決別の黄昏

荻雅康一

決別の黄昏

少女は静かに手にもった本を海へ投げ捨てた。




「『ジョバンニは、もう何とも云えずかなしくなって、また眼をそらに挙げました。』」

 振り向いた少女が淀みなく暗唱した。

「銀河鉄道の夜?」

「そう、どうしてジョバンニは目を空に上げたんだと思う?」

「さぁ……? 読んだことはあるけど、深い考察なんてしたことがない」

「そう」

「なんでだと思っているの?」

「教えない」

「なんだそりゃ」

 夕日に照らされた少女が薄く笑った。側にいた少年は、なんでもないやり取りに安心を覚えた。

 夕日が沈むと同時にどこかへ行ってしまいそうに見えた少女の影がはっきりと見えたからだった。

 少年は彼女が好きであった。だから少年は緊張していた。海面へ沈みゆく夕日は変わらないはずなのに、少女の後ろで光るソレは恐ろしく、しかし金色と紅玉に照らされた黄昏は胸が苦しくなるほどに美しかった。


 汽笛が鳴り響いた。

 びくりと少年は突然の音に身構えた。少女も驚いたようだった。二人で顔を見合わせ、笑った。

「びっくりしちゃった」

「そうだな」

「どうしてここにいるの?」

「そっちこそ」

「私は決別に来たの」

「決別?」

「そう」

 彼女は海風になびいた髪を手櫛で整え抑えた。そうして、海の方へ向き直り、水平線を指さした。

「『ぼくはもう、すっかり天の野原に来た』」

「ジョバンニ……?」

 彼は子供の頃読んだ銀河鉄道の夜を必死になって思い出していた。思い出し彼女が何を伝えたいのか考えた。この金色に包まれた黄昏に彼女は何と決別したのかを。

 カムパネルラはジョバンニに何を伝えたのだろうか。を見つけることだろうか。死は孤独なジョバンニに何を与えたのだろう。

 彼女は続けるように言った。

「『ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです』」

 さざなみの音色が少年を急に襲う。風が通り過ぎ、思わず少女から目を離し、通り抜けた先の藍色に染まる空を見た。

「『けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう』」

「さいわい……」

 彼女の目は彼を見つめていた。恐れを覚えているかのように揺れ動く。少年は静かに彼女の視線を受け止めた。受け止め、彼は一歩、彼女に近づく。胸は苦しく、足は震えた。握る手には力が入った。

「お母さんがくれたのよ」

「それを、捨てたの?」

「そう、決別のために」

「そうか」

「ジョバンニは博士の前から走り去るときどんな思いだったのだろう」

「君にはそれがわかる?」

「わからないよ。わからない……。ジョバンニになってもわからない」

「じゃあ、聞いてくれ」

 息を吸う。彼女の頬がわずかに緩む。逆光の中眩む夕日がいつの間にか水面へ半分も落ちていた。

「僕は、キミが好きだ」

 彼女は黙っている。表情一つ変えず少年を見る。

「僕が、僕が君の本当の幸いさいわいを一緒に探すよ、だから。だから僕の手をとってください」


 汽笛が夕日が沈んだことを知らせるように鳴った。



――――――――――――――――――――――――――――

本編における『』は、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」より引用。

青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/card456.html)参照。

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