第一章 オルビオの荒野に

1 阿吽の夢


「これ、なによ」

 普段よりやや甲高いがカティの声に間違いない。怒気がこもっている。

「ずいぶんひどいじゃない。これで生きろというの」

「おはよう、カティ」

 深い眠りからの覚醒時のように意識は虚ろで混乱気味だった。カティはすぐ傍らにいるようだったが、うまく視認できずにいた。

「あなたがタイエンなの? あら、ひどい格好ね。笑っちゃう」

 彼女はベットに上体を起こして、こちらを覗きこんでいる様子だった。僕は笑顔で応えようとしたがうまく笑えなかった。

「あなた、カニみたいよ。全身が殻。色もひどい。なんでこんな迷彩色なの。あいつらの美的感覚を疑うわ。ほんと、ひどい」

「遠い異郷に来たからね。きっとここに適しているのさ。心配いらないよ」

 ボディに馴染んでくるとようやくカティの姿がはっきりしてきた。確かに全身がチャコール系の迷彩色だった。

「心配なんかじゃない。ちゃんとやるべきことをするわよ、決まってるじゃない。自分の役割くらいちゃんと知ってるの。あなたとの会話、やっぱりズレてる」

 カティは不機嫌そうに僕の手をとって自分の胸に押し当てた。「硬くてザラザラしてるでしょ」

 なにかの繊維を樹脂で固めたような素材。強靭そうだ。

 僕は優しく触った。

「どんな感じ?」

「手のひらは柔らかいのね」

「悪くない? じゃあ、いいじゃない」

 カティの瞳は大きな黒いレンズが収まっていて中心が輝いていた。能面のような表情のない顔なのにカティが笑ったことがわかる。

「面白いね。君がカティだってことがわかる。どうしてだろう」

「ほんとね。わたしもタイエンがわかる。こんな格好になっても心変りはできないのね」

「それはきっと素敵なことだと思うけど」

「ねえ。お腹が減ったらどうすればいいの? バスルームは?」

 カティは僕の言葉を無視してあたりを見回した。

 部屋にはなにもなかった。床・壁・天井のすべてがベージュのフワフワした綿状の物質でできていた。ベッドと思われたものは床が盛り上がった台座に過ぎなかった。照明器具もなく、部屋が明るいのは外光が壁を透かしているからだった。

「食事は摂れないよ。まともな消化器官がないから。液体食料を補給するだけって聞いてる。お風呂はどうすんだろうね。この身体は洗う必要あるのかな」

「洗わないつもりなの」

「いや、なにかで拭けばいいかなと思ってさ」

「もっと重要で根本的な問題があるの」

「なに?」

「服はどこ? なにを着ればいいの?」カティは深刻そうにあたりを探しまわった。

「いったい全体、なんてことなの! 裸で外に出ろとでもいうの」

「確かに困ったね。でもこの身体は外殻靭体(Exosupplebody)だから裸とはいえないよ」

「じゃあ、これは脱げるの。この下にわたしの柔らかい肌があるのね。どうやって脱ぐのよ」

 カティはそう主張しながら大腿部やお尻のあたりを平手で数回叩いた。

 女性としてのプロポーションが強く表現されている。バストやヒップは大きく、腰のくびれはしなやかで艶かしい。オリジナルのカティよりもセクシーに感じた。

「ごめん。ごめん。まあ落ち着けってば。なにか覆うものを探してくるからさ」異星に暮らしても溜息は続きそうだ。

 立ち上がってみると歩行に支障はなかった。むしろ軽快だ。機敏に動き回れる。消化器官も含めあらゆる臓器はかなり簡略になっているのだが体内感覚に違和感はなかった。これなら腹痛や腰痛に苛まされることもないだろう。

 部屋の出入口らしきところから顔を覗くと、薄明かりに背丈くらいの通路が伸びているのが見えた。人の気配はない。通路幅は狭く随分、長く伸びているようだった。少し歩くと僕たちのいた部屋と同じような部屋がいくつも並んでいることがわかった。

「置いてかないで」

 カティが後ろから抱きついてきた。「ひとりは怖いの」

「裸だけどいいの?」

「わたしの裸を観て誰が欲情するの? そんな奴、ここにいないでしょ」

「たぶん、それは正解」

「タイエン、あなたもなの」

「まさか、そんな訳ない。僕は元のまま変わらないよ」

「そう。ならいいの」

 背後にいるカティが微笑んだことがわかった。今度は瞳すら見ていない。やはりどこかで繋がっているようだ。

 長い通路の突き当りを左折すると、ホールのような空間に出た。僕らと同じような外殻靭体の連中が数人いた。ホミニンだ。特に何をするという風でもなくただ、その場に佇んでいた。

「いま来たところだけど、ここの状況を教えてくれないか」近くにいた性別不詳のホミニンに話しかけた。

「よく来たね。歓迎するよ」声から察するに男性型のようだ。

 握手を交わすと男はガデルと名乗った。

「あんたら、エンタングラーだね。このオルビオ入植区でははじめてのお出ましだ。もっとも他の入植区はまだひとつも発見されてないがね。まあ、よろしく頼むよ。まず、ジェムラインに繋いでみてくれ。もう完全稼働してるんだ。地球のジェムラインと比べて情報量は36%しかないが、必要充分な情報がすべて取り込んである」

 ジェムラインには簡単に繋がった。ジェムラインに対してオープンな気持ちをいだくだけでいい。心を開くと表現することもあるが、そんな大袈裟ではない。目を閉じてジェムラインを感じたら単に許容する、もしくは拒絶しないという感覚を持てばいい。ただそれだけでアクセスされる。接続と同時に意識が澄明になり、深度が増す感覚になる。

 すべての知識・情報は体系立てられてそこにある。人類が有史から得てきた貴重な知識や経験が満載されているだけでなく、その知識なり経験なりをすぐに役立てられるよう思考構造がセット化され、いつでも自らの脳内ネットワークに移植ダウンロードできる状態にある。

 また常に無数のセンサーやホミニンからの膨大なデータが集積処理され、情報の鮮度が高く保たれている。

 意識しなくても必要な情報が沸き上がってくる。連想に近い。なんの学習もせず、まったく予備知識を入れなくともあらゆる状況に適応できる。

 特にこのような未開の地でジェムラインは生存に不可欠だ。

「どうだい?」

「調子いいよ。地球とほとんど変わらない」

「そうか。そりゃ良かった。稼働までずいぶん苦労したからね」ガデルは得意気だった。「我々、初期の10体が成体するまでは虫どもの世話になったが、そこからはほぼ自力だよ。試行錯誤の連続だったさ。地球からのマイクロ波は途絶えてしまって一時はATP変換しかエネルギーの獲得ができなくなってしまった。あの頃はともかく大変だった。いまはかなり余裕ができた。でも、まだまだ山のようにやることがある」

「長いのかい」

「2年経つ。ユングリム時間だがね」

 この惑星をここではそう呼ぶことにしたらしい。地球時間だと約3年になる。因みに一日24時間としているが地球時間では約33時間になる。

「働き通しだったけどあっという間さ。でもなんとかなってるだろう。誰も褒めてくれないから君らみたいな新入りを捕まえて自慢するのさ」

「もちろん、感謝してる。お陰でこうして成体できた。ありがとう」僕はガデルの肩に軽く触れてその労をねぎらった。

 その間、カティは一言も発せず会話を遠巻きに見ているだけだった。

「やっぱりジェムラインを受け容れないといけないらしい」ホールを横切りながら小声でそう伝えた。

「あなたにお任せる。あたしは嫌だから」

「それが通るうちはそれでいいさ。でもいずれそうしないとね」

「知らない」カティはジェムラインを心底嫌悪していた。


 時折、ジェムラインからの情報が自分のオリジナルの記憶と混淆して区別ができなくなることがある。慣れないとかなりびっくりする。

 そういうとき、僕は放置して忘れてしまうことにしている。でもカティはそうできない。記憶の侵食を放置すればやがて「自分が消えてしまう」ものと思い込んでいる。これを怖れてジェムラインを受け容れようとしない。

 カティにとって記憶は自分のものなのだ。他者の記憶を共有したり自分の経験を提供することが耐えられない。賛同はしないが間違ってるとも思わない。

 カティの考えが特別というわけではない。ジェムライン排斥主義はかなり根強い。他にもそういう人物をたくさん知っている。

 もちろん、カティにジェムラインを強要する気もない。ただここでその態度を貫けばカティは孤立することになる。ここは地球ではないからだ。ここの連中はそんなことを容認する余裕が無い。そのしわ寄せはいずれ自分に回ってくるだろう。もちろんその程度の覚悟はできてる。カティと一緒にいるということは、そういうことなのだから。

 ここに来る前からそれは充分わかっていたつもりだった。


 ホールの先にあるアーチ状の通路を抜けると平原が広がっていた。しめやかに雨が降り澪っている。遠くどこかで雷鳴がした。

「少し探検しようよ」

「危なくない?」

「大丈夫、そんな危険はないよ。この星に僕らより強い敵なんかいない」

「うん。あの丘までいってみたい」

 平原には巨大な岩がいたるところに横たわっていた。カティの指さした方向には雨に霞んでいるが際立って大きい岩がみえた。丘というより岩山だ。

 どれもかつて分厚い氷河によって、遥かな西方のペシェ・ロンチュリ山脈から運ばれてきたことを忍ばせている。氷河によって削り取られ磨かれた、黒くぬらぬらとした岩肌。磁鉄鉱や斜長石を大量に含んでいた。

 土地は痩せていた。腐葉土はほとんどない。ゴツゴツした礫層の上に背の低い灌木がやっと根を張って茂っていた。シダに似た植物が下生えに密生し足先に絡んだが意に介さず前に進んだ。外殻靭体は面白いほど雨水を弾き、泥に汚れることもなかった。

 ときおり、甲高い啼き声や俊敏で鋭利な翅音が聞こえた。

 筒型の小動物が岩陰に素早く身を隠し、チロチロと触覚器のようなものをこちらに向けている。

 叢のあちこちでは不規則に間断なく青白い閃光が走っていた。複雑な性をもつ節足型動物の求愛の行為らしい。

 頭上では上枝に群れてバネが跳ねるかのようなユーモラスな動作で捕食を試みる生物がいた。何を餌にしてるのだろう?  雨にはまったく無頓着のようだ。

 ひときわ奇妙なのは、空中をホバリングするように漂っている刺だらけの甲羅をもった生物。昆虫とも植物とも断定しがたい。どういう仕組で飛行しているのかも不明。触れようとすると途端に高度をあげた。しっかりとこちらを認識できているようだ。

 僕たちは独自の進化を遂げた奇妙な生物たちの密やかな暮らしを垣間見ながらゆっくり歩いた。

「観て。花かしら」

 そこには菫の花に似た小さな植物が群生していた。

「きれいね」

 カティは足を止めてしばらくその花たちを見つめていた。

 この生態系にはまだ被子植物は出現していないのでそれが花でないとわかったが何も言わず黙っていた。カティの感じている喜びがゆっくり伝わってくる。

 どうやらポジティブな感情であるほど伝わりやすいようだ。強い感情はわかりやすく意識に上りやすい。ネガティブな感情であっても伝わっているのかもしれないが僕の方で無意識に拒絶しているだけかもしれない。だとすればその拒絶は当を得ているといえる。そんなものを四六時中喰らったら堪ったものではない。

 激しい感情ではなく、迷いや不安あるいは希望のような心のゆらぎは伝わるのだろうか? いまのところよくわからない。今後、注意を向けてみよう。


 3キロほど歩くと巨大な岩山の麓に着いた。

 雨はあがり、陽が射している。岩山は高みに行くほどに紫から朱鷺色のグラデーションを彩なし、最上部は真紅に染まっていた。

 高さ30メートル以上あるだろうか。その表面には夥しい量の地衣類がこびり付き、巨岩全体を被っていた。大小の網目状の模様がフラクタルな幾何学図形を思わせた。

「なんだかネバネバしてる。気持ち悪い」

 カティの指先に粘り気のある液体が付着していた。岩肌の地衣類の一部から黄色いジェル状の物質が析出している。わずかに甘い臭気があった。よく観るとところどころに親指大の節足型動物が群れてそのジェルを自らの体内に摂り込んでいた。

「ワームに舐めてもらうために養分をたっぷり入れて甘くなってる」

 この地衣類はバクテリアの群体だった。葉緑素を持たないが日光を養分に変換する独自の仕組みを体内に宿していた。「ワームを養う代わりに遺伝子を遠くに運んでもらう。賢いやり方だ」

「どうせジェムラインの知識なんでしょ」

「そう。もうこれ以上聞きたくない?」

「ううん。いろいろ知りたいの。もっと教えて」

 これは地衣類を形成するバクテリアにとっては繁殖の手段だった。

 ジェル状の養分の中にはこのバクテリアのRNAを隠し持ったウイルスが潜み、摂食した生物の細胞内に侵入する。つまりウイルス感染することになるが、宿主となった生物になんら疾病や害悪を及ぼすわけではない。何年でも無害なウイルスとして細胞内で待ち続ける。新たな新天地に自らの遺伝子を運んでさえもらえば充分に目的を果たせるからだ。

 宿主が首尾よく新天地に移動し排泄などで体液を排出した時、温度や湿度の条件さえ満足であればそのウイルスはバクテリアの性質を取り戻し地衣類として増殖できた。この有効な繁殖方法は過去数百万年の間、永々と繰り返されてきた。

 長々と講釈口調で説明したがカティは大人しく黙って聞いていた。


 岩山の周囲を巡ると、日陰になっている斜面は勾配が緩く頂上まで登れそうなことがわかった。カティの手を取ってゆっくり登坂を始める。岩肌は雨水で滑りやすくなっていたが足裏のグリップがよく効いて危険は感じなかった。頂上付近の勾配が急な箇所はカティを先頭にして這いつくばって進んだ。

 岩のくぼみに合わせて指先に力を入れて腕を引くと身体が楽々と運ばれる。息が上がることもない。軽くてしなやかであり、瞬発力と持久力がある。

「こんなに動いてるのに汗も出ない。ちゃんと放熱できるのかしら」

 カティは愚痴をこぼしたが内心ではこの外殻靭体を気に入ったようだ。

 もちろん排熱システムはしっかりしている。肩や腰の接合部分からちゃんと帰化熱を発散しているのだがすぐ蒸発してしまうので汗にはならない。水分の補給さえ怠らなければ摂氏50度までは活動できるらしい。

 寒さについては防寒具を装着しなくても氷点下20度まで許容温度とされている。体内に不凍タンパク質が巡っているからだ。この温度を下回ると途端に氷結してしまい体組織が破壊される。

 耐熱耐冷について超人的というほどでもないが通常の環境下であれば充分だろう。見た目は冴えないが総じてバランスのとれたボディだ。


 岩山の頂上は二人が充分立てるくらいのスペースがあったが僕らは肩を寄せてうずくまった。低い雲がたなびき黄色い陽が照っている。雲間から見える薄紫の空は明るかった。地平の先まで岩と灌木だけの平原が続いている。

 東の方角に龍の背骨のような白く長い構造物が見えた。僕らの居住建屋だ。よく見ると同じような構造の建屋が複数、不規則に並んでいた。

 白く大きな建屋がニューロ胞集積所でひときわ目立った。この建屋には幾千もののニューロ胞が育まれ、特定の指令を受けたニューロ胞がその生暖かい胞の中でホミニンを成体させた。オルビオのジェムラインはこのニューロ胞が主体となっている。エネルギー培養貯蔵槽や成形組立ラインなどのジェムラインがコントロールしている工場設備がその周囲にみえた。地上に出ている部分は屋根構造だけでそのほとんどは地下に設備されている。

 西の地平には巨大な壁のようなものが霞んで見えた。巨大なペシェ・ロンチュリ山脈の突端がみえている。

 かつてあの峰々から氷河によってこれらの巨岩が運ばれてきたのだ。

「煙ってるのはなに?」

 あたり一面至る所から水蒸気が昇っていた。

「温泉の湯けむりさ。将来、大温泉街を作る計画なんだ」

「嘘ばっか」

 この平原が大温泉地帯であることは嘘ではない。ペシェ・ロンチュリ山脈から流れる地下水が地熱によって高温の温泉となっていた。

 現時点でオルビオ入植区が得られるエネルギーの大半はこの地熱からだった。ガデルたち最初期の入植者が手掘りで熱水層にパイプを差し込み、生体培養設備につなげた。この熱を利用してATP化合物を生産している。その他に人工光合成によってもエネルギーを得られている。

 入植前後は地球からのマイクロ波をエネルギーに変換できたが今は途絶えてしまっている。もう届くことはないだろう。マイクロ波送出には桁違いのエネルギーを消費するので長期間の支援は地球にとって大きな負担になる。こちらの状況がどうあろうが関係なく当初の予定通りにエネルギー送出を停止したのだろう。

 惑星ユングリムの入植者たちはほんの僅かな期間をもって強制的に親離れさせられてしまったのだ。仮に救難支援を依頼したところで50光年も離れている。あまりにも遠い。地球に何かを頼るということは実質的に不可能だ。自分たちですべてを成し遂げなければならない。


「あの男、虫に助けられたって言ってたけど、それってどういう意味?」ガデルの言ったことが気に掛かっていたようだ。

「この惑星にはたくさんの小動物がいるだろう。ここに来るまで見てきたような虫なんかもそうだ。地球からそういう虫たちに指令を送ったのさ」

「よくわからない。指令ってどうやって」カティは怪訝そうだった。

「テラヘルツ波だよ。テラヘルツ波でレトロウイルスを作成した。それを感染させるとそういう行動をしてくれるようになる」

「遺伝子を改変して奴隷にしたのね。なんてひどいこと!」

「まあ確かに虫たちのDNAに指令書入の遺伝子コードを書き加えたんだ。君がそういうことを嫌うだろうと思ってた。でも、そうしなきゃここに来られないじゃないか。こちら側に情報の受け皿を造ったから、ようやくジェムラインやその膨大なデータを送出できるようになった。その受け皿を虫たちに作ってもらったのさ」

「だからといってなんでもやっていいとでも言うの。そんなの汚染じゃない。美しいものを穢している」

「一時的にはそうだが今はそのウイルスは消滅してるよ。もう元に戻ってる」

「…でも間違ってる。そんなこと許せない」

「カティ、頼むよ。現実を見てくれ。君だってここにこうしているじゃないか。どう言い訳しようがその片棒を担いでいるんだよ」

「わかってる。それが許せないの。そういうことをしてる自分がいることを…」カティは膝を抱えたまま俯いてしまった。

 長い沈黙。静かに見守るほかなかった。

「虫たちはなにを造ったの?」

「マイクロ波の受信アンテナやニューロ胞、ATP化合物貯蔵槽、…そんなところかな。白い建屋が見えるだろ。あれなんかも最初は虫の吐く糸が主原料になってた。今はもう大量に培養できるようになってるけど」

「そう。今はもう働かされたりしてないのね」

「ジェムラインが動き出したからね。エネルギーと素材さえ確保できればジェムラインの方が遥かに効率的にやる」

「いまはガデルみたいなやつらが奴隷のように鞭打たれてるのね」

 その着想を得て少し機嫌が治ったようだ。その態度に一瞬、ひやっとするものを感じた。そこには愛情の欠片もない冷酷さと嫌悪が綯い交ぜになっていた。

 西の彼方ペシェ・ロンチュリ山脈が赤紫に映えていた。その神々しい嶺々のすぐ上に赤黒い物体が浮かび上がってきた。逆行衛星ダークキャッスルが地平低く登った。僕は得体のしれない不安を感じた。

「見方を変えればその通りだよ。そろそろ帰ろう」


 夜は暗く長かった。虫の音が心地いい。照明はなかったが夜目が利いたので不便は感じなかった。

 ここに娯楽設備は一切ない。すべての住民はジェムラインに接続してしまうのでそんなものは不要だった。カティを除いてだが…。

「タイエン、寝てしまうの」カティは退屈を持て余していた。

「いいや。まだ眠くないよ」僕は仰向けになって寝転がったまま言った。

 床には半透明の樹脂ボトルが転がっていた。

「ジェムラインに潜りたいんでしょ」

 図星だが、カティを目の前にしてジェムラインに没入してしまうわけにもいかなかった。

 二人とも既にスワイゲルと呼ばれる液体食料の摂取を済ませていた。ホールに無造作に積んである1リットル入りボトルのドロドロした液体を飲み干すだけだ。1日朝夕に1本づつ。これだけで三千キロカロリーと水分、糖・アミノ酸・ミネラルなど必要とされる栄養素が完全摂取できる。

 このスワイゲルはジェムラインのニューロ胞の中で生成され供給されている。

 この栄養素のうち、グリシンを除くアミノ酸を自然生物界から獲得することはほぼ不可能だ。D型の鏡像異性体だからだ。自然生物界では圧倒的にL型を利用する。地球であれ、このユングリムであれ、おそらくは生物が生息するすべての星であってもそれは変わらないだろう。つまり全宇宙の生物はL型のアミノ酸を利用してタンパク質を合成している。

 にもかかわらず、僕達のボディはD型を採用した。元々、消化器官が省略されているのでスワイゲル以外の食料は受け付けない。それでもあえてD型で設計された理由がある。免疫機能を大幅に省略できるのだ。自然界に存在しない型のタンパク質で構成されているので寄生生物や細菌、ウィルスなどが体内で増殖できない。

 このメリットは大きい。僕達のボディは外敵に対しての免疫機能に注力する必要が全く無くなり、免疫細胞を含む多くの免疫システムを持たなくてよくなった。これは、生体を維持するにあたって極めてエネルギー効率が高いことを意味している。

 メリットがあれば当然デメリットがある。このボディはジェムラインなしには維持できないのだ。スワイゲルはジェムラインの専売特許だ。ジェムラインが滅びればホミニンも確実に滅ぶ。餓死してしまうのだ。

 スワイゲルは味気なく美味しくない。その上、外殻靭体は空腹を感じない。ひたすら義務感だけで飲み干す。

 せめて食を楽しめる要素をもせてくれても良かったのに…。カティはそんな不満を漏らした。

「こんな夜がこれからずっと繰り返すのね。きっと退屈で死んでしまう」

「ジェムラインに繋ぐこと。それだけですべて解決できる」

「お断り。いやだって言ってるでしょ。絶対に嫌」

「わかったよ、カティ。なんとかなるさ」以前から何千回と繰り返された会話だ。「大丈夫、きっと大丈夫だよ」

 起き上がってそっとカティを抱き寄せる。壁に触れるとその部分がしばらく発光し室内を仄かに照らし出す。演出としては悪くない。

 僕らは愛しあった。というか愛しあう真似事をした。満足には程遠い。

 この外殻靭体で正しい性行為はできそうにない。肉体の欲求はないのに精神がそれを求める。厄介な事態だ。

「ボディの設計変更を申請しよう」

「そうね。そうなることを期待して待ってる。でもこうして一緒に抱き合っていられるだけでもいいのよ」なんだかカティらしくないことを言う。

 こうしたカティの些細な変化にもっと注意を傾けるべきだった。そうしていればなにが起ころうとしているのかもっと早くに予測ができたはずだ。少なくとももっと守ってあげられたと思う。

 『繋がっている』と勝手に思い込んで油断していた。どう形態を変えようが所詮、他者を心底理解することはできない。わかったつもりになっても根本では決して相容れない。だから永遠に悲劇を生み続けることになる。


 ……暗い森の中を彷徨っている。

 もう随分と長い間、彷徨っているようだ。背中にカティを背負っている。深く傷つき意識を失ってしまっている。何度、名前を呼んでも目覚めない。早く手当をしないと。

 周囲には尋常でない凶悪な気配が漂っている。何者かが森に潜んでこちらを窺っている様子だ。獰猛なうなり声。どうやら相手は複数いる。隙をみせればたちまち集団で襲ってくるに違いない。早く出口にたどり着かなければ。気ばかり焦って、脚がもつれて前に進まない。

 んっ、脚がもつれるって! そうだ、これは夢だ。夢を見ている。

 怖れず焦らず、この夢をコントロールしてしまえ。

 まず深呼吸。深く息を吸い込み、ゆっくり吐く。何度か繰り返す。焦りは消えた。まずカティを下ろそう。彼女をゆっくり柔らかい草の上に横たえる。

「カティ、君は傷を負ってない。痛みもない。大丈夫だから目を覚まして」優しく声を掛けてみる。

 すると、たちまちカティの顔や身体から擦り傷は消え失せていった。カティは目を覚まし微笑んだ。僕はカティの手を取って起き上がらせた。

 次に、空を見上げ、雲を消し去り、陽の光を射し込ませた。地には色とりどりの花を咲かせ、蝶を舞わせた。陰鬱な空気は一掃され、清々しささえ感じられるようになった。

 が、まだ変だ。森の奥に潜む凶悪な気配が消えない。むしろ、増強さえしているように感じる。

 なぜだ。なぜ、奴らは消えない。これはおかしい。

 奴らの正体を暴かなければならないのか。それとも森そのものを消し去ってしまえばいいのか。僕は凶悪な者の正体を知りたくなった。僕自身がこの夢のマスターだ。夢の中では神に匹敵する力を持つ。どんなものであろうと逆らえない。ならば、正体を暴いてやれ。

 カティを一人残して森に分け入る。あたりは静まり返っていた。小さな小径が奥へと続いている。この先に奴らが巣食っているのか?

 小走りで路を急ぐ。なぜ、姿を現さない。こちらに畏れをなして逃げ出そうとしているのか。

 しばらく進むと赤茶けた崖に囲まれた荒地に出た。崖には大きな穴があいている。どうやらあの中に逃げ込んだようだ。洞穴の入り口に立って覗きこんだが、闇が深くなにもみえない。また恐怖が蘇ってくる。

 待て待て。これは夢だ。忘れるな。

 巨大なサーチライトを出現させ、洞窟の中を照らしだす。入口付近の壁面はみえるが、奥まで光が届かない。光が闇に吸収されたかのようだ。仕方なくハンディライトを持って禍々しい洞窟に踏み出した。

 息が白くなる。凍てつくような寒さだ。

 なにかの反響音がする。小走りで駆け回っているような気配。何者かがすぐ傍まで来ている。

 ライトに一瞬、影がみえた。

 鼓動が高鳴る。またしても恐怖に支配されそうになる。落ちつけ、タイエン。自分を鼓舞し、身構える。

 武器が要る。強力な武器なしに戦えないではないか。

 と、咄嗟に長い太刀を両手に構えた。漆黒の闇であるはずだったが薄っすらと明るい。

 日本刀は邪気を払う。だから闇が消えた。辻褄の合わない考えが頭を過った。

 太刀を構えたままにじり脚で進むと、切先にある岩壁のくぼみに奇妙な浮彫りがみえた。エロティックな姿でダンスを踊る一組の男女がいた。淫らな腰つきをして見つめ合う二人。人のようで人でない。邪教の神々だろうか。

 男の右手人差し指が方向を示している。右に行けということか。ここは素直に従おう。奥から届く反響が宴の賑いのように聞こえる。

 洞窟の岐路にまたレリーフがみえた。さっきと同じ男女が抱き合っている。女の腰に手を回した指先は左を指し示している。饗宴の響きはさらに大きくなる。

 なにかに纏わりつかれたかのような感覚が拭えない。

 次の岐路にもまたレリーフ。接吻する男女。女は背を反らし男に覆われようとしている。今度は女の指が下向き加減に右を示していた。

 次の岐路では、男女が互いの性器を慰め合う仕草をしていた。男の股間から伸びた女の曲がった中指が右を示している。徐々に二人の性的興奮が増していることがわかる。

 この奥では盛大なパーティーが執り行われているようだ。人々の談笑に演奏される楽曲まではっきり聞こえるている。だが、こんな旋律はかつて聞いたことがない。エキゾティックでひどく物悲しい。別離の嘆きが感じられる。

 右に進むと松明の灯りが揺らめいていた。

 壁には男女が立位で交わったレリーフが刻まれている。ゆらゆらと怪しく揺らぐ。あたかも腰を振っているかのようだ。二人ともに方向の指示はしていない。

 どうやらここがゴールらしい。


 人影が近づいてくる。

「斬られたくなければそれ以上、近寄るな」その影に向けできる限り気丈に叫んだ。

「タイエン、よくここまで来られたな。俺だよ。忘れたか」聞き覚えのある声。

「ガデルか」

「そうだ、タイエン。覚えてくれていて嬉しいよ」

 男は姿を現し、太刀の切先に立った。あの外殻靭体だ。しかし、強い違和感がある。邪悪さが消えていない。  

 ガデルであるはずの男の全身から邪気が発せられている。

「おまえ、誰だ。正体をみせろ」

「タイエン。威勢のいいのは認めるが、方向を見誤ってるな」

「なんのことだ」

「ここに来るまでにサインを見落としてる。お前らしい凡ミスだ」

「うるさい。黙れ!!」

 どうとでもなれ。所詮、夢だ。

 そう意気込むとガデルの顔面をおもいっきり突き刺した。

 太刀はガデルの顔面を突き抜け、後頭部を貫いた。

「おいおい、乱暴なやつだな。痛いじゃないか。それに日本刀の使い方をわかってない。無粋な野郎だ。突くな、引き切るんだ」

 そういうと顔に刺さった刃を素手で握って引き抜き、右手に持ち換えた。

「形勢逆転だな。覚悟しろよ。こうやって斬るんだ」

 ガデルは容赦なく、袈裟懸けに斬り込んできた……。


 ここで夢は途切れた。

 初日から失当夢をみるとはツイてない。失当夢とは、明晰夢なのにコントロール不能に陥る夢ことだ。

 朝になってカティにこの夢の内容を話すと、「夢の中でも一人にしないで」と真顔で告げられた(声音でそうわかった)。

 カティらしい指摘だ。草原に一人残されてしまったことを憤っている。

 確かにそこは迂闊だった。だけど、僕が聞きたかったのは、エンタングラーとしての意見だ。

 なぜ夢のコントロールに失敗し、失当夢になってしまったのか。どこかで判断ミスをしていないか。

 エンタングラー同士であればそういうことを話し合われるべきだ。

「なぜコントロールを失ったのか、わからないんだ」

「ガデルなんかに遠慮するからよ。やったからやり返されると思っちゃダメ。やったら徹底的にやる。ガデルなんか細切れにしてやればよかったの」

「そうかな」

「次に同じ夢を見たらあたしもその洞窟に連れて行って」

「わかった。約束するよ」

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