十品目:秋刀魚の塩焼き
センブロム王国直属――魔法研究局。
その長ともなれば、王族の次に名が上がるほどの実力者。
ロージュ・デミンスは、そんな肩書に似合わぬ、どこか気の抜けた笑みを浮かべていた。
「珍しいのぉ……お主がここを訪れるとは」
ひげを撫でながら、老魔導師は柔らかい声で言う。
「本来ならまずいんだよ。王国直属の研究所と、独立した冒険者ギルドが接触するなんてな」
応接室の向かいに座るのは、冒険者ギルド【翼竜の鉤爪】のギルドマスター――リリアナ・クラリス。
銀の髪をひとまとめにして、背筋をピンと伸ばしたその姿は、年を重ねてもなお気品に満ちている。
テーブルに置かれた茶器から立ちのぼる湯気が、二人の間に静かな緊張を漂わせた。
「……それで、用件はなんじゃ?」
ロージュの目が細められる。
リリアナは一拍おいて、低く言った。
「――【悪角のリドルゥ】のことは、知っておるな?」
「あぁ。ハイノ草原での戦いは報告を受けとる」
ロージュの眉がわずかに動く。
「……その【悪角のリドルゥ】がな。【
「なっ!?」
老魔導師の声が弾けた。
白髪交じりの眉が跳ね上がり、手にしていた茶碗の湯がこぼれそうになる。
「ワイバーンが、ドラゴンを……!? 本当か!?」
「レオン・ブリジットの報告だ。間違いない」
沈黙。
ロージュは顎ひげを指で撫で、長い息を吐いた。
「……ならば、うちからも研究員を数人派遣しよう。フィールドワークに慣れた者をな」
「助かる。シューナ村へ向かわせておる調査隊と合流させよう」
「辛気くさい話はこれくらいにしようや。飯でもどうじゃ?」
「ふふ……アンタの口からその台詞が出るとはね。行き先は?」
「決まっとる。【妖精の宿り木】じゃ」
扉につけられた鈴が、軽やかに鳴った。
カランカラン――静かな店内に心地よい音が響く。
「おぉ、開いておるな。邪魔するぞい」
「いらっしゃいませ。あ……ロージュさん、こんにちは」
カウンターの奥から顔を出したのは、この店の店主・藤原晃彦。
物腰が柔らかく、いつも通り丁寧に頭を下げて迎える。
「今日は珍しいですね。お一人ではないんですか?」
「ふむ、ワシの連れがの。おい、リリアナ、こっちじゃ」
後ろから入ってきたリリアナは晃彦の全身を見つめる。
「お邪魔するよ。あんたが【妖精の宿り木】の店主かい?」
「はい。藤原晃彦と申します」
「ふむ……丁寧な物腰だねぇ。ロージュ、あんた、こんな良い店を隠してたのかい?」
「隠してなどおらん。言う機会が無かっただけじゃ」
「へぇへぇ、言い訳の達人め」
軽口を叩き合いながら、二人はカウンター席に腰を下ろす。
晃彦は水とおしぼりを置いて微笑んだ。
「いつもの、頼むぞい」
「かしこまりました。……お連れの方は?」
「うーん……どうしたもんかね。魚で何かおすすめはあるかい?」
「そうですね……魚がお好きなら、秋刀魚の塩焼きなどいかがでしょう」
「サンマ?」
「えぇ。秋の魚でして、脂が乗って非常に香ばしいですよ」
「香ばしい、ねぇ……いい響きだ。あたしもそれにしよう」
「ふむ、ワシも同じで頼む」
晃彦は頷き、冷蔵庫から秋刀魚を取り出す。
銀色の体表が照明を反射して、まるで小さな刃のように輝く。
包丁で鱗を優しくこそげ取り、酢水でぬめりを落とす。
塩を振りかけ、数分置いてから熱したグリルの上へ。
――じゅう、と心地よい音が鳴る。
脂が弾け、香ばしい煙が立ちのぼる。
「おぉ、この匂い……たまらんのぉ」
「はっはっは、もう顔が緩んでるよ、ロージュ。子どもみたいだねぇ」
「飯と酒がうまい、それだけで生きる価値があるんじゃよ」
「全く、あんたは昔からそうだったねぇ」
晃彦は笑いを堪えながら、冷酒を二つの猪口に注ぐ。
銘柄は《越路乃紅梅》。フルーティーで軽やかな香りをもつ一本だ。
「お待たせいたしました。《越路乃紅梅》です。秋刀魚が焼けるまで、よければこちらをどうぞ」
「おぉ、ありがたい。……ふむ、香りがええの」
「……ほんとだ。果物みたいな匂いがするねぇ」
ロージュが猪口を持ち上げ、リリアナと軽く合わせる。
カチン――小さな音が響き、二人は同時に飲む。
「ふぅ……米の旨味がしっかりしておるのに、喉ごしが軽い。ええ酒じゃ」
「うん、これはイケるねぇ。料理が来る前に飲み干しそうだよ」
「ほっほ、ほら見たことか。結局飲兵衛はワシだけじゃない」
「誰が飲兵衛だい!」
そんなやり取りをしているうちに、晃彦が焼きたての秋刀魚を持ってくる。
皿の上には、黄金色に焼かれた秋刀魚。皮がパリッと音を立て、湯気がほのかに立ち上っていた。
「お待たせいたしました。秋刀魚の塩焼きでございます」
「ほう……見事な焼き色じゃの。香りだけで盃が進むわい」
「ふふ、料理人冥利に尽きます」
ロージュは箸を手に取り、器用に身をほぐす。
それを見たリリアナが首を傾げた。
「アンタ、それは何じゃ?」
「箸じゃ。慣れておらんじゃろう? 店主、フォークを頼めるかの」
「かしこまりました」
晃彦はフォークとナイフを用意し、リリアナの秋刀魚を軽くほぐして差し出す。
「どうぞ、骨はすべて取ってあります」
「ほぉ、気が利くねぇ。ありがとよ、店主さん」
ロージュが箸で秋刀魚をつまみ、日本酒を一口。
脂と塩気が酒の旨味を引き立て、思わず目を細めた。
「うむ……この調和よ。秋の味覚、恐るべしじゃ」
「おぉ、これは……なるほど、香ばしさと苦みがいい塩梅だ」
「であろう? この苦みがええんじゃ」
ロージュがワタを摘まみ、嬉しそうに口へ放り込む。
その様子を見て、リリアナが眉をひそめた。
「ちょっと、それ……内臓だろ? 食べるのかい?」
「これがまた、酒の肴に最高なんじゃ」
「……ほんとかねぇ」
恐る恐るフォークでワタを口にするリリアナ。
一瞬、苦みで顔をしかめたが、すぐに頬がゆるんだ。
「ふふ……なるほど、クセになる味だねぇ」
「ほれ見い。結局ハマるんじゃ」
「うるさいよ、まったく」
二人の笑い声が、夜の静けさに溶けていく。
晃彦はその光景を見ながら、穏やかな笑みを浮かべた。
「ごゆっくりどうぞ」
「うむ、世話になったのぉ」
「ありがとうよ、店主さん。いい店だねぇ。……ロージュ、あんた、また来るんだろ?」
「もちろんじゃとも。次は別の肴を頼むかの」
二人が連れ立って出て行くと、再び鈴が鳴った。
カランカラン――風のように軽い音が、店内に残る。
そのあとすぐ、晃彦は静かに皿を片付けた。
まだ秋刀魚の香りが残る店内で、ふと呟く。
「……やっぱり、いい時間だな」
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