言わない。

「あんたは?」

「随分と横暴だな。少しは礼節をわきまえ給え。私はハロガー。君は知っているだろう」

 生首のみ気球に積まれて空を飛んだ伝説のハロガーだ。オルビオ上空から突き落とされてから二度と蘇生してこなかったので僕の中では伝説の勇者扱いになっていた。

「ここでなにしてる?」

「ここを創造した。居てもよかろう。駄目かね」 

 ハロガーを英雄視していたが、こうしてみると嫌味なやつだ。

「ここは何だ。この彫刻は?」

「おやおや。またおかしなことを訊ねてくるね。自明じゃないか。ここは宝石溝ジェムラインの本核だよ。この彫刻は君らの柱さ。君ら自身だよ。見ればわかるだろう」

「僕らに何の用だ?」

 ハロガーは笑った。腹の底から笑い転げている。

「タ、タイエン。面白すぎるぞ。君はなんて愉快なんだ」

「なにがおかしい!」

「ハッハハ…ちょっと待って。……怒るな。ハッハハ…君が笑わせたんだ」

「だから何がおかしい」

「そりゃ、おかしいだろう。だって君、君がここに勝手に来たんだよ。訪ねてきておいて、真顔でそういわれたら笑うしかないだろう。お嬢さん、そう思うだろう」

 カティは返事をすることなく、ハロガーに駆け寄るとコンバットナイフをその分厚い胸に突き刺した。

 その切先は硬い膚殻に阻まれてわずかに差し込んで止まった。

「何をする! 気でも狂ったか?」

 ハロガーは怒声をあげるとカティの首元を両手で掴み地面に叩きつけた。

 カティの身体は木偶人形のように跳ね返り転がった。恐るべき怪力だ。

「カティ…」

 僕はカティを庇おうと走った。

「私をってなんになる。よく考えろ。バカ者どもめ」

 カティはすぐに起き上がるとコンバットナイフを振りかざして飛びかかった。

「カティ、やめろ!」止めようとしたが間に合わなかった。

 ハロガーはカティのナイフを左手でかわし、右拳で強烈なフックをその脇腹に打ち込んだ。

 カティはその場で息が吐けないまま仰向けに崩れ落ちた。すかさずハロガーはカティの上体に馬乗りなった。

 このままではカティが殺られる。無意識に左手が肩にある太刀の柄を握っていた。

「御免!」

 腰を低くし前かがみになって抜刀する。

 と、鞘から抜けきらず口のところに切先が掛かってしまった。居合は大失敗だ。リーチがあと5センチ足りないのだ。やむを得ず本身ほんみの元あたりを素手で掴んで引くことでなんとか太刀が抜けた。

 もたついている間にハロガーはカティの顔面に強烈な連打を加えていた。

 柄に持ち返る間を惜しんで右手で本身を握ったまま、ハロガーの首に斬り込んだ。

 なんの抵抗もなく刀身は振り抜けた。

 ハロガーの頭は刎ね上がり、青紫に光を照り返すガラスのような床に転がった。

 頭部を失った首からは青い血液が飛沫となってカティの顔や胸に吹きかかった。

 僕はハロガーの胴を蹴り倒し、カティを抱き起こした。

「カティ。しっかりしろ」

 彼女の顔はすっかり変形して血が吹き出していた。ヘモシアニンを含んだ青い血とヘモグロビンを含んだ赤い血が交じり合って顔面を伝っていく。

「クビ…首を抑えて」カティは虫の息だ。

 ハロガーの頭部の転がった先を振り返る。

 瞼が激しくしばたいている。その度に左右に揺り動いた。

 これはハロガーではない。恐ろしい鬼の形相に変わっているではないか。

「よくもやったな。俺がなにをしたという。許さんぞ、タイエン」

 首は二三回転前に転がると勢いをつけて宙に舞った。

 巨大な首が口を開き、襲いかかってきた。牙が右肩に食い込んだ。

「お前、酒天童子だな」

 左手で後頭部の髪を掴んで振り放そうとするがびくともしない。

 肩関節が砕け散る音が耳元でした。激痛が右手を麻痺させた。

 気を失いそうになりながら左手で太刀の柄をもち、右の脇に切先を立て全体重をかけて肩先へ押し込んだ。

 太刀は肩を突き抜け、酒天童子の口からその後頭部を貫いた。

 僕の右腕と酒呑童子の首が串刺しになったまま、太刀は床に落ちた。

 首は太刀を吐き出そうともがき苦しんだが決して抜けない。やがて魔力を失い動きを止めた。恐ろしい形相でこちらを睨んだまま、酒天童子は絶命した。

 カティは息をしていない。もう死んでしまった。

 僕自身も右肩からの出血をみれば致命傷であることがわかる。まもなく意識を失うだろう。

 カティに寄り添い、その焦点を失った瞳を見つめて、そのとき……


「タイエン、起きて」

 カティがこちらを覗きこんでいる。

「カティ…」

「あたしの名前を叫んでた」

「ああ。夢だ。とんでもなくひどいね」

「知ってる。ドジったでしょ」

「……?」

「同じ夢をみたの。夢がもつれあったの」

「そんな…」

「エンタングラーでしょ、あたしたち。不思議じゃない。偶然でもない」

 カティとのはじめての共振夢。このタイミングではじめてもつれあった。そう、これは確かに偶然とはいえない。最悪の結末ではあったが。

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