シャーペン、夕焼け、自転車と君

空き缶

シャーペン、夕焼け、自転車と君

 シャープペンシル。またの名をメカニカルペンシル。君が大好きだったものの一つだ。

 

 僕らが出逢った小学五年生の春、学校ではなぜだかシャーペンの使用が制限されていた。学校に持ってきてもいいけれど、基本的に使えるのは鉛筆だけ。学級新聞の清書だったり、卒業生へのお礼の手紙を書くときだったり、そういう特別なときにしかシャーペンを筆箱から出すことは許されていなかった。

 それは子どもは筆圧が安定していないから、という理由だったのかもしれないし、「小学生は鉛筆で学ぶべきである」というよくわからない教育上の信条によるものだったのかもしれなかった。

 ともかく君はいつもシャーペンが使えないことに文句をぶつぶつ言っていて、当時やたら流行っていた缶のペンケースからこっそり銀色に光るそれを取り出しては教室の明かりにかざしながらうっとりと眺めたり、隣の席というだけの縁の僕にその魅力を滔々と語っていた。

 

 コウくん、シャーペンってね、すごいんだよ。ほら見て、ここの部分を押すとね、カチカチって芯が出てくるんだ。それからこれはお父さんに聞いたんだけど、この子はメカニカルペンシルとも言って、機械仕掛けのペンって意味なんだって――。

 

 興奮気味な君とは対照的に、僕はだいたい冷め切った態度で君の話を聞いていた。機械仕掛けって、別にボールペンだって機械と言えば機械じゃないかとか、そもそもペンシルの日本語訳はペンじゃなくて鉛筆だろうとか、その年にしては少し賢しらだった僕は君の機嫌を損ねるような揚げ足ばかり取っていたように思う。

 それでもなぜだか、君は僕から離れていくことはなかった。ひねくれた性格のせいで新しいクラスでは友達があまりできなかったけれど、君のおかげで随分救われたものだった。


 僕たちは性格以外、色んなところが似通っていた。どちらも両親が共働きで一人っ子だった。体育の時間が嫌いで、本を読むのが好きだった。何でもよく食べたけれど、給食がチャーハンのときに上に乗っかっているグリンピースだけは食べられなかった。

 だから必然的に僕らはいつも一緒にいたし、クラスメイトによくからかわれた。その大抵が嫌われ者の僕のそばにいる君を揶揄するような言葉で、僕は僕自身が詰られるよりもずっと深く傷ついたりもしていたのだけれど、君はいつも平然とした様子だった。

「きっとみんなは私たちが羨ましいんだよ」

 のほほんと君がそんな風に言うものだから、なんだか僕も馬鹿らしくなって、いつしか彼らの言葉を気にしなくなっていった。


 十一歳の誕生日、君は僕に自分のシャーペンをプレゼントしてくれた。

「こういう時は新品を贈るものだろ」

 ぶっきらぼうに言う僕に、君はきょとんとした顔をした。

「え?だってコウくん、いつも羨ましそうに私のシャーペン見てたから。欲しいのかと思って。違った?」

「……まあ、貰っておくよ、ありがとう」

 僕はとっくに銀色がくすんだそのシャーペンを見た。シャーペン自体は欲しくもなんともなかったけれど、それが君の使っていたものだということに意味があるわけで、そういう点では新品よりはるかにもらって嬉しいものだった。少しズレている君の感性にこのときばかりは感謝したよ。


 自分からくれたくせに、大好きなシャーペンが僕の手に渡ってしまったせいか君は心なしか元気がなかった。仕方がないので翌月の君の誕生日に新しいものをプレゼントしたら、君は大げさに喜んで「コウくん、ありがとう!」とうさぎみたいに飛び跳ねていた。

 僕はその様子を呆れながら見つめていて、でも本当は君の喜ぶ姿がとても嬉しくて、にやける頬を必死に押さえていた。


 たぶんこのときにはもう、僕は君に恋をしていたんだと思う。

 


 夕焼け。黄昏どきに見える空。君が大好きだったものの一つだ。


 中学に上がって学校が家から少し遠くなると、帰り道に僕らは必ず川沿いの土手を歩いた。地平線に沈んでいく太陽がよく見える場所だったからだ。

「綺麗な夕焼けが見られると、翌日が良い日になる気がするんだ」

 それは君の口癖だった。

「それじゃあこの一週間ずっと良い日だった?」と僕が混ぜっ返すと、君は「うん、すっごい幸運だよね」と大まじめに言った。

 クラスは違ったけれど僕らは相変わらず一緒にいて、いつもそんなやりとりを交わしていた。

 

 中学生になる頃には、僕は他人との付き合い方をどうにか会得していた。愛想笑いを浮かべることも覚えたし、相手を不快にさせない冗談や切り返しの言い方も身につけた。そのおかげか学校生活に困らないぐらいの友達はできたけれど、その誰にも僕は本当の意味で心を開くことはできなかった。

 君は笑うかもしれないけれど、僕の本質は全然変わっていなかった。馬鹿なことばかりやるクラスメイトを心の中では見下していたし、逆に何のためらいもなくふざけたり盛り上がったりできる彼らを羨ましくも思っていた。

 だからどことなく友達とは距離があったし、君との時間はますます大切なものになっていった。


「おかしいなー、コウくんの良いところ、私はいっぱい知ってるんだけどな。なんで友達できないんだろね」

 背中に回した両手で通学カバンを持って、夕焼けを眺めながら君は言った。

「いや、僕の話聞いてた?友達ができないんじゃなくてだな」

「でも、私ぐらい仲良い友達は他にいないんでしょ?えへへ、それってなんだか照れちゃうね」

 君は立ち止まり、芝で覆われた土手に腰かけた。僕もそれにならう。茜色の光が視界いっぱいの空と街を優しく染めていた。

「そっちは、どうなんだよ。僕以外には、いるのか」

 僕はつとめて平静を装って言った。けれど声は少し震えていて、手にはじっとり汗をかいていた。どうかそれがバレませんように、と思いながら君をちらりと見たのを覚えている。

「いないって言ったら、どうする?」

 君は悪戯っぽく笑った。

「どうするって、別に」

 どうもしないけど、ともごもご言うと「コウくんは弱虫だなあ」と君はやっぱり笑った。僕はそれが気に入らなくて、ちょっと機嫌が悪くなる。

 ぱさ、という音がして、横を見ると、君は服や髪に草がつくのも気にせず大の字に寝っ転がっていた。

「大丈夫だよ」

 君は眼前に広がる空を見上げながら言った。

「え?」

「コウくんに本当の友達ができるまでは、私がそばにいてあげるから」

「なんだよ、それ」

「約束だよ、約束。この夕焼けに誓ってさ。コウくんに私が必要なくなるまで、私はどこにも行かないよ」

「……そうかい、そりゃどうも」

 僕は君の屈託ない笑顔から目を逸らした。

 そんなこと言われたら、誰かに心を開く気なんて失せるに決まってるじゃないか。僕には君がいればそれでいいんだから。

 僕も君の真似をして草の上に寝転がった。どうしてか、そうしたほうが君の体温を近くに感じることができる気がした。


 思い返せばこのときの僕はすごく幸せだった。いつも隣に君がいて、僕に笑いかけてきてくれる。こんなに幸福なことは他にない。

 そんなことにも、僕は君を失うまで気づくことができなかったんだ。



 夕焼けといえば、もう一つ話さなきゃならないことがある。僕が通学用の自転車を買ったときのことだ。

 君は自分の自転車を持っていなかったから、すごく羨ましがって、帰り道には毎回自分を後ろに乗せるよう要求した。

 女の子と自転車の二人乗りなんて死ぬほど恥ずかしいし、教師に見つかったら注意されるに決まっているので僕は再三断ったのだけれど、ついには根負けした。君はよくわからないところでとても頑固なのだ。

 ある日の放課後、僕らはいつものように夕焼けの見える土手を通って帰っていた。人の目が気になり肩を縮こまらせて自転車を漕ぐ僕の後ろで、君は陽気に鼻歌を歌いながら足をぶらぶらさせていた。

「ねえ、コウくん」

 いいことを思いついた、と言うかのように君は息を弾ませる。

「なに?」

「太陽って、東から西に移動するじゃない?そしてそのうち沈んでしまって、今見えている夕焼けは夜空に変わってしまうじゃない?」

「そうだね」

「でも、私たちがいるところより少し西のどこかでは、そのときも夕焼けが続いてるんだよね」

「そういうことになるな」

「じゃあ、このまま自転車でずっと西に進んでいけば、いつまでも夕焼けを見ていられるってことだよね」

「そう……ん?」

「夕焼けを追って自転車でどこまでも。それってとても素敵だと思わない?」

「思わない」

「よーし、それじゃ行ってみよう。コウくん、ファイト!」

 人の話を聞かない君は僕の背中を軽く叩く。地球の自転速度で走れって?無茶言わないでくれ。

 僕はそう呆れながらも、ペダルを強く踏みしめて自転車を加速させた。背中で君がわあ、と嬉しそうにはしゃぐ。

 耳元で風が鳴り、僕らは西に進む。そのたびにほんの少しだけ、夕焼けが僕らの元にとどまる時間は長くなる。

 君は夕焼けに見とれているのか、突然押し黙った。僕はなぜだかそれがとても尊い、壊してはいけない時間であるような気がして、ただ力一杯、ペダルを漕いだ。


「ねえ、コウくん」

 

僕の努力も空しく夕陽がどんどん傾いていって、空に深い藍色が混ざり始めた頃、君はもう一度言った。


「もし明日世界が終わるとしたら、コウくんはどうする?」


 突拍子もない質問。けれどその声音に深刻な響きはなく、かといって冗談のようにも聞こえなかった。純粋な疑問として君は僕に尋ねているようだった。

 だから僕は真剣に考える。明日世界が終わるとしたら。僕は――。

「やりたいことを思う存分やる、かな」

 僕は平凡な答えを口にする。思いついたのがそれなのだから仕方ない。食べたいものを食べたり、読みたかった本を読んだり、大切な人と一緒にいたり、そうして僕は世界が終わる日を迎えられたらいいと思った。

 肩越しにそっと君を見やると、君はどこか遠くを見るような目をしていた。

「そう。ありがとう」

「急にどうして?」

「ううん、特に意味はないよ。なんとなく気になっただけ」

 君はゆっくりとかぶりを振った。意味がないわけはないと僕は思ったが、それ以上何も訊かなかった。そういうときにしつこく追及してはいけないというのも、成長する過程で学んだことの一つだった。


 空はいつの間にか暗くなっていて、僕らは街灯の明かりを頼りに家路についた。

 結局その日もその次の日も世界は終わることはなく、僕と君の日常は当たり前に続いていった。

 十四歳の僕らはまだ大人になり始めた子どもで、あのときの君の質問は、そんな不安定な僕らが生きていく上でいくつも抱える「もしも」のうちの一つなのだと、そういう風に僕は思うことにした。

 結局それは的外れもいいところだったのだけれど。



 自転車。買ってから半年も経つと潮風であちこち錆びついてしまった僕の自転車。君が大好きだったものの一つだ。そして、君を殺したものの一つだ。


 中学も三年生になると、教室は受験ムードに包まれた。

 そのせいだからか、僕は常に人に囲まれるようになった。自分で言うのもなんだけれど、僕は勉強ができたし教えるのも上手かったからだ。

 初めは正直戸惑ったし彼らの現金さにも少し辟易したが、頼られたり持ち上げられたりすることに悪い気分はしなかった。それに彼らの頼みを快く聞いてやったりしていると、彼らは僕と心を通わせたがるようになった。僕の方はやっぱり君以外にはまだ完全にそうすることはできなかったけれど、それでも彼らの好意はじんわりと伝わってきて、それは控えめに言っても嬉しいものだった。

 そうこうしているうちに、彼らのためにテストに出そうなところや理解に時間がかかりそうなところを教室に残ってまとめていて、君と一緒に帰れない日が出てきた。

 少し前の僕ならば君との時間を何より優先したのだが、君が占める僕の心のスペースは、以前より少しだけ小さくなっていた。

 君は決まってそういうとき、悲しげな瞳で微笑んだ。

 「コウくん、よかったね」と言う君に対する罪悪感から逃げるように、僕は「自転車、乗っていっていいから」と呟いた。

 送っていけないことの埋め合わせとしてそう言ったのだけれど、いつも自転車置き場には鍵のかかっていない僕の自転車が残されていた。


 後で聞いた話だが、僕が変わり始めたのと同時期、君にも少し異変が起きていたようだった。人当たりの良さは変わらないけれど、クラスメイトに沈んだ表情を見せるようになったり、急に泣き出したり、そういうことがままあったらしい。


 そして七月のある日の放課後、君は僕の元にやってきた。

 その日は夏休み前の定期試験直前で、僕はクラスのみんなと一緒に教室で勉強会を開いていた。内申に直結するせいかいつにもましてみんな真剣だった。

「コウくん」

 教室の扉を開けて、君は言った。たくさんの視線が君に集まる。

「ああ、ごめん。今日は――」

「一緒に、帰ろう」

 君の表情は暗かった。けれどその口調は今まで聞いたことがないくらい強くて、僕はただならぬものを感じた。

 僕はみんなに謝って、教室を出る。君はただ僕の後ろをついてくる。廊下を歩くときも、階段を下るときも、君は無言だった。

 自転車置き場から自分の自転車を出し、サドルにまたがる。でも君は地面をただ見つめていた。

「後ろ、乗らないの?」

「今日は、歩きたい気分なの」

「……そうか」

 いつもは後ろに乗らせろとうるさいのに、本当にどうしたんだと僕は思った。でもその一方、君に腹が立ち始めてもいた。無理やり連れだしたあげく、ずっと黙りこくっているなんて何がしたいんだ。

 僕らはお互い無言のまま帰り道を歩いた。自転車を押しながら、僕は自分から話しかけてやる義理はないと半ばムキになっていた。


 気が遠くなるほど長くて気まずい沈黙の後で、君はぽつりと一言だけ発した。


「コウくんにとって、私ってどういう存在?」

「……」


 質問の意味を、測りかねた。君はどうしてそんなことを訊いてくる?そんなの昔から知ってるだろ、君は僕にとって――。

「どういう存在って、友達だよ。友達」

 僕の口から出たのは、ざらついた上辺だけの言葉だった。言った瞬間、愕然とする。違う、こんなことを言うつもりじゃなかったのに。


「そう、なんだ」

 君は僕の目を見て、ぎこちなく笑った。その瞳には今にも涙が零れ落ちそうなほど溜まっていて、僕は自分が君をひどく傷つけたことを知った。

 謝らなくちゃ、訂正しなくちゃ。そう頭では分かっているのに、喉がまるで声を出すことを拒否したみたいに僕は何も言えず、ただ歩く。


 交差点の手前まで進んだとき、君は足を止めて大きく目を見開いた。その視線を追った先、横断歩道を小学生くらいの女の子が歩いていた。

「どう――」

 したの、と言いかけて、僕は女の子の向こう側、僕たちから百メートルくらいの距離に、一台のトラックが走ってきていることに気が付いた。信号は赤だ、すぐに止まるだろう……いや、ちょっと待て。

 僕はかなり目が良い方だ。だからそれだけの距離にあっても、トラックの運転席の様子がわかった。どうしてかはわからないが、運転手はハンドルに突っ伏して前を見ていなかった。背筋にぞっと冷たいものが走る。

 僕は君を見つめた。君も、僕と同じくらい目が良かった。


「コウくん」

 君は決然とした顔で、ささやくように言った。


「私は、世界が終わる前に、私がここにいた証を残したい」

 だから、さよなら。

「自転車、借りるね」


 突如、胸に衝撃を受け、視界がぶれる。君に突き飛ばされたのだと気付いたとき、君は僕の自転車で走り出していた。

 トラックが迫り来て、女の子が硬直する。君が女の子の元に駆けつける。自転車が道路に倒れてガシャンと音を立てる。運転手が意識を取り戻してブレーキを踏む――。

 僕は、一部始終をただ見ていただけだった。

 

 

 ここから先は、君も知っている話だ。


 君は、脳動脈瘤という病気を抱えていた。君が幼い頃、てんかんの発作を起こしたとき見つかったものだそうだ。

 その名の通り脳の血管の壁が瘤状に肥大してしまう病気で、大きくなって破裂すると大出血を引き起こす。瘤は成長が止まる場合もあるし、場所によっては破裂しても命には関わらない場合もある。

 しかし不運なことに、君は最悪に近いケースだった。中学に上がる頃の定期観察で瘤の急成長により血管が圧迫されていることがわかった。瘤のある場所は脳の非常にデリケートな部分で、直接的な治療は満足に行えなかった。破裂した場合の命の保証も、もちろんなかった。

 君は、常に頭の中に爆弾を抱えながら生きていたんだ。


 僕は最後まで、何にも気づけなかった。

 人が死ぬということは、その人にとっての世界が終わるということだ。君はいつも、突如として世界が終わってしまうかもしれない恐怖と闘っていた。

 あのとき君は言った。「自分がここにいた証を残したい」。それはどれほどの想いが込もった願いだったのだろう。

 たぶん、君は僕の精神的なよりどころとなることで不安を紛らわせていたんだ。少なくともそれで、僕の中には君が存在した証はしっかり刻まれていると実感できるから。

 君があの日、何を感じ何を考えていたのか正確にはわからない。けれど君の勇気ある行動のおかげで一人の女の子の命は救われ、君の望みは叶うことになり、僕は自分の愚かさを知った。



 ところであの事故では、奇跡的に死者が出ることはなかった。

 そう、君も一命を取り留めたんだ。

 けれど頭部に受けた強烈な衝撃で、君の中の爆弾は当然のように破裂した。君の脳は甚大なダメージを受け、君は目覚めることができなくなった。

 そしてそのまま、二年が経った。


 二年間眠り続けていた君は、ある日突然目を覚ました。僕はその知らせを聞いてすぐさま面会に行った。

 しかし君は動脈瘤が破裂した後遺症で、すべてを忘れてしまっていた。自分の名前も家族も住所も、もちろん僕のことも。

 君は一言もしゃべらなかった。言葉さえ思い出せないのかはわからないけれど、病室の窓から外の景色を食い入るように見つめる君は、必死で知らない人間の人生に順応しようとしているようだった。

 その様子を見て、ああ、と僕は悟ってしまった。

 僕が知っている君はもうこの世にはいないのだ。二年間ずっと待ち続けてきたけれど、僕のそばにずっといてくれた君はとっくに死んでしまっていて、あの日言えなかったことを君に伝える術はもうないのだ。


 その日、僕は二年間流せなかった涙を流し尽した。



「これで話はだいたい終わりだよ。長いあいだ聞いてくれてありがとう」


 僕は車椅子に座って眼下の景色を眺めるしおりの傍らで言った。土手から見る黄昏どきの空の色は昔と変わらず美しかった。僕らの後ろを野球帽をかぶった少年たちが足並みを揃えて走り抜けていった。

「これは僕の最後の悪あがきで、僕なりのお別れの儀式なんだ。君には付き合わせてしまって本当に悪いと思ってる」

 僕はポケットから古びたシャーペンを取り出す。もうこれを貰ってから六年になる。グリップの部分がゴムで出来ていなくてよかったと思った。きっと劣化してしまっていただろうから。

 僕はシャーペンを栞に渡す。栞は黙って受け取り、まじまじとそれを見た。

 やっぱり覚えてないか。まあいいさ。

「最後にもう一つだけ、あの日言えなかったことを、言わせてほしい」

「……」

 返事はなかった。

 僕は深く、深く息を吸い込む。そして夕暮れの空に、ありったけの想いを叫んだ。


「ただの友達なんかじゃない。君は僕にとって、世界でいちばん大切な人だ。なくてはならない人なんだ。君が……好きだ、好きだ、好きだっ……!」 

 

 二年間僕の中に燻っていた告白は、堰を切ったように溢れだした。道行く人が驚いたように僕を見る。でもそんなことはどうでもいい。勢いは止まらなかった。どれだけ栞を愛していたか、どれだけあのときのことを後悔したか、どれだけ「やり直せたら」と願ったか。積もり積もった想いは次々と僕の口をついて出て、栞はそれを静かに聞いていた。

 


 失った記憶を取り戻させるにはどうすればいいか。

 涙が涸れきった後、僕が考えたのはそれだった。

 医学書やインターネットを漁って寝る間も惜しみ調べたけれど、見つかった答えは、誰でも思いつきそうなありきたりな方法。

 すなわち当人が記憶を失う前、好きだったものや印象的だと感じたことの再体験。

 だから僕は栞との思い出を三つのものに込めて語った。夕焼けを見ながら、シャーペンを彼女に握らせて、自転車はあのとき壊れてしまったからここにないけれど。

 わかってる、栞の記憶を取り戻したいという想いは、僕のエゴに他ならない。

 だからもうこれで終わりだ。これでダメだったら綺麗さっぱり諦めよう。そして、今の栞と正面から向き合うんだ。記憶がなくたって、彼女は僕の愛した人には違いないのだから。


 言葉の奔流がようやく尽きた後、息を整え、栞を見た。栞は微動だにしていなかった。

 僕は自分に言い聞かせる。

 黄昏どきが終わったら、栞を病室に帰さなくては。


 夕闇が辺りを覆いつくし、星が空に瞬き始めた頃、栞の肩がピクッと動いた。そして彼女の身体が細かく震え始める。わなないているのだと気づくまでに、時間がかかった。

「栞?どうしたの?」

 栞はゆっくりと振り返り僕を見た。あのときと同じ、涙で濡れたその瞳には、けれど悲しみとは違う色が宿っていた。

 まさか、まさか。


 栞が微笑み、言葉を紡ぎ出すその瞬間、僕はどんな顔をしていたのだろう。


「ありがとう、コウくん。ありがとう――」


 二年ぶりに聞く栞の声は、泣きたくなるほど温かかった。僕は地面に膝をつき彼女をきつく抱き締めた。

 

 栞の優しい手は、いつまでも僕の頭を撫でてくれていた。

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シャーペン、夕焼け、自転車と君 空き缶 @hadukisou

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